◇臨死体験・気功・瞑想

気・「もの」から「こころ」へ(U)  

     ──エネルギ−と波動情報

                          Noboru Ishii


    気・「もの」から「こころ」へ(T)では、「電気アレルギー」とよばれる人々が引き起こす驚くべき電磁気的な現象について語った。電気器具に触れるだけでそれを壊してしまったり、逆にはじき飛ばされたり、あるいは指先から閃光を発したりといった現象である。これらとかなり類似した現象は、一部の気功師たちも引き起こしており、「気」と電磁気的現象とが何かしらかかわりをもっていることを暗示している。今回は、「気」と電磁気とのかかわりをもう少し別の視点からさらに追及し、それと同時に気功師が発する「気」は、単なる電磁気的な現象としては捉えきれない様々なレベルに及んでいることを確認していこう。


   1.皮膚の電気抵抗と「気」

 周知のように中国医学では「気」の流れる道を経絡とよび、経絡は人体の内部や表面にくまなく走っていると主張する。また、その経絡上の体表面にあって「気」の出入り口になっているのが経穴(ツボ)である。経絡やツボの存在はある程度は実験的に証明されている。

 ツボが皮膚面の他の部分と区別される点として、皮膚の表面温度や皮膚の電気伝導率が知られている。ツボとよばれる部分の皮膚温は、そのまわりの皮膚の温度より高いか低いかの差を示す場合が多いとされる。またツボにあたる皮膚の電気伝導率は、そのまわりの皮膚の伝導率よりも高い、つまり電気を通しやすいとされる。京大の故中谷義雄博士は、この皮膚の電気伝導率が高い部分を「良導点」とよんだが、それらは昔から伝わる経穴図(ツボ配置図)の位置とおおよそ一致したという。

 さらに博士は、さまざまな臓器を病んでいる多くの患者の皮膚面の電気抵抗について調べていった。その結果、電流の通りやすいルートが手と足にそれぞれ六本づつみつかり、それらが伝統的に知られる「十二経絡」とかなりよく対応していることがわかったという。この発見は大きな反響をよび、それ以来日本の多くの研究者たちが、この皮膚電流測定法に注目し、研究した。

 こうした研究にはもちろん批判もあった。たとえば、「メビウス身体気流法」の坪井繁幸氏はいう、

 「微弱電気を測定して、ツボや経絡の証明とする人もいるが、果たして〈生命の流れ現象〉を電気現象に置換して事たりるのか? 電磁波を万能とする発想は瞑想を脳波に還元して事たれりとするのに似ていよう。電磁波は生命現象の一つであっても生命現象のすべてではない筈だ。」(坪井繁幸『メビウス身体気流法』平河出版社)

 確かに、〈生命の流れ現象〉である「気」を電気現象に置換しただけでは、それについて何も説明したことにはならない。筆者もそれには同意する。経絡やツボの電気伝導率が高く、電流を通しやすいという事実から少なくとも確実にいえることは、さしあたり「体内および体表において電気の通りやすいところは『気』もまた通りやすい」ということだけあり、それ以上のことではない。

 しかし、それだけでも電気と「気」との何かしら深いかかわりが印象づけられるのは事実だろう。前号で触れたような、気功師が引き起こす電磁気的な現象と考えあわせるとき、その印象はさらに強くなる。大切なのは、電磁気的な現象と「気」とが重なり合うらしい部分をけっして無視せずに、なおかつ、それに還元できない「気」という現象の膨大な広がりをも視野に入れることだろう。「気」の精神的側面さらには霊的な側面をも視野に入れてこそ、「もの」から「こころ」へと広がる「気」の全貌が見えて来るのだろう。

00/4/16追加


2.「電気功 」  

 さて、電気と「気」とのかかわりをさらに強く印象づける、別の例をいくつか挙げてみよう。気・「もの」から「こころ」へ(T)では、人体が発する「気」で蛍光灯がついたり、放電現象に似た光りが発せられたりした例に触れたが、逆に気功師が自分の体内に強い電流を通すという例もある。 

 中国・西安は華清池の気功師である金殿山は、長年のさまざまな気功訓練の結果、普通の人間には耐えられないはずの高圧の電流を体に流すことが可能になったという。たとえば、日本の家庭に来ている電圧の約二倍にあたる220ボルトの電流を体に流しても平然としている。実際に体に電流を流したうえで手に裸電球を持つとその電球に明るい光りが灯る。(普通の大人だと100ワット電球を流れる電気の四分の一程度を一秒間浴びただけでひとたまりもない。)さらにこの気功師は、自分の体に流れた電流の電圧を体内で変えて出力することのできる「人間変圧器」なのだ。たとえば、220ボルトの電流を30ボルトほどに変圧してそばの人の手に流したりすると、それでも彼に手を握られた人はかなりのショックを受けたりする。

