西 洋 魔 術 結 社 の 興 亡


        リガルディー、PFC、フォーチュン、クロウリーの末裔達

                            



魔術結社の存在とその活動を定義するとするならば「一連の秘儀参入儀礼及秘教的魔術的知識を保有している魔術師達の集団」と定義できるかもしれない。歴史的な発展を紐解けば多くの魔術系団体には、フリーメーソンリーや中世の薔薇十字思想に代表される「友愛団」的色彩が濃厚であり、秘儀の骨子そのものや無数の象徴群の中にこれらの伝統的な友愛団の強い影響力を認めることができる。しかし、時代の転換期でもある現代に於いては魔術結社の性質や内容も「多様化」の一途をたどり、群勇割拠、乱立の時代に突入している。事実、西洋魔術の伝統はヨーロッパやアメリカなどの西洋世界から、あらゆる方位へ向けて飛び出しつつある。その最たる例が我々の住む極東の地、日本であろう。

近代的な魔術結社の沿革を語る場合、どの時点まで遡るかは重要なテーマである。中世の真正薔薇十字団にルーツを持つという現代の薔薇十字結社や、果てはエジプト王朝にまで起源を遡るというような、ほぼ眉唾ものの現代魔術結社の歴史をいちいち真に受ける訳にはいかない。勿論、有形無形の見えざる影響力の連綿たる系譜は否定できない。しかし、この小論では、あくまでも確認可能な近代西洋魔術結社の歴史を早足で確認する以上の事は不可能である。


「黄金の夜明け」団



 現存する魔術結社のルーツを語る上で避けて通れない団体として、まず筆頭に挙がるのは間違いなく1888年にロンドンで産声を上げたヘルメス的結社「黄金の夜明け」団であろう。同団はあらゆる近代的魔術結社の母体・鋳型として、また今回取り上げたディオン・フォーチュン、イスラエル・リガルディー、ポール・フォスター・ケース、アレイスター・クロウリーなど20世紀の魔術界に多大な貢献を成した魔術師たちの出身団体として、更に彼等の魔術的知識・技術の源泉ともなった魔術結社として特筆すべき位置にある。
1887年、英国のフリーメーソンであり、ロンドンの検死官でもあったウィリアム・ウィン・ウエストコットは一組の暗号文書を入手した。彼は解読された暗号文書を見て驚くことになる。そこには薔薇十字的な一連の秘教儀礼の骨格が書き記されていたのだ。大陸の知られざる達人、アンナ・シュプレンゲル嬢の登場や、彼女とウェストコットの捏造された往復書簡などについては他の書物にあたっていただくとして、ここでは同団がもたらした近代魔術結社への革命的な構造転換に着目したい。
 まず、同団に於いて始めて、中世よりこのかた離散していた数々の魔術的、秘教的知 識及実践的アプローチが綜合・確立・刷新されたこと。これは錬金術、タロット、儀式魔術、薔薇十字伝説、秘教的キリスト教などがヘブライの神秘主義体系「カバラ」の生命の樹の象徴体系の下に結び付けられ、実際に機能する「使える魔術」体系を生み出したことを意味し、一連の秘儀参入の儀礼をカバラ的象徴群とヘルメス学的実践技法によって魔術的に昇華・革新したことを意味する。秘儀参入のための神殿は生命の樹の象徴群により補強され、不可視の神々の降臨する場となり、能動的なイマジネーションと神を纏う独特の技法によって、それまでのメーソン的な半ば形骸化した儀礼とは一線を画す、魔術的なセッティングが確立された。更に、各位階では各々「知識講義」を有しており、「黄金の夜明け」団が魔術教育という概念を根底に置いた近代的な魔術団体の草分であったことが理解される。さすがに初期の「黄金の夜明け」団にはサロン的色彩が濃厚であったものの、後のセカンド・オーダーの整備化とともにより一層、実践的魔術結社とししての体を固めていったのは衆知の通りである。
 「黄金の夜明け」団の前身はマスターメーソンのみを会員と認める「英国薔薇十字協会 ( SRIA )」であり、「黄金の夜明け」団は同会のメンバーが中心となって発足されたことから、本来のメーソン的活動よりも、更に「オカルト」的なアプローチを嗜好する幾人かのフリーメーソン達によって設立された団体であるという側面を持っている。いわゆる秘教的フリーメーソンリーは当時のドイツにおいても「Academia Masonica」というコンセプトの下、「メンフィス・アンド・ミツライム ( M.M. )」や「古式公認スコティシュ儀礼 ( AASR )」などを基盤とした秘教的集団を生み出していた。このドイツの団体は後の「東方聖堂騎士団( OTO )」に発展し、1910年を境に英国にも進出してくる。また当時のヨーロッパではこのような儀礼の交換や公認は比較的活発におこなわれており、「黄金の夜明け」団の設立者の一人でもあるウエストコット博士はドイツの秘教的 ( しかしながら非公 認の ) フリーメーソンリーの中心的人物セオドア・ルイス ( OTOの二代目OHO ) に「 英国薔薇十字協会」や疑似メーソンリー儀礼である「スウェーデンボルグ儀礼」のドイ ツ支部設立の許可を与えるなど、親密な関係にあった。
近年の研究において、同団の勃興にかかわるとりわけ重要な人物がクローズアップされるにいたった。カナダの歴史研究家にして、黄金の夜明け系の魔術団体にも属するダンシー・クーンツは1860年から1890年までの期間を「英国非主流派メーソンリーの黄金時代」と命名し、その期間に活躍した幾人かのメーソン系オカルティストの名前を挙げている。件の人物はケネス・マッケンジー、フレデリック・ホーランド、ジャン・ヤーカー、F. G. アーウィン、フレデリック・ホックリー、ベンジャミン・コックス、ウエストコット、そしてマクレガー・マサースらであった。とりわけ重要な人物とは、実はマッケンジーのことである。彼はメイソン系の百科事典_The Royal Masonic Cyclopedia_を編纂・出版する程のメーソン通であり、「英国薔薇十字協会」が設立される時にもロバート・リトルを助けている。カバラやタローにも卓越した知識を有していた事は勿論、注目すべきは彼が暗号学のスペシャリストであったという事実である。彼ならば、「黄金の夜明け」団の発足のきっかけともなった暗号文書を難なく書くことができただろう。また、前出のメーソン系オカルティスト達が中心となって組織されていたThe Society of Eightこそが「黄金の夜明け」団の真のルーツであり、前身であるとする説も飛び出してきた。いずれにしても、「黄金の夜明け」団結成の背景に「英国非主流派メーソンリーの黄金時代」に暗躍したメーソン系オカルティスト達の活動の軌跡が存在していたことは確かだろう。
 魔術結社「黄金の夜明け」団はその後も様々な紛争や分裂、改名などの紆余曲折を体 験しながら現在に至る。後発の新興魔術団体の骨組みの中には多かれ少なかれ「黄金の夜明け」団的要素が注入され、その影響は団の位階制度、教義、技法等を含み、この形態そのものは後に観るように1980年代の米国を中心にして再び蘇ることになる。  「黄金の夜明け」団の位階制度は18世紀ドイツの薔薇十字的フリーメーソンリー団体「黄金薔薇十字団」にその源があると云われているが、このフォーマットは「黄金の夜明け」団の後継・分派である「暁の星」団 ( Stella Matutina ) やマサースのA∴O∴ ( Alpha et Omega )、クロウリーのA∴A∴ ( Argenteum Astrum ) は勿論の事、現代の多くの魔術結社に継承されている。
 

