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今回は「沈黙の囚人」を見にきたが、得をしたと感じた。60分あきさせない良質のエンタテイメントであり、かつジャーナリズムとしても成功している。質の高いドキュメンタリーとはこういうものを言うのだ。
米PBS放送の「沈黙の囚人」は、きわめて良質の<「論文=イシュー検証型」のドキュメンタリー番組>だ。NHK制作のNHKスペシャル「奇跡の詩人」が<「エッセイ=エピソード紹介型」>であるのと、きわめて対照的である。
英語の番組だが、日本語スクリプトおよび、画像入りダイジェストを主催者が用意してくださったため、英語が苦手な私でもよく理解することができた。
内容は、ドーマン法についてではない。シラキュース大学のビクレンらが唱導する、FC(ファシリテイテッド・コミュニケーション 補助者つきの文字盤を使った意思表示法)について、実証的に検証することを目的としている。
ビクレンや現役ファシリテイターなどのFC肯定派、否定派や、FCによって性的虐待で告発された親へのインタビューに見ごたえがあった。児童が文字盤を見ていないにもかかわらずFCが行われているスクープ画像(指導的立場にあるファシリテイターによるもの)や、一本指でのブラインドタッチが、専門のタイピストでも無理であることなどの画像が興味深かった。特にビクレンへのインタビューはかなり意地悪な質問もあり、よくこの取材を実現させた、と制作者へ賞賛したくなる。情緒的な日本のドキュメンタリーとはことなり、米国のドキュメンタリーなので主張がはっきりしている。番組はインタビューや具体的な映像資料で構成されている。TBSで放送されている米CBSドキュメント(60ミニッツなど)と同種のものと思っていただければ分かりやすい。
番組の中で紹介されたFC関係のコンベンションは、ホテルを借り切って何百人も集めて行われる極めて大規模で、金のかかったものだった。FCの米国社会での広がりに衝撃をうけた。
このような優れたレベルの先行作品が米国にあるにもかかわらず、今回の「奇跡の詩人」を作り、放送してしまい、いまだにきちんとした対応ができていないNHKにあきれる。この番組の存在を知らなかったのなら調査不足だ。知っていてあの番組を作ったのなら罪は重い。
検証会に行く以外にこのビデオを見る機会はないが、この問題に関心がある人は、できるだけ見たほうが良いと思う。
このビデオを入手してくださった方、スクリプトを入手してくださった方、翻訳を作ってくださった方、ダイジェストを作ってくださった方、検証会を主催実行なさった方に感謝する。

FC検証番組、沈黙の囚人;FRONTLINE Show1994年12月放映のビデオを見ることが出来ました。
私は、もともと、FCに対し極めて懐疑的であったのですが、この番組は駄目押しをしてくれました。
極めて精緻に構成された素晴らしい番組で、見るものに、次に示す二つの大きな衝撃を与えます。すなわち、赤裸々な自閉症の方々の実体と大変さを突きつけられと共に、FCの欺瞞性が余すところ無く示されるのです。
番組におけるFCの検証は、きちんと合理的(あるいは科学的に)行われていると信じるにたりるものでした。(ニダ-博士と同様に、私も理系の人間です(藁)FCの悲劇は、言葉無き障碍者が本人にかかわり無く「語らされる」ことと、ファシリティタ−が自分の行為を真実と信じ込んでいることでしょう。
また、米国ではファシリティタ−が行った「家族にによる障碍者への性的迫害がある」という告発が多発し、たくさんの悲劇が生まれたことも語られていました。
日本では幸い問題となっておりませんが、起こりうることだと考えさせられました。
ここで注意しなければならないのは、「障碍者への性的虐待」の問題と、「ファシリティタ−の告発による性犯罪の濡れ衣」は、分けて考える必要があることです。
デ−タ無しなので、説得力はありませんが、いわゆる「障碍者への性的虐待」は、施設におけるものが多いのではないでしょうか?
