◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界を探求する

『臨死体験・いのちと悟り』(臨死体験研究読本)

第1章:臨死体験の不思議

 


1 鈴木秀子氏の「臨死体験」覚醒・至高体験事例集:鈴木秀子氏に要点を掲載

2 ムーディーからリング、セイボムへ (入門的な紹介なので省略)



3 「光」との出会いと「悟り」体験

◆さまざまな謎◆
 さて臨死体験については、ムーディーやキュブラー=ロスの研究をきっかけにして、これまで二十数年にわたって主としてアメリカを中心に膨大な事例が集められ、研究がつみ重ねられてきた。それらの研究成果を鈴木秀子氏の「臨死体験」と照らし合わせながら考えて見ると、いくつかの興味深い論点をあげることができる。それをまとめると、つぎのようになる。

1、臨死体験後の生理的な変化
 臨死体験者は、生理的あるいは精神的に様々は変容を遂げていることが多いことがこれまでの研究で明らかになっている。それを臨死体験の「事後効果」という。なかには鈴木氏の膠原病の治癒の例のように、体験後に本人の病気がすっかり治癒してしまうような事後効果も報告されている。こうした事後効果をどう理解するか。

2、臨死体験とヒーリング能力
 同じく事後効果の一種として、これも鈴木氏の例のように体験後に強力なヒーリング能力(癒しの力)やESP能力(超能力)が身についてしまうという例もかなり報告され、研究されている。この問題をどうとらえるか。

 3、日本人の臨死体験に「光」との出会いは少ないのか。もし、そうだとすればそれはなぜか。
 鈴木氏の「臨死体験」は、きわめて印象的な「命そのものの光との出会い」が核になっている。アメリカの臨死体験の報告にも同じような「光の生命」、「崇高な光」との出会いを報告する例がひじょうに多い。しかし、一般に日本人の臨死体験では、「光」との出会いの事例それほど多くないとも言われる。それは事実なのか。もし事実だとしたら、あるいはそのうような可能性が少しでもあるのだとしら、臨死体験での「光」の問題をどう理解すべきなのか。

4、瀕死の状態でなくとも、いわゆる「臨死体験」は起こるのか。
 臨死体験とは、ふつう医者に臨床的に死と判定されたり、瀕死の状態や死の直前の状況に追い込まれときに体験したり、見たりした内容をいうが、鈴木氏の場合は瀕死の状態までいったという確証はない。そこまで行かない場合でも、あるいはまったく死に瀕していない状態でも、いわゆる「臨死体験」は起こることがあるのか。もっと正確に言えば、臨死体験と同質の体験が起こると考えてよいのか。

  そして最後に、
5、臨死体験と「悟り」体験の比較
 臨死体験をした人は、その体験後に人生観や価値観がプラスの方向に変わってしまうなど、さまざまな意識変化が起こることが多いという。臨死体験の研究でもっとも注目されるべき事後効果のひとつである。鈴木氏の場合のような強烈な意識変化(「悟り」)が体験されることもある。そこで、臨死体験の事後効果としての「悟り」体験と、心理学上の自己超越体験、宗教的な「悟り」体験とを比較しつつ、臨死体験後の意識変化が何を意味するのかを考えてみる必要が生まれる。

 この最後の問題、「臨死体験の事後効果としての意識変容と宗教的な『悟り』体験とはどのように類似し、関係するのか」が、本書で追求しようとするテーマの中心になる。以下のいくつかの章は、このテーマをめぐって展開されることになる。

 しかしその前にまず、上にあげた五つがどのような問題であるのかを、それぞれ簡単に触れておきたい。最初の二つの問題、1「臨死体験後の生理的な変化」および2「臨死体験とヒーリング能力」は、本書のテーマとなる体験者の意識変容の問題とは関係がうすいと思われるかも知れない。しかし、臨死体験者の心理的な変化が、その生理的な変化とまったく無関係だと断定することはできない。両者には何かしら深いつながりが隠されている可能性もある。
  次に3「光との出会い」、4「臨床的な死を前提にしない『臨死体験』の可能性」については、本書のテーマの中心である、5「臨死体験と悟り体験」という問題と特に深くからみあって、いろいろな問題を含んでいる。そこで、相互にどんな関係があるのか、そこにどんな問題が含まれるのか、この章でやや詳しく見た上で、次章以下に進みたいと思う。