イスラエル・リガルディーと「黄金の夜明け」の復活  


 イスラエル・リガルディー ( 1907-1985 ) の存在を抜きにして、現代魔術結社の復 興を語ることは不可能である。彼は若い頃からヨガなどの東洋神秘主義に傾倒し、クロウリーの「第4の書」に衝撃を受け、1928年、若干21歳にしてクロウリーの私設秘書になるためにアメリカからパリへ渡った。20世紀最大の魔術師といわれるクロウリーの下で、彼の主催する魔術結社A∴A∴に席を置きつつ、ヨガの実践やカバラ、儀式魔術の研究に没頭していた彼は20代半ばにして早くも自身の代表作である古典的魔術書「生命の樹」を執筆、出版するなど、当時もっとも精力的な魔術師の一人だった。しかし、この本の出版が原因で恩師クロウリーとの間にトラブルが発生し、彼はクロウリーの元を離れ、英国はブリストルに拠点を置く、「暁の星」団のヘルメス・テンプルに移籍するこになる。だが、ここでリガルディーを待ち受けていたものはある種の失望だった。彼には、当時の「暁の星」団の達人達は、単なる高位階を誇るだけの実力のない魔術師集団に見えた。このままでは団の魔術的伝統が衰退してしまうと危惧した若者リガルディーは、あろうことか、団の位階文書はもとより、門外不出のイニシエーションの儀式文書や知識講義などのいっさいを纏めて出版してしまった。これが伝説の「黄金の夜明け」四巻本であったことは云うまでもないが、この出版の後リガルディーは長い沈黙の時代に突入する。第二次世界大戦への従軍、ウィルヘルム・ライヒの影響を受け自らはカイロプラクティス師の資格を取得、その後の彼はもっぱら医療の世界で細々と暮らしていた。
 その彼が魔術界に復活するのは1960年代の末頃から1970年にかけてである。この頃に なると伝説の書物「黄金の夜明け」も再販され、リガルディーはクロウリーの伝記として現在でも広く読まれている「三角形の中の眼」を出版、1970年代のオカルト・リバイバルの正に中心的存在となっていくことなる。

 当時の米国の魔術団体事情の中で「黄金の夜明け」的な流れを継承していると云える 唯一の結社は、マサースのA∴O∴の米国支部であったトート・ヘルメスから派生したタ ロット教育で名高いポール・フォスター・ケースの「神殿建設団 ( Builders of the A dytum, BOTA )」ぐらいのものであった。当時は、魔術の団体を作る為の資料が乏しかったことに加え、「黄金の夜明け」系列の結社やOTOの活動もほぼ休眠状態にあったことから、魔術結社の活動はいずれも縮小の一途を辿らざるを得ない状況にあった。しかし、リガルディーの書物「黄金の夜明け」の復刻によって状況は一変する。数多くの魔術本が復刻、再販され、新しい書物も次々に市場に登場し、アメリカは世界で最大の魔術大国へと 発展していく。

 1970年代から1980年代にかけて多くの魔術結社が設立、復活し、多くの魔術師や団体 の関係者、「黄金の夜明け」の信奉者たちはこぞってリガルディーに手紙を書き、自分達の後見者、指導者になってほしいと熱望した。彼は魔術界の「権威」になっていたのである。そんな中、リガルディーの取り巻き連中の幾人かが、リガルディーの認可の下、「黄金の夜明け」団を米国において復興させる作業に熱中しだした。
 カリフォルニア州ハリウッドでは、1980年にローラ・ジェニングスとピーター・ヨーク、クリス・モナスターらがリガルディーの指導の下、「黄金の夜明け」のテンプルであるOsiris, Khenti-Amentiを設立している。しかし、1983年にはこの神殿は閉鎖された。その後ローラ・ジェニングスとピーター・ヨークはサンタモニカで新たにRa Horakhty Templeを設立 (後ワシントンに転居) し、オカルト雑誌や魔術系同人誌に団の通信教育の告知を連発、リガルディーの死後はニュージーランドに残存していた「暁の星」系列の7=4達人、パト・ザレウスキーに急接近し、一時は幾多の魔術セミナーを主催し、多くの会員を抱えていたようだが、現在、同テンプルは閉鎖されてしまった模様である。彼らの機関誌( The Portal )には英国の御大SOLの学習主任でもあるドロレス・アッシュクロフト=ノーウィキーやパト・ザレウスキー、ジェニングスらに紛れて混沌魔術界のリーダー的存在であるピート・キャロルまでが顔を出している。この団体ではメンバーにそれぞれ指導者が付き、照応コースのコンサルテーションを定期的に行うシステムが採用されており、希望者にはテンプルにおいて0=0参入儀礼を始めとした各位階のイニシエーションも授けていたようである。他方、Pandra's Boxなるオカルト・サプライを提供するプロジェクト部門も存在し、驚くなかれ、ここでは「黄金の夜明け」団の象徴体系に則った各種の魔法武器まで販売していた。セミナーの講師陣も海外から著名な魔術師を召還し、定期的に行っていた模様である。筆者の元に届いたセミナーのダイレクト・メールだけ見てもパト・ザレウスキー、アラン・リチャードソン、ピート・キャロルらの豪華ゲストを招いてのセミナーが開催されていたことが確認できる。
 
