なぜ臨死体験に関心をもったのか?
 
頭文字Sさん

 本サイトの掲示板「談話室」に書き込みをして下さる一人に頭文字Sさんという方がいます。頭文字Sさんは、臨死体験への関心が非常に深く、臨死体験関係の本を多く読んでいます。肯定的な立場からの研究だけでなく、懐疑的な立場からの研究にも幅広い関心をもち、私もさまざまな情報をいただいたりしてきました。臨死体験という研究分野にきわめて感度のよいアンテナを張り、さまざまな情報をキャッチされて研究している姿勢に感銘を受けました。

  あるとき掲示板に「なぜ頭文字Sさんは、臨死体験にそのように深い関心をお持ちなのですか。よかったら差しつ障りのない程度でお教えください。」とお願いしたところ、2003年の2月、4回にわたって掲示板にご返事いただいた内容が以下のものです。

 そこには、頭文字Sさんが臨死体験に関心を抱くに至る精神遍歴が、非常に正直に語られており、心を打つものがありました。切実な気持ちで読書をされてきたことが、強く伝わり 感銘を受けました。 求める気持ちが真剣だったからこそ、逆に懐疑的な精神からの徹底した追求も必要だったのだと思います。 私も含め世の多くの人間はこのように真剣に問わないから 懐疑的な精神できちんと批判的に吟味するという必要も感じない、 そして安易にあるいは漠然と信じている、これが現実かも知れません。 そんな意味でも学ぶべきことがたくさんある、と感じました。

  以下は、掲示板での連載が終わった直後に掲示板に書いた私の感想です。

「頭文字Sさん、4回にわたる書き込みありがとうございました。 毎回、胸を打たれる思いで読ませていただきました。 いちばん心打たれるのは、頭文字Sさんが、これまでの苦しい 経験を通して、生きる意味へのっぴきならない問いかけへの答えを求めて、真剣に読書しているということです。 「ここに書いてあることは本当なのか」 という真剣な問いの眼を通して本が読まれる。 自分のこの苦しい人生の意味、本当にその答えと言えるのか、 とこれほど真摯にぎりぎり問いながら読書する人は、 それほど多くはないと思います。 そこが人に感動を与えるのだと思います。」

 みなさんは、どう感じられるでしょうか。ぜひお読みください。


 わたしがなぜ臨死体験に関心を抱くようになったか。それは一言や二言では話せません。3年ほど前にさかのぼってからお話ししたいと思います。

  この頃、ある会社に入社しました。面接の時にはその翌日に速達で結果がくるぐらいで、少なくともその時にはかなり好印象を持たれていたのだと思います。ところがいざ入社してみるといろいろ折り合い悪く、すっかり精神的にまいってしまいました。そして鬱にかかってしまったのです。  
  ただでさえ、おっちょこちょいで失敗の多いわたしです。鬱の状態では仕事もうまくいくはずありません。そしてさらに鬱が悪化するという悪循環に陥りました。自分でもこれは会社を辞めた方がいいと思いました。ところが退社は思わぬ形で行われることになったのです。  
  ボーナスが出て、そろそろ自分でもやめようと思っていたときでした。チンピラまがいの理由で上司に暴力を振るわれたのです。この暴力事件に関する会社の対応もひどいもので、いま思いだしても腹が立ちます。
  最悪の辞め方のため、鬱はますます悪化しました。  

  この後しばらくは、本当にやることなすこと裏目に出ました。いまでも、このときのことは思い出したくありません。不安定な精神状態のため信頼を失い、多くの人間関係も壊してしまいました。この時期、実に多くのものを失いました。
   同時期、家庭でもトラブルが発生しています。伯父と祖母とのトラブルの巻き添えを食ったあげく両親は別居し、父は祖母を預かることになりました。
   鬱という傷口に、不運は実によくしみます。そしてますます鬱は悪化してゆく。悪化した鬱にまた不運が障る悪循環です。親に向かって「早く首でも絞めて楽にしてくれ!」と詰め寄ったこともあります。虚しく切なく、夜も眠れなかったことも少なくありません。
   実は父は心臓も患っており、お人好しの父の不幸を思うとつくずく世の不条理と感じました。生きる喜びも価値も完全に喪失し、負の死生観ばかりがわたしを捉え、苦しませました。
   生の虚しさと死の影。死の影はわたしを恐怖に陥れました。自分が死ぬのが怖い。自分の愛するものが死ぬのが怖い。だがいつか死なねばならない。自分も、他人も!  

