臨死体験の事例集

 

Y・I 氏

 ■「臨死なき臨死体験」(1)

  『臨死体験研究読本』を読んだという人から2003年7月下旬にお便りをいただきました。 ここではY・I氏とします。京都在住の70代の男性です。ご自身が「臨死なき臨死体験」をしたことがあるとのことでした。そういう体験を持つ人が、この本をどう読み、どう感じられたかが窺い知ることができ、興味深いものがあります。ご本人の承諾を得てすでに掲示板その他でも公表していますが、ここに再録します。 (個人情報にあたる部分などは一部省略してあります。)


◆「これこそ僕のいいたかったことだ!」

  『臨死体験研究読本』、夢中になって2日で読了しました。久し振りに、本当に 久し振りに、本を読むことに熱中しました。有難うございました。こんないい本を 書いてくださったことに心からお礼を申し上げます。

 私は、およそ20年まえに「臨死なき臨死体験」をしまして、肉体的には何も異 常なしに「光」だけを経験しました。その後、人に知られると「狂ったんじゃかい か」と思われそうで、誰にも言わずに隠したまま過ごしてきました。キュブラー・ ロスやケネス・リングや、日本では立花隆さんの本などで、自分と同じような「臨 死」のない体験をしている人もいるんだということを知りまして、ある程度の安心 はしたのですが、その体験の意味が、何となく否定的に論じられているような気が して、不満でした。

  『臨死体験研究読本』を読ませて頂いて、「これだ、これだ。これこそ僕のいい たかったことだ!」と、大袈裟に思われるかも知れませんが、飛び上がるような心 持ちでした。

 その一つは「この光は幻覚ではなく、現実の経験だ」ということ。第二に「この 光は仏教における『光明』や、『悟り』にも相当する深い意味のある経験だ」とう こと。本当にその通りだと思います。

 先生は実に冷静に、考え抜いて論旨を展開していらっしゃいますが、僕は少しお 恥ずかしいくらい感情的に、そしてまた興奮しています。すこし喜び過ぎているよ うな気もしますので、今日はお礼だけにして、この次にもう少しくわしくお手紙書 かせて頂きます。 (2003年7月25日、手紙)


 続けて8月中旬には、ご自身の体験を綴ったお手紙をいただきました。 白い光の中での無限の安らかさ、全てが許されている」感じ、悦び、その後の彼の 人生に与えた影響など、体験の核心部分が臨死体験と非常に似ています。まずは読んでください。最後に若干の感想を 述べたいと思います。


◆太陽を何千個集めてもかなわない光  

  ‥‥論理的に整合性のある文章は全く書くことができませんが、その点をお許し 頂いて、僕なりに自分のいまだに不思議でならない経験を少しずつ整理しながら書 かせて頂きます。  実際に起こったことは次のようなことでした。二十数年も前のある夜のことでし た。いつものように電気を消して床に入った時、急に周りが明るくなってきました。 初めは訳が分からずポカンとしておりましたが、光はどんどん明るさを増していき、 今まで見たこともない非常な明るさになっていきました。あとで自分では、「太陽 を何千個集めても、とてもかなわないくらいだった」と思ったほどになり、しかも その光はこの上もなく白いのです。

   臨死体験について書かれたものでは光の色は白か黄金色であるようですが、僕の 場合は完全な白色、それもこの世の中にこれほど白い色はないと思われるような純 白でした。時間的にはさほど長くも感じませんでしたが、明るさが増してくるにつ れて、僕は何だか空恐ろしい気持になってきました。「これって一体何なんだろう? このまま死んでしまうんじゃないだろうか」とか「頭がおかしくなってしまうんじ ゃないかしら」とか、何のことか分からないままに、恐怖心がどんどん増してきて 「どうしよう、どうしよう」と思い始めましたが、それにはおかまいなしに光は明 るく、さらに明るくなっていきました。でも途中で、これも訳が分かりませんが、 その光が暖かく優しく僕を包んでくれているような気持がしてきたのです。

