瞑  想―――知覚の拡大





 瞑想とは知覚の拡大であり、その目的は霊的自由の獲得である。

逆説的に我々の知覚の領域は通常限定的であり、瞑想を持続させる為の脳の部位も未発達のままである。それを試すのは簡単だ。例えば、今文字を読んでいる、PCの画面から眼を離し、意識を切り替え「思考を停止」させてみよう。勿論「私は今、思考を停止させている」とか「私は何も考えない」などと心の中でお喋りしてしまったら、その時点でアウトである。あるいは心の眼で、ヘブル文字のアレフを視覚化し、その視覚像をどれだけ保持できるか試してみよう。もし、微動だにしない、アレフの文字が1分以上保持できるならば、あなたは既に瞑想のエキスパートであり、相当な能力を持っている。

 瞑想とは単なる思考ではない。むしろ、思考においては捕える事ができない事物を直感的に理解する方法である。ここでは理性では扱うことが困難な様々な概念に焦点があてられる。例えば、片手で打つ拍手の音や、太陽の中に顕現するラーの横顔や、神の本性などについてである。しかし、あらゆる局面において知性や合理的思考が常に直観に劣る能力だというわけではない。むしろそれらは良きパートナーになり得る。瞑想とは制御された自発的な思考の序列であり、新しい心の観察法である。必要な時に、必要な能力を使うことこそが正しい道である。この方法によって我々は、個々の対象について、或いは無についても一定の時間向き合うことが可能となるのだ。従ってこの意図的な制御による心へのアプローチは瞑想作業への鍵となり、その結果、意識と知覚の拡大を瞑想者にもたらす。

 知覚の拡大について語る前に、瞑想状態の意識が通常の自我を離れ、如何なる方向に拡大するかについても述べておかねばならない。心の構造や働きを分析する意図を持って多くの心理学派が心の地図作りに没頭してきた。或いは、心の構造を図式的に表現し、意識と無意識の相互関連性についての説明を加えてきた。それらの多くは、貴重な資料である。トランスパーソナル心理学の理論的骨子を支えてきたケン・ウィルバーは語る「瞑想が何であるかとすれば、それは超越を保持する持続的な手段である」( 「アートマンプロジェクト」 )。つまり、瞑想作業は夢見/昏睡の個的領域への潜行ではなく、超個的( トランスパーソナル )な領域への意識の拡大なのである。勿論、意識というものは通常の意識を起点として左に行けば、夢見の領域、右に行けば個を越えた領域というように一直線上に整然と並んでいるわけではない。超個の領域へ向かう過程の中に様々な心的葛藤の領域との格闘がある。瞑想者はまず、意志を持って、日常的な思考活動とそのシステムを一旦放棄する。この時、我々はまず潜在的な無意識の海に投げ込まれる。彼はその海の中を、一つの象徴か、命題への集中によって、無難に渡りきり、目的となる意識の領域へと辿りつかねばならない。だが、この海の中で転覆し、呑み込まれる危険性がない訳ではない。特に精神的な疾患を患っている者がマントラ瞑想や思考の停止などの訓練を行うことにはかなりの危険が伴うのである。

 明確な意志による無意識/潜在意識領域の制御は瞑想作業の重要な目的の一つである。揺るぎ無い統一体としての自己の獲得は多くの瞑想学派の主要な目標として掲げられているのだ。だが、瞑想作業を決して頭の中だけで行うものと短絡的に捉えてはならない。恍惚に酔いしれるスーフイーの舞踏や、霊的恍惚に至る他の儀式的な方法論もまた、広く瞑想の技法と云える。

