ドミニカの日本移民     

       
 ドミニカの日本移民の事を書くのは気が重い。いわくカリブの棄民、カリブの地獄など、、、、。今も、訴訟問題などは決着がついいておりません。日本の新聞やマスコミで報道されている陰の部分だけを読んでドミニカ共和国へ2000年8月に赴任してきました。2年間のうちに、7つの移住地の合同運動会、盆踊り大会などがあり、参加させて貰いました。そして国松食堂でお世話になった2年間。色々、みて考えた事、訪問して話し合ったことなど、少し交通整理してみようという気持ちになりました。

 というのも『ドミニカ移民は棄民だった」(高橋幸春、今野敏彦:赤石書店)、「ドミニカ物語」(日下部弘:朝日新聞東京本社出版サービス)や「再びドミニカへー我が紀行、ドミニカ移民は今ー」(高石秋助:南の風社)の3つの本を読み比べてみると後の2社の方が格段に読者を引き込む力があります。これを私なりに分析した結果、後の2社のものは現地で生活した経験が文書の基盤になっており非常に説得力があるのです。ですから、レポートするには己の足で、第三者の立場で冷静に分析して見たく思ったのです。

  左は日本人移民最初の入植地打破ダハボンの移住地の広場に建てられて石碑です。先人の厳しい路を思うたびに胸がつまります。このホームページでも、私の足で全ての移住地を歩き、居住の方のお話を直接お聞きし、分析してレポートしたく思います。

 私は過去にパナア、ボリヴィア、パラグアイ、アルゼンティンの4ヶ国の移住国を歩き、様々なメデアでレポートしました。その意味でドミニカがどうして思ったような成果のある移住事業とならなかったのか、興味深くみつめてきました。

 悲惨さだけのレポートにせず、移住というものの持つ歴史の重みを正確に後生に実証していかないと、先駆者達の苦労は実らないのではないでしょうか。


 ここで当時の移住決定までの歴史を簡単にまとめてみましょう。
 過去にどれくらいの日本人が海を渡りドミニアカへ辿り着いたのでしょう。1956年7月から1959年9月までの3カ年間に13回にわたり8入植地に249家族1319名もの数になります。

 それが1961年5月のトルヒーリョ大統領の暗殺により、国内は極度の政情、経済不安に陥り、日本人移住者に対する迫害が発生したのです。
 1962年の朝日新聞は4月までに引き上げた136家族628名は前移住者の約半分になっていると述べています。

  当時はハヒチとの国境地帯はハヒチ人の進入を防ぐ目的でいわば屯田兵のような構想の下に、当時のトルヒリョ元帥(後に大統領)がヨーロッパ及び日本の移民の導入を図ったのです。スペイン人、ユダヤ人、ハンガリア人そして日本人です。


  どうしてカリブ海の国々は独裁者が多いのでしょう。1953年7月26日の革命以降の混乱では、とうとうトルヒリョは57年12月には同じ独裁者の隣国ハヒチのデユバリエ政権と、カストロ政権への共同対抗の名目で結託して反共同盟宣言まで行っていたのです。
  下記の日本人入植者が導入された1957年という年号との整合性についてまず私達は考えなくてはならないと思います。

 そして1961年5月30に独裁者トルヒリョはサントドミンゴのマレコンの海岸沿いで暗殺されてしまいます。
 ここで地図で日本人移民が入植した場所を確認してみましょう。

   

                        日本人移住地の位置



  専門の仕事でドミニカ共和国に赴任してきた私も、この国の過去の移住問題について大きな関心を持っていた私でしたが、いつしかドミニカ移民についてはそっと蓋をしてサントドミンゴの町で暮らしていこうという気になってきました。

  私は過去にウエウエテナンゴ(グアテマラ共和国)、アスンシオン(パラグアイ共和国)、パナマサンタクルス(ボリヴィア共和国)、コルドバ(アルゼンティン共和国)、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)の町でODAの仕事に従事してきました。その間、様々な雑誌に移住関係の論文を発表しました。
  その中でイグアス移住地(パラグアイ共和国)、ガルアッペ移住地(アルゼンティン共和国)で、元はドミニカに居たんだという方々にお会いしました。その人々は多くを語りませんでした。どんなに辛い体験をしたのか何故再移住をして別の国にやってきたのか?何も詳しくは分かりませんでした。

  2000年8月にドミニカ共和国に単身赴任してきて、色々な日本人にお世話になりました。まず、着いた翌日から国松食堂(静岡県出身)にまる2年間夕食の賄いをお願いしました。聞いてみると国松のおばさんは電気修理のご専門だったご主人についてダハボン移住地に入植、ご主人が亡くなったあとも子供3名をドミニカで育てあげたというではありませんか。
2年間食事の世話をしていただいて少しずつ教えてくれました。どうしてカリブの楽園にやってきたのか、ということを、、、、。色んな思いを夕食をご馳走になりながら、是非自分の目で先人の道を歩いてみようという気になりました。                         国松食堂のおばさん