家族の場合は、近親相姦の障壁を乗り越えなければなりませんし、はっきりいって被害者たる障害者の性的アピ−ルが多いとも思えません。
「ファシリティタ−の告発」は、近親者へ向けて行われました。
ある日突然、ファシリティタ−により「正常に話せる」ようになった障碍者が、ファシリティタ−を介して告発するわけです。
番組の例では、息子が、父親から虐待をうけたと次のようにつげるのです。
「.....この変態野郎は、僕のちんちんを口にふくむと.....」で、えんえんと、この具体的告白が続くのです。
またほかの例では、父、母、祖父母、弟の家族全員が、自閉症である娘を性的に虐待したと、ファシリティタ−が具体的な内容で告げます。
FCの浸透に比例して、雨後の筍のごとく「性的虐待の告発」がふえていきました。問題の顕在化に伴い、FCの検証がおこなわれ、FCの有効性が否定されてことを考えると、それらの事象は、ほとんどファシリティタ−の妄想であったと考えるべきでしょう。
アメリカの場合、FCの総本山はシラキュ−ス大学のファシリティテッド・コミュニケ−ション研究所で、所長のDouglas
Biklenが普及活動を強力に進めてきたそうです。
で、ここで養成されたファシリティタ−が、全米各地におくりこまれたようです。
家族が、ファシリティタ−のケ−スもあるとは思いますが、番組ではそれに関する情報はありませんでした。
プロのファシリティタ−が養成され、『奇跡を起こす人々』として障碍者に提供(すまそ、ちょっと適切なことばがうかばない)されたのが、米国でのFC問題を大きく深刻なものとしたと考えられます。
番組でのFCの検証実験は極めて単純明快なものです。
スレ等でも何度も提案された、障碍者とファシリティタ−に別々に物をみせて、何を見たか、とたずねるだけのものです。
ファシリティタ−は、決して障碍者が何をみたのか、答えられないのです。答えられるのは、「ファシリティタ−がみたもの」だけなのです。
また、番組は、ファシリティタ−を目指し、なった人々は、「ある傾向」がある人々だと指摘してます。そのような人々には、性的コンプレックスがバックグラウンドにあるのかもしれません。

落合俊郎氏の論文には、ファシリテータが障害児の肩に手や鉛筆を触れているだけで文章を作れるようになる例が紹介されています。一方、アメリカへのFCの紹介者であり、「沈黙の囚人」にも登場するD.Biklen氏の論文には、FCを行う心構えとして、障害児がキーボードを注目していること等の厳しい条件が幾つも挙げられています。これらを読んで、FCの中にも本当に障害児の意思が表されている場合があるのではないかと思っていました。
しかし、「沈黙の囚人」を観て、その可能性は極めて低いということがわかりました。番組中で行なわれていたFCの中には、ファシリテータが障害児の手や腕を持つのではなく、袖を持って援助するシーンがありました。一見すると、障害児の意思で文章を作成しているように見えます。
しかし番組の説明によると、これもファシリテータが無意識に手を動かすタイミングを合図として伝えており、自閉症児にはそういう動きを増幅させる傾向があるとのことでした。落合氏の論文で紹介されている例もその説明で納得できます。
さらに、Biklen氏の言う、「障害児がキーボードを注目していること」という条件が、Biklen氏の目の前でさえ守られていないということが番組で明らかにされていました。
私はこの番組を観て以来、FCはほとんどの場合ファシリテータの意思が表現されているにすぎないと考えるようになりました。
ところで、この番組中で行なわれていたFCは文字盤を指すものではなく、キヤノンコミュニケータと呼ばれる小型のタイプライターをタイプするものでした。このコミュニケータはまさかFCのために開発されたものではなかろうかと思って調べてみたところ、視聴覚補装置として開発されたものだそうです。詳しくは、http://www.canon.co.jp/about/history/episode06b.htmlをご参照ください。

ドーマン法、FC法そのものについての見方を補強されたということよりも、今回の問題の論点がどこにあるのか、どこをつくべきかを再認識させられたという点で、とても有意義な番組を見せてもらったと思う。
親、医療・教育従事者、メディア、そしてその一般視聴者がそれぞれ自らの立場でなすべきことを、きちんと考え、確かめながら、本当の当事者である障害を持つ子供に関わっていくということ。そんな、ごく当たり前のことが日本ではまともに行われていないのだと改めて実感することとなった。