 晩年のリガルディーを支援し、「完全版黄金の夜明け魔術システム」を出版した米国のファルコン・プレス ( 現在はニュー・ファルコン・プレス ) とイスラエル・リガルディー財団は180もの外陣レッスンから成る魔術教育団体「黄金の夜明け神殿協会 ( Golden Dawn Temple and Society, 現在はHermetic Temple and Order of the Golden Dawn, HTOGD )」を設立し、完全な門戸開放路線を提示した団体の一つである。このレッスンは先のパト・ザレウスキーとその妻クリスらによって執筆されたものであるが、ザレウスキーは後のインタビューにおいて、HTOGDの商売っ気を非難している( MIZLIM Volume II, No.1 1991)。1980年から1990年代にかけての「黄金の夜明け」復興と、それに伴う情報開示は、別の視点から観た場合、「知識の販売」であり「位階及びイニシエーション」の乱発販売へと繋がるある種の危険性を内在していたのである。

 カリフォルニアには新興の団体として「永久の黄金の夜明け」団 ( The Eternal Golden Dawn, 後にThe Hermetic Order of the Golden Dawn International, HOGDIと改称、更に後で述べる「黄金の夜明け」戦争によりThe Hermetic Order of the Morning Star International , HOMSIへと改称 ) が設立され、ここでも通信教育による門戸開放がモットーになっていたが、この団体はリガルディーの直接の指導の下に設立・運営された団体ではないようだ。「永久の黄金の夜明け」団 の設立者の一人であるフラターPCは幼い頃からヘルメス学に関心を寄せ、星幽投射やスクライニングなどの高等テクニックでさえも彼には容易なことであったと述べる。幾つかの大学で人間心理学を修めた彼は、世界的な催眠術者であったジミー・グリッポの下で催眠術の修行さえ積んでいる。また彼は独自のヒーリング技法「ルアク・ヒーリング」を発達させ、団内では無償の「ヒーリング・リク エスト」を受け付けている。彼の団は機関誌「トートのタブレット」その後には「黄金の夜明け季刊報」を発行、インターネットのホームページでも派手な宣伝を繰り広げていた。

 一方これらの「黄金の夜明け」団は結構な会費をとる半営利的な魔術団体であるとい う非難も一部から出てきた。通信教育による団員の募集は一度に多くの入会費と年会費を募ることが出来るほか、これらの団体ではイニシエーションもたいていはアストラル・イニシエーションによるものだったので一部の「黄金の夜明け」魔術師たちの反発を買うこととなった。そこでリガルディーの友人にして弟子でもあったチック・キケロが1995年、米国に於いて「ヘルメス的結社黄金の夜明け ( The Hermetic Order of the Golden Dawn )」という名称を商標登録してしまい、キケロの団の認可を受けない限り「黄金の夜明け( Golden Dawn )」という名称を使えないようにする法的措置をとった。キケロはリガルディーの指導による彼自身の「黄金の夜明け」団 ( HOGD )を運営しており、リガルディー本人に団の魔術的作業場である「達人の地下納骨所」を聖別してもらうなど、晩年のリガルディーともっとも親密な関係にあった魔術師の一人である。ジョージア州にあったキケロの地下納骨所の作成は、「黄金の夜明け」団の5=6参入儀礼を始めとする幾つかの魔術作業を行うための空間作りであった。キケロの著作によれば、この時期、リガルディー老の賛同者としてカリフォルニアのクリス・モナスター、テネシー(当時)のアダム・フォレストなどがおり、1982年6月26日キリスト聖体祭の日の達人の地下納骨所の聖別儀式 ( 儀式執行者は勿論リガルディー ) と同日付けでモナスターは5=6位階にイニシエートされている( 後にフォレストもこの場所で5=6に参入している)。この事実が米国における達人のイニシエートという画期的(?)な流れを形成したというのが現在フロリダを拠点に活動しているキケロのHOGDの主張と云えるのかも知れない。キケロは、その後もHOGDを着実に運営していく一方、米国のオカルト書店レウリン社より、「黄金の夜明け儀式タロット」、「黄金の夜明け神殿の秘密」、「黄金の夜明け伝統への自己参入」「カバラの体験」などの実践的な話題作を次々と発表、更に英国の御大ガレス・ナイトやノーウィッキー夫人なども巻き込んだ「黄金の夜明け」魔術師達の論文集「黄金の夜明けジャーナル」シリーズの編集、更には旧師イスラエル・リガルディーのクラッシック「中央の柱」「石榴の園」などの増補改訂版を出版するなど、瞬く間に世界的な「黄金の夜明け」ライター兼魔術師として名を馳せていくことになる。
 モナスターは結局キケロとは袂を分かってしまい、デビッド・グリフィンなる人物とともに「本家黄金の夜明け団 ( Authentic Hermetic Order of the Golden Dawn )」を旗揚げ、キケロの商標登録に対する異議申し立て裁判 ( のち和解 ) や前出の「永久の黄金の夜明け」団、当時の「国際黄金の夜明け」団に対する名称及び紋章の使用停止勧告など専ら武闘派(?)として米国の「黄金の夜明け」界に嵐を巻き起こした。
 アダム・フォレストはリガルディーの「完全版黄金の夜明けの魔術システム」に実践魔術の論文を寄稿するほどの側近であり、「黄金の夜明け」流魔術の良き理解者にして実践者だったが、1995年に非営利的な宗教組織「 ヘルメス友邦団 ( Hermetic Fellowship )」をオレゴン州ポートランドに設立、妻でペイガンでもあるイジィドラとともに西洋秘教伝統、薔薇十字主義、カバラ、錬金術、グノーシス主義、ネオ・ペイガニズム、聖杯探究などの研究に没頭しているようである。

 「黄金の夜明け」戦争とも呼ばれるこれらの論争はキケロの商標登録に起因していることは間違いないが、更に重要な要素として「黄金の夜明け」魔術の権威にして生き証人でもあったリガルディーの死による無統治状態が挙げられるだろう。リガルディーという名の権威、カリスマの前では一つにまとまっていた米国の「黄金の夜明け」信奉者達も彼の死を前にして独自の径を歩まざるを得なかったのである。


