biography of Dr.Makino

日本近代植物学の父 牧野富太郎

牧野富太郎とは誰か

 牧野富太郎は1862年(文久2年)に高知県高岡郡佐川村の商家の長男として生まれる。はじめ成太郎と名付けられたが、後6才の時富太郎と改名された。1865年に父を、1867年に母を相次いで亡くし、祖母の手によって育てられる。幸い家は酒造と雑貨を営む裕福名商家だったので生活には事欠かなかった。 8才で寺子屋に行き、その次の年には漢学の伊藤塾に通うようになる。ここでの漢学の勉強が後年のいわゆる本草学の知識へとつながったのである。10才になると郷校の名教館に通いはじめる。ここでは、英学、西洋算術、物理学、万国地理学、人身生理学などを学んだ。さらに1873年頃地元に英学会が結成されるとそれにも入会し、英語を勉強した。このころの全般的な勉強がのちの研究に大いに役立ったことは言うまでもない。このころから「重訂本草綱目啓蒙」(全20冊)という本などを読み始め、独学で植物学に対する見識を深めていった。
さて、そうこうしているうちに、佐川村にも小学校ができた。そこに入学した富太郎だが、それまで受けてきた教育に比べあまりに幼稚名事ばかりだったので、二年で自然退学した。そしてこれが富太郎の最終学歴となるのである。この後しばらく独学で植物学をやり、採集にいそしんだ。それからしばらくして、私塾として名高かった五松学舎に入るべく、高知市に出た。そこで富太郎は永沼小一郎(高知中学校教諭)に出会う。彼は富太郎に最初に本格的な植物学の目を開かせた人であるが、彼は「君の植物学は机の上だけのそれでなく、本物の植物学だ」と富太郎に言ったという。この時富太郎17才。このころからその精密な研究に対する才能が芽生えていたと言えよう。

2年後、19才の富太郎は東京で開かれていた第2回内国勧業博覧会を見ようと東京に赴く。神戸から京都までは汽車を使い、そこから四日市まで東海道上を植物採集をしながら歩いた。四日市からは蒸気船まで横浜まで行き、そこの異国風情に目を見張ったという。東京滞在中、彼はドイツ製の顕微鏡を買ったり、書籍を買ったりしただけでなく、文部省博物局を訪ね、植物学者田中芳夫、小野職 書くに会って交流を結んだ。そして帰路、伊吹山などで植物採集などしながら二ヶ月後に佐川に戻った。(このころに富太郎は”赦鞭一達”(「達」には本当は手偏がつく)という、15項目におよぶ勉強の指針をたて、それに従って勉強をするようになる。興味のある方はこちらに→赦鞭一達

22才の夏、富太郎は前とは違ういっそう強い抱負と期待にむねを膨らませ上京する。そのころ東京大学植物学教室では矢田部良吉教授と松村任三助教授が日本の植物を外国の学者が記載した植物に当てる研究をしていた、当時、日本では新種の植物に学名をつけることが出来ず、ロシアのマキシモヴィッチ博士に標本を送って学名をつけてもらっていた。同教室での書籍、標本の閲覧が許された富太郎は、いつしか自分の手で植物に学名をつけ、日本植物誌を作ろうと思うようになる。1888年、富太郎はかねて準備していた「日本植物誌図篇」第一号第一集を出版した。松村助教授はこの出版を大いに喜び、雑誌に「・・・今ヨリ後絶ヘズ止マズ統篇ヲ出版シテ本邦所産ノ植物ヲ全壁センノ責任ヲ氏ニ負ハシメントスルモノナリ」と書いたほどである。また前年には友人と相談して「植物学雑誌」を東京植物学会の機関誌として発刊した。その第一巻第一号の巻頭論文に富太郎の「日本産ヒロムシロ属」が掲載されている。1889年には富太郎と大久保三郎は日本で初めてヤマトグサに“学名”をつけて発表した。そして1893年には松村教授(矢田部教授の後任)の推薦で月俸15円で東京大学助手に任ぜられ、名実ともに学者の道を歩き始めた。
助手になる前、富太郎が日本植物誌の第六集を出版したとき、矢田部教授から、自分もお前と同じ様なものを出版しようと思うからと、植物学教室の出入りを禁止されたこがあった。そこで富太郎は自分に好意を持ってくれているマキシモヴィッチ博士の所に行こうと、ロシア行きを決心した。しかし、マキシモヴィッチ博士は急死してしまう。しかし富太郎はそれにもめげず、ムカデランに学名をつけたりと、がんばって研究を続けた。そこに来ての助手である。うれしかったであろう。
さて、そんなわけで助手になった富太郎だが、最初の仕事が台湾への採集旅行であった。といえば何か楽しそうな仕事であるが、実際はシビアなものだった。旅費として100円大学から支給されたが、それはとてもこの調査に足るものではなっかた。そのとき妻のすえ壽衛はどこからともなく残りの分を持ってきたという。ずいぶんと献身的に富太郎に尽くしてくれた妻であった。しかし、この旅行から富太郎が帰ってきた辺りから牧野家の家計は急速に傾いていく。生来裕福な家庭でおぼっちゃまとして育ってきた富太郎には金銭感覚が欠けていた。そんなことで実家の財産はもうたいがい使い切ってしまっていたのである。そんな状況を救うべく、同郷の東大法科の土方寧教授が総長浜尾新に頼み、「大日本植物志」を大学で出版することとし、その仕事を富太郎に任せ、それについての特別手当を出す。という段取りをしてくれた。結局この特別手当はでなかったのだが、富太郎はこれを自分課せられた一大事業とみなし、全力をこれに注ぎ込んだ。そして1900年、遂にその第一巻第一集を発刊する。しかしこのころになると松村教授との関係が悪化してくる。富太郎がどんどん論文を出すのを良く思わなかったようだ。「大日本植物志」についても具体な指摘がされないまま冷たい批評が続いた。結局、渾身を傾けた「大日本植物志」も第四集で終わりとなってしまった。しかしこのような状況下でも富太郎は植物学雑誌に多数の論文を送り、三好学との共著「日本高山植物図譜」や「牧野富太郎校訂植物図鑑」を出版し、精力的に研究を続けた。
1912年、富太郎は講師に昇格する。この時富太郎50才。その後1927年、66才の春に、長年の研究の成果である「日本植物考察」によって理学博士号を取得。この後一度も昇格することなく1939年、78才の富太郎は東大に辞表を提出、東大を去る。
その後も、研究活動は精力的に研究し、