 西洋魔術の伝統の中では、比較的緩やかに瞑想状態へ移行する為に準備作業を行う事が重要視されてきた。つまり準備作業としての心身の弛緩と規則的な呼吸による集中力の確保である。瞑想とは霊的自己実現の為の有益な径であるが、私が学んだ学派では瞑想作業を姿勢、リラクゼーション、集中、創造的視覚化、呼吸及び識別の作業を含むものとして考察していた。神の姿勢による弛緩と規則的な四拍の呼吸は、速やかにそして安全に意識の準備を整えてくれる。瞑想状態に移行する為には、まず肉体とエモーショナルな緊張から自由になっている必要がある。もし、それらの緊張を引きずったまま瞑想しようとしても効果的な瞑想作業を行う事は困難であろう。なぜならばそれらの緊張は意識の拡大ではなく、無意識の荒波となって、瞑想者に執拗に食らいついてくるからである。従ってあらゆる瞑想の学派で呼吸法の重要性が語られ、精神を乱す原因ともなる、争いや嫉妬、怒り、執着などの精神的ストレスを抱えない生活スタイルを瞑想志願者に推薦する。静寂は集中への前提であり、平静は健全な心に舞い降りるものであるが故に。
この観点から観た場合、筆者を含めた多くの瞑想実践者は面食らうことになる。事実、朝早く起きてスーツに着替え、会社に出勤しては顧客や上司との格闘を余儀なくされる筆者の生活環境の中に静寂を見つけることは困難である。現代社会においてはストレスを抱えない生活環境の方が最早、異常と云うべきではないか!!? この問題は、多くの瞑想志願者達の意志を阻み、落胆させてきた。というのも、ある魔術師が瞑想を開始した途端に、命題とは全く関係のない記憶の荒波が怒涛の如く押し寄せ、魔術師を現実の世界へと押し戻してしまうのである。誰もが、現在進行形の問題や悩みを心に抱えているということは揺るぎ無い事実である。しかも過去に負った心の傷は時間を超越して、瞑想者に襲いかかってくる。従って、重要なポイントは如何にして、心の平静を得、意識に自由な飛翔を叶えさせるかである。

 再度、強調しよう。「瞑想作業とは姿勢、リラクゼーション、集中、創造的視覚化、呼吸及び識別の作業を含むもの」であり、それらは連続して魔術師の心を開放し、無意識に対するアクセス権を提供してくれる。もし、あなたが地下鉄に揺られているたった5分の間に、( うたた寝ではなく )心の平静を確保できるのだとしたら、それはそれで素晴らしい能力である。しかし、我々は急激な意識の変成は危険であるとする教訓も持つべきである。これらの能力は、特に訓練の初期の段階においては意志による導きによって、比較的緩やかに導入される必要がある。さもなければ、魔術師の日常生活の中に何らかの問題が生じないとも限らない。

 心の平静を得る為に祈りの言葉を用いる事も可能である。準備作業の後に意識を自己の中心点へと結びつけ、意志を明確に宣言する為にも何らかの短い唱句を用意しておくことは実践の助けとなる。祈りの言葉は可能な限り自分で作った方が良い。以下に例を挙げよう。

  生命の主よ、我が中心に座し、あらゆる業を永遠なる光に還す汝よ
  我は汝の永遠なる光と祝福を求めん、我を導き、我に教示したまえ
  我と永遠が一なるものだと、我と汝が一なるものだと


  真実を求める強い感情の流れを喚起し、言葉の全てを自分の聖域へと捧げるつもりで、ゆっくりと、しかし確信を込めて唱えれば、喧騒の中にも平静は訪れるものである。

 次に瞑想作業の基本的な二つの形式について語ろう。まず一つ目はある特定の対象に対して、注意の焦点を定める方法である。この場合、選択される対象は無限にある。一枚の木の葉から道端の小石、薔薇十字の紋章や高尚なマンダラ、「美」や「均衡」という概念、更には音や文脈、問いかけなど様々な対象に注意が向けられる。その性質から、この作業は固定/集中型と呼ばれる。対して、心に浮かぶ心象や、物語、言葉や空想の連続的流れを体験する瞑想、つまり注意を向ける対象が常に変化するものは観想型と呼ばれる。ここで注意すべきはどちらかの型が、もう一方の型より常に優れた方法であるというわけではなく、両者は時に組み合わされるという事である。例えば、最初に特定の象徴について集中的に瞑想し、そこから派生する心の流れを観察する場合などがそれだ。この手法はタットワやタロットの絵札を通過し、内的世界を探索する際に用いられる。最初に必要となる魔術的能力は特定の視覚像( 例えば地のタットワであれば黄色い正方形、タロットであれば各大小アルカナの任意の絵札 )を心の眼で捉え、そのイメージを保持し続ける為の集中力である。やがてその集中は象徴の扉を破り、その向こう側にある世界への門となる。ここからは予期しない心的イメージの連続的流れが始まり、魔術師はそれらを観るもの( 主役 )となる。
また、固定/集中型と観想型はあくまでも大まかな分類であり、より綿密な分類によって瞑想は様々なバリエーションを形成することも断わっておかねばならない。

