甲賀忍法帳/パチスロバジリスクをもっと楽しむ演出を深読みするとおもしろい 慶長十九年春、不戦の約定が解かれた。甲賀と伊賀、四百年の宿怨とは?

忍者たちの歴史

  忍者の流派は全国に49流派あったそうで、甲賀と並ぶ伊賀は地理的に隣接していました。甲賀の忍者集団は53家あり、それぞれに親分とその下にたくさんの配下を従える「郡中総」と呼ばれる団体行動をしていたそうです。伊賀は、服部、内川、滝、沢、その他主だった流派だけでも9流。一匹狼のような流派がひしめきあっていました。そのなかで半蔵で知られる服部一族がひとつの流派を形成していました。
 伊賀も甲賀も尾張、三河と都・京都との中間地点にあり、戦略的に重要な拠点でした。映画や小説では伊賀、甲賀のどちらかが善玉で、どちらかが悪者として登場することが多いですが、本当は大違いで両者の仲は良かったようです。信長が本能寺の変で最期を遂げた時、家康がわずかな手勢とともに慌てて大阪・堺から三河まで、命からがら逃げ延びることができたのは、伊賀と甲賀の協力があってこそ。伊賀と甲賀の忍者が協力して助けたあの時、その気になれば家康を討つこともできた?とすれば徳川の時代はなく、歴史は大きく変わっていたかも。

四百年の怨敵って?

  甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いです。 当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めました。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となりましが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのです。
 その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じましたが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びました。佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものでした。ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまいました。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのです。近江の雄、佐々木氏の時代は去りました。甲賀が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもありました。
 家康は早くから忍者の実力に目を付けていました。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれています。 もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではなく、あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきました。これまでは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要でしたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢にかわってきました。信長の力の前に甲賀忍者は屈しましたが、信長には内心は反発していたようです。実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持ち、また信長も甲賀忍者には警戒していました。
 「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺があり、明智光秀が信長の不意を襲って自害に追い込みました。信長の招きで都見物に来ていた家康は一刻も早く本拠三河に帰ろうとし、甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊しました。その後、海路で三河まで逃れることができました。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織されました。

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