僕の中の牧野富太郎

僕が牧野富太郎に惹かれる理由はその幸せな生涯にある。確かに若い頃は認められず、表向きの栄光を手に入れたのは死ぬ10年ぐらい前。これを不幸な人生と考えることも可能である。むしろそう考える人の方が多いかもしれない。それでも僕は「この人は幸せだった」、と思うのだ。それは何故か。答えは「自分の好きなことを全うした人だから」である。これほど自分の好きな事だけをして、死んだ人は少ない。地位どうこうに惑わされず、研究に打ち込む。これは簡単なようで、とても難しいことだ。人は誰にだって欲がある、学問に生きるものだって例外ではない。一研究者として独立したからには、それなりの名声を得て、みんなから尊敬され・・・限りなく続く欲。そうしたものを一つも頭に浮かべずただ研究だけに生きる。研究者の理想像ではないだろうか。僕は科学全般に興味があり、いろいろな科学者について知っている。その人達はすごい科学者である。その業績の偉大さは計り知れない、そういう人たちもいる。しかしどうも僕には“尊敬”という気持ちがわいてこない。確かにこういう業績を上げる事が出来たら、この人のような才能を持って生まれることが出来たなら、などとと思うことはしょっちゅうである。しかしそれは少し“尊敬”とは違う。それは単なる妬みのようなものである。しかし牧野富太郎はちょっと違う。この人には“植物学” それしかない。他には何もないのである。他の事に気を回す暇がない。そんな感じなのである。純粋に植物学者なのである。そんな無垢な“科学者”が牧野富太郎である。こんな感情を引き起こさせる富太郎の一生はやはり幸せなものであったとつくづくそう思う。                          

年譜

18624月24日土佐国高岡郡佐川村(現在:高知県佐川町)、西町組101番屋敷に生まれる。
1865   父、佐平病死。
1866   母、久寿病死。
1868   祖父、小左右衛門病死。「富太郎」と改名。
1872 10 土居謙護の寺子屋で習字を習う
1873 11 伊藤徳裕(蘭林)の塾(伊藤塾)にはいる。漢学を学ぶ。    名教館に入る。西洋近代科学を学ぶ。    英語学校に入る。
1874 12 佐川小学校に入学
1876 14 佐川小学校を自然退学
1877 15請われて、佐川小学校の臨時教員となる。
1879 17 臨時教員を辞め、五松学舎に入塾するが、コレラが流行し佐川に帰る。
1881 19 第2回内国勧業博覧会見物のため上京。
1884 22 東京帝国大学の矢田部教授、松村助教授と知り合う
1886 24 コレラをさけ箱根の芦ノ湖で水草の研究。石版技術を習う(植物画作成)
1887 25 市川延次郎、染谷徳五郎と「植物学雑誌」創刊。
1888 26 小澤壽衛と結婚
1889 27 ヤマトグサに日本では初めて学名をつける。コオロギラン発見。
1890 28 ムジナモ発見。
1893 31 長女園子死去。東京帝国大学理科大学(現東大理学部)助手に。
1896 32 台湾に採集旅行
1900 38 農事試験場に嘱託として勤めはじめる。パリ万博に竹の標本を出品。
1908   46 「植物図鑑」(北隆館)発行。
1909 47 新種ヤッコソウ発見
1910   48 東京帝大理科大を休職となる
1911 49 東京植物同好会創立、同会会長となる。
1912 50 東京帝大理科大講師に。
1913   51 来日したドイツの植物分類学者エングラーと日光で植物採集。
1916 54 池長孟の援助を受ける。
1923 61 関東大震災
1924   62 伊勢神宮調査
1927 65 理学博士となる
1928 66 妻、壽衛死去。新種のササをスエコザサと命名。
1931 69 交通事故により入院。
1932 70 広島文理科大学臨時講師に。学生を指導。
1934 72 高知に帰郷
1937 75 朝日文化賞受賞
1939 77 東京帝大に辞表提出。講師辞任
194078「牧野日本植物図鑑」(北隆館)刊。大分県犬ヶ嶽から転落。年末まで別府で静養。
1941 79 満州にサクラ調査。
1948 86 皇居で天皇に御進講。
1949 87 大腸カタルで危篤となるが、奇跡的に回復。
1950 88 日本学士院会員に。
195189文部省に牧野博士標本保存委員会設置される(6月、標本整理開始)。第一回文化功労者となる。
1952 90 佐川生家跡に記念碑たつ。
1953   91 第一回東京都名誉都民となる。
1954 92 風邪をこじらせ、肺炎になり病臥する。
1955 93 この年も、ずっと病臥。
1956 94 6月、病状悪化 7月、昭和天皇からお見舞いのアイスクリーム届く    8月、危機は脱する 11月、再び重体
1957951月18日永眠。没後、文化勲章受章。東京谷中墓地に葬られる。