 ただし、高圧電流を体に流せるのは特別の訓練を積んだ気功師だけにかぎられるわけではない。たとえば、ブルガリアの首都ソフィアには、普通の人なら死ぬような高電圧が流れている裸電球でも平気で扱える電気工がいるという。彼は、わざわざ電源を切らなくともすぐに家屋の電気工事に取りかかれるので、ヒューズ箱までの行き来を省略してしまう。『ブルガリア医学ジャーナル』誌のために行われたテストでは、彼の体には通常人より八倍もの電気耐性があることが判明した。「電気ショックなんて受けたことがない。ただくすぐったい感覚がするだけだ」と彼は言う。(ライアル・ワトソン、内田美恵訳『シークレット・ライフ』筑摩書房)

   しかし、ただ自分の体に高圧電流を通すだけでなく、自分の体を通した電流によって人の治療を行うとなると、訓練を積んだ気功師でなければまず出来ないだろう。たとえば、「神医」とまで呼ばれ、超能力者としても著名な中国の気功家・厳新も、体内に高圧の電流を流すことが可能だというが、彼はさらに「外気」を出しつつ220ボルトの電流を36ボルト以下に下げ、それを患者の体に通して病気を治すとのことだ。1987年に彼は、9人のそれぞれ違った病気を持つ患者を並べて電気を通し、気功治療を行った。ともに並んだ患者たちの反応はそれぞれ違っていた。ある人は、熱を、またある人は寒気を、そして他の人々はしびれや痛みを感じたという。30分を過ぎてから患者たちに一定の効果が現れた。ある視神経をわずらう患者は「この治療によって長い間悩まされていた眼病が治療された」とのことだ。(『厳新気功学テキスト』ベースボール・マガジン社) 

 中国には、こうした治療を「電気功」と称し、継続的に治療を行っている病院もあるという。北京の萬寿路医院気功室がそれだ。テレビでも紹介されたのでご覧になった方もいるかも知れない。その方法は厳新が試みたのとほぼ同じである。220ボルトの電流が流れる電極を持った気功家が、もう一方の電極をもった患者に、その電流に乗せて気を送る。電気を使って送る気のパワーを増強しているということか。この医院の「電気功科」の欧陽木医師は言う、「私は電圧を調整した電気に気を乗せて、患者の治療をしています。現代医学の注射や薬などのような副作用は一切ありません。ツボから気を送りこみ、滞っている経絡の流れを甦らせるだけなのですから、私の電気功治療は絶対安全です。なぜなら私は電気をコントロールすることができるからです。」

 つまり、コンセントから流れる電気は、患者の体に流れこむ前にこの気功医師の体内で変圧され患者に合うように調整されているというのだ。調整された電流および「気」は、患者の体に入るとき患者に軽いショックを与えるようだ。ただしそれは、感電のショックとはだいぶ違うという。またツボ以外のところに気功医師の手を当ててもショックは走らない、つまりツボ以外の皮膚面からは電気と「気」は体内にほとんど流れない。(日本テレビ『ワンダー・ゾーン』1993年3月1日放送) 

 なぜ気功師は、高圧電流を体内に流しても平然としていられるのだろうか。また体内で電流と「気」はどのようにかかわるか。気功師の体内で調整された電流は、あくまでも「気」を運ぶ媒体として機能しているだけなのか、それとも電気と「気」は混然一体となって統一的な「気」としての作用をするのか。今のところ筆者には、これらの問いに充分に答えるだけの準備はない。しかし、いずれにせよ「電気功」が示す事実からしても、「気」が皮膚や体内の電気抵抗の低い部分を、言いかえれば電気伝導率の高い部分を流れやすいのは確かだ。そこで「気」と電気伝導率の関係をさらに別の実験から考えてみよう。

00/4/16追加


3.水の電気抵抗と「気」  

 気功師が「気」をいれた気功水が病気に効果を示すといわれている。しかし、それがなぜ病気に効きくのかというメカニズムはほとんど何もわからない。ただ少なくともひとつ「気」を通された水が確実に変化したことを示す実験データがある。「気」によって水の電気伝導率が変化したというデータである。長年「気」の科学的研究に取り組んでいる、電気通信大学の佐々木茂美教授の実験である。 

