サッチャー登場への布石「不満の冬」

 1997年の選挙で圧勝した労働党であるが、1980年代中頃にはその命運が危ぶまれるほどの深刻な危機に陥っていた。このことを理解するためには、当時のイギリスの経済状況を見ておく必要がある。

 一人あたりのGNPの推移を見ていると、1960年代半ばからフランスやドイツに引き離されはじめ、80年代にはイタリアを下回って先進国中最低レベルまで低下した。とりわけ、1976年にはポンド危機が起こるのだが、この緊急対策としてIMFの融資を受けたため、イギリス政府は財政支出の削減を余儀なくされた。結果として社会保障や公務員の給与抑制という形でのしわ寄せが生じた。激しいインフレの中で不満を鬱積させた組合は、1978年の秋から冬にかけて次々とストライキに入った。鉄道、トラック、水道、学校、病院など次々と広がるストライキの波に、国民生活は甚大な影響を受けてしまう。この年の暮れから79年のはじめにかけて俗に「不満の冬」と呼ばれる混乱状態が発生してしまったのである。国民は混乱状態を収拾できない政府の管理能力のなさにさじを投げ、79年3月に下院で政権の不信任案が可決される。1979年5月の総選挙では保守党が圧勝し、サッチャー政権が誕生する。この時、戦後アトリー政権以来築かれてきた労働党の政治の命運は尽きたのであった。

 要するに、イギリスは60年代から70年代における経済の停滞、ポンド危機、相次ストライキを経て、サッチャー率いる新自由主義へと投入していった。

 

 サッチャーは、「ストを頻発させて合理化に抵抗する労組こそがイギリス経済の元凶である」と断定し、それまでの福祉国家の全面的な改革に手をつけていく。過去の経済システムが作り出してきた様々な既得権と、それを擁護する利益集団への挑戦こそが、国益にかなうものであるとして、福祉国家の行ってきた諸制度を見直し、可能な限り市場の手に委ねようとした。規制緩和、小さな政府のための中央集権的な政策の実施、国有企業の民営化等、新自由主義的な政策で、このイギリス病を克服しようとした。

 例えば、それまで制度的に確立してきた国内産業振興の方向を完全に転換させた。衰退産業への公的な支援は弱小産業の保護につながり、国際的な競争に負ける国を作ってしまう。不況産業地域等の既存産業への支援を通じて、地域格差の拡大を防止する政策を取り止めた。そして、イギリス産業の弱点を国際的にさらけだすことによって、外国産業を誘致することが、むしろイギリスの国益にかなうことだとした。製造業における競争力の低下を克服するため、労働組合の既得権益を排除し、多国籍企業の下で、新たな生産体制を作ろうとした。

 労働組合を全面的に敵視するという政治的な態度はこれまでのイギリスでは見られないことであった。この点一つとって見てもサッチャーがいかに特異で個性的なリーダーであるかがわかる。だが、「不満の冬」がなければ、サッチャーの登場も有り得なかった。サッチャーはたしかに個性が強い特異な政治家ではあったが、1980年代の時代状況にはマッチしていた。老朽化したイギリスの福祉国家システムに改革のメスを次々といれるサッチャーの政策に、多くの国民からの支持の声が集まったのである。

 

労働党の分裂と極端な左傾化

 さて、サッチャーがサッチャリズムとまで称された改革を次々と行っていく片方で、労働党は、それへの反作用のように極端に左傾化した。政党員の中には暴力革命を志向するトロツキストすら含まれ、過激な主張がまかりとおった。こうした過激な左傾化を危惧する穏健派は、1981年に「社会民主党」を設立。労働党は事実上分裂する。ともにサッチャリズムに対抗することを目指しながら、分裂したまま労働党は1983年の総選挙へと突入するのである。そして、EUからの脱退、産業の国有化など過激な公約を掲げて選挙戦に挑んだが、結果的に議席数209という大敗北をしてしまうのである。

 

 1984年には炭鉱閉山問題を契機に、炭鉱組合が無期限のストライキに突入した。これはサッチャー政権と炭鉱労組とのいわば全面対決であった。炭鉱は暴力的なピケなども行って戦ったが、最終的には警察が介入し、逮捕者が続出して全面敗北する。なによりも経済性を度外視して閉山反対を唱える組合側を世論は全く支持しなかったことが痛かった。

 