ポール・フォスター・ケース(PFC)とBOTAの潮流


「黄金の夜明け」団の息吹を現代に伝える重要な役割を果たした稀代の魔術師の一人が、ここで述べるポール・フォスター・ケース( 1884-1954 )である。残念ながら日本におけるケースの評価は今の所、あまり高くない。だが、彼が設立した魔術結社Builders of the Adytum ( B.O.T.A. )の影響力は米国を中心にヨーロッパ、ニュージーランド、南米など世界各地で重要な位置を占め、高い評価を得ている。現在活躍中の第一線級魔術師の多くが、B.O.T.A.の優れたタロットとカバラのレッスンの恩恵を受けている。
ケースは1884年ニューヨークのフェアーポートで教師の母と地元の図書館館長の息子として誕生した。3歳の頃から始めたピアノとオルガンのレッスンは彼の音楽的才能を発現させると同時に、後の彼の魔術実践のテクニックにも導入される事になる音の魔術を完成させる為の布石となった。16歳になって彼はクラウド・ブラッグドンという名のオカルティストと出会う。クラウドはケースに尋ねた。「プレイング・カードは何に由来するものだと思うかね?」 その極めて単純な問い掛けから、ケースのタロットに対する飽くなき探求と研究が始まることになる。彼はタローの表象する元型的イメージと魔法の虜となった。ほんの短期間の内に彼は入手し得る限りのあらゆる書籍とカードを買い漁り、タローの分析と瞑想を重ねた。この時、彼は自身の「内なる声」に導かれていたという。そしてその内なる導きによって得られた識見やタローに対する分析、照応を書き記した。
このニューヨーク時代、彼は「黄金の夜明け」団の流れを汲むマサースのAlpha et Omega トート・ヘルメス・テンプル、プレモンストレイーターであるマイケル・ウイッティーと出会った。ウイッティーはケースの有する西洋秘教伝統の膨大な知識と彼の出版物に敬意を表し、ケースを団に招いた。この申し入れを快く承諾したケースは団の外陣をあっという間に駆け上り、1920年5月16日付けで団の内陣への参入を果たした。彼はマジカル・モットーをPerseverantiaと定め、「黄金の夜明け」魔術の潮流の中でアデプトとなった。間もなくケースはウイッティーの後任としてテンプルのプレモンストレーターに就任。この当時、彼の識見はニューヨークのテンプル内においてとりわけ注目されるようになっていた。ただし、彼はどうも団のアデプトの主要作業であるエノキアン魔術の体系とは折り合いが悪かったらしく、後にB.O.T.A.を設立した際にエノキアン魔術を団のカリキュラムから除外している。彼はテンプルの幾人かのアデプトから少なからぬ妬みの感情を持たれていたようだが、決定的な事件は彼が当時のAlpha et Omegaの主導者モイナ・マサースと衝突してしまったことであろう。原因は性の魔術的応用についてであったと云われている。ともあれ、この衝突によって彼はAlpha et Omegaを離脱する覚悟を決めた。Alpha et Omega を除名されたケースは彼自身の方針を貫くオカルトの学校である「不朽の叡智の学院( School of Ageless Wisdom )を設立するが、やがて頓挫してしまう。その後、ロスアンジェルスに移動したケースは音楽の道を捨て、School of Ageless Wisdomを換骨奪胎する形で1922年「神殿建設者」団( Builders of the Adytum )を旗揚げした。彼はリガルディーやフォーチュンに比べると、あまり本を出版していない。主な著作はタロットの解説書である_The TAROT_とタロット瞑想には欠かすことのできないテキスト・ブック_The Book of Token_、薔薇十字団の位階に対する独自のタロット解釈を施した印象的な書物_The True and Invisible Rosicrucian Order_ 等であるが、彼の著述の殆どは実はB.O.T.A.のレッスンとして一般公開はされていない。
ケースは独自のタロット解釈を構築する上で必須となる分類法( Tableau )について_The TAROT_の中にヒントだけを書き記している。愚者のカードは全ての始まりとしてTableauの最上段に置かれる。魔術師から戦車までのカード(1〜7)はその下の段に一列に並べられる。これらのカードは意識の諸原理を表す。続いて力から節制までの7枚(8〜14)は更にその下の段に一列に配列される。この段は意識の法則または作用を表す。最後の段には悪魔から世界までのカード(15〜21)が配列される。この7枚は光明への七段階を表す。以上が基本フォーマットとなり、瞑想作業が開始される。やがてこの原理を用いて縦横無尽なタロット言語/解釈が派生し、魔術師は生命の樹を自由に行き来する者となる。
B.O.T.A.が旧来の「黄金の夜明け」団流魔術から一線を画す概念の一つに「治療( Healing )」がある。HealとはWholeと同義であり、癒しとは個の全体性の獲得、統合を意味する。B.O.T.A.では音と色彩を用い、7チャクラ、タロットの象徴体系を併せ独自の治療システムを体系化している。特徴的なのは身体の各部位ならびに病気の種類によって細かいB.O.T.A.独自の象徴が体系化されていることだ。
ケースの死後、B.O.T.A.のリーダーを引き受けたアン・デービスはロスに本拠を置いたままB.O.T.A.を世界的な魔術教育団体に成長させていく。デービスの死後も依然としてB.O.T.A.は世界最大級のカバラとタロットの学校として常に世界の魔術団体の中核に位置している。レッスンは英語は勿論、フランス語、ドイツ語、スペイン語に翻訳され、全米はもとより、世界各地に活動の拠点と会員を擁している。

B.O.T.A.から派生した魔術団体も幾つかある。米国において「黄金の夜明け」、Alpha et Omegaの魔術的リンクを主張している団体の殆どはB.O.T.A.からの枝分かれ組だと考えてもよい。ヤコブ・ファスのArtisans of the Light とポール・クラークが率いるFraternity of the Hidden Light は特にB.O.T.A.色を濃厚に継承した魔術結社である。他にもアンバー・ジャヤンティーのSANTA CRUZ School for TAROT & QABALAH Studyや先般、大量離脱したB.O.T.A.ヨーロッパ( 現在のヨーロッパ本部はスペインに移動 )などがポール・フォスター・ケースのカバラ、タロット、錬金術を始めとしたヘルメス学に心酔し、その衣鉢を継ぐ者としてそれぞれの道を歩んでいる。筆者が入手した情報によれば、ドイツや南米などでも離脱組の結社が活動しているようだ。これら離脱組は、もとはB.O.T.A.のアデプト、要職にあった博識ある人物が殆どであるが、あまりに巨大化したB.O.T.A.からこれらの離脱組が生まれたのもいた仕方ないところだろう。