   「早く元の自分に戻らなければ」とあせる気持が薄れてきて、だんだんと嬉しい ような、楽しいような気持が増してきて、このままでもいいかな、と感じ始めたこ ろには、もう何とも言えない悦びに包まれて、恐怖心が何処かへ消えて行き、「も うこれでいい、このままでいい」と思うようになって来ました。光の中はこの上な く自由で、安らかで「全てが許されている、自分もほかのものも、全てがこのまま で許されている」と思われました。

   安堵感、それも無限に、そして永遠に広がる深い安心、全身で僕はその中にいま した。生れてこのかた、こんな安らかな気持には一度もなったことがありません。 大きな、大きな悦びでした。

◆永遠に無限にある

 翌日、目が覚めて、僕はまたまたびっくりしてしまいました。僕の生活は何の変 化もないのです。ごくごく普通に時間が過ぎて行きます。誰も僕の内心の変化に気 づきません。普段の当たり前のY先生なのです。何故なんだ? 分かりません。僕 は誰にも話すことができませんでした。言えば笑われる。「この人おかしくなって しまった」となる。だれにも言えない。このまま黙っていよう、そうするしかあり ませんでした。

  そのまま何年が過ぎたか、今ははっきりとは分かりません。妙なことですが、こ の経験は時間を超越していますから、そのことが何時起こったのか、はっきりしな いのです。思い出すことは全く不可能なのです。そして、さらに不思議なことは、 あの感覚はその後この体の中に常に生きているのです。「常に」というのは少し違 いますね。永遠に無限にあの感覚は僕の体の中に在るのです。確かに何処かから来 た感じはありますが、もう何処へも行きません。常に、そして永遠にここにありま す。変わらないのです。

   ケネス・リングも言っているように「現実」なんです。「事実」なのです。そし てそのまま永遠なんです。こう書いてくると、世の中の常識からすると随分おかし なことを言っていますね。常識的に考えるととても変だと僕も自分で感じます。で もこれは「事実が事実である以上に」事実であり、現実です。これはとても大事な ことなので、くどくなりますが、もう少し言わせて下さい。(続く)

 この感覚は体の中心のあたりにあります。胸のあたりと言ったらいいか、お腹の 方が適当か、はっきりとは言えませんが、そこに戻ろうと思うと、その瞬間にあの 時の、あの感覚に包まれるのです。それが事実だし、現実だということは次のよう に言うと、多少は分かりやすくなるでしょうか。

◆全てのものが常に「現われては消えてゆく」
  
  例えば、今この現在にこんな風に感じているのを、これを現実とよぶとすると、 その現実感はとても弱くあいまいで、すぐに消えて行ってしまいます。昨日のこの 時間、自分は何をどう感じていたか、お腹はどの程度にすいていたか、‥着ている 衣服はどの程度にこの体をしめつけていたか、周りの明るさはどのくらいだったか 靴下のゴムは少々きつくはなかったか、といった自分にとって最も身近な現実も、 たった一日しか経っていないのに、判然としない、というより、まるで何一つ分か らない。

   さらに、五年前、十年前に自分は何を考え、何を望み、何を悲しんでいたか、全 く思い出すことができない。しかも「自分は自分の毎日の生活を、ほかの人ではな く、自分として生きている、そしてそのことには何の疑いもない」そのように信じ 込んで生きています。こういった、いわゆる現実感というものは、実に簡単に消え て行ってしまいますし、それを少し拡大して考えると、全てのものが常に「現われ ては消えてゆく」を繰り返しています。

   「記憶などというものは常にそういうものだし、全ての意識を一つも無くさない ようにかき集めて持ち歩こうとしたら、それこそ大変なことになってしまうよ。人 間は次々と忘れるからこそ生きて行けるのさ」と言われれば、それはまことにその 通りで、僕白身がまさにそんな風に生きているわけですが、今、ここでこの自分が 感じていて、これほど確実なものはないと思えるのに、どうしてだか非常に移ろい やすく、すぐにモヤモヤッとしたあいまいさの中に消えて行きます。現実というの は一体何なのか? 我々はこんなにも頼りなく不確実な感覚を「これこそが現実な んだ」と信じ込んで生きています。そうするしかありません。「それ以外にどう生 きるんだ?」と聞かれても困るだけです。