敗北の教訓から穏健現実路線へ回帰

「時代錯誤的な階級闘争を求めて政権と対決しても、得るものが何もない」。これがこの炭鉱争議で労働党が得た大きな教訓であった。また、実現不可能な過激な公約を掲げても国民は支持せず、その結果として保守党の長期政権を許すことは、労働党のみならず、イギリスの政党政治システム全体の危機でもある。こうした認識が党内に広まった。選挙での敗北と炭組の敗北が、党内の左右派のバランスにも大きな影響を与え、労働党は再生に取組みはじめる。

 そして、政策面では、古典的な国有化を目指す社会主義からの転換を図った。ドイツやスウェーデンの社会民主主義政党と同じく、市場経済と政府介入のバランスを図るという現実的な政策を打ち出した。

 

サッチャーの政策の歪み

 さて、90年代に入るとサッチャーの長期政権の奢りが様々な形で露呈しはじめ、その支持率は低下していく。

 例えば、サッチャーは、労働組合を解体し、都市計画をはじめとする様々な規制を廃止し、ロンドン市をはじめ大都市政府を廃止するという荒業すら行って世界を驚愕させた。自由な企業活動の舞台を用意し、外国資本を誘致し、産業の活性化と雇用の拡大を図る。それがサッチャーが目指したイギリスの再生だった。なるほど、外国からの直接投資は増加し、イギリスが多国籍企業にとっても魅力あるところまで持ってきたのはサッチャーの成果だった。

 だが、こうしたテコ入れにもかかわらず、全体としては先進国間の競争に勝てず、失業率も8〜10%の高率で推移した。とりわけ、サッチャー政権が見放した旧労働党の拠点でもあるヨークからブリストルにいたる旧工業地帯の低い生産性や産業構造再生の遅れが課題として残った。こうした地域の内発的な再生なくしては、イギリス全体の底上げもないことがわかったのである。

 サッチャー政権の歪みを見るためにはスコットランドは良い事例である。大戦後、イギリス経済を支えてきたのは石炭、鉄鉱、造船等の重厚長大型産業であった。グラスゴーは産業革命がはじまった町であり、「世界の船はスコットランドで造られる」とまで言われた。

 しかし、時代から遅れた産業は次第に衰退し、1970年代には「だめな英国」の象徴となった。失業者が町に溢れ、人口も流出した。しかし、エネルギー革命で需要がなくなったにもかかわらず、炭鉱の労働組合は労働党政権の最大の支持基盤であった。炭鉱は国費を通じて維持され、石炭を使った鉄鉱、鉄を使った造船も同じように維持された。

 サッチャーにとっては、炭鉱、鉄鉱、造船等は切捨てられるべき産業であり、次々と閉鎖していく。基幹産業を失ったスコットランドでは、1980年代半ばには失業率が15%を越えてしまうのである。

 また、スコットランドでは公営住宅に住む人々が多かったが、サッチャーの持ち家政策で、公営住宅が売りに出され、多くの人が住む家を失ってしまう。加えて、反対意見が噴出する中で、スコットランドだけ1年早く人頭税が導入される。

 

絶交のチャンスの中での再敗北

 悪名高き人頭税でサッチャーは退陣し、メージャーが禅譲を受けたが、リーダーシップの能力が欠落した人物であるとして保守党内部でも評価が得られない男だった。まさに政権を奪回する上では絶交のチャンスにあるといえるであろう。こうした中で労働党は1992年の総選挙にいどむのである。

 だが、結果はまたしても敗北であった。通算して4回連続の敗退である。保守党は楽々と過半数を取った。

「これだけの好条件を揃えながらも負けるのであれば、もはや労働党の政権奪回は永遠に不可能なのではないか」。「イギリスの政治も日本の自民党のように保守一党支配に変化し、労働党は日本社会党のように落ちぶれてしまったのではないか」。そうした悲観論が沸き上がった。

 

鍵はニューホワイトカラーを含めた国民の支持

 1992年の敗因はどこにあったのであろうか。それは一言でいえば、労働党の改革について国民の十分な理解が得られなかったことにあった。いくら新しい労働党をアピールしようにも、労働党は「労働組合の政党」「重税と非効率な福祉国家を推進する政党」という否定的なイメージで捉えられていた。