  どうせ死ぬのなら、生まれてくる意味もない。自分だけじゃない、この世の全員がそうじゃないか!
  出産が“おめでた”? ふざけるな。どうせ死なねばならない命を生み出しておいて、何がおめでただ! 愛の結晶? 老後が寂しい? エゴで命という虚しいものを生み出すのか!?
   死ねばすべてが終わりならば、結局他人をどれだけ犠牲にしても私腹を肥やした人間が人生の勝利者なのか?

   生きる喜びも価値も完全に喪失し、途方もない虚しさと悲しさを感じていました。

   それでもしばらく何もせずにいたおかげか、少しずつ心は落ち着いてきました。そうなると就職先を見つけなければなりません。しかしいままで定着できる会社がなかったこともあり、専門学校で勉強し直すことを薦められました。たしかにわたしは要領の良さや口先の巧さもなく、技術や専門知識もありません。年老いた祖母を預かるようになったことやもあり、福祉専門学校を選びました。ところがこの学校がまた、とんでもないでたらめな学校だったのです。

  またか……絶望的な気持ちがしました。
  心機一転頑張ろうと思っていたところをくじかれたのはもちろんです。しかもわたしは学校というものに運がなく、高校以降はそれこそ自動車学校や通信学校に至るまでことごとく、大ハズレばかりでした。
   何でこんなに俺は学校に運がないんだ……。またしても鬱に沈みました。  
  再びむなしい思索の日々。学校選択以外にも、自分の過去犯してきた失敗や不運ばかりが脳裏をよぎり、つくづく自己嫌悪に陥り、この世のあらゆる物事を空虚に、虚無的に考えていました。  

  どういうキーワードで何を求めて検索していたのかは定かではないのですが、飯田史彦氏の論文『「生きがい」の夜明け』をインターネット上で見つけたのが転機でした。そしてこの論文をふくらませた『生きがいの創造』を購入します。 
   『生きがいの創造』には癒しがありました。夢中になって読み、読み終えた時には永遠の闇かと思われた心の暗黒に薄ぼんやりと曙光が差していました。

   実際には、この本は(著者自身ものちに「反省している」と述べているように)批判精神に欠ける人をミスリードする危険な本です。恣意的引用のコラージュばかりで成り立っており(このサイトの「ニューエイジ対話集」でもパラトラパ雅さんが「私の著書をかなり曲解して彼の自著で引用されている」と言っておられましたね)しかも教示的、信憑性のほとんどない退行催眠による事例ばかりを引いているのも疑問です。  
  とはいえ、飯田氏のほかの著書はいまでも結構好きですし、評価しています。

   『生きがいの創造』読んでかなり気持ちが楽になったとはいえ、すぐにそのあまりにも出来すぎた話に対する不安が生じました。しかしそれは、上述した本の内容や書き方に付いてではありません。むしろ紹介されている事例そのものに対してです。
  つらい現実や死の恐怖から逃れるための共同幻想に過ぎないのではないか?  
  信じたい気持ちと信じられない気持ちの相克、知的誠実さと「思考停止した方が楽になれる」という誘惑の二律相反はいまも続いています。肯定と否定の間で揺れ動き、どちら側に振れた時もその立場を批判する自分がいます。

   このあと、飯田史彦氏の著書と、彼による翻訳書を数冊読みました。まず彼の本を読んだというのはどうしてなのでしょう……まず、心の平安が得たかったのかもしれません。

  「今生での困難や不幸は、すべて自分自身が与えた試練」
  「障害者をはじめとするハンディキャップを持った人たちは、自らに大きな困難を課した立派な人」

   飯田氏の本、飯田氏の監修した本に一貫して出てくる主張はとても魅力的でした。
   絶望の淵に沈んでいた時、自分の人生を振り返って、不運と失敗と迷惑と孤独ばかりで作られた価値のない人生だと思っていたからです。  