 固定/集中型のあるものは「意識の死滅」を目的とする。この方法は自我の自動的な習慣的反応や思考のプロセスを徹底的に否定し、精神活動全般の「脱自動化」を図る。この場合、意識は拡大するわけでもなく収縮するわけでもない。もはや無という概念すらも放棄し、自らを空にしてしまう。勿論、これは初心者向きの瞑想とは云えない。
ユダヤの伝統では「内なる自己孤絶 ( Internal self-isolation)」と呼ばれる概念が存在した。つまり外部の如何なる刺激や思考とも隔絶された精神の隔離状態である。感覚の遮断は魂の高次領域への参入の鍵であると考えられたのである。この技法はヒトボデドゥースの名で知られている。
この概念に連なる形で洋の東西を問わず発達した瞑想の形態がマントラ瞑想である。ラビ・ナハマンはRibbono shel Olam( Master of the Universe )を用いた。彼は神との対話の準備の為に、あらゆる思考・感覚から離脱する為にこのマントラを繰り返し唱えた。チベットの修行僧は仏を観想しつつ、その仏に対応したマントラを繰り返し唱えた。マントラは言葉による刺激を用いて、感覚を麻痺させる。しかし、重要な点は連続する刺激は徐々に刺激ではなくなるという点である。従ってマントラ瞑想では雑念の種子を刈り取る為に速度を調整する必要も出てくる。私のやり方は、最初にゆっくりと振動を交えながらマントラを唱え、徐々にスピードを上げて行き、極限に達したら、今度は少しづつマントラの速度を緩やかにしていく方法だ。マントラ瞑想は比較的短い時間で瞑想者の意識を変成する実に効果的な手段である。だが、それ故にまったく安全な方法であるというわけではなく、師につかない学徒に対してはマントラ瞑想の修行を禁止している流派もある。

 固定/集中型の別の瞑想は事物を観通す第三の眼を育む。道端に咲く小さな花の実にも宇宙が整然と収まり、創造主の歓喜が息づいている。この手法はユダヤの伝統ではヒトボネヌース( 自己理解 )と呼ばれる。この伝統の指導的存在であった故アレイ・カプランは、ユダヤの伝統に基づいた様々な瞑想作業を見事なまでに平易な言葉で解説した名著_Jewish Meditation_の中でヒトボネヌースを「対象によって心全体を充たすこと」であると語っている。彼はヒトボネヌースの実践の一例として前掲書の中で蝋燭の周りに輝く五色( 白、黄、赤、黒、空色 )の炎の色彩を観る瞑想を紹介している。白、黄、赤の3色は自然な光であり、理性の領域においても認識される。黒は輝きを取り巻く闇であり、一番外側の空色の光は物理的な現象ではなく、むしろ心による創造物である。それはまた、神の臨在たるシェキナーであり、すべての存在が発散するオーラ( ツェレム )である。ヒトボネヌースによる凝視は、瞑想者の真の視覚能力を高める。
「視る能力」はまた、マントラ瞑想と組み合わせる事により、その効果を倍増させる。「美」のマントラを唱えながら、薔薇の花を凝視すること、「力」のマントラを唱えながら大河を凝視すること、これらの実践は瞑想者の意識を物理次元を超越した神性原理へと導く。つまりは如何なる事物からもその根源である創造神との交わりが可能であるという認識がここに提示されている。

 観想型の瞑想では、深層から浮上してくるイメージや符号の流れ、またはそれらが作り出す心理劇への没入をもたらし、その中で自らが主役を演じる。「キリストの苦難」の追体験や現代魔術において華々しく復活した径行き( パスワーキング )などがそれだ。通常は、何らかのテーマに則した物語が用いられるが、注意の焦点は一つの具体的な対象に向けられるのではなく、むしろ心象の連続した流れに向けられる。特徴的なのは、この瞑想は神性原理への深い没入という要素よりも、自己の内的諸要素を分析する目的に対して大きな効果がある。この治療的側面に照準をあてたものがユングの「能動的創造」である。
カバラについて何かを学ぼうとする時、もっとも簡単な方法は、それについての良書を読むことである。では続いて何をすべきか? 云うまでもなく次はカバラを体験することが重要になってくる。「黄金の夜明け」団では特定の象徴を門として用い、アストラルの任意の領域を探索する方法がとられた。これらの内で代表的なものはタットワ、タロット、エノキアンのピラミッドなどである。魔術師が象徴の門をくぐると、そこには目的の領域が待ち受けている。魔術師はそこで今までに手に入れることの出来なかった様々な知識を入手し、ヴィジョンを得るのである。