NHKは、公共放送を自負するメディアとして、『奇跡の詩人』番組によって一体何を視聴者に伝えようとし、たのか。同時に、その際気をつけなければならないことが何だったのか。それらをNHKがどう自覚し、行動に移していたのかが重要な問題だということである。そんな当たり前のことを、正々堂々と説明できる形で行なうことなしに、“問題”がそれとして形を持って現われさえしなければ何も問題自体が存在しないとして、事態の風化をひたすら待つという卑怯な姿勢をNHKがとる限り、本来彼らが伝えようとしたはずの、何かプラスのものも伝わるはずはないと思う。いくらこの番組をきっかけにドーマン法に関する疑念が高まり、より正確な情報を自ら集める人が出たとしても、そのことと、NHKの問題とは別のはず。
我々一般視聴者が問うべき直接の問題は、ドーマン法・FC法の真偽ではなく、それらを題材として扱うに際しての、NHKのあまりにも無責任な姿勢である。前者を我々が直接問うことは、場合によっては筋違いとなるし、不可能なことも多いだろう。そして、そもそも、番組を制作する段階において、少なくとも一般視聴者が納得する程度のレベルまでは検証を行なった上で情報を発信するということをNHKが怠ったということこそが、今回の問題の本質ではなかったか。NHKという組織自身がそのことを自覚し、彼ら自身によって制作の姿勢そのものを問い直すことがなされなければ、題材は変われども、今回と同じようなことがまた起きる可能性が大きいと思う。そこにこそ、さまざまな形で細々とではあっても抗議の言動を続けていく際の批判対象があるということを改めて意識させられた。
では私たち一般視聴者はこの問題に際して何ができるか。自分はそれを考えながら検証会に参加してきたが、『沈黙の囚人』というよくできた番組を見たことで、少し答えが見えてきた気がする。直に接し共に生きている人以外は誰も、当該親子の行き方に口をはさむ権利を持たないのは当然のこと。しかし、それを題材としてとりあげ、公共放送として広く発信するメディアや、当事者たちを直にサポートしている専門家の姿勢や所業に対しては無関心でいてはいけないと思う。それは、当該親子の人生そのものが、他のなにものとも代替できない固有のものであるのに対して、メディアあるいは専門家としてそれに接する人々の言動については、同じようなケースに対しても同じことがなされるであろうという予測が働きうるということによる。『沈黙の囚人』にも強く現れていたもののひとつは、子供を愛するがゆえに、奇跡をも信じ、それにつながりうるものになら縋りたいと思う、親の強い思い。それは、障害をもつ子供に限らず、子供を持つ親ならば誰しもに共通する、ごくごく当たり前のものではないだろうか。あるいは、まだ子供を持たない人にとっても、想像し、ある程度においては共感できる感情ではないかと思う。確かに、暴走する親もいるだろう。さまざまな問題もおきているだろう。しかし、そこにある親の気持ちを、障害を持つ子供とその親の問題だという点において、何か特殊な、異質なものと見ることは間違いだと思う。
そもそも、障害を持つ子供の親になる可能性、あるいは自分自身が障害を持つ可能性は誰しも持っているはず。あるいは老齢によっても同じような能力欠如は生じるだろう。障害を持った人が自分の意思をどう表現するかという問題は、決して限られた人だけの問題ではない。立場が入れ替わったときに自分にも当てはまる、降りかかる可能性のあるものに対して冷静な目を向けることは、実際に当事者になっている場合には持てない客観性をも含んだ判断ができるという点において、ときにとても有力なこととなるのではないだろうか。
障害を持つ子とその親の問題は、一方で当該親子の個別具体的な問題でありながら、それがメディアや専門家の手を経て一般に発信され、さまざまに評価され利用されるやいなや、われわれ誰もが社会的な問題の次元において議論できるものになるのではないだろうか。良くも悪くも、ここの混同は避けなければならないと思う。当該親子を気遣うことは当然ながら必要である。
しかし、「当人たちが満足しているのだったら他人が口をはさむことではない」「(当該親子が)かわいそうだとは思わないのか」などといった言葉で、正確な情報発信をメディアに対して求める言動すらをも批判する人がいるとしたら、その人こそが、問題の本質を分からずに、とても安易な、しかし明らかに間違っているヒューマニズムのようなものに酔っているだけだろう。そして、その根底には、当該親子や同じ種類の問題に直面している人々を、自分とは違うものとする意識が存在しているともいえると思う。一切触れないことではなく、触れるべきところには触れ、触れるべきではないところには触れないということこそが、問題の所在のわかった人間のやることなのだということを、この番組に改めて教えられた気がする。