 気功師に素手をかざしてもらって水に「気」をいれる。「気」を測る水には蒸留水を使う。この蒸留水には若干のイオンが含まれている。イオンが含まれるということは、電気を通しやすくなっているということである。この蒸留水に「気」を入れて、その電気伝導率の変化を見る。
 するとPHは変化しないのに「気」をいれた水は、電気伝導率が増している。PHが変わらないということは、この気功水が酸性にもアルカリ性にも傾いていず、水中のイオンにもまったく変化がなかったということである。ふつうは、水中のイオンが多くなることで電気伝導率は増し、少なくなれば電気伝導率は下がるのである。「こうなると、水の中に『気』が入ったから、水の電気伝導率が変化したとしか説明がつかない。」(佐々木『気のつくり方・高め方』ごま書房)

 また、同じく佐々木氏の実験で気功師が水に「気」をいれるとき、その気功師の皮膚に電気伝導率を測るための電極をつけてみた。電極をつけたのは経絡上のツボにあたる体表面である。すると、水の中に「気」をいれたときに起きた電気伝導率の変化と同じような変化が、経絡上の電気伝導率に見られたという。
  つまり水の中の電気伝導率が増したとき、同じように経絡の電気伝導率も増したのである。(同上) なお、外気を放射している時にかぎらず内気功の訓練中にも、ツボの電気抵抗が下がり同時に電位が上がることが中国の実験でも確認されている。これは、むしろ気功訓練中の生理変化についての初歩的な研究に属するもののようだ。(張恵民『中国気功法』)

 これらの事実からいえることは、「水においても人体の内部においてもある種の『気』が入ったり流れたりすると電気伝導率が上がる」ということである。(「ある種の気」と書いたのは、「気」がときには電気伝導率を下げてしまうこともあるからだが、この問題については後に触れよう。)
 ところで、「気」で水の電気伝導率が上がれば「外気」を受けた患者の体内で同じことがおこっても不思議ではない。人体の3分の2は水分で成り立っているからだ。この事実は、ある程度「外気治療」の効果の説明にもなる。「外気」を受けることで患者の体内の電気伝導率が高まれば、「気」の流れもよくなるだろうからである。

 先に触れたような高圧電流を体内に通しても平然としている気功家や気功医師は、気功の訓練によって、体内に強力な「気」を通し続けた結果、体内の電気抵抗を著しく低めたのだといえるのかも知れない。抵抗が少ないから高圧電流にも耐えられるのだろう。ともあれ体の内であれ外であれ「気」を通し続けることで水の電気抵抗は下がるらしい。

  以上から少なくとも言えることは、「気」は人間の体内において電気伝導率の高いルートを流れやすいが、一方「気」が入ったり流れたりすることで逆に電気伝導率が高まるということである。しかし、だとすれば「気」と電気との関係とは何なのか。電気の流れやすいところは「気」も流れやすく、また「気」が流れると電気も流れやすくなるというだけのことで、両者はまったく異質な存在なのか。それとも何かしら重なり合う部分があるのか。

00/4/22 追加


 4.生かす「気」と殺す「気」

 気功師が「気」を入れた「気功水」は、電気伝導率が高く、それを飲むと体調がよくなるのは確かなようだ。低いものは飲むとかえって体調を悪くするらしいことからすると、水の電気伝導率を高めるものが質の良い「気」で、低下させるものが質の悪い「気」だといえるのかも知れない。
 また、水に入れてもすぐに抜ける「気」もあれば、なかなか抜けない「気」もあるという。入れてから三日も四日も経てば「気」が抜けていてさして体に効果のないこともある。他方、何年もそのままの質を保つ「気功水」もたしかに存在するらしい。先にも触れた佐々木茂美氏は、中国の高名な気功師である趙偉氏から「気」をビーカーの中の蒸留水に入れてもらい、冷蔵庫の中にしまっておいた。冷蔵庫からふたたび取り出したのがそれから三年後、ビーカー内の水を36度の体温レベルに暖めたのち水の電気伝導率を測定したところ、三年前の測定値に戻ったという。つまり趙偉氏から出された「気」は、三年も同じ水の中にとどまっていたらしいのである。(佐々木茂美『気がもっとわかる本』ごま書房) 

 「気」の質やレベルの問題は、水の電気伝導率の高低やその持続力の問題に単純に還元できないかも知れない。しかし、少なくとも「気」に質的な違いやレベルの違いがあるらしいことは推測がつくであろう。「気」の質の問題をもう少し別の角度から見てみよう。 