  ここで瞑想とは何か? という問いに答える為に再び本稿の冒頭部分に立ち戻ることにしよう。即ち「瞑想とは知覚の拡大であり、その目的は霊的自由の獲得である」へと。


瞑想への扉――内なる感覚


  静かに座す。心身の弛緩の後、緩やかな四拍呼吸を5分程続ける。心の静寂を喚起し、静かに心の雑音を鎮めていく。 眼を閉じたままメンタル・スクリーンに一つの林檎を視覚化する。つやつやとした美しくてかわいい林檎である。

1. 林檎の如何なる細部をも見逃す事無く観察せよ。
  
即ち、表面のつややかな輝きとつぶつぶとした点、その色彩のバリエーションと形状の全てを心の眼で観察する。


2. 林檎の香りを観察せよ。

続いて、林檎が発散する甘酸っぱい香りを味わう。もし、作業がうまくいけば、あなたは実際にその香りを嗅ぐ ことができる筈である。


3. 林檎に触れ、感触を観察せよ。

林檎を撫ぜた時の感覚を、スクリーン上の林檎を撫ぜることによって体験する。如何なる感触が脳に伝わるかをじっくりと観察する。

4. 林檎を食し、味を観察せよ。
 
イメージの林檎にかぶりつき、その味を観察する。ここでも甘酸っぱい香りとサクサクとした林檎独特の食感を味わい、観察する。


 この作業は心の眼で捉えた対象物を記憶と直観( あるいはアストラルな五感 )によって観察するものである。もし、あなたが林檎嫌いで、どうしてもそれを視覚化したくないというのであれば、勿論他の対象を用いても良い。特にレモンを視覚化した時の印象はより強いものになるだろう。ただしなるべくシンプルな食材を選ぶこと。基本的には果物か野菜を視覚化する。間違っても、フルコースのフランス料理やマクドナルドのビックマックセットなどを選択しないように!


瞑想の基礎――パッシヴとアクティヴ 


 あなたが、次に学習する瞑想はパッシヴ(受動)とアクティブ(能動)という二つの瞑想の形態である。それは瞑想そのものでもあるが、同時に瞑想における異なる二種類の態度でもある。パッシヴの作業では一種の連想のように心に浮かんで来る様々なイメージや言葉を浮かぶままにしてやり過ごす訓練を行う。まずは神の姿勢に座し、深い呼吸を何度か行う。静かに眼を閉じ、意識の注意を自分の内側へと向ける。ここで海に漂う小船のように自然になるがままになり、無意識の波に身を任せる。重要なポイントは如何なる概念・欲望・記憶が湧き上がってこようとも、それに囚われず、かといって抗わず、ごく自然にそれらを連続的にやり過ごすことである。連続する思考の流れの中で傍観者となり、無意識から表出してくる概念をひとつひとつ受けとめ、そして横へ流して行く。この作業の要領を呑み込んだら、続いて意識に任意の象徴を思い浮かべる。最初は五芒星やアンク十字などを用いればよいだろう。心の眼で五芒星を浮かべたら、再びイメージの自由な流れに身を任せる。にわかにペンタグラムが輝き出すかも知れないし、その形が十字架に変形するかもしれない。ここで重要な事は、心を自由に遊ばせながらも象徴の内なる意味について知りたいと願うことだ。もし、作業がうまく行けば、その思いが無意識の記憶の貯蔵庫から、五芒星に関連した様々な情報を引き出してくれるだろう。ただ、この時点においても、ただ浮かんでくるイメージの流れに注意を置き、心象が自然な流れの中で移行していけば、抗うことなく観察を続ける。パッシヴでは連鎖的なイメージのリンクを受動的に捕捉する行為がテーマとなる。