◆生理的な変化とヒーリング能力の目覚め◆
                   → 三者の関係にせまる:臨死体験者と気エネルギーに掲載

 

◆光との出会い◆

 話を鈴木秀子氏の「臨死体験」にもどそう。彼女の体験で何よりも圧倒されるのは、白っぽい金色に輝く「命そのものの光」との出会いと交流の話である。

  それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流して いる生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていま した。‥‥‥この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受 けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている。‥‥‥しかもその満たされた光の世 界には、時がないのです。あっ、これが永遠なんだと私は思いました。  

 私自身は、これまでに臨死体験をしたことはない。まして「命そのものの光」に出会ったこともない。しかし、この体験を読んだだけでも、深く魂を揺すぶられ、心が洗われるような思いがする。もし自分が死に臨んだときこのようなまばゆい輝きに満ちた光に出会い、それが深い部分で自分とつながっていると感じるのだとしたら、しかもその光に「すべてを知りつくされ、受けいれられ、完全に愛しぬかれている」ことを感じとるのだとしたら、人が生き、死ぬということはどういうことなのか。 ムーディーは、『かいまみた死後の世界』のなかで、50ほどの臨死体験の事例を詳しく検討したが、その事例のなかのかなり多くが「光の生命」に出会ったという報告をしているようだ。ムーディーは、それらの報告の共通点を次のようにまとめている。   

  ‥‥この光が生命であること、光の生命であることに、多少なりとも疑いを抱く人 はひとりもいない。この光は単に人格を備えた生命であるばかりでなく、極めて明確 な個性を持っている。死へ接近している人に対してこの生命から発散される愛と恩情 は、ことばで到底説明しきれないものであり、彼らはこの光の生命に完全に包みこま れ、保護されていると感じとり、すっかりくつろぎ、この生命の存在を受け入れる。 彼らは、この光に抗し難い磁力を感じ、吸い寄せられるように引きつけられる。80  

  リングも、自分の集めた多くのデータにもとづいて「光との出会い」という中核になる体験の特徴をまとめている。それはすでに「はじめに」で紹介したものが、ムーディーよるものと本質的な違いはないといえるほど似ていた。 それらの描写が、鈴木氏の体験内容とその本質的な部分においてぴったりと重なることに驚かされる。「光との出会い」が、このように深い共通性をもって多くの人々に体験され、しかもその後の人生に絶大な影響を与えているのだとしら、この体験を私たちはどう理解すればよいのだろうか。少なくともそれを単なる幻覚や妄想として片付けることはできないのではないか。

 しかし一方、この「光」体験をどう理解するかについて非常に大きな問題があるのも事実だ。リングやセイボムによるアメリカでのこれまでの研究では、臨死体験の他の要素と並んで「光」体験もまた、性別、年齢、人種、居住地、学歴、職業、宗教等の個人的背景や、病気か、事故かといった死に方の違いによっても差が見られない、普遍性の高い中核的な要素であることを明らかにした。いや正確に言えば、したかに見えた。なぜならば、彼らが集めた事例は、ある程度の人種的なバリエーションはあっても、彼らはみなアメリカ文化の中で育った者の体験に限られていたからである。個々人が背負っている文化の違いによって臨死体験の体験内容に差があるかどうかは、確かめられていないのだ。 事実、日本人の臨死体験において「光」体験が報告される例は、アメリカ人のデータに比べてかなり少ないという指摘もある。ただし今のところ、日本人の臨死体験について、リングやセイボムの研究に匹敵するような統計的な分析はないので確定的なことは言えない。しかし、もし日本人の場合に「光」を体験する率が低いとすれば、それは何を意味するのか。 