 1981年、海軍総医院・中国免疫学研究センターの医師である馮理達女史は、培養中の大腸捍菌に対して次のような実験を行ったという。シャーレで培養された大腸捍菌に対して気功師に一分間「外気」を放射してもらい、それをその後さらに48時間培養した。その結果を観察すると、菌が50〜90%も死滅するという驚異的なデータが得られた。次に同じ気功師が、「大腸菌を増やす」という意識を持って再度「外気」を放射し、同様に培養すると、今度はシャーレの中の菌は二〜七倍にも増殖したというのである。(品川嘉也監修、中里誠毅著『気の挑戦』緑書房)

 この実験結果は、かなり重要な意味を持っている。一人の気功師から放射された「気」が、大腸捍菌に対してプラスに作用しただけではなくマイナスにも作用したという点こそが重要なのである。この事実から推察できるのはつぎの三点であろう。一つは「気」に質的な差があり、一方では生命体の成長を促すこともできるが、他方では生命体を死滅させることさえ可能らしいこと。
  次には、そうした質の差は人間の意識のあり方に密接に関係し、「気」の質を意識によってコントロールすることさえ可能らしいこと。そして最後は、たとえば瞑想や自律訓練法等によって、脈拍や血流や脳波その他自律神経系一般がコントロールされるのと同じように、いや、それよりももっと確実に「外気」は意識によってコントロールされるのでり、それゆえ身体と同じように有機体的に統合されたものとして意識にかかわっているだろうということ。その意味でやはり「気」は単なる電気的・磁気的現象には還元できない特性を持つといえることである。 

 さて、ここではさらに「気」の質の差が意識のあり方に密接に関係するらしいことを示す別の実験を紹介しよう。イギリスはマックギル大学のグラッドが、大麦の種を使って行った実験である。まず大麦の種子をオーブンのなかで「死にはしないが存分に損なわれる時間だけ」焼く。それらの種子はいくつかの植木鉢に分けてまかれ、毎日水がかけられた。使用された水はガラスびんに入れられ、「信仰治療師」がそのうちの一本を30分間手でにぎった。実験を開始して二週間たつと、治療師の手で処理された水をかけられた種子は、そうでないものよりも発芽数が多く、丈も高く、収量も多かった。ここでは「気」という言葉は使われていないが、治療師が水に手で施しを与えた作業は、「気功水」を作る作業とほとんど同じといってよいだろう。

 この結果をもとにしてさらにグラッドは、治療反応に人間の個性がどれほど関係しているかを調べることにした。彼は、三人の異なったひとによって処理された水を使って、別の大麦の種子の実験をおこなった。その一人は精神医学的に「正常な男性」、もう一人は強い抑うつ的な「ノイローゼの女性」、三番目は妄想性抑うつ状態にある「精神病の男性」だった。その結果、「正常な男性によって処理された水で育てられた種子は、対照群の種子と違いがなかったが、抑うつ状態の患者が手で触った水を与えられたすべての苗木の生長は、大きく遅れた。」 (ライアル・ワトソン『スーパー・ネイチャー』牧野賢治訳、蒼樹書房) 

 この実験は、もちろん意識的に「気」を扱っているわけではない。しかし、「信仰治療師」が手で施しを与えた水が、いわゆる「気功水」と同様の働きをなしていることは確かである。事実、気功師の「気」を放射した「気功水」で育てた植物の方が普通の水で育てたものより成長が早かったという類の実験データはかなり多く積み重ねられ、疑い得ない事実になりつつある。

 上の実験が果たして「外気」を扱っていたといえるかどうかと問うことはあまり意味がない。「外気」とは何かが未確定であり、いまのところ「外気」について確実に言えることは、人間その他の生命体に対して何らかの「働き」をなすということだけである以上、むしろこれら互いに類似した効果や働きを、とりあえず「気」という言葉でくくったうえで、様々に比較検討しながらその実体に迫っていくことこそ必要なのだろう。だとすれば「信仰治療師」や「患者」の手が水を通してなした働きも、気功師のなした働きと類似しており、しかも両者を区別する理由が他に見つからぬ以上、それらをともに「気」という言葉でくくっても、さほどの不都合はないだろう。

 大切なことは、「信仰治療師」の手で握られたびんの水は植物を早く生長させる何らかの力をもったという事実であり、また、精神的に健康でない「患者たち」が手で触れた植物はその生長を遅らせたという事実である。これらの事実を、「気」の放射で大腸捍菌を死滅させたり増殖させたりしたという事実と重ね合わせるとき何がいえるだろうか。