◆真の現実は永遠で無限
 
   あの時の、あの光はそこのところが違うのです。変化するということが全くあり ません。この胸に常に在るこの感じは、永遠そのもの、無限そのものなんです。変 化ということを全然しませんから、動かないです。帰ろうとすると、その瞬間にそ こに在るのです。今、気がつきましたが、現実というものは真に現実であるために は、永遠であり、無限でなければならないんですね。言葉の使い方をどこかで間違 ってしまったかも知れませんが、どうも、こうなってしまうみたいです。

  長い間、様々なことに出会いながら、こうやって生きてきて、やがて死を迎える 時がきます.『ついに行く道とはかねて聞きしかど、きのう、きょうとは思わざり しを』の時が訪れた時、僕白身が「これが自分の人生でした。これが自分の本当の 現実、本物の事実と言えるものです」と言うことができるのは、やはり、あの光の ほかにはありません.これだけが「本当」です。(‥‥中略‥‥)

◆「光」と「生」と「死」

   先生はご本の中で「光」と「悟り」と「死」を一つのこととして論じたい、とお 考えのようですが、僕はこのように自分が死を迎えた時、本当に「これこそが自分 にとって人生だった」と言えるのが、まさにあの光だという点で、「光」と「生」 と「死」が一つに感じられています。論理的に客観的に論ずることは、どうも苦手 で、どうしようもありません。ただ「悟り」という点にしぼると、あの光こそが僕 にとってはまさに悟りそのものですし、光に帰ることは自分だけのものにもせよ、 悟りの状態に戻ることになります。光は永遠だという点で、死を超えています。死 んだ後あの光の中へ戻りますから、生と死は共に光の中に含まれており、こういう 在り方しか僕にとって悟りはないわけです。「悟る」ということは全てを一つとす ることなのでしょうか。この年になって、死を一つの悦びとして受け取ることがで きるのは思ってもみなかった、まさに望外の幸運です。ラッキーとしか言いようの ないこの事態が何故起こったのか、よくは分かりません。ひょっとしてあれかな? と思えることもなくはないのですが確信は持てません。

  先生は天外伺朗さんのことを書いていらっしゃいましたね。僕はとても天外さん の考え方が好きで、著書の殆どを持っていますし、マハーサマーディ研究会にも入 れてもらっています。ただし、瞑想には何となくなじめない気がして、まあ読書会 員とでも言うような参加の仕方をしています。僕の人生観の大きな部分は天外さん に負っています。ついでにトランスパーソナル会員でもあります。遠くの方からで すけど。ニューエイジ的というか、ニューサイエンス的というか、そういうところ があります。  (‥‥中略‥‥)

  ただ、今までどうしてもつながらなかった「光」と、この人生 の全てが先生のおかげで一つになりました。バラバラのままでおりましたのに、ど うにか統一ができました。本当に有難うございました。僕の文章はどのようにお使 い頂いても結構です。むしろ、とても光栄に存じています。  (‥‥中略‥‥)

  次の手紙はまた少し先になると思います。一度読んだくらいで は、こんなに内容の深い本の感想は書けそうもない気がしています。どうぞ遅延を お許しください。


◆臨死体験における「光」との酷似

  以下にY氏のお手紙を読んでの感想を書きます。  

  Y氏ご自身は、自らの体験を「臨死なき臨死体験」と呼んでいます。強烈な「光」 の体験と、その体験がその後のご自身に与えた影響とが、多くの臨死体験者の「光」 体験の報告と、その核心部分で共通だと感じられるからでしょう。体外離脱やトン ネル体験、パノラマ的人生回顧などはなく、強烈な「光」体験だけなのですが、臨 死体験者が触れたのと同じ「光」を体験したという強い自覚があるのだと思われます。  Y氏が床に入った体験した「太陽を何千個集めても、とてもかなわないくらい」 の「光」の特徴は、以下の点で臨死体験者が報告する「光」と酷似しています。