日本人は、概して、「人のプライバシーに踏み込まない」などの言葉で、本来社会的なサポート体制などの資源の問題として問われなければならない問題をも、自分が実際にそれを必要とする立場にならない限り、まともに考えようとしない、あるいは口を出すことをためらう傾向があるようにも思う。特に、肯定的に賛美することには加担すれども、より正確な情報を得るために疑問の声をあげたり、批判し間違った点を正そうとすることは、その行為自体が悪であるかのように捉えられてきたように思う。自分はそれを今まで、日本的なやさしさとでもいうものとして肯定的に捉えてきたが、そうした一般視聴者の姿勢こそが、今回のNHKの無責任な、情報発信者としての自覚にあまりにも欠ける番組作りおよびその後の対応を成り立たせているとはいえないだろうか。今一度、NHKが『奇跡の詩人』のような番組をのうのうと世に送り出せたのはなぜなのか、また、『沈黙の囚人』のような番組を彼らに作ることができないのはなぜなの、という点に焦点を絞る必要があると思った。

まず、1994年の放送ということに驚いた。なんと8年も前のことなのである。そして、アメリカでこんなにもFCが問題になっていたということが日本では知られていない事実にも驚いた。アメリカで問題になったのは、FCによって近親者による性的虐待が多数報告されたからである。これはFCが近親者だけでなく、教師や専門のファシリテイターの手で行われたことも関係するのかもしれない。その結果、近親者による性的虐待という「でっち上げ」が行われたのかもしれない。翻って日本では、ファシリテイターの多くが近親者(特に両親)である。このことが大きな問題を起こすことなく問題のあるテクニックが深く潜行する原因にもなったと思われる。
また驚いたのは、アメリカでもFCによって導出された表現にいわゆる「詩」が多く紹介されていたことである。詩という表現方法は一体何を暗示するものであるのか? ファシリテイターが無意識のうちに投影する心象風景が詩という形になって表現されるのであろうか? 興味深い事柄であるように思える。
番組はFC懐疑派だけではなく、FCを推進しているシラキュース大のビクレン教授にもインタビューを行い、肯定・否定双方の立場を明解にしつつ、FCの問題点を浮き彫りにしているという点で、ドキュメンタリーとしてクオリティの高いものになっている。特に、実際にFCに取り組みファシリテイターとして情熱を傾けていた養護学校の教師達の言葉は聞くべきものがある。彼らが真面目に取り組んでいたものが実際に検証されていった後での挫折をカメラは正面から捉えている。こういったドキュメンタリーの作り方は、アメリカのドキュメンタリーに多く見られる手法であるが、実際この方法こそが良質な番組を作るもっとも正統的な方法であるように思える。これと「奇跡の詩人」を対比するのも馬鹿馬鹿しいぐらいに思えるが、あえて比較すると「奇跡の詩人」はやはりドキュメンタリーではないと結論づける以外にないであろう。「奇跡の詩人」は、プロモーションビデオと呼ぶべきものである。それをドキュメンタリーとして放送したNHKの人間は、全員もう一度ADからやり直した方がいい。
さてFCの検証であるが、これは非常に明快であった。ファシリテーターが見た事象しかFCでは出てこないということ、それが例えFCを推進している立場にあるファシリテーターが参加した検証でも正しい答えが全く得られなかったことは、FCの信憑性に明解にNOを突きつけるものであると思う。また、いわゆるブラインドタッチ問題も、明解に否定している。例えキーボードの配置を覚えているプロのタイピストであったとしても、キーボードを見ずに一本指でタイプすることは不可能であるということが、疑いようもない映像として紹介されている。
これらの検証結果に対してビクレン教授の回答は、素人が見てもお粗末と言えるようなものである。落ち着きがなく目が泳ぎ、少数の成功例を根拠に言い訳に終始する。そして、彼はいまだにFCを推奨しているのである。しかしながらこのインタビューを見て、怪しいと思わないものはいないのではないだろうか。
番組ではFCとは別のコミュニケーション手段も紹介している。身体の一部や呼吸・目の動きなどを使ってタッチパッドなどを操作し、自らの意思で言葉を紡いでいく。FCとは違って、表現するのに時間がかかるかもしれないが他者の意思が介在する可能性は全くないと言えるだろう。私はここで問いたい。意志がある存在が、その意思を曲げて伝えられてしまう手段を喜ぶだろうか? 例え時間がかかったとしても、自らの意思を確実に伝達する方法を選ぶのではないだろうか? と。