 イギリスの選挙区を見てみると、650あまりある選挙区のうち、労働党と保守党がそれぞれ3分の1ほどの安定した牙城を持ち、残りの3分の1がどちらにころぶかどうかわからない浮動票区となっている。ある程度明確な政策ビジョンを持っていれば、その政策が受け入れられない地域ではどうしても勝てない。あえて勝とうとすれば、そうした人に迎合する政策を出さざるを得ず、政策が曖昧になってしまう。そこで、およそ勝ち目がない選挙区でも候補者を出して闘う。相手の牙城で華々しく闘い、あえて敗北することで政策の理念の首尾一貫性を国民に示すのがイギリスの伝統である。また、これには政治家予備軍を若者に経験を積ませるという意味もある。ブレア自身、最初に立候補した選挙区はロンドン近郊の保守党の牙城であり、敗北をしている。

 

 スコットランド、ウェールズ、北部イングランドは労働党の基盤である。したがって、残りの3分の1の選挙区、具体的には南部イングランドをどちらの党が抑えるかが勝敗の決め手となる。南部イングランドには、サッチャー時代に大きく台頭したホワイトカラーが住んでいる。彼らは、国有企業の民営化などの規制緩和で新たな創出されたビジネスで職を得ており、公営住宅の払い下げで資産も獲得している。1980年代の保守党の経済政策で恩恵を受け、伝統的な階級対立の図式からははみだす人々であった。どちらの政策が有利かで揺れ動く浮動票であり、1980年代には保守党を支持した。したがって、労働党が政権を奪回するためには、こうした新たな人々の支持をどうしても得る必要があったのである。

 

ブレア登場

 ここでブレアがさっそうと歴史へと登場する。

 ブレアが最初に注目されたのはシャドウ・キャビネットの内務大臣の時である。労働党は、犯罪は社会病理の結果生じるのであって、重罰よりも社会政策で犯罪を防ぐという立場を取ってきた。しかし、1980年代には若者を中心とする集団的な暴行が蔓延し、人々の脅威となってきた。サッチャーは、「労働党は犯罪者に対して甘い」と非難し、支持を得ていた。ブレアは「犯罪にも厳しく、犯罪の原因にも厳しく」をモットーに、犯罪の要因となっている失業や学校の荒廃などの社会問題に取り組むと同時に、犯罪者に対する厳格な刑罰の適用を主張し、「法と秩序」という保守党のスローガンを奪い取ることに成功した。

 「もう議論は十分である。仕事をはじめる時だ。我々は新しい労働党として選ばれた。我々は新しい労働党として統治する」。ブレアは、選挙中、繰返し「新しい労働党」(ニューレイバー)という言葉を使った。「労働党がこれまでどおりの政権であったらならば、永久に政権は取れないに違いない。勝つためには、これまでの古い労働党の体質改善をすることだ。それこそが自分に課せられた最大の仕事である」。そういう強烈な危機意識がブレアにはあった。

 一つ面白いエピソードがある。1980年代、サッチャリズムの全盛期に、保守党を破るために選挙制度を小選挙区制度から比例代表制に改めるべきだという議論がまき起こった。だが、ブレアは反対した。「ルールを変えることで選挙は勝てるものではない。選挙改革で抜本的な党改革に向けてのエネルギーが失われてしまうのは危険なことだ」。小選挙区制という厳しいタガをはずすことなく、広範な市民の支持を得るための新たな理念を確立することが重要だと考えたのである。

 1987年、当時34歳であったブレアは、ガーディアン紙に政権取得に向けてのニューレイバー宣言を寄稿している。

  1. 政権取得のためには、本当に近代的である実を示さなければならない。
  2. 社会主義的な教条をおしつけて現実を批判するのではなく、人々にとって何が必要か、何が役に立つかを先に考えるべきである。
  3. 効率性か社会的公正かという選択は問題の立て方が間違っている。効率と社会正義は必要不可決のパートナーである。

 要するに、福祉国家体制の中での既得権を排除して、人々の自立と責任を基本路線に、それを国が支援するという極めてわかりやすい理念であった。

 

国民政党への脱皮〜第四条の改正

 ブレアは党近代化のために行なった最初にして最大の仕事は、党綱領第四条の改正であろう。第4条は1918年のロシア革命の影響を受けて制定されたもので、マルクス理論を充実に反映し、企業の国有化を規定していた。党員証の裏にも印刷され、まさに党の象徴だった。1959年にゲイツケルが一度その改革に手をつけたが、失敗して以来誰も取り上げなかったものである。