                                                                                                                        
 このサイトでは過去の事実だけを皆さんにお知らせして後は、この移住の評価については、各自の課題として考えてもらいましょう。

 それでは具体的に1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)にかけて入植してきた人々の軌跡をたどってみましょう
                             

            ドミニカ共和国に於ける地域別の日本人入植者数一覧(1956年7月〜1959年9月)

入植時期   入植地名 家族数   人数   入植年月日   船  名         備       考
第1次 ダハボン 28 185 1956.7.29 ぶらじる丸 最初の入植地。平田、国分、斉藤、白木、谷岡などの家族が入植。半乾燥地で水、冠水問題続出。現在は全体で5家族が残。ハヒチの国境に近い。集団入植した場所には記念の石碑が建っている。最初の移民の家も残留。ドミニカ人達が住んでいる。他国の移民では、38年ユダヤ人がアスアルに,40年にポルトガル人が入植するが全て撤退している。その後入植してきた向井さんが記念公園の管理をしている。向井さん(山口県)はネイバからの再移住者。精米所を営み着実に営農を行っている。
 
第2次 ダハボン 1956.10.4 ぶらじる丸
第3次 ダハボン
1956.12.31
ぶらじる丸
第4次 ダハボン 28 144 1957.3.8 あふりか丸
58 338
第1次 コンスタンサ 17 120 1956.10.4 あふりか丸 有山、高田、高吉、酒本、西尾、川添、佐藤,神前などの35家族が入植した。主に高原野菜栽培などを行ったが、土地が十分でなく日本人同士の競合になり、転耕する人が相次いだ。現在は佐藤氏のように大きな規模で計画的な営農を取り入れて成功している人もいる。首都に近く、灌漑設備がしっかりしていると有望である。
第2次 コンスタンサ 12 68 1956.12.31 か丸りか丸
第3次 コンスタンサ 7 1957.3.8 あふりか丸
第4次 コンスタンサ 25 1959.6.29 あふりか丸
35 220

マンサンーニョ 32 1956.10.4 あふりか丸 鹿児島県の漁業移民。漁具、船まで本邦から持参するが、予定した水産資源が無く、全員が島を出る。
第1次 ネイバ 15 61 1957.11.2 あふりか丸 瓦礫だらけの土地に葡萄を導入したが、土地問題等で残留者なし。日下部弘さんの実録ドミニカ物語を読むと葡萄導入までの経緯がよく分かり、定着までの苦労が偲ばれる。ドヘルヘまで約10キロの距離で移住者達はよく行き来していた。
第2次 ネイバ 15 1957.11.2 あふりか丸
第3次 ネイバ
11 1959.6.29 ぶらじる丸
24 97
第1次 アルタグラシアス 22 46 1959、6.29 ぶらじる丸 アグアスネグラよりさらに奥に入ったコーヒー移住地。霧がかかりコーヒー栽培には適していたが、道路等のインフラの整備が遅れていた。数年前に最後の移住者た土地を離れて、現在は日本人農家は居なくなった。現在、サントドミンゴ市に肥後さんはじめ数家族が商業などに従事。
 先に入植していたアグアスネグラスの人々とも親交があった。
 現在の日本人会会長の肥後(弟)さんと当時の現状について質問しました。『自分はまだ小学生、兄は高校を中退してやってきました。首都からバスをのりついてペデレナルに深夜到着すると町の人々が起きて待っていてくれました。当時は日本も未だ復興期で、まだドミニカの方が生きて行けると思いました。問題はその後の政治的混乱ですね。色んな意見がありますが、私はこの国に来た事を人生の失敗だとは思っていません。
第2次 アルタグラシアス 14 29 1959,9,6 アメリカ丸
36 75
第1次 ドヘルヘー 32 135 1957.12.2 あふりか丸 バルコ山脈の山麓にある砂漠の塩気の多い土地。近くのスペイン人移住者も撤退。ハヒチの国境に近い、19657年にハンガリー人582名が入植するが失敗。1979年に共同墓地が建設された。灌漑水路を利用した野菜等の営農を考えたが全て失敗。全員が脱耕した。
第2次 ドヘルヘー 20 1958.1.24 ぶらじる丸
37 155
第1次 ハラバコア 13 68 1958.1.24 ブラジル丸  土地も肥気候もよく最適の土地現在も数家族が残る。立山、福永、中川、浜田、日高、星川、矢内などの家族が入植。立山、浜田さんは現在カナダ向け野菜、日高さんは水稲栽培など行いある程度の営農基盤を確定している。当時の入植者の住居も残っている。
 日高さんは未だに当時の日本政府の対応が悪く、大きな混乱を巻き起こした責任はとるべきだと主張している。
第2次 ハラバコア 17 1958.5.28 ブラジル丸


第3次



ハラバコア
1959.9.6 アメリカ丸
ハラバコア 16 87
第1次

アグアスネグラ 25 141 1958.5.28 ブラジル丸 ハヒチの国境近く。アルタグラシアスよりペデレナルに近い。新道が整備してからアクセスがよくなった。気候はよし。湿度も適度にある。
 入植時はインフラの整備が皆無で脱耕が相次いだ。鹿児島大隅町出身の田畑初さん一家が最後に残り120Haにコーヒーを植えている。
 子供達3名は子供の教育もあり麓の町ペデレナルにも住む。週末にはアスアの日本語補修校に通っている。片道120キロ。
 移住とは何かを考えさせてくれる人物である。
第2次