番組はこう締めくくる。「あるがままに敬意を持って接するのか、あって欲しいように見ることを選ぶのか?」 これは「奇跡の詩人」問題に投げかけられた問いでもあろう。

NHKの「奇跡の詩人」を見たときは言葉が出ませんでしたが、「沈黙の囚人」もショックでした。FCは変だと思っていても、少しくらい可能性はあるかもしれないと思っていたのですが、期待は見事に否定されました。いくつかの方法で何人もが検証をしていますが、正解率は0。すべて介助者の言葉と思うしかありません。どの介助者も本人の言葉ではないと認め、自分の言葉とは思えない感覚にショックを受けていました。検証以前には、介助者のものとは思えないような言葉が無意識に出ていたことはとても不思議ですが、検証はあまりに妥当です。「沈黙の囚人」は、効果音など一切なく、真実を明らかにした喜びのようなものはまったく感じられませんでした。この現実は受入れなければならないものなんだと思いました。
しかし「沈黙の囚人」では、過去の言葉すべてが介助者のものだとは言っていません。本人のものではないというだけで、本人が言葉を理解してないということを証明したわけではありません。ただ、言葉を理解していたとしても、小さい頃から介助者が手伝い続けた為、FC以外で表現しようとしない(出来ない)のだと思います。FCは介助者が代弁する方法なので、世間的には言葉の信憑性が薄まる(疑われる)のはあたりまえです。本人は、本人の言葉だと、わかりやすく伝える方法を知らないでいるのだと思います。
ただ、考えや想いについては、本人が言葉にして伝えたとしても、その言葉からわかる意識は受け手のものでしかないと言うことは忘れてはならないでしょう。想いを表す言葉はとても単純ですから、本人の考えを間違いなく知れるはずがない。(おもしろさやおいしさが言葉では伝わりきらないように。)
人が仲介すると、予測・期待という主観がとても入りやすくなるわけで、FCはその最たるものでしょう。予測は仲介者の予測でしかなく、期待は受け手の期待です。介助者も本人も、それらと本人の思いをきちんと区別することは、ほとんど不可能だと思います。手をさわることで感情は伝わるかもしれませんが、受け手の意識に言葉として浮かぶのなら、それは受け手の言葉でしょう。
伝わる相手が一人(少数)に限られるFCしか手段がないことが、本人にとって不幸です。いろいろな人がいるのですから、いろいろな方法でコミュニケーションを取れる方が、喜びも多いと思います。うれしい楽しい気持ちは特に、直接伝える(伝わる)ことでより大きくなるのではないでしょうか。言葉でなくてもいい場合もたくさんあるはずです。言葉の意味など案外あやふやなもの。お互い、少し違うのかもと思う感覚が麻痺すると、寂しいことになると思います。FCでは、介助者の期待が大きいと麻痺しやすいように思います。
「沈黙の囚人」を見て、FCの言葉は本人のものだとは言えないことを確信できたので、出演者全員を疑って見ていた苦しさから救われました。たとえ子供でも、障害者でも、言葉や思いがうまく伝わらなくても、一人一人違う意思があるということ、それをその人のものとしてお互い尊重し合う社会でありたいと強く思いました。今は、「奇跡の詩人」をこのまま奇跡が起こったとしておくことも、見なかったことにして忘れることもしてはいけないように思います。
NHKのドキュメントならば、感動を絶対論として押し付けるような作り方はやめてほしい。特に今回のように、民間の販売戦略に直接かかわっているように見えるなんて駄作もいいところ。言語道断です。もし「奇跡の詩人」の取材中に出来た本が、NHK出版から出せたならば、迫った締切りに著者が寝る間を惜しむこともなく、家族も無理をせず、NHKが行ったFCの検証内容や、現代の医学的見地もふんだんに盛り込むことが出来たのだろうなと思うと、非常に残念です。
いろいろなケースを丁寧に調べるのは大変でしょうが、その苦労を惜しまないでほしい。日本の公共放送の責任と誇りを持って、一部の利益や一部の人の意識に荷担するものにならないように、細心の注意を払ってほしいです。「奇跡の詩人」をこのまま放っておいて、世界のFC研究資料に、日本公共放送によるFCドキュメント番組として紹介されるようなことがあっては恥ずかしいです。NHKはこの機会に、「ドキュメントとは何か」を社内で再考した方いい。そして、関わった人全員が「奇跡」という言葉の意味を調べなおした方がいい。
NHKの判断を信頼して受信料を払ってきましたが、判断違いだったのでしょうか。NHKが「奇跡の詩人」というドキュメント番組を「奇跡だ」と言い続ける為には、相当に信憑性のある事実を見せる必要があるはずです。

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