 一つは「気」に質的な差があり、その差が一方では生命体の成長を促し、他方ではそれを遅らせ、時には死滅させることさえあるという事実の確認である。さらには、そうした質の差は人間の意識のあり方に密接に関係することの別の角度からの確認である。別の角度からというのは、「気」の質の差が一人の人間の意識的なコントロールによってばかりでなく、個々の人間の、自分ではコントロールできないそれぞれの精神の状態によっても全く違ってしまうこともあるらしい、ということである。「気」の質は「精神」の質と密接に関係しているかも知れないのである。つまり、「気高い」心の持主から発せられる「気」は、それだけ高いレベルの「気」であるといえるかも知れないないのである。

00/4/30 追加


5.様々なレベルの「気」

 筆者自身が、「気」の質やレベルという問題に興味をもつようになったのは、医療気功で活躍するある気功師が主催する医療気功師養成のための講座(一週間合宿制)に参加したのがきっかけである。その気功師の放射する「気」を受けていると、多くの場合その「気」の波動に促されるようにして自然にからだが動き始める。いわゆる「自発功」である。その動きは、その人の病気を癒すためにもっとも適したものかもしれず、あるいはその人の心身の「しこり」を解くためにもっとも必要な動きなのかもしれない。個々の人によってかなりの差はあったが、合宿の3日目、4日目と経過するにしたがって次第に動きは大きくなり、さまざまな形で出るようになった。ときには激しい嗚咽や叫びを伴うこともあった。

 たとえば合宿4日目の夜、一番大きな動きを見せたのは20代前半のある男性だった。彼は横になったまま文字どおりのたうちまわった。バネが弾けるかのようにドタンバタンと音をたてて飛び跳ねた。その動きは翌日の昼のセッションまで続き、夜のセッションになると不思議と静まっていった。

 また20代後半とおぼしきある女性は、合宿4日目の夕方、かなり目立つ動きを見せた。私自身の動きが止まり、目をあけて周囲を見まわすと、緑色のスポーツウェアを着たその女性は仰向けになったまま、何かを求めるように苦しそうに手を前にかざしていた。額に汗をにじませ、「苦しい、苦しい」と叫びながら、もがくように手をさしのべる。その講座を主催する気功師が来て、前から後ろから気を送る。彼女は目を閉じたまま空(くう)をまさぐるようにして「何か青いものが見える、青い光が見える」と叫ぶ。一時落ち着いたが、しかし再び「ああ、手がしびれる」とおびえたような声をあげ、苦しそうに、救いを求めるかのようにその気功師にしがみつく。そのうち、苦しそうな表情も消え、何かが去ったかのように落ち着いたのである。

 おそらくこうしたプロセスを通して彼女自身のなかの何ものかが「浄化」されていったのだろう。その次のセッション(4日目夜)から彼女の動きはすっかり穏やかでやわらかいものになっていった。しかもその夜、彼女の手から気が出始めたのを周囲の人々が確認したのだ。程度の差はあれ、似たような光景はあちこちで見られた。仰向けになって激しく泣き続ける人。畳に自分の手を強く打ち続ける人。中腰になって踊るように両手を動かし続ける人。そんななかを気功師は忙しく動き回り、気を送り続けたのである。そして、この4日目あたりから多くの参加者が、手に何かピリピリするものを感じたり、手のひらが赤まだらになっているのを発見したりした。手から気が出ている感覚をつかみ始めたのである。

 この合宿全体を通して筆者がもっとも強烈な印象を受けたのは、そこで幾つかのレベルでの「浄化」がいっきに進行していくということであった。幾つかのレベルとは、第一に身体的レベル、次に精神的レベル、そして最後におそらくは霊的レベルでの浄化である。たとえば、かつて結核を患ったひとが、一時的に咳きこみ、それによって、からだに残存する「しこり」がとれたとすれば、それは身体的レベルの浄化であろう。オーストラリアから来たある女性は、試みにこの気功師の気功を受けたとき、こどもの頃の感情が次々に出て来たという。それは精神的レベルでの浄化であろう。しかし実際には、これらのレベルが混然となって浄化が進行するのかもしれない。彼は、こともなげな表情でそれを行う。この気功師の気を受け、揺れたり泣いたりしながら浄化されていく人々を見て、彼が、身体的・精神的・霊的という全てのレベルでの強烈なるセラピストであるという印象を強くした。そして、この合宿でこの気功師がもっとも力を入れるのが霊的なレベルでの浄化なのだ。