 一方、アクティブでは、ある一つの命題に対する集中が要求される。意識の注意は常に一つの対象に向かって固定/集中され、他の概念は厳密に否定され意識から除外される。ここでは以下の三つの命題を掲げる。

「あなたの最終目標は何か?」
「あなたは何を欲するのか?」
「何故、あなたはイニシエーションを求めるのか?」

 最初の瞑想を例にとろう。まず魔術師はゆっくりと、しかし集中しながら「私の最終目標は何か?」という言葉を心の中で反芻することから始める。言葉の反芻はやがて無意識の海に放り込まれ、それが瞑想の種子となって反射してくるだろう。この時「私の目標は霊的な成長にあり、最終目標は神との合一にある」という概念が浮かんできたとしたならば、更にその言葉の一歩奥へ踏み込んでいく。もし、円形のマンダラが出現してきたとしたら、そのイメージを「私の最終目標」というキーワードでのみ解釈すべく努める。この時、次々に浮かんでくる心象によって瞑想の命題から脱線しないように常に意識のたずなをしっかりと握っておくよう注意する。「この円形は全宇宙の図式であり、私はその中央に座す。円とは完全性と永遠の象徴であり、ウロボロスの輪である。これぞ私の最終目標であり、霊的成長の径である」、「私がその目標に向かう時、私は何を見るのか? 光? であれば私の最終目標は完全なる光への回帰となるだろう。その他に私は何を求めるだろう? あらゆる目標の彼方にある終局の目標とは何なのか? 」如何なる心象、言葉、反応も常に瞑想の命題へと還元し、ひたすら命題に向かって意識の注意を向け続けるのがこの訓練の目的である。

 パッシヴとアクティヴの両方に馴染んだら、次はカバラの生命の樹の各セフィラに対して瞑想を行う。勿論、その前に良いカバラの教科書を読んでおく必要がある。あなたがもし、魔術的なヘルメス的カバラに強い関心を持っているとしたら、日本語で読めるもので最上のものは恐らくダイアン・フォーチュンの「神秘のカバラ」( 国書刊行会 )であろう。
まずはその本を隅々まで熟読する必要がある。作業はケテルから始めてもかまわない。さて、あなたは彼女が書き記したケテルについての説明を全て理解できたであろうか? 最初から全てが明瞭であったならば、恐らくこの時点においてさえ、瞑想の作業は必要ないだろう。だが、もし何らかの言葉、名前、文脈にひっかかったら、今こそその対象を瞑想の命題とすべきである。例えば「髯をはやした古代の王の横顔」、「畏怖すべき隠れたる知性」、「存在の存在」、「原初の点」、「巨大な顔」、「神との合一」などはどうだろう。
あらゆる文脈、称号、イメージ、図形が瞑想の対象となることが理解されるだろう。瞑想はそれらの言葉の背後に潜む秘密の符号を明らかにしてくれる。それは顕在意識の思考ですらも成し得ない能力の発現である。というのも、もしあなたが「「原初の点」について教えて下さい」と師に尋ねたとしよう。師はそこで懇切丁寧に「原初の点」についてかなりの情報を提示してくれるかも知れない。だが、それは本当の意味でのあなたの理解ではない。「原初の点」について、何らかを教えてくれる者が在るとすれば、それはあなたの「内なる教師」以外にはいないのである。それはあなたの無意識が発した意識への反応として浮上してくる。この時、あなたは言葉やイメージの連鎖を受けとめ、それを新たな直観の材料としながら更に有益な材料を心の深部から拾い上げていく作業を繰り返すことになる。パッシヴとアクティヴの絶妙な連携プレーを用いながら、対象についての瞑想を続けていけば、やがて意識と無意識の間に情報の通路、リンクが形成されていく。その地道な作業の繰り返しが、やがて壮大なヴィジョンを生み、対象への力動的な通路/門を開くのである。

 
楽 園 の 小 径

 
 ここでは、能動的想像を用いた径行きの基礎を学ぶ。即ち、心の眼によって特定の心象を構築( 想像 )し、意志の制御によって異界を歩く作業である。こう書くととても難解な技術のようにも思えるが実はそうではない。というのもこの作業の基本となるものは、既に弛緩と呼吸のページにおいて考察済みだからである。ここでも楽園のイメージを用いる。瞑想者は想像の中で瞑想の椅子から立ちあがり、楽園の中を闊歩することになる。以下に簡単なシナリオを用意しておくので、この実践に入る前に何回か読み、イメージの流れを記憶した後に行うのが望ましい。またこの作業は楽園での弛緩作業と規則的な呼吸を実践した後に連続して行うこと。