ディオン・フォーチュンと光の魔術

 ディオン・フォーチュン( 1891-1946 ) 本名ヴァイオレット・メアリー・ファースは「黄金の夜明け」団の分派の一つでり、事実上「黄金の夜明け」団のブレインであったサミュエル・リデル・マクレガー・マサースが率いていた Alpha et Omegaに入団し、後に自身の団体「内光協会 ( Society of the Inner Light ) 」を設立した (1922年) 。彼女にはもともと養父母譲りのクリスチャン・サイエンス的バックグラウンドがあり、神智学協会の会員でもあった。また、元来感受性が強く、知性にも恵まれていた彼女の魔術的能力は魔術結社による体系的な訓練のお陰で急速に発達していく。彼女が設立した団体「内光協会」のもっとも画期的な点は会員に「通信教育」で魔術を教示するという、当時としては斬な教育方法を導入したことである。「内光協会」は三つの位階に別れていたが、その第一段階をオープンな通信教育システムによって外側へ開くことにより、多くの志願者のニーズに答える一方、その段階を通過した者のみを第二段階へとイニシエートするという合理化を計ることが出来たのである。志願者はフォーチュンの著作や新聞の広告により、「内光協会」の存在を知り、手紙でコンタクトを取ることができた。志願者の一人一人にはそれぞれ指導者が付き、定期的に魔術の実践の記録を送ることにより、様々なアドバイスをもらう。この教育方法は現代でも広く踏襲されており、一つの魔術結社が世界中の志願者を通信教育によって、指導するというシステムはかなり定着している。

 さて、「内光協会」からは数多くの優秀な魔術師が巣立っており、フォーチュンのカバラ的魔術路線を今に伝えている。その中でもっとも巨大で有名な団体はW.E.バトラーが設立した「光の侍従 ( Servants of the Light, SOL )」だろう。1950年代になると本家「内光協会」は魔術的色彩を失いつつあった。この時期、あくまでもカバラ的魔術路線を堅持したいと願う幾人かの「内光協会」会員は協会の外に本格的な魔術の通信教育コースを設立する。バトラーの「光の侍従」は「内光協会」から離脱したガレス・ナイトの「ヘリオス・コース」の通信教育テキストの執筆を彼が手伝ったことに由来する。ここでバトラーはカバラ的実践魔術の優れたテキスト、50レッスンを執筆、後にナイトの庇護を離れ、「光の侍従」として独立した。この団体は現在世界最大級の魔術教育団体、開かれた「魔術の学院」として世界23ケ国に約2,600人もの会員を擁する団体に成長した。英国の海峡諸島にはバトラーの遺志を継いだ二代目の学習主任ドロレス・アッシュクロフト・ノーウイッキー夫人が運営する本部があり、そのほかに世界各地にロッジを中心とした活動の拠点を有している。ロッジは「光の侍従」の会員がミーティングや集団儀式を行なう場であり、例えば本拠地英国には「ロッジ・ハイパティア」、「ロッジ・モーニング・スター」、「ロッジ・アルビオン」、「ロッジ・マーリン」などがあり、スウェーデンには「ロッジ・オシリス」、米国には「ロッジ・フェニックス」、「ロッジ・ソフィア」、カナダには「ロッジ・ライオンズゲート」などが存在している。徹底した通信教育は充実したスーパーバイザーによってサポートされ、世界中の会員を国境を越えて指導している。また、ノーウイッキー夫人は数多くの有益な魔術書の執筆を行ない、英国魔術界を中心に多大な影響を与える一方、英国や米国へ講演旅行を行ない、実地レベルでの指導も熱心に行なっている。
 「光の侍従」の位階も三つの段階に分かれており、それぞれが古代密儀に於ける「小密儀」、「中密儀」、「大密儀」にそれぞれ対応している。第一位階の通信コースは正式には「SOL-神秘のカバラの実践コース」と呼ばれ、下記の構成からなっている。

コース         レッスン           著者       テキストブック

初級コース   レッスン1〜6     ノーウイッキー      なし
メインコース   レッスン1〜6     ガレス・ナイト    真の治療の技術 (イスラエル・リガルディー)
           レッスン7〜50    W.E.バトラー       カバラ的象徴実践ガイド (ガレス・ナイト)

  
 これらのテキストは、原文である英語以外にもギリシャ語、ドイツ語、スウェーデン語、スペイン語などに翻訳されており、このことからも「光の侍従」が世界的な魔術団体であることがうかがえる。尚、この第一位階のコースだけでも終了するまでに通常5年はかかるそうである。

 「内光協会」から離脱したもう一人の魔術師故ウィリアム・ゴードン・グレイも自身の結社「聖盃の血盟 ( Sangreal Sodality ) 」を設立し、独立したが団のネームバリュー、規模などをくらべると「光の侍従」に大きく溝をあけられている。むしろ彼は「光の梯子」や「カバラの概念」、「聖盃の血盟」シリーズといった多数の魔術書の執筆者として世界的に有名な魔術師である。彼は独自の生命の樹論を発展させ、生命の樹の邪悪な面にも多大な考察を加えるなど魔術界きっての論客として活躍していたが、一部の追従者を除くとその理論はあまり一般化していない。