94年、ブレアは党首に選出されると、

「改正こそが、選出される党に生まれ変わる最も重要な手段である。改正によって新たな労働党の姿を国民の前に示さなければならない」と強くこの党綱領第四条の改正を訴えた。

 だが、伝統的な労働党員にとっては、第四条は党の魂ともいうべきものであった。党大会では左派の反動が強く、「あくまでも四条を守れ」との決議を採決し、ブレアは一度敗退する。だが、ブレアは諦めなかった。持前の強い意志と粘り強さで党内を説得しつづけ、ついに95年4月の臨時党大会で改正を認めさせてしまうのである。

 この成果には各方面から称賛の声があがった。綱領改正は、労働党員やその支持者に新たな時代の訪れを学ばせる良い教育機会になったし、広く国民全体にブレアの果敢なリーダーシップぶりを印象づけた。サッチャー前首相でさえ「ブレアには決断力と実行力がある」と高く評価した。党内外に新リーダーが誕生したことを認めさせ、ブレアは党内での指導力を強め、党の近代化に邁進する。

 要するにブレアは、労働組合の組織的な支援を受けて、その利益を政治的に反映させるという従来の閉鎖的な労働党からは手を切り、広く国民のニーズに応えられる政党へと脱皮させることに成功した。

 

環境保護グループを支持につける労働党の戦略

 国民的ニーズには環境保護対策も含まれるであろう。ブレアは1980年代後半から、党改革を進める中で、女性や市民運動をターゲットとして、市民的政党を作ることを目指してきた。

 市民もリアリティを持っている。例えば、労働党は、1997年のCOP3に向け、二酸化炭素の排出量を90年レベルよりも15%削減することを主張し、ドイツと並んで温暖化ガス削減には熱心に取り組んできた。そこで、環境保護グループは、泡沫政党に終わってしまう「緑の党」を作るよりも、環境保護に熱心な労働党を支援して、この党の環境政策に影響力を及ぼすことを運動手段にするのである。

 

レイバー・マニフェスト97〜安心と信頼

 イギリスの政党は、どんなに理想を唱えても実際に権力を握らない限りは何もできないというリアリズムを持っている。リアリズムは政策にも通じる。コストの裏付けもなしに、国民への甘い公約だけをならべたものを「ウィッシュ・リスト」という。国民に甘いことばかりを並べて歓心を買おうとする無責任な政治家という否定的な評価を受けるのである。

 しかし、これまではたとえ政権を取ったとしても、労働党がいう国有化といった看板政策が実現できないことは誰もが内心では考えていた。だが、長年のいきがかり上、シンボルを簡単に下ろすわけにはゆかなかった。党の熱烈な支持者に対するリップサービスと国民に対する公約を使い分けるという二枚舌を用いてきた。ブレアは「この党と国民に対して別のことを語るという二枚舌をやめなければならない」と主張した。有権者の信頼を勝ち取ることが重要であると考えたのである。

 ブレアは、教育の拡充という重要課題のために、児童福祉手当ての廃止という既得権の削減に踏み込んだ政策論争を起こした。

 1997年4月、レイバー・マニフェスト97が発表される。イギリスでは、選挙公約として各党が理論的な選挙公約を公表して有権者に訴える。1979年にサッチャーが登場した時も、そのラディカルな中味が関心を引いたが、これに匹敵するほどの注目を浴びる内容であった。

 ブレアは、教条的な左翼思想をかなぐり捨てた。1980年代にイギリスで進行した脱工業化、民営化、市場原理の浸透といった社会の国民生活の変化を鋭く見抜いた上で、成熟社会における政治社会変革がどうあるべきかを提示したのである。

 レイバー・マニフェスト97は500万部も印刷され、400円で各方面へ配布されたが、たちまち売り切れた。

 タイトルこそ「イギリスはもっとよくなれるはずだから」とつけられていたが、表紙には、未来を憂えるブレアの深刻な顔が掲げられていた。それまでの政治家は、票をえるために作り笑いをして媚をうる例が多かったが、ブレアは全く、その逆を行った。

 政府が変わることで国民の不安を取り除くことに多くのページをさき、なによりも安心を強調した。社会主義という言葉は必要最小限しか用いず、かわりに市場競争やPFIが書かれ、保守党政府が行ったことでも正しいことは変えるつもりはないとした。ブレアは何よりも、自分が信頼に値する人物であることを国民に示したかったのである。