 「気」と霊的な問題とのかかわりについては稿を改めて論じるつもりだが、ともあれ筆者は、こうした様々なレベルでの「浄化」をなし得る、そういうレベルの「気」を発する気功師もまた存在するのだということを実感し、体感したのだ。

00/5/5 追加

 



 個々の気功師たち自身は、「気」の質の差という問題をどのように自覚しているのだろうか。たとえば秦渝生(しんゆせい)という中国人気功師は、実際の治療の場面では相手によって「波長」を変えて、その人にあった「気」を出さないと治療効果は上がらないという。テレビのチャンネルを変えるように七チャンネルくらいに「気」の性質を変えて治療しているようだ。
 また、西洋医学の医者であり、気功による治療も行う西山宗之氏は、この秦渝生に指導を受けたのがきっかけで、硬い「気」、柔らかい「気」、中間の「気」と三つのチャンネルにわけて「気」を発し、治療することができるようになったという。(西山宗之『絵で読む最新気功法』光文社)

 「硬気功(武術気功)の気功師の前に立つと、少し敏感な人なら、その全身から何か冴え冴えとた鋭い気を感知するだろう」と、軟気功(医療気功)との質の違いを指摘するのは、医療分野や気功等をテーマとして活躍する、あるノンフィクション作家である。(旭丘光志『医療気功の衝撃』さわやか出版社) 実をいうと、硬気功と軟気功の「気」の質の違いについては、ある程度科学的な測定によっても確かめることができるようだ。

 気功師が気功を行ったり、「外気」を発したりしているところをサーモ・グラフィーで測定すると体表面温度が変化することが確認されている。多くの気功師の場合、体表面温度が上がり、しかも、手なら労宮、合谷などのツボの部分から徐々に温度上昇が広がっていく。

 しかし一方には「気」を発しているときに体表面温度が下がるタイプの気功師もかなりいるようだ。中には一人で「上がる」タイプ・「下がる」タイプと両方の「気」を発することのできる気功師もいるという。そして一般的には、医療気功は「上がる」タイプ、武術気功は「下がる」タイプが多いらしいのである。(もちろん、これには例外もあり、たとえば前節で触れた気功師は医療気功師だが「下がる」タイプに属する。)

 さらに、気功師たちによって放射される遠赤外線には、ある独特の振動波形があるという。しかもこの振動波形には気功師によって微妙な、あるいは歴然とした違いがあって、たとえば医療気功の気功師の振動波形は「穏やかな正弦波形」を描き、一方武術気功の気功師の場合は、「スパイク状の鋭い波形」になることが多いという。この点は、まだ充分なデータをもって指摘できるまでにはなっていないようだが、しかし武術気功と医療気功のあいだに何らかの質的な差異があることは確かだろう。

 また、気功師一人一人が、遠赤外線の振動波形においてそれぞれ相違しており、さらに同一の気功師においても、その健康状態や精神状態によって違った波形が出るという。こうした波形の違いが「気」の質の違いに何かしらかかわりを持つのはおそらく確かだろう。ただし、それがどうようなかかわりなのか、断定的なことは今とのところ何もいえない。(町好雄『「気」を科学する』東京電機大学出版部)

00/5/21追加 


   7.エネルギーと波動情報

 ところで遠赤外線は、気功師だけではなく「気」を出せない普通の人の手からも放射されている。すべての物質は、絶対零度(マイナス273度)でないかぎり、その温度に対応した強さの赤外線を放射しているからだ。ところが普通の人の手から放射される遠赤外線は、気功師のそれと違って振動波形は見られず、なだらかな一本の線のようになっていて、出力はほぼ一定しているという。

 熟練した気功師の手から放射される遠赤外線には普通人にはない波形があるが、東京電機大学の町教授はそれをAMラジオの振幅変調に比している。AMラジオの場合、音声電流の波形の変化を、高い周波数の電磁波の振幅の変化に変調させることで音の情報(=シグナル)を放送局から送り出している。これが振幅変調(=AM)と呼ばれるものだが、気功師が放射する遠赤外線にもちょうどこの振幅変調とおなじ仕方で何らかの情報が乗っているというのだ。事実、気功師が手の動きを止めた状態であっても「気」を放射し始めると、それまで平坦であった出力が変動しはじめ、およそ1秒に1回ぐらいのゆるやかな周期で規則的に振動する波形となったという。高周波である遠赤外線が、ゆるやかな周期(1ヘルツ前後)のシグナルの波形で変調されて振動している、つまり遠赤外線にシグナルが乗っていると考えられるのだ。(同上)