 また、人格性をもった「光」との出会いは欧米人の臨死体験に典型的に見られる現象で、日本人にはまれなパターンだともいわれる。そこから、「臨死体験の内容は文化的背景によって違いがあり、だから脳内で作り出された幻影にすぎない」という説も出てくる。

◆「光」をめぐる不思議◆

 しかし、多少とも超自然的な「光」そのものの体験は文化を超えて報告されており、しかも「光」に出会ったことがさまざまな生理的・心理的な事後変化にむすびつくという研究もある。医者であり、小児科学助教授でもあるメルヴィン・モースは、臨死体験が体験者に及ぼす多様な変容効果について、かなり大規模な研究を行った。合計350名への面接調査で収集したデータを分析した結果、「もっとも大きな変化を遂げているのは、光を体験した人々であること」、「光の経験が深ければ深いほど、変化の程度もはなはだしい」101ことなどが明らかになったと言う。さらに「光の体験は臨死体験中もっとも重要な出来事であり、これを体験すると必ず変容が生ずる」ことがわかり、「臨死体験、なかでも神秘的な光に遭遇した体験は、生涯にわたってその人の生き方を変化させる」178とも言う。彼は、臨死体験中の光との遭遇の意味をきわめて重視し、「臨死体験の本質は、愛に満ちた白い光にある」とさえ言う。

 鈴木秀子氏の体験を読んでも、「光」体験と彼女の「悟り」が深いところで関係しているという印象を受る。また、宗教的な「悟り」体験においてもしばしば不思議な「光」に出あうことが多い。洋の東西を問わず、これまでに古今の多くの瞑想修行者たちが瞑想・座禅の深まりのなかでさまざまな「光」体験を報告してきたのである。そのいくつかは第8章「『光』・日本人・仏教」で触れたい。第8章ではさらに、大乗仏教の経典が、そうした瞑想修行者たちの「光」体験をひとつの実践的な基盤として生まれたきたのではないかという問題を考える。これはあくまでも私自身の仮説に過ぎないのだが、どうしてそうした仮説を主張するのかは、この章での議論にゆずろう。

 ここでは、次のことを指摘するにとどめたい。つまり、華厳経の中心の仏は毘盧遮那仏(ヴィルシャナ仏)であり、それは「光の仏」を意味しているということ。また浄土経典の中の阿弥陀如来の「阿弥陀」もまた、無量の光ないしは命を意味すること。密教経典の大日如来は、ヴァイローチャナ=ヴィルシャナの意訳によるもので、毘盧遮那仏と同じ「光の仏」なのである。大乗仏教は光の宗教と言っても言い過ぎでないほど、光のイメージに満ち満ちているのだ。

 しかも、そこで語られる「光」は、当然ながら超自然的な意味に満ちており、臨死体験者が「光」から受けとる意味と重なりあう側面をもっている。そんなわけで、もしかしたら「悟り」の体験は、その最も深奥の部分で何らかの「光」と本質的なかかわりをもち、しかもその「光」は臨死体験者が出あう「光」とも深く通じている可能性もあるのだ。だとすれば「光」体験は、臨死体験と「悟り」体験との両方にかかわり、両方を結びつける大切な要素として浮かび上がる。

 ともあれ「光」にまつわる謎は深い。本書のテーマのひとつは、臨死体験と「悟り」体験との両方にかかわるらしい超自然的な「光」とは何かを追求することでもあるのだ。

◆「悟り」体験◆

 さて、あの「光」に包まれる体験をしてから鈴木秀子氏は、「まるで別次元の境地に達したように」すべてが変化してしまったという。彼女が、事故後に静養していたとき体験したことをもう一度思い起こしてみよう。休んでいた部屋の窓から田園風景を見たとき、突然、大きな感動が彼女を貫く。

  稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすベて、 素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、 そうして燃えている―─。   それは閃きに似た強烈な感動でした。大宇宙との一体感を、頭ではなく、からだ全 体で、魂の深みで悟ったような感じでした。

