森の大百科事典

金原明善

戻る  2004.11

 みなさん、今日は日本三大人工美林の一つに数えらる天竜美林を育てた、金原明善の生涯を、皆さんと一緒に紙芝居で勉強したいと思います。それでは、紙芝居終了後の拍手喝采をお願いしまして、金原明善物語の始まり、始まり。
 さて、皆さん天竜川の源はどこでしょうか。
 そうです。長野県の諏訪湖を源に、途中多くの支流を集め、遠州灘に流れ込んでいます。
 この天竜川。一昔前までは、暴れ天竜として多くの人から恐れられていました。ひとたび大雨が降れば、山々から水を集め、濁流となって、静岡県の平野部、つまり今の浜松市や豊田町の付近なのですが、静岡県の平野部で氾濫を繰り返していました。渦を巻き、うなり声のような音を立てた洪水は、大切に育てた農作物や、家々や、時には家族の絆さえ永久に奪ってしまうこともありました。
 明善さんは、現在の浜松市に、天保3年に生まれました。
 さて、明善さん6歳の時。今で言う小学1年生。
 「そくいんのこころは、じんのはしりなり。じんをなすには、みをころすべし。ぎをみてなさざるは、ゆうなきなり。」
 昔は、漢文を意味も分からず丸暗記したそうですが、明善さんも、往復3里の道のりを歩いて、寺子屋に通い勉強に励んだそうです。
 一度決めたことはやり抜く強い意志と、自分のことは自分で行う、強い責任感を持っていたという、大変良い子であったそうです。
 明治元年。明善さん36歳。世の中は、将軍さまの時代から、天皇さまの時代に変わる、激動の時代でありました。
 幼い頃から、洪水の恐ろしさを身をもって知っていた明善さんは、長年の計画を実行すべく、自己の財産をなげうって、新しい明治政府の許可を得、約7キロの堤防工事を行いました。
 明善さんが堤防工事の次に行ったのは、森づくりでありました。
 明治7年、オランダ人の河川技術者と、天竜川上流の森林調査を行った明善さんは、荒れた山々を見て、川の氾濫を治めるためには、健全な森林を作る必要性を深く悟りました。
 皆様もご存じのことと思いますが、良く整備された森林は「緑のダム」を呼ばれるように、降った雨を森林内に蓄え、それを徐々に流す働きがあるのです。
 さて明善さん54歳。明治19年のことです。
 まず明善さんは、植林の技術を学ぶため、お隣の愛知県に行き、植林の勉強をしてきました。
 そして、時間を惜しむ明善さんは、現在の龍山村の山奥にある、大きな岩穴で寝泊まりをして、山の調査を行いました。
 こうして750ヘクタールに、スギとヒノキ併せて3百万本を植える植林計画ができました。そして国の許しを得、長年の夢でありました森づくりに取りかかることができました。
 森づくりは、苗木づくりから始まります。土を耕し、スギやヒノキの種をまきます。苗ができるまで2年の辛抱。
 次に、苗木を植えやすいように、荒れた山をきれいに整理します。そして、いよいよ苗畑で育てた苗木を植えるという、大変手間のかかる作業でありました。
 明善さんも、作業員の人たちと一緒に山小屋で暮らし、率先して苗木を担ぎ、急斜面に一本一本植えていきました。こうした明善さんの姿を見た多くの人が、明善さんの元に集まり、3年目には8百人を越える人で、山は大変活気に満ちていました。
 全てが順調に行った訳ではありません。
 雨で山が崩れることもありました。暴風に叩きつけられ、育ちつつある苗木が根こそぎ倒れてしまうこともありました。また、植えただけでは苗木は大きくなりません。雑草を刈るための下草刈り、つるきり、枯れた箇所への補植など、次から次へと、息つく暇もありません。
 しかし「良い森林を作ることが、多くの人々の生命と財産を守るんだ」との信念を持った明善さんは負けることなく、多くの協力者のもと、困難を克服していきました。
 こうした明善さんの足跡は、天竜川の山々をはじめ、伊豆の天城山、富士山麓の森づくりと県下各地に及びました。
 さて、明善さん92歳。森づくりに捧げたその生涯を静かに終えましたが、山々に植えられた木々は生長を続け、その一部は今でも記念林として、又は学術参考林として今でも残っています。

 今から100年も前に、暴れ天竜川を治めるために森づくりを行った「金原明善物語」の終了であります。

 静岡県龍山村の段々茶園から対岸を望みました。
 秋葉ダムのダム湖の向こうに、人工林が一面に広がっています。龍山村は、金原明善による人工造林が始まったところです。その影響もあって、この付近の人工林率は90%を超えています。
 人工林に挟まれて、広葉樹が色付いていました。紅一点の風景も素敵なものです。