クロウリー、法の書、セレーマの教え

 アレイスター・クロウリー ( 1875-1947 ) は間違いなく今世紀最大の魔術師だといえ
る。更にもっとも有名 ( 悪名高い? ) な魔術師であり、魔術の世界に足を踏み込んだ者が誰でも一度は手にとるのがクロウリーの魔術の著作であろう。 また、彼はビートルズのジャケットに登場したただ一人の魔術師でもあり、魔術界きっての有名人である。インターネットの検索サービスなどで検索を行なうとCrowley, Thelemaなどのキーワードからは数え切れない程のホームページが検索される。その規模はGolden Dawnや他の魔術体系の比ではなく、クロウリーと彼が築いた魔術的宗教セレーマ ( Thelema ) が欧米ではもっとも巨大な魔術の潮流を形成していることが容易に確認される。彼の存在は20世紀の魔術界にもっとも大きく深い影響を与えている。
 他方、一般的な彼のイメージは決してクリーンなものではなく、多くの魔術関係者達から寄せられる賛辞とは裏腹に彼の思想や人生にネガティヴな反応を示す人が多いのも事実である。ここで、彼の魔術的な人生についての簡単な年表を見るよって、彼の辿った径を検証してみたい。

1875年  10月12日英国レミングトンスパにて生誕。
1887年  父、エドワード・クロウリー死亡。
1895年  ケンブリッジ・トリニティカレッジに入学。
1896年  最初の神秘体験。
1898年   ケンブリッジ大学を離れる。
       ジョージ・セシル・ジョーンズと出会い「黄金の夜明け」団へ参入する。
1899年  アラン・ベネットと出会い、魔術の研究に没頭。
       ボレスキン館を買い取る。
       「黄金の夜明け」団のリーダー、マサースと知り合う。
1900年  マサース、パリにおいてクロウリーを「黄金の夜明け」団の小達人へと
      イニシエートする。
       ブライスロードの戦い勃発。クロウリーはブライスロードに単身殴り込み。     
       メキシコへ旅立つ。 
1901年   オスカー・エッケンシュタインとともにメキシコにて登山。
        チェイロンにてアラン・ベネットと再会、ヨガの修行に没頭。
        ディヤーナを体験、ヨガに対する確信を深める。
1901-2年 インド放浪。
1902年   K2へ遠征。
       パリ滞在 
1903年   ボレスキン館へ帰還。
        ローズ・ケリーと出会い、結婚。 
1903-4年  新婚旅行。パリ、ナポリ、カイロ、インドを巡り再びカイロへ。
1904年   4月の8,9,10日の三日間に「法の書」をエイワスより授かる。
1905-7年  クロウリー著作集を出版。
1905年   カンチェンジュンガに遠征。
1906年   家族とともに南中国を旅行する。
         愛娘リリス死亡。
       「アブラメリンの魔術」実践。 
       「777の書」執筆。
1907年  魔術結社A∴A∴ 設立。
1908年  スペイン横断。ヴィクター・ノイバーグとともにいざモロッコヘ。
       パリにおいて「ジョン・セント・ジョン」作業を行なう。
1909年   A∴A∴の機関誌「EQUINOX」発刊。
       ローズと離婚。
       サハラ砂漠において「霊視と幻聴」の作業、パートナーはノイバーグ。
       神殿の首領の位階へ昇進。
1910年  レイラ・ワッデルと出会う。
       カクストン・ホールにて「エレウシスの儀礼」を上演。
1911年  「ルッキング・グラス」誌にまつわる裁判勃発。
       マリー・デステ・スタージズと出会い、「Abuldiz」作業を行なう。
1912年  「第4の書」第一部及二部を出版。
       セオドア・ルイスによってOTOの英国支部MMMの長に任命される。
1913年  モスクワ訪問。「グノーシスのミサ」を作成。
        「虚言の書」出版。
1914年  ノイバーグとともに悪名高き「パリ作業」を行なう。
       合衆国へと旅立つ。
1915年  カナダ、ヴァンクーバーのフラター・エイカドとともにMMMの作業に没頭。
       メイガスの位階に昇進。
1916年  ニューハンプシャーにて魔術的隠遁。
1917年  「インターナショナル」誌の編集者となり、めずらしく労働する。
1918年  「アレフの書」完成。
      ロディー・マイナーとともにアマラントラ作業を行なう。
      クロウリー版「道徳経」を作成。
      リア・ハーシグに出会う。
1919年  「Blue Equinox」出版。OTOの宣伝を行なう。
      リアとともに英国へ帰還。
1920年  シシリーのチェファルーに「セレーマの僧院」を設立。
       ジェーン・ウルフ僧院に滞在。
1921年  イプシシマスの位階へ昇進。
1922年  「麻薬常用者の日記」出版。
1923年  僧院にてラウル・ラヴディ死亡。
      ムッソリーニにより、クロウリーはイタリアから追放される。
       OTOの長セオドア・ルイス死亡。
1925年   ドイツ人OTOのメンバー、トレンカーの招待を受けウエイダ会議に出席。
       セオドア・ルイスの跡目を相続。OTOの三代目OHOに就任。
1926-8年 フランス、ドイツ、北アフリカを旅行。
1928年   若き日のリガルディーがパリにいるクロウリーの秘書なるため、渡仏。
1929年   クロウリー、リガルディー、ともにフランスから追放される。英国へ帰還
       代表作である「魔術-理論と実践」が出版される。
1930年  「アレイスター・クロウリーの告白」の最初の二冊が出版される。
1930-4年 ドイツ、ポルトガルを放浪する。
1936-8年 ドイツ訪問。
1937年  「神々の春秋分点」がOTOによって出版される。
1939年  「ヨガ八講」出版。
1944年   フリーダ・ハリスとともにトートタロットを作成。「トートの書」出版。
1947年   12月1日ヘースティングにて死亡。
       12月5日「最後の儀式」がブライトンで挙行される。

 クロウリーの生涯は波乱そのものであり、魔術そのものでもあった。彼は近代魔術の発展に大きく貢献する書物を数多く執筆、出版し、その精力的な活動は正に人間離れした超人的なものであった。また彼が1904年にエジプトのカイロで聖守護天使アイワスから受け取った新時代の宣言書である「法の書」は、後のクロウリーのライフスタイルそのものとなり、そこから派生した魔術的宗教はセレーマ( THELEMA )の名で知られることとなった。クロウリーの死後、OTOの四代目OHOに任命されたのは、ドイツ人のOTOメンバー、カール・ゲルマーだった。彼の意志は主にクロウリーの本の出版作業にあり、OTOの拡大にはなかった。実際、彼はOTOのイニシエーションさえも止めてしまい、OTOを低迷、休眠に導いた張本人である。ゲルマーの死後、幾人かの魔術師がOTOの正統後継者である旨を宣言し、OTOの派権争いが発生する。代表的なものはクロウリーにより直接OTOの第9位階に任命されたグラディ・マクマートリー率いるカリフェイトOTO、英国の魔術師でクロウリーの晩年の秘書も勤めたケネス・グラントの率いるタイフォニアンOTO、ゲルマーのA∴A∴の弟子であったブラジル人マルセロ・モッタの率いるソサエティOTO、スイス人のOTOメンバーであったヘルマン・メッツガーの率いるスイスOTOらであった。