 いっぽう、気功師が「気」を発しているときの遠赤外線のエネルギー量はごく微弱なもので、500ワットの赤外線ストーブの一千万分の一のエネルギーに過ぎないという。 つまり、普通の人と気功師との間に出力の差が多少はあったとしても、放射されるエネルギーとしては五十歩百歩で、このエネルギーでは少し離れた相手を「気」で直接暖めると考えるのはとても難しいというのだ。(この点、前号で触れたような、一部の気功師が示す驚くべき電磁気的な現象から推察される「外気」のエネルギー量とはうまく整合しないが、今はこの問題には触れない。) 

 そこで「外気」を一種の「情報=シグナル」としてとらえる説が登場する。たとえば、気功師の放射する遠赤外線の独特の波形に、もし生命活動を活性化する情報がふくまれていれば、それが引金となって、「気」を受ける側に隠されていた生命力や自然治癒力が働き出すという説である。この説は中国でも主張され、町教授も、自らの実験データに基づいて同様の説を主張している。つまり、「気」の働きの本質は、そのエネルギーとしての側面にあるのではなく、その波動に含まれた「情報=シグナル」の側面にあるらしいというのだ。

 この「情報=シグナル」伝達説は、「外気」を人間相互の作用にかぎって説明する場合にはある説得力をもつが、その範囲を超える場合には充分な説得力があるは言い切れない。たとえば町教授の説では、「気功師から送られてくるエネルギーは微々たるもので、気を受けた人がその微々たるエネルギーで直接体表面温度が上昇したり体を動かされるとは考えにくく、シグナルがいったん脳に伝わり、脳の中で情報処理されて自律神経に作用し、本人の意志に関係なく体表面温度が変化するのではないかと考えられ」るという。この説は、同じ町教授や、日本医科大学の故・品川嘉也教授による脳波の研究によっても間接的に補強される。その研究によれば、気功師が気を集中するとその脳波が変化し、受け手にもそれと全く同じ変化が現れる、すなわち気功師と受け手の脳波が「同調する」というのだ。

 しかし、シグナルが脳を中継して伝わるというのなら、脳のような高度な情報処理機能をもたない植物や微生物の場合はどう説明すべきか。ある種の波動による生体相互の直接的な同調作用が「気」なのか。さらに「気」が物質に作用する場合にはどう考えるべきか。たとえば「外気」による電気伝導率の変化は、何らかのエネルギーの直接的な介在を考えずに、どのように説明できるのか。もし水の電気伝導率の変化や「気功水」の生体への効果をも波動情報で説明しようとするなら、水が波動情報を記憶する(たとえば遠赤外線や超低周波の振動波形を記憶する)未知のメカニズムを仮定するか、あるいは既存の科学では捉えきれない「未知のエネルギー」を仮定するほかないだろう。

 また、多くの気功を愛する人々が、毎日の気功実践のなかで自分の手から手へ、あるいは体内を任脈から督脈へ、さらには自分の手から相手の患部へと、確実に伝わっていく「気」の流れを、一つのエネルギーの流れとして感じとっているのも否定しがたい事実だろう。手のひらから放出する「気」は、何らかのエネルギーとして確実にそして直接に患部に伝わり、熱感や風圧に似た感じや何かが通り抜ける感じを受け手に与えているのだ。これも「気」を実践するものが日常的に知っている経験的な事実だろう。

 結局、「気」の働きの本質を「情報=シグナル」の伝達作用にみる説だけでは「気」という現象のすべてをうまく説明することができない。「気」の働きの本質を既知のエネルギーとして把握する場合でも、波動に乗った情報として解釈する場合でも、そのいずれによっても結局「気」の全貌は捉え切れないのだ。

 とすれば「気」を既知のエネルギーで説明しようとせずに、従来の科学にとっては未知の、ある種の「生命エネルギー」として捉え、既存の知の枠組に囚われない開かれた態度でこの現象に接していくべきではないのか。そして、たとえば遠赤外線なり超低周波の音波なり磁場なりの、ある種の振動波形が、「気」という未知の「生命エネルギー」を呼び寄せたり、引き込んだりする「媒体」として機能していると仮定してみたらどうか。この場合「生命エネルギー」とは、生命体が生みだすエネルギーという意味ではなく、「ある種の生命にも似た全体性、有機体的な統一性を持ったエネルギー」という意味で捉えるべきである。そしてさらに、個々の振動波形の違いによって、呼応し引き寄せられる「気」の質もまた違ってくると仮定してみたらどうか。 