 

したたかな選挙戦略

 だが、実際にはブレアは相当なしたたかさを持っている。国民への信頼を訴えるポーズの背景には、実はこれまでになくアメリカの影響が大きくあった。ブレアは若さと清新さで人気を博していたが、常に影の参謀がつき、用意周到に言動やパフォーマンスをチェックしていた。1996年のアメリカ大統領選挙に労働党はスタッフを派遣し、クリントン再選のメディア対策のノウハウを初めて輸入したのである。このため、メディア対策でも保守党に先んじていた。

 サッチャーも労組を敵にすえて、これと正面から闘うことで支持を得た。ブレアも旧社会党という内なる敵と闘うことで支持を得た。これから売り出すべき商品(政策)について、党内で広範な議論を巻き起こし、古いものへの郷愁を立ち切って全面的なモデルチェンジを行った。労働党にとって最大のスポンサーである組合と緊張関係を作り出すことによって、党の内外の一般国民に対して果敢さを印象づけることができた。

 

地滑り的なブレア圧勝

 1997年、投票率70.7%でブレアは圧勝した。労働党は148も議席を増やし、保守党は171席を失った。

 全国のほとんどの選挙率で投票率は70%を越えた。政権交代への期待が高く、とりわけ若者の支持率が高かったからであった。

 

 当選議員の内容もこれまでとは一新されていた。419名の国会議員の内訳は40%がブレア主義者であり、40%が自治体議員出身だった。従来の大きな政府や古いタイプの社会主義を支持するものは20%にしかすぎなかった。労働運動のたたき上げの汗くさい中年男からなる政党というイメージは払拭された。実際に、国会議員の前歴を見てみると、公共やボランティア組織、NPO等地方での現場の仕事に携わり、公共と民間とのパートナーシップのあり方を経験してきた人々が多い。また、国会全体では659議席のうち、101名(保守党が13名)と15%が女性議員が占め、うち65名が新人だった。ブレアは、女性議員にも恵まれていたのである。

 ブレアは、慣例ではなく内容重視の行動を取り、儀礼的なしきたりも拒否する。議会への初党院では首相官邸から議会まで、シェリーと手をとりあって登院してみせた。

 閣僚も新しかった。首相のブレアは43歳であり、教育雇用大臣のブランケットは国会史上発の先天性視覚障害を持つ大臣である。北アイルランド担当大臣のマジョリーは女性である。経歴は多様だが、共通しているのは、官僚組織からの支持を受けて仕事をする者はほとんどおらず、公約の内容を充実に法律化し、実現できる能力を持った実力者たちばかりだということである。

 

ブレアの官僚対策

 ブレアはサッチャーを批判しつつも尊敬するところがあるらしい。「サッチャーの失敗は、社会の調和を考えなかったことだ」とその政治姿勢を批判しつつも、ブレアは、サッチャーを首相官邸に招いて、EU首脳との外交交渉の手ほどきを直接受けたりした。

 たしかに強力なリーダーシップという点では両人とも共通している。ブレアは、首相に権力が集中する一見独裁的ともいえる大統領的なシステムを作ろうとしている。例えば、官邸に若手のブレーンを数多く登用し、各省庁は首相府との相談がなければ政策を打ち出せない。

 もとより、イギリスの伝統では政党が政策を立案する場合に、官僚と対抗して細かいことまでは自らは作らない。最も重要なことは、自分たちが掲げる再重要課題を実施するためには、既存の政策の中で何をやめるか、あるいは誰に負担を求めるのかという決断を下すことにある。政治家は政策の大まかな枠組みを示し、技術的な細かい詰めは官僚が行うという役割分担がなされている。伝統的にイギリスの官僚は政治に対しては受動的で中立であることを徳目としてきた。

 だが、これを変えたのもサッチャーだった。サッチャーは人事権をフルに利用し、保守党への忠誠度合を官僚の昇進規準にした。このため、中立であるべき官僚が保守党と一体化するという現象を起こしてしまったのである。ブレアがブレーンを登用しているのは、官僚の中立的立場を変えようとしているのではなく、むしろ公務員の中立性を守るために、公明正大な政治化を目指しているといえよう。

 ブレアのやり方の方が害が少ない。政治家が政策決定に実質的な責任を負うという仕組みを整備する点からもブレアの行政に対するコントロールは有効なモデルとなりうるであろう。


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