 これは、一種の覚醒体験ではないか。あるいは、心理学の新潮流のひとつであるトランスパーソナル心理学などでいう「自己超越体験」と同じではないか。さらには禅仏教などでいう「悟り」の体験と深く重なり合うのではないか。  しかもこの体験は、彼女が「臨死体験」のなかで味わっていた感覚と深く結びついている。臨死体験のさなか、まばゆい光に包まれた彼女は、「不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたって」おり、「からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされ」、「心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和してい」たという。そして「悟りとはこういうことなのだ」と理解したという。(鈴木1993)

 この「悟りの境地にも似た研ぎ澄まされた感覚」の余韻のなかで、上に確認したような一種の覚醒体験が起こり、彼女の人生は、まるで霧が晴れたかのように「すがすがしく晴れ渡って」しまうのである。 臨死体験の最中およびその後の、こうした一種の「悟り」体験は、「光との出会い」体験と同じようにこれまでの臨死体験の研究によってかなり多く確認されている。一般的にいって臨死体験後の意識変容については、臨死体験の「事後効果」のひとつとして最近とくに注目を集め、臨死研究の中心的なテーマになっている。

 ムーディは、多くの臨死体験者の事例から体験後に起こる意識や生活の変化をいくつかにまとめている。それは次のようなものである。  

(1)死に対する不安が減少すること。  
(2)愛の大切さに気づくこと。  
(3)宇宙に存在する一切のものとつながっているという感じをもつようになること。   
(4)学ぶことの大切さを認識すること。  
(5)自らに生き方に対してこれまで以上に責任を感じるようになること。  
(6)人間の命は短くはかないが尊いものであり、それに対し人間はあまりに莫大な破壊力を手にしてしまったという“危機感”を持つようになること。  
(7)世俗的・物質的な事柄よりも霊的な事柄に関心を持つようになること。

 要するに、愛や思いやりや受容といった霊的・精神的な価値を大切にし、宇宙との一体感を感じながら、これまでよりはるかに充実した生活を送るようになるようだ。このうち(2)愛の大切さ・(3)宇宙との一体感・(4)学ぶことの大切さは、鈴木氏の体験に述べられていることとぴったり重なる。ムーディはこうした研究をもとに、「私はこの二十年間、臨死体験者と深く接触してきたが、体験の結果、非常に根底的なレベルで前向きの変化を遂げなかった者に会ったことはない。」(光り)といい切っている。 臨死体験の解釈として一般的に予想されるのは、「それは結局、死ぬまぎわの人間が、死後への望みをかなえたいあまりに見た幻覚や夢なのではないか(‥‥心理的要因説)、あるいは薬物や、脳の機能障害か精神障害から引き起こされる単なる幻覚に過ぎないのではないか(‥‥薬理的、器質的要因説)」というものだろう。確かに臨死体験者の報告に対して、おおよそこうした方向で現代の科学の立場から様々な解釈が試みられている。

 たとえば心理学の立場からは、人が無意識的に死を避けようとして起こる自我感喪失によるでのはないかという解釈、あるいは暗い産道(トンネル)を抜けてこの世(まばゆい光の世界)へ生まれ出るという出生時の体験が死ぬまぎわに幻覚として再現されるのだという出生モデルによる解釈など。また、薬理学的な原因(ケタミンなどの麻酔剤)による肉体からの分離感覚による体験だという解釈、あるいは大脳生理学の立場からは、臨死状態におちいって心臓が停止すると、脳内の二酸化炭素の濃度が高まり、その結果、幻覚としての「臨死体験」が体験されるという解釈、側頭葉のテンカン発作によるという解釈、エンドルフィンの脳内への放出によるという解釈など、いくつもの解釈が試みられている。しかし、臨死体験のすべてがこれできれいに説明できるという決定的な理論がまだ提出されていないのも確かだ。