アグアスネグラ 32 174 1958.6.26 アメリカ丸
57 315
総計 249 1319

日本移民の家は今も残る

砂漠の移住地ドヘルヘ市街地

石ころだれけのネイバ移住地 


 有機バナナ栽培に活路を見出す。
アスアの村田農園

ダハボン移住地の石碑

 コーヒー栽培移住のアルタグラシアス
移住地
の日本人家屋跡。

コンスタンサ佐藤農園(福島県出身)

ハラバコア移住地浜田農園

アグアスネグラス移住地



  アグアスネグラ田畑コーヒー農場にて :昨年の2月の聖週におじゃました時事を書きます。

  私は2年間の任期の間に、この国の8カ所の移住地を全て訪問しました。 2度も訪問したのはアグスネグラスの田畑初さんの自宅とコーヒー園です。ここにくるたび移住とは何なのかと言うことをしみじみと感じさせられます。
 ハヒチの国境にまで広がるコーヒー畑はどこから何処までが田畑家のものなのか分かりません。
  ある時、私の四輪車で畑の中を二人で走っていると、田畑さん大きなブルドーザーが道を拡張していました。これが出来れば収穫と出荷がもっと楽になると目を細めて語ってくれました。

  岩だらけの畑に車を止めました。ある時日本からきたテレビ局がその岩山ばかりを撮影して、豊かな畑は無視して苦労話しばかりを聞きだそうとする姿勢に「思わず息がつかえたヨ」と語る老人の表情に打たれました。岩山の前には日本からもってきた白い蕎麦の花と青首ダイコンが植わっていました。持っていきなさい、と田畑老人は数本を素早く抜くと私の車の荷台に置いてくれました。

  田畑家は地元のペデレナーレスの町から四輪駆動車で約40分くらいの距離があります。300メートル位の標高があるでしょうか。とても涼しい処です。コーヒー栽培には最適な場所なのでしょう?

  元の移住地にはあちこちに日本人の家屋が残っていました。57家族317名が住んでいました。今は田畑さん一家が残るだけです。

  市街地には右上のようなラッパをさかさまにした花が咲いていました。警察の交番とい言いますか、兵隊の詰めている建物がプラサにありました。

   町はずれには出稼ぎのハヒチ人の掘っ建て小屋がポツポツとあります。何処も電気もなく、家の前でたき火をしているのが見えました。

   日本人は集団でコロニア・エデンと呼ばれていた移住地を朝早く出て、さらに奥の岩山やブッシュを開墾し、コーヒー園を広げていました。奥の方に小屋を掛けて何日も帰ってこない東京都出身の家族もいました。

   確かに岩が多く、土地はそう肥えていませんでしたが、ドミニカではシバオ地方を除くと殆どが山間傾斜地で、特に日本人移住地の条件が悪いとは言えませんでした。



  その日はセマーナサンタ(聖週)で30名のハヒチ人労働者は、ニッパ椰子とバナナの皮で編んだ家の前でくつろいでいましたあ。ドミニカ人より黒光りのする真っ黒い顔で白い歯で「ボンジュール」という挨拶をしてくれる婦人に何人も出会いました。「彼らの易い労働賃で私の家族は今日まで生き延びて来られました」とい田畑老人の表情は重みがありました。「見なさい、向こうの国境まで緑が続くのが田畑家のコーヒー園、その国境の向こうははげ山です。ハヒチは燃料がなく木は全て伐採してしまうのです。そのため天候に異常があり、すっかり干ばつになってしまいました。政治は安定せず国民は満足に生活できず、不衛生と不健康が蔓延して、すっかりカリブのお荷物になってしまったのがハヒチなんですヨ」。

 混乱したカリブ海の政治、十分な予備調査のなかった我が国の移住政策、などが重なってドミニカの移民達は行き詰まってしましました。しかし田畑さんは言います。「我が家は長男、長女一家は帰国させました。しかし自分たちは帰国するしょうとは一度も思いませんでした。こんなに気候によい畑でガイジンを使って仕事をさせてもらうことなど故国にいた時は思いもしませんでしから。今ではここに住んで良かったと女房と二人でそう思っています」

  「次男の3名の孫、三男の2名の孫もすぐ山麓の町に住んでいていつでも遊びにきてくれる。次男の子供達は毎週土曜日には120キロほど離れたバニの町にピウックアップで日本語の補修校に通っています。月1回は開発青年のブランテイアもわざわざアスアから訪ねてきてくれます。日本の教育が辺境の地で根付いている最後の証です」。


自宅内の道路

日本のマスコミが必ず撮影する岩山

田畑初さん

アグアスネグラスへの路

こんな花が寂しくもあり

エデンの園の看板が

ペデレナルの港近く

ハヒチとの国境

ペデレナル市街

新しい道路を園内に
クリックするとサムネイルします 田畑初農園の全景