◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界を探求する

『臨死体験・いのちと悟り』 (臨死体験研究読本)

第3章  宇宙意識の目覚め

 1 ユングの臨死体験
◆宇宙の高みから地球を見る
            ◆「私は存在したもの、成就したものの束である」
◆あるがままにイエスという  

2 宇宙との一体感
◆宇宙との一体感と全一性
     ◆「すべてのものは循環している」  

◆心の垣根を超えて (以下に収録)

 


◆心の垣根を超えて

 さてこれまで鈴木秀子氏から始まって、赤峰勝人氏や高木善之氏その他、何人かの臨死体験を見ながら、体験者の意識変化の中の「宇宙の全一性という感覚および宇宙との一体感」という側面を見てきた。ところで、この三人に共通していたのは「宇宙の全一性の感覚」や「宇宙との一体感」だけではなかったことにお気づきだろうか。

  例えば鈴木氏は、その「臨死体験」の中で「花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放されて、自由になっていく」のを味わったという。「人に気を遣ったり、人が言うことに煩わされなくてすむ」という限りない解放感、「見ている自分と見られている自分が一つに」なるという限りない「自己一致」。つまり自分をよく見せたいという欲望からの解放、自己への執着からの自由。ありのままの自分の受容。

 赤峰氏の場合も、自分にとらわれ、そのために自己の中にため込んでいた欲望があっただろうが、臨死体験によってそんなとらわれから解放されたのだろう。彼は、死んで初めて気がついた、「どんなにお金をため込み、高価な物に囲まれて暮らしていても、何もあの世へは持っていけないのです。それこそ裸で生まれて裸で死んでいく」のだと。それが分かった瞬間にさまざまな欲が去っていったという。
  高木氏の「非対立」という姿勢も、結局は自分へのとらわれからの解放を示している。自我に執着しているかぎり、相手をやっつけ自己を立てようとして対立が生まれる。自分を立てようとする欲から自由にならない限り、本当の「非対立」は実現しない。
  そして大切なことは、「宇宙との一体感」と自己への執着や欲望からの解放とは、おそらく同じひとつの事実の裏表だということだ。自分ばかりが可愛くて、自己と世界との間に垣根をめぐらして自分を守っている限り、「宇宙との一体感」を感じられるはずがないからだ。
  高木氏の場合も、心から「非対立」の姿勢をとれたということと、「腹の底から沸き上がる歓喜」とともに宇宙との一体感を体得したこととは、ほとんと同じ一つの出来事だったはずだ。もしわれわれが互いの心に固い垣根を設けて対立しなければ、心は周囲と限りなく調和し、宇宙全体に広がっていくのだろう。  ところで、これまでに見てきたいくつかの例に共通するような「宇宙との一体感」を、臨死体験者の何割ほどが体験しているのか。

 まず、これまでに何回か参照したリングの研究ではどうか。『オメガ・プロジェクト』でのリングのアンケートのなかには、ずばり「宇宙との一体感」を聞く項目はないが、それに近いものとして「心が拡大したという感じ」があったかどうかを聞く項目がある。それによると臨死体験者では58.1パーセントがイエスと答えているのにたいし、非体験者では27.8パーセントにとどまっている。リングの研究による

 ブルース・グレイソンという研究者が、七〇名の臨死体験者に一九八二年に行ったアンケート調査のなかには「体験中の宇宙との合一感」を体験したかどうかを聞く項目がある。それによると四二名(五七パーセント)が「体験した」と答えている。立花下71

 以上の数字からも、その体験の深さはともあれも「宇宙との一体感」と実感する体験者がかなり多く存在することは確かなようだ。そして何よりも大切なことは、これまで見てきたような深い体験をした人々が報告する「宇宙との一体感」は、宗教的な覚醒体験、禅でいう「悟り」体験の内容と深いところで一致するように見えるということである。では、どのように一致するのか。すでに述べたように両者を比較検討しながらこの問を追求することが本書の主なテーマであるが、この問の本格的な追求は、第七章にゆずることになる。

  しかし、ここでもう一度だけ確認すべきは、「宇宙との一体感」も、これまでに見て来た「死への恐怖の減少」、「人生に対する態度の変化」、「ありがままの受容」、「生きる目的の自覚」、「愛、思いやり、寛容さの増大」、「物質的欲望から霊的・精神的関心へ」等という変化と混然一体となって、体験者の変化の一つの傾向を示すということである。

 たとえば、前に触れたアメリカ人の猛烈実業家は、「私たちはあらゆるものとつながっているので、そういうつながりに沿って愛をおくると、幸せになるんです」ともいっている。つまり、自分と世界とが一体である、自分と他者とが不二であるという体験は、自分と周囲の一切の存在とを結ぶ愛の実感にも連なっているということだろう。

 こうした変化の全体的な傾向は、すでに指摘したように自分の狭く固定した殻に閉じこもってしまう防衛的・逃避的な態度とは正反対の方向への解放という傾向である。臨死体験者の多くは、自分の周囲のあらゆる人々や生物、事物に心を開き、それらをあるがままに受け入れ、愛し、慈しみ、それらとの一体感を感じるようになる傾向がある。こうした変化を、退行的な変化と理解することは断じて出来ない。それはむしろ、より開かれた方向への「成長」だと理解する方がはるかに自然であろう。そして、そうした「成長」のピークともいえる部分には、自分という狭い垣根からの限りない解放と、それに伴う「宇宙との一体感」という宗教的ともいえる体験が存在するのではないか。

 だとすれば一体何が、体験者にこのような精神的な成長をもたらすのか。臨死体験が、たとえばもし「死に恐怖する脳の一種の心理的防衛による幻覚」であるなら、なぜそこから、このような大きな精神的な変化・成長が生ずるのか。この問に納得のいく答えを提供せずに、臨死体験をただ「脳が作り出す幻覚だ」と言い切って終わりにしてしまうは知的な怠慢であり、ある現象に属する重要な側面をあえて無視する不誠実な態度であろう。

 あるいは、問題の核心に真正面から立ち向かうことを拒否して逃げようとする、一種の「防衛的な」態度ですらあるかも知れない。ある理論がひとつの現象の重要な側面と整合しないのなら、それは不完全な理論として却下されるべきであり、その現象のすべての側面を説明しうる、より整合的な理論をさがし求めるべきなのである。

 

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