 以上のような「仮説」は、既存の自然科学の枠組から見れば何を説明したことにもならないかも知れない。しかし、こうした「未知のエネルギー」を一つの解釈の可能性として認める開かれた態度を保持しないかぎり、「気」という膨大な広がりをもった現象の全貌は見えてこないのではないか。

00/5/27追加 


8.終わりに

 さて、これまでに話は「電気感受性人間」と気功師とが引き起こすさまざまな現象の比較(前号)から始まって、「気」の質やレベルの問題、その波動性の問題にまでいたった。こうした話題を論ずるにあたって筆者は、かなりおおざっぱな予測あるいは仮説を自分なりに前提としていた。その仮説とはどのようなものか、これまでの話を振り返りながら語ってみよう。

 「電気感受性人間」と気功師とが引き起こすさまざまな現象のあいだには無視できないほど類似した面があると同時に、根本的に相違すると思われる面もあった。この二面性はどこから来るのだろうか。「電気感受性人間」の場合、彼らが何かしら電気的なエネルギーを発することがあったにしても、そのエネルギーは物理的あるいは無機的なレベルに留まっていて、「生体」とうまくそりが合っていない。それは、たとえば静電気を多量に溜めこんでは不快感に悩まされるといった例にも見られる。

 これに対して気功師が体の内外に巡らすエネルギーには、何かしら質的な違いが見られた。その違いは、「生体」によってうまくコントロールされるという点、「生体」の健康にプラスに作用するという点、また「生体」に快感として感じられるという点などであった。つまりこの未知のエネルギーは、本来「生体」が持っている自己の生命を維持するという働きと一体化して、その目的を満たす方向で働くという側面をもつ。その意味では、単なる物理的なレベルを越えて「有機体的」ともいえる統一的な作用を示すといえそうだ。結局「気」というエネルギーは、一方で電気的・磁気的な現象にかかわりながら、他方で「生体」と一体化して有機体的な全体性をもって作用するという不思議な幅をもった未知の「生命エネルギー」だと把えることができるだろう。

 その場合、電磁気的なな現象と「気」とのかかわりをどう捉えるのか。一つの可能性として、電磁気的な現象のもつある種の振動波形が、「気」という未知の「生命エネルギー」を呼び寄せ、引き込む「媒体」として機能しているのではないかという解釈も示された。

 いずれにせよ、実際に私達が「気」を「気」として実感するのは、「有機体的な統一性をもって作用する生命エネルギー」という側面においてであろう。気功を日々実践するものは、練功中に「気」が内気として心地よく体内を巡るのを実感し、また外気治療ができるようになれば、自分の意識のもち方次第で「気」が手のひらから患者に流れていくのを実感する。「気」が実体として感じとられるのは、このように個々の「生命」に即した「統一的な生命エネルギー」としてである。にもかからわずそれは科学的な測定によって検出される要素をもち、また不思議なサイ現象にもかかわりをもつ。

 そこで筆者の予測あるいは仮説とはこうだ。

 「気」という膨大な広がりをもった現象は、その物質的な最基底層においては、電気的・磁気的な現象を包み込んでいる。その場合、何らかの波動性が、「気」と電磁気的な現象とを結び付けるうえで重要な働きをなしている。  こうして「気」は、電気的・磁気的な部分と密接にかかわり、それを包み込みながら、さらに有機体的な統一性をもった「生命エネルギー」のレベルに及んでいる。それは既存の科学にとっては未知のエネルギーであり、エネルギーであると同時に、何らかの波動情報によって機能するという二重性をもつ。

 こうした二重性を保ちながら、次第に「気」はその情報性の側面を強めて、最終的には精神的とか霊的とかいうほかないレベルにまで連なっている。

 文字どおりに「もの」から「こころ」までの広がりを持っているのが「気」なのだ。しかも、「気」において物質的な働きと心的な働きは不可分に結びついていて、「気」のもっとも物質的な働きすらも何かしら心的な次元を考慮に入れないかぎりうまく説明できない。

 こうした捉えかたはもちろんひとつの仮説に過ぎないし、近代科学の枠組のなかでは決して容認できない仮説だろう。しかし、「もの」のレベルから「こころ」のレベルに至る次元が密接にからみあい、つねに重層的に機能しているのが「気」だという仮説に立って迫っていかないかぎり、「気」という膨大な現象の全体像はけっして見えてこないだろう。こうした仮説を前提としたうえで、「気」にまつわる様々な現象を出来るかぎり広い視野に立って整理していくことが筆者の今後の課題である。

00/6/5 追加

完結


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