ソサエティOTO

 団の指導者であったマルセロ・ラモス・モッタは自身の出版社「セレーマ出版」より「EQUINOX」の第5巻シリーズを出版していた。彼はゲルマーのA∴A∴のメンバーではあったもののOTOのメンバーではなく、もともと彼の率いるOTOに正統性は認められない。事実、1985年にカリフォルニアで戦われたカリフェイトOTOとの裁判では完敗し、OTOの名を名乗ることを禁止されてしまった。しかし、モッタの死後もソサエティOTOは消滅せず、未だにホームページなどを用いて自らの正統性を主張している。この団体は現在、米国派とオーストラリア派に分裂して対立しており、米国派がオーストラリア派を破門するなど、混乱を極めている。

スイスOTO

 メッツガーはゲルマーの認可の下、スイスでOTOの支部を運営していた人物である。ゲルマーの死後しばらくしてこの支部では選挙が行なわれ、投票の結果メッツガー氏が世界のOTOを指導するリーダー ( OHO ) に選ばれたというのが彼等の主張だが、この選挙そのものが世界的規模で行なわれたものではなくスイス国内に限ったものであったことから、事態は収拾しなかった。メッツガー氏の死後、スイスOTOの活動も収束の一途を辿ったようでる。

タイフォニアンOTO

 ケネス・グラントは1940年代半ば頃より、死去するまでのクロウリーの秘書であり、熱心なオカルティストだった。しかし、クロウリーの死後、独自のセレーマ思想を発展させ、当時のOTOのリーダーであったカール・ゲルマーの怒りを買い、1950年代半ばになって正式に団から追放されてしまう。その後もグラントはヌー・イシス・ロッジという名の非公認の支部を存続させ、自身のOTOの活動を継続した。彼を一躍有名したのは、彼が1970年代になって連続して発表した一連の魔術書のお陰である。グラントは元クロウリーの秘書、最晩年の直弟子という強みを生かし、精力的な執筆活動と宣伝を行なった。しかし、クロウリーの魔術 (Magick ) とラブクラフトのクトゥルー神話を比較したり、難解なタントラ用語を説明もなく乱発したり、生命の樹の裏側の探索をテーマにした本を発表したりと、かなりアナーキーな活動が目立つ。またグラントはパピュス博士をルーツに持つミシェル・ベルティオーのフランス・ハイチ系のOTO団体「古代東方聖堂騎士団 ( OTOA )」や黒蛇団 ( Black Snake Cult ) を著作の中で派手に取り上げ、それらの団体と提携を結びつつ、そういった「知られざる影の宗派」に大胆にスポットを当てていった。
 そんなグラントの過激路線に刺激されてか、1970年代の後半から80年代にかけて、世界中で新興のセレーマ的魔術結社が雨後の竹の子の如く乱立していく。特に米国ではオハイオ州を中心にベト・カバルなる魔術集団が生まれ、その団体の女性会員であったソロール・ネマが神がかりとなり、霊的知性体から「リベル・ペナエ・プレナンブラ」なる文書を受信し、クロウリーの「ホルスのアイオン」ならぬ「ホルス/マートのアイオン」を宣言するなど、グラント的誇大妄想は世界中に飛び火することとなった。その他にもベト・カバルでは世界中のアングラ魔術団体、マニアをつなぐネットワークの中心的存在となり、疑似OTO的結社であるOAI、OTA, OTB, OTDなどと親交を深める一方、アングラ魔術文書の宝庫でもある「黒月出版 ( Black Moon Publishing ) 」を運営、現在もホームページなどを通じてアングラ魔術文書の販売を行なっている。
 その他にタイフォニアンOTOから分離した団体としてタントラ的セレーマ結社AMOOKOS( The Arcane and Magikal Order of the Knights of Shambhala ) がある。1970年代、グラントのOTOのアデプトであったマイク・マギーとその師を中心として結成された、本格的なタントラ結社で現在では英国のみならず、米国やその他の幾つかの国にも進出しているようである。この団体には何故かグラントの団体から脱退 ( 追放? ) された魔術師達が多く流れ込んでおり、前出のソロール・ネマもタイフォニアンOTOを辞めた後にこの団体の門を叩いている。また、グラントの多大な影響を受けた比較的新しい流れとして、1970代頃より徐々に拡大してきた混沌魔術( Chaos Magic )の潮流がある。これはグラントが自身の著作の中で紹介した「忘れられた天才魔術師」オースティン・オスマン・スペアの独特な魔術技法と哲学に影響を受けた新しい魔術の一派で混沌魔術界の初期の指導者であった混沌魔術師レイ・シャーウィンはグラントのOTOの中ではフラター・クスターの名で知られた実力派魔術師であった。混沌魔術はレイ・シャーウィンと並び称されるもう一人の立役者、ピート・キャロルの混沌魔術団体IOT ( The Illuminates of Thanateros ) の活動を中心としてヨーロッパやアメリカ、オーストラリアなどに拡大し、現代魔術の一潮流を形成している。キャロルは彼自身の最初の著作にして、混沌魔術の根本的な教科書とも呼ばれている「無の書 ( Liber Null ) 」の中でIOTのことをスペアのゾス・キア・カルタスとクロウリーの魔術結社A∴A∴の魔術的な後継者であると述べている。キャロル以後もIOTのフィル・ハインやデイヴ・リー、世界的な女神崇拝団体「イシス友邦団 ( The Fellowship of Isis ) 」の司祭でもあるスティーヴ・ウィルソンなどが次々に混沌魔術関連の書籍を出版し、業界を活性化させている。しかしグラントの論旨はいかんせん混乱しており、彼のOTOではクロウリーが変更を加えたOTOのイニシエーションの儀礼もOTOの中心的な儀礼である「グノーシスのミサ」も行なわれておらず、正統的なOTOというよりは正に「ケネス・グラントのよろず魔術研究会」と呼ぶにふさわしいものとなっている。