 さらに以上のような解釈では説明しにくい現象が少なくとも二つはあると思われる。ひとつは、多くの臨死体験者が物理的肉体から遊離し、上から自分の肉体を見ていたと報告することに関してである。意識をうしなった瀕死の患者として医師の蘇生処置を受けていたときの様子を、医師の動作から会話・服装にいたるまで詳細かつ正確に臨死体験者自身が描写することができるというのである。ときには、蘇生処置を施されている最中の、病院の別の部屋で起こっている出来事さえも正確に描写できるという。この事実を単なる「幻覚」として片付けてしまうことはできない。この点に関しては、セイボムが実証的で説得力に富む研究をおこなっている。第5章「体外離脱は真実か?」のなかでブラックモアの「体外離脱=脳内現象」説と比較しながら詳しく論じたい。

 もうひとつが、本書のテーマである「意識の変化」という現象である。臨死体験者は、なぜプラスの方向への大きな意識変化を起こすことが多いのか。脳の機能障害や精神障害という解釈だけでは、体験後のこのような変化は説明しにくい。まして臨死体験が精神病の一種であるとすれば、その結果として予想されるのは、不幸や失望、うつ状態、絶望ではあっても、前向きの人格上の変化ではあり得ないであろう。  先にも触れたアメリカの研究者アトウォーターは、七〇〇人の臨死体験者へのインタビューをもとに体験者の体験後の変化について次のような数字を出したという。

 臨死体験によって人生に「大きな変化が生じた」人‥‥六〇パーセント  「以前と同じ生活は不可能」なほどに大幅に人生が変化した人‥‥一九パーセント  合計すると約8割もの人の人生と意識を激変させてしまう臨死体験とは、いったい何だろうか。それほど大きく生き方を変えてしまうほど強烈で、プラスの方向への影響力の強い体験を、「幻覚」だの一言で終わりにしてしまってよいのだろうか。それほどに強力な影響力をもった「幻覚」がありうるのだろうか。注)光の彼方へ172  臨死体験の報告の多くは、人々の心を奥底から揺さぶるような不思議な魅力を放っている。もちろん、その理由の一つは、「死後の世界」は存在するのか、しないのかという、人間なら誰でも心の奥底では気にしているはずの問いに対して、「光」との出会いに代表されるような、印象的で具体的なイメージをともなった解答を与えてくれるように見えるからである。

 しかも、臨死体験者の報告の多くは、「あれは単なる幻覚ではなかった」という確信に満ちている。この体験をたんなる「幻覚」に帰そうとする、どのような科学的な解釈も、大脳生理学的な説明も色あせてしまうような独特の現実感や真実味がそこに感じられたと、体験者はいう。そしてその確信の背後には、「あの体験は自分にとってかけがえのない貴重な体験であり、そこから人生にとって最も大切なことを学んだ」という、もう一つの確信が息づいている。きわめて多くの臨死体験者が、この体験の結果、非常に深いレベルで前向きの大きな変化を遂げているのである。52 臨死体験者の報告に人々がなぜこれほど引き付けられ、魂を揺すぶられるのかという問いへの第二の答えは、この事実のなかに隠されているのような気がする。

 私もまた、臨死体験がその後の人間の生き方や人格や価値観をプラスの方向に変えてしまうという事実に強く興味をひかれる。とくに臨死体験が、宗教的な「悟り」体験にも似た一種の覚醒体験をさえ引き起こすのだすれば、少なくともこの事実だけによっても、臨死体験を「幻覚」として葬り去ることはできないと思う。臨死体験の事後効果としての覚醒体験と、いわゆる宗教的な「悟り」体験や「自己超越体験」との間にはどのような類似点と相違点があるのだろうか、また両者を比較することで、この分野の研究にどのような新たな局面を切り開くことができるのだろうか。それを追求するのが本書の主要なテーマなのである。  

◆死と結びつかない「臨死体験」?◆

 リングは、心臓の搏動や呼吸などが止まり臨床的に死んだと認められた人たちや、医学的に死に瀕した人たちを調査対象として臨死体験の研究をした。セイボムも、「意識不明となり、かつ緊急に医学的処置を行わなければ生物学的に死んでしまうと予測される状態」102を臨死状態とし、その状態の間に起こった特異な体験を臨死体験として研究したのである。だから、ふつう臨死体験とは、臨床的に死んだと判断されたり、もしくは瀕死の状態にあったと思われる人たちが、その後に蘇生し、そのあいだに体験したことを報告したものをいうと考えてよい。