  わたしは人生の大事な局面では、ことごとく間違った選択をしていました。特に高校以降は、悔いしかありません。先に述べた学校運もそのひとつです。

   もめ事があると、いつも一方的にわたしだけが悪者にされました。  
  大学以降はほとんど友達も出来ず、つまらない学校生活を送りました。  
  数少ない友人・知人にも次々につまらない事でもめ、ときには裏切られました。  
  知り合った人には出来るだけ親切にしましたが、皆、口先ばかりで恩を返さないまま去ってゆきました。
  自分が心を入れ頑張ってやろうと思ったことはことごとく執拗な妨害にあい中断、結局どれも頓挫させられました。
  大学を卒業してからいくつもの会社に就職しましたが一番持ったのが10ヶ月という体たらくで、しかも相当に悪質な会社が多数含まれていました。

   しかし気持ちが落ち着いてくると同時に、疑念も同時に大きくなって行きました。否、それは知的好奇心だったのかもしれませんし、もしくはその両方だったのかもしれません。

  飯田氏の参考文献になっている本、それ以外の生まれ変わり関係の本、催眠の本を中心に猛烈な勢いで調べ始めました。このときは否定的・懐疑的な本を中心に読んでいます。  
  これは恣意性のある飯田氏の本とバランスを取るためでもあり、知的誠実さを持ちたいという気持ちがわたしのなかの唯物主義者と手を組んだためでもありました。  

  このとき、もちろんインターネットも駆使して調査を行っています。このサイト「臨死体験・気功・瞑想」を知ったのはこのときです。

   まず最初に「臨死体験の世界を探求」だけを何度も読みました。
   この時点では真実を知りたい気持ちが強く、第2章〜第5章を特に重点的に読んでいます。現実体験の可能性をひとつひとつ潰していくブラックモアと、セイボムの著書を実際に当たりつつその論法の穴を指摘するNoboruさんとのつばぜり合いは実にスリリングで何度読んでも引き込まれます。

   すでに「鬱はかなり落ち着いた」と書きました。それでも時々揺り返しが来ました。
   いつかは死を迎えなくてはいけない生の虚しさ、自分の人生の無意味さと自分自身の無価値さが、そのたびにわたしを責め、さいなみました。  

  どうすれば虚しくない生を生きられるか?
  どうやればわたしは生きる価値を得られるのか?  

  そんなときに読むと、臨死体験者の変容が実に興味深く思えました。もしかしたらわたし自身が変われる、そのカギが見つかるかもしれないと思ったのです。  

  ほとんどの体験者がよい方向に変わっている――物質面より精神面を重んじ、愛に溢れ、充実した生を生き、そして死を恐れない。  

  人間は何をすれば変われるのか?
  どのように変われば、自分にとっても他人にとってもよい人生を送れるのか?
  悟り、霊性、心の成長を得たい! その鍵を知りたい!

  「臨死体験は体験者だけではなく、それを研究するものにも同様の効果を及ぼす」と言ったのはケネス・リングだったでしょうか。たしかに少しではあるものの、そういう効果を受けたような気がします。

  ですがまだまだです、まだまだ……。  
  Noboruさんがヨガや気功に共通点を見出しているのを参考に、自分でいろいろ調べました。わたしが選択したのはレイキです。現在セカンドですが、早くサードも学びたいしほかの先生のところにも勉強に行きたい(今の先生に不満があるわけではないですよ)。レイキはほかのヒーリングなどとも相性がよいらしいのでそれらも学びたい。

   そして、実はもう一つ理由があります。
   実はわたしは中学ぐらいまでは超能力や超常現象・オカルトの話が好きでした。高校に入ったあたりから興味が自然消滅しましたが、焼けぼっくいに火がつきました。
   何しろ臨死体験はさまざまなジャンルにわたる超常現象に関連しています。死後生存、輪廻転生、体外離脱、PK・ESP、UFO、そして研究者は医学者、心理学者、宗教学者、哲学者と多岐にわたっています。にもかかわらず(以前にも述べましたように)超常現象全般の研究者や超心理学者、懐疑主義者の間では臨死体験への関心は高くないようで、わたしとしては不思議でなりません。  

  以上のような話でよかったでしょうか。お恥ずかしい話をしてしまいました。  
  わたしの能力では思ったところをうまく表現できず歯がゆい思いです。それでもいくらかわたしの意をくんでいただければ幸いに思います。 (終わり)

 


 03/3/16追加

 


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