カリフェイトOTO

 団の指導者であったグラディー・ルイス・マクマートリーは1941年、当時活発な活動を展開していた米国カリフォルニアのOTO支部「アガペー・ロッジNo.2」において団にイニシエートされている。彼のOTOへの参入は「ロサンゼルス・サイエンス・フィクション協会」で出会った一人の友人、ジャック・パーソンズの導きによってもたらされた。そして件のジャック・パーソンズこそは後の「ババロン・ワーキング」などで有名になった伝説の魔術師にしてアンチ・クライストであり、当時のカリフォルニアOTOの中心的人物であった。グラディーとジャックはサイエンス・フィクションや魔術、詩について語り合い、大いに意気統合する。更にジャックは、当時のアガペー・ロッジのマスターであったウィルフレッド・スミスとグラディーをひき会わせる事にも成功した。ハリウッドでスミスが司祭を、レジーナ・カールが女司祭を務める「グノーシスのミサ」に参列したグラディーは自分がセレマイト ( Thelemite ) であることを確信したのである。
グラディーとクロウリーが始めて会見したのは1943年10月30日のことだった。彼は第二次世界大戦下のロンドンはジャーミン・ストリートにあったクロウリーのアパートを訪ね、数時間を共に過ごしている。その後もクロウリーと頻繁に手紙を交換し、クロウリーの指名により、団の高位階 ( 第9位階 ) と役職 ( Sovereign Grand Inspector General, SGIG ) を直接授けられた。また、グラディーの魔法名である「ハイメナエウス・アルファ 777 ( Hymenaeus Alpha ) はクロウリーの閃きによって命名されたものである。
「君の志は何だね?」というクロウリーの問いに、グラディーは即座に「...結合、上なるものと下なるものとの」と答えた。思案に暮れたクロウリーの頭にある日、閃きが起こる。「ハイメナエウス・アルファ ( 勿論、君はギリシャのアルファベットとその数値を知っているね? ) 、ハイメナエウスとはギリシャ・ローマの結婚の神だ。そしてアルファ ( アレフ ) 、そのすべての意味に関してはタロットの0の札に関する論文を参照してくれたまえ。更にこれらの文字の合計は777になる」。以上がクロウリーからグラディーに送られた手紙の中にに書き記されていた。他にもクロウリーからの手紙の中にはOTOの将来を危惧した彼が「カール・ゲルマーの認可の下においてのみ、君にカリフォルニアのOTOの改善と運営の権利を与える。ただし緊急時のみ。」という旨の手紙があった。これは1946年3月22日と4月11日付けの手紙に記されており、現在では「カリフェイト・レター」と呼ばれる最重要書簡としてOTOの書庫に保管されている。カール・ゲルマーの指導体制下にあっては、OTOは衰退の一途を辿り、1960年代にはすっかり消滅したものと思われていた。しかし、マクマートリーはその間もソロール・メラルやソロール・グリマウド、フレデリック・メリンガーなどといった旧アガペー・ロッジの面々との接触を続けており、OTOの再興を計画していたのである。ついに彼は1970年に米国のレウリン書店からクロウリーとハリスの「トート・タロット」を復刻し、自らがOTOのリーダーであることを宣言した。クロウリーが認めた「緊急時のリーダーシップ」を発動する大義名分には明確なものがあった。既にOTOが壊滅的状態にあるにもかかわらず、魔術界ではクロウリーの人気が高まりイニシエートを望む志願者が多数いたこと、またグラントなどの非正統派OTOが団のOHOを宣言していたこと。更にカリフォルニアで発生した幼児虐待事件の首謀者がOTOの「ソーラー・ロッジ」を名乗っていたこと、など正にOTOは大変な危機状態にあったのである。カリフォルニア州バークレーというカウンターカルチャーの中心地に移ったグラディーは精力的にOTOの活動を展開する。自宅を開放し、OTOのイニシエーションを授ける一方、クロウリーが1910年にロンドンのカクストン・ホールで上演した「エレウシスの儀礼」を復活させたり、全米、更にはカナダにまで足を延ばし、イニシエーションを授けて廻るなどの目覚ましい活動を展開した。1978年には団の実力者ビル・ハイドリックを編集長に据え、充実した内容の機関誌「OTOニュースレター」を発刊、瞬く間にグラディーのOTOは世界的な魔術結社に成長した。
 1985年には前出のソサエティOTOとの間に法廷闘争が勃発、後に合衆国連邦裁判所に てグラディーの団が「正統なOTO」として認められたのである。しかし、同年グラディーは息をひきとった。それから数ヵ月後、OTOの第9位階のメンバーの投票により、ニ代目のカリフにして六代目のOHOにあたるフラター・ハイメナウス・ベータが選出された。
 このOTOは現在、英国、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ等のヨーロッパ諸国、ユーゴスラヴィア、クロアチア等の東欧諸国、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなどのスカンジナヴィア諸国の他にニュージーランド、オーストラリア、ブラジル、イスラエル、日本などにも活動の拠点 ( ロッジ、オアシス、キャンプ ) を持っている世界最大にしてもっともアクティブなOTOである。

 
結  び


ここに書き得たのは、西洋魔術結社の興亡のほんの一部である。世界にあまた存在する魔術団体の歴史や活動を書き記せば、それは決して終わらない作業となる。もし、あなたが更に世界の魔術結社の活動について知りたいと思うなら、今アクセスしているこの回線から世界の魔術ウェブ・ページへ飛び出して行くことで簡単に可能になる。一昔前までは「弟子に準備ができた時、師は現れる」と云われていたが、現代のネット社会では「回線が接続された時、師が現れる」時代になった。世界中の多くの結社はネット上で情報を開示し、門戸を開放している。その気にさえなれば、クリック一つで魔術結社の入会申し込み書が送られてくるのだから、時代の急速な流れに感慨深くならざるを得ない。
それを如何に活用するかは、本人次第であるが、私見ではインターネットの普及は魔術界を大いに盛り上げる起爆剤にもなると考えている。勿論、邪師がネット上で手ぐすねひいて待ちうけている可能性は無きにしもあらずだが、色鮮やかな蜘蛛の巣を夜な夜な探訪する楽しさは格別である。
良き出会いを!!!