 ところが最初にあげた鈴木秀子氏の場合は、階段から足をふみはずし、床にたたきつけられた事故によって彼女が死に瀕する状態に陥ったという医学的な証明が報告されているわけではない。鈴木氏の事故は、結果的には「大怪我」ですらなかったし、意識を失って「臨死体験」をしていたと思われるときに瀕死の状態にあったのかどうかは断定できない。

 しかし、すでに見たように彼女の体験は、こでまでに集められ、調査され、研究された膨大な数の臨死体験の内容と、その核になる「光との出会い」体験の部分が酷似しており、光から受けたという本人の主観的な印象にも共通点がきわめて多い。この一点だけからも、鈴木氏の体験をこれまで研究されてきた多くの臨死体験と比較し、あるいは同列に扱って考えてみることは充分に意味のあるだろう。しかも、死と直結しない「臨死体験」(=疑似臨死体験)は、他にもかなり報告されているのだ。

 セイボムは、重体ではあったが生命の危険がほとんどなかった状態での「臨死体験」が3例あったと報告している。また、過去に臨死体験をした者が、今度は生命の危険とはまったく関係なしに自分の肉体を抜け出す体外離脱体験を繰り返す事例が、やはり3例あったと報告している。

 キュブラー・ロスのつぎのような体験も、生命の危険を伴わない「臨死体験」のひとつと考えてみることはできるだろう。キュブラー・ロスは、ある研究プロジェクトの被験者として実験室で医学的な手段によって人工的に体外離脱体験をしたという。彼女は、その実験で小部屋のウォーターベッドの上に横たわり、しばらくすると、すでに空中をふわふわ浮いていた。実験主任の心配をよそに、彼女は自分で自分を誘導し上へ上へと信じられないようなスピードで上昇した。可能なかぎり遠くまできたと思ったところで彼女の記憶は途絶えた。

 この世の肉体にもどったとき、覚えていたのは「シャンティー・ニラヤ」という言葉だけであった。後に彼女は、その言葉がサンスクリット語で「平和の終の住処」という意味であることを知る。ともあれ実験を終えた彼女は、山の中のゲストハウスに一人で泊まった。そしてその晩、体外離脱の時に遠くへ行き過ぎた埋め合わせをすることになるのではという予感通り、「それまでに接した千人の患者の千の死」を体験したという。その無上の苦しみを味わい、それに耐え続けていたときに彼女は、はっと気づく。「闘いをやめ、反抗するのをやめただ平和におだやかに、ただ平和におだやかに身をまかせさえすればいいのだ」と。その瞬間に痛みは止まり、そして今度は「再生」を経験したという。  

 私の見るものすべてがふるえていました。天井、壁、床、家具、ベッド、窓、そし て窓の外の地平線も振動していました。ついには地球全体が、ものすごいスピードで 振動しはじめました。分子の一つひとつが振動し、同時に、蓮の花のつぼみみたいな ものが眼前にあらわれ、何とも美しい色の花が咲きました。そしてその花の後ろに、 患者たちがよく話していた光が見えました。私は猛スピードで振動する世界のなかを、 開いた蓮の花を通って、その光に近づき、信じられないような無条件の愛のなかに溶 け込んでいき、ついにはその光と一体になりました。そして、その光源を一体化した 瞬間、いっさいの瞬間が止まりました。深い静寂がおどずれ、私は催眠状態のような 深い眠りに落ちました。186