  内面に満ち溢れる光の活性的な力を感じながら、ふたたびあなたは楽園の中央に座している自分自身へと関心を戻す。今あなたの心には静寂と平和が訪れている。周囲の自然は溢れんばかりの輝きと心地よい振動を発散している。あなたと楽園の自然との間に最早、境界はない。暖かな太陽の白輝光があなたをやさしく包み込み、心地よい柔らかな風があなたの頬を撫ぜる。この時、あなたは黒のタウローブを纏い、銀のサンダルを履いた自分自身のいでたちに気付く。心地よいシルクの素材で縫い上げられた美しい黒の法衣は、柔らかな風を受けて、静かに揺れている。銀のサンダルはひんやりとした心地よさをあなたの足の裏にもたらす。決して、重過ぎることはなく、歩行にも適した美しい履物である。
静かに、椅子から立ちあがろう。柔らかな大地の感触と変わる事のない楽園の平和を全身で感じ、深い深呼吸を一度行う。後ろを振り返ったあなたは、ここで始めてあなたの背面にも広がっていた楽園の風景を目の当たりにする。同じく、エネルギーに満ち溢れた美しい緑の草原が続いている。だが、今までの風景とは少し異なるようだ。まず草原の先はなだらかな斜面になっており、その斜面の中心から、あなたが座っていた椅子までの間を小さな小径が続いている。その小径はまるで、あなた専用の径であるかのように、あなたのすぐ側から始まり、なだらかな傾斜へ向かって延びている。
あなたはその径をゆっくりと進む。自然の情景を楽しみながら、あたかも周囲の光と会話するかの如くに進む。歩を進めれば、楽園の息吹はより一層あなたを和ませ、空を明るくしていく。自然の情景の中に美と調和の顕現を感じながら径を進む。
そして進むにつれて、楽園の風景に少しづつ変化が訪れる。なだらかな傾斜を登りつめると、そこには美しい川が流れていた。あなたが座していた楽園の中央に流れていた小川はどうやら、この川の支流の一つであったらしい。なだらかな流れの表面は太陽の光を受け、まるで宝石を散りばめたかのようにキラキラと輝いている。あなたはその流れの中に生命の起源とその躍動を見る。うつくしさをたたえた川の流れはあなたの心の不浄を洗い流す。そこには楽園に満ちている、あの光のもっとも純粋な形態が宿っている。
静かに川の流れのほとりへと歩を進めよう。美しい透明な色彩と輝く青が渾然一体となって美を形成している。川は優雅にそして、喜びをたたえた流れをあなたに見せる。暫し、その流れを見つめよう。次にあなたは臆することなく、川の流れの中にほんの少しだけ入ってみる。銀のサンダルを履いたまま、ひんやりとした心地よい水に足をつけてみよう。
頭上では、あの白く輝く太陽が純粋な光を注いでいる。足元には、心地よい川の流れがあり、あなたに更なる安らぎをもたらしてくれる。光と水の祝福を受けたあなたの心身に美の感覚が充ちる。暫しの沈黙によってその美の感覚と溶け合う。静寂と純粋な光と生命の躍動と歓喜を全身に漲らせ沈黙する。
帰還の時が来た。ゆっくりと川から上がり、元来た径を戻る。柔らかな風は水に濡れた銀のサンダルと法衣の裾をあっという間に乾かしてくれる。周囲の自然は未だ輝きを失ってはいない。あなたはある種の満足感に充たされ、美の感覚と沈黙の神秘を持ち帰る。
瞑想の椅子に帰還したら、ゆっくりと眼を開き、現実の世界へと戻る。