1)光の愛に包まれる。 「その光が暖かく優しく僕を包んでくれているような気持がしてきたのです。」

2)全てが許されていると感じる。 「もう何とも言えない悦びに包まれて、恐怖心が何処かへ消えて行き、『もうこれ でいい、このままでいい』と思うようになって来ました。光の中はこの上なく自由 で、安らかで『全てが許されている、自分もほかのものも、全てがこのままで許さ れている』と思われました。

3)これまでにない安らぎ。 「安堵感、それも無限に、そして永遠に広がる深い安心、全身で僕はその中にいま した。生れてこのかた、こんな安らかな気持には一度もなったことがありません。」

4)時間を超越した感じ。 「この経験は時間を超越しています」

◆Y氏の体験の特徴

  一方でY氏の体験は、「光」を伴う覚醒体験ないし至高体験だとも言えるでしょ う。分類そのものは本質的なことではありません。それを臨死体験と呼ぼうと至高体験と呼ぼうと、Y氏の体験の大きな特徴は、その体験にいたる直接的なきっかけらしきも のがほとんどないことです。

   「臨死なき臨死体験」だとしても、たとえば鈴木秀子氏(→覚醒・至高体験事例 集>臨死体験者の場合参照)は体験の前に階段から滑り落ち、一時、気を失ってい ました。ベバリー・ブロドスキー氏の体験(→臨死体験事例集参照)の場合は、自 殺を決意するほどの苦悩の中にいました。

   Y氏の場合は、そのどちらでもありません。いわゆる「至高体験」にしても、 「限界状況」といえるような激しい苦悩に力尽きたかと見えるような時に体験され ることが多いようです。ところがY氏の場合は、「いつものように電気を消して床 に入った時」に何のきっかけもなく起こっています。 何かあったとしても、「ひ ょっとしてあれかな?と思えることもなくはないのですが確信は持てません」とい う程度のものです。これは氏の体験の大きな特徴かも知れません。

   もうひとつ印象に残る特徴があります。氏の手紙を読んで私がもっとも影響を受 けたところです。それは、以下のような文章です。

「さらに不思議なことは、あの感覚はその後この体の中に常に生きているのです。 『常に』というのは少し違いますね。永遠に無限にあの感覚は僕の体の中に在るの です。」

「あの時の、あの光はそこのところが違うのです。変化するということが全くあり ません。この胸に常に在るこの感じは、永遠そのもの、無限そのものなんです。変 化ということを全然しませんから、動かないです。帰ろうとすると、その瞬間にそ こに在るのです。」

  どのように影響を受けたうまく表現はできないのですが、Y氏が言わんとするこ との真実性が響いてくるとでも言えるでしょうか。臨死体験者の報告の中で、「光」 の永遠性をこのように強調して表現している文章に出会ったという記憶はありませ ん。おそらく深い「光」を体験したものは、核心において同じ感覚を持っているの だろうとは思いますが。

   Y氏の表現は簡潔です。「帰ろうとすると、その瞬間にそこに在るのです」と言 っています。そのようにして永遠性、無限性が体験されているのでしょう。そうい う事実が私の心の深いところに訴えかけてくるような気がします。

   最後に、私は「光」と「悟り」と「死」を一つのこととして論じたい、とまでは 言いませんが、深いところでつながっていると感じます。Y氏が、「光」と「生」 と「死」が一つに感じられとい悪のも印象に残ります。

 Y氏との手紙のやりとりは、これから何度か続くと思います。私はとくに、「光」 体験後に、氏の具体的な生き方や、周囲の人々への感じ方、人間関係がどのように 変化していったかをもう少しお聞きできればいいなと思っています。


「臨死なき臨死体験」(2)へ

2003/09/21 掲載


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