 このキュブラー・ロスの神秘体験も、死と直接は結びつかない「疑似臨死体験」だといえるだろう。確認すべきことは、臨床的に死んだと判断されたり、もしくは瀕死の状態にあったと思われる人たちがその後に蘇生して報告する、きわめて共通性の高い体験は、それをどのような呼び名で呼ぶかに関係なく、肉体的な死とは直接に結びつかない状態にあってもしばしば体験されているということである。 国際臨死研究学会が一九九二年におこなった非公式なアンケート調査によれば、臨死体験をしたと回答した学会員二二九名のうち、二三パーセントが実際に臨床死状態にあった時に臨死体験をし、四〇パーセントが病気か怪我で重症に陥った時、残りの三七パーセントは生命が脅かされる状態にはなかった時に「臨死体験」をしたという結果が出たという。

  では、死に瀕していなかったにもかかわらず「臨死体験」をしたいう三七パーセントの人たちの体験内容は、臨床死状態や重態中の人々の体験内容と違いがあったのだろうか。その体験内容は、死に瀕した人々の臨死体験と型の上で類似しているか、ほとんど同じといっていいものだったという。しかも、臨死体験後の生き方の変化や価値観の変化までほとんど同じだという。注)アトウォーター『光の彼方へ』125

 ところで、先に触れたオーストラリアのジョン・オーエン博士らの研究も、同様に臨床的に瀕死状態になくとも「臨死体験」をする人々がいることを示していた。彼らの研究では、たとえば「光」体験では実際に瀕死の状態に陥った患者の七五パーセントが光を見たが、瀕死の状態でなかった患者では、四〇パーセントが光を体験、またトンネル現象でも同じように瀕死の状態だった人の方が体験率は多いが、瀕死状態でなかった患者にも同じような体験を持った者は少ないながら存在したのである。ただしこの調査によれば、瀕死の状態に陥った患者の方が、そうでなかった患者より体験後に「認識機能増強」(思考のスピード、理論性、思考の明確さ、視覚、聴覚の明確さ、統合能力等)が多く見られた。また「光」体験をした患者の方がしなかった患者より、理論性や思考力、統合能力などの脳機能が増し、さらに視覚、聴覚といった知覚能力も増してたというのである。

 いずれにせよこれらの研究からも「臨死なき臨死体験」の報告がかなり多いことはわかるだろう。その内容やその後の人生に対する影響の仕方に質的な差がないなら、臨死体験を考える上でこれらを無視するべきではない。両者の違いは、死に瀕しているかいないかという生理学的・臨床的な違いだけであり、体験の質そのもには何も違いがないといえるのである。だとすれば、臨床死状態や重態になくとも「臨死体験」は起こりうるという仮定の上に立って、臨死体験とは何かを考えるべきである。「臨死なき臨死体験」をも同時に包括的に説明できないような理論は、臨死体験の理論としてきわめて不十分なものでしかないとすら言えるのである。もしかしたら「臨死なき臨死体験」を無視しては、臨死体験の本質をつかみそこなう可能性すらもあるのである。

 臨床上の死に瀕していなくともいわゆる「臨死体験」がおこりうるという可能性を追求することは、臨死体験と「悟り」体験との比較という本書の主題から見ても、重要な意味をもっている。もしかしたら生理学上の死には結びつかない「臨死体験」と、いわゆる「悟り」体験とは、私たちには見えない深い層でつながっているのかも知れない。生きたまま「この世」の次元を超えた世界をかいま見ることが、ある種の神秘的な覚醒体験の一部をなしているかも知れない。

 もし、臨死体験と「悟り」体験に何かしら共通するものがあるとしたら、「悟り」体験の研究をすることが臨死体験の研究を深め、逆に臨死体験の研究が「悟り」体験や神秘体験の研究にさらに深い視点を与えることになるだろう。だとすれば「臨死なき臨死体験」を視野に入れることは、本書にとっても本質的な意味をもっている。このような視点から考えるとき臨死体験の研究は、たんに死後の世界の実在を証明するか、しないかというような問題の枠組みを超えたものになる可能性もある。もしいわゆる「臨死体験」が、生理学的な死とは直接関係なく起こることもあるなら、それは生と死という常識的なの区分の世界を超えた、もっと別次元の世界に視野を広げる体験かも知れないからである。


 

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