マ ン ト ラ 瞑 想


 マントラの技法は極めて単純である。何故ならば、単純であるからこそ、効果的であるからだ。瞑想者は、まず最初にマントラとして用いる一つの言葉を用意しなければならない。前出のラビ・ナハマンはRibbono shel Olamを用いた。その他にもカバラの学院では聖書やタルムード、ゾーハルなどからマントラの材料が選ばれた。ヨガの体系にはクロウリーが「第四の書」で紹介したAum Tat Sat AumやAum mani padme humがある。いずれにしても重要な事は、一度マントラを選んだならば、それを徹底して用いることである。従って、最初の選択はとても重要である。私が学んだヘルメス学の団体では初期の訓練の一環として、一つのマントラを毎日15〜30分唱える事が義務付けられていた。この実践は30日間間断なく続けられる。もし、一日でもマントラ瞑想をさぼるような事があれば、再び最初から作業をやり直さなければならない。つまり、29日間、連続してマントラ瞑想を行ったとしても最後の日の実践が抜けてしまえば、再び一日目から再開しなければならないのだ。
  瞑想者はまた、マントラへの完全な集中が実践の時間中に何度途切れたかを数えることになる。通常用いられる道具は数珠状のものである。つまり最小限の注意力によって正確に断絶の回数が勘定できるような道具を用意する。最初の日の実践は恐らく惨憺たる結果に終わるだろう。もしかしたら、中断の回数は300回を超えるかも知れない!! 日々の記録を並べ、最終的に統計をとってみればいろいろな事が分るだろう。マントラ瞑想はあなたの集中力と注意力を飛躍的に高める。これ程、効果的な実践は他にはなかなか見当たらないが、それ故に多少の危険性もある。もし、瞑想中に自分の精神を制御できないような状態に陥った場合は速やかに実践を中止すること。その場合には他の技法への移行が考察されるべきであろう。


プラトヤハーラ――思考の抑制


  瞑想を試みる多くの人が、その実、自らの思考の虜になっている。思考の波とは正に間断のない心の雑談である。静かに座し、意識を自分の内側へ向けた時、まず最初に気付くことは人間とは思考の虜であり、思考そのものであるという事実である。「さあ、瞑想を始めよう」、「この瞑想の目標は?」、「この瞑想の特徴は云々…」。視覚化した十字架は一瞬にして、ぐるぐる回転し始め消え去ったかと思うと、意味不明な幾何学模様がメンタル・スクリーンの上を旋回し始める。我々の集中力は訓練を積まない限り、大概はこんなものである。そして改めて気付くことは、強化されていない意志の力は思考という名の偽りの私にあっという間に圧倒され、支配されてしまうということである。実際、ものの10秒であろうとも、「何も考えない」という行為は恐ろしく困難な事なのである。
思考に対する抑制力は瞑想行の要である。この能力を訓練する目的でアレイスター・クロウリーは「第3の書」を書いた。例えば言葉を抑制する能力を高める必要があるとしよう。実践者は日常の会話の中に、あらかじめ決めた特定の言葉( そして、その、しかし、あのー、など )を使わないように注意する。もし、うっかりそれらの言葉を使ってしまったならば、自分自身に対して何らかの罰を与えるのである。クロウリーは「手首か前腕を剃刀で切れ」と書いているが、勿論、そんな病的な行為を行う必要はない!! もし、煙草を止めたいと思っている人がいたら、うっかり言葉を発してしまった罰として、一回毎に煙草を一本づつ捨てるという方法もあるだろう。或いはダイエットを実行している人ならば、失敗の都度におかずを一つ減らす、ご飯を一杯少なくするなどの罰を与えればよい。過度な罰則には意味がないし、第一両腕に切り傷を沢山持っている人となど誰であれ、お知り合いになどなりたくないだろう!
云うまでもない事であるが、注意力や集中力は訓練によって研ぎ澄ますことが可能である。マントラ瞑想は言葉の連続により、思考を排斥し、確たる意志の空間へと瞑想者を導く。間断なき注意と思考の抑制は粘り強い訓練によって強化される未顕現の能力である。あらゆる能力を総動員し、思考を排斥し、心のお喋りを停止する訓練を行え。私の指導はただそれだけである。

  真の瞑想は沈黙へと進み、やがて神性原理と結びついた宇宙魂へと辿りつく。勿論、これらの能力は一朝一夕に獲得できるものではなく、間断なき訓練の結果である。重要なことは、今あなたにもできる瞑想を見つけ、とにかく実践してみることである。いずれにしても、瞑想への径は無限に存在しているのである。