2001年5月

ママちゃん、いつもどうもありがとうぅ〜♪♪
さすがは我が息子! 6歳ともなるとやる事がにくいわぁ〜♪
日頃の感謝を込めて、ノーチャンはママちゃんにカーネーションとケーキのプレゼントを用意してくれました。
それにほら、上手にお歌まで歌ってくれたのぉ〜♪
さぁ〜さ、みんなで母の日のパーティーを始めましょう〜♪
この時のBGMは「5月の歌」です。
時代と共に移り変わる母の姿
日本における昨今の母の姿は、どのように変化してきたのでしょう?
日本は太平洋戦争前と後とでは、大きく生活が変わりました。
戦前に見られる女性(母)の姿は、一般的には家庭の中で家事・子育てをするといった姿です。
その当時の女性には、現在のように便利な家電製品はほとんど無く、1日中働きづめで家事労働に追われていました。
もちろん、自分の趣味についやすような自由な時間はほとんど無かったのです。
それが、時代が立つにつれて、便利な家電を手に入れた女性は、母となっても社会へと進出したり、自分の自由になる時間が
できてくるようになりました。
1940年〜1950年までの日本は、生活に余裕が無く、日々生きていくのが精一杯という生活でした。
1950年〜1960年代中ごろまでは、戦争の傷跡からも癒えはじめた頃で、日々の平穏を実感しはじめる時期だったようです。
生活に不安がなくなる1965年頃〜1975年頃からは、女性も社会へと進出していく時代になりました。
しかし長年の男性上位で運営されていた日本の社会は、まだまだ女性を一人前の戦力として認めるには至らなかったのです。
それで1975年頃〜1985年頃までは、女性も一人の人間だと認められたいフラストレーションが溜まる時代でした。
1985年頃〜1990年代は、ようやく女性も一戦力として社会に認められるようになり、個々の趣味やスポーツ等、自分にしか
出来ないものを求められるような、個人主義の時代となりました。
このように現代は、女性は結婚し母となっても、ドンドン社会に進出するのが当たり前となりましたが、その結果子供との生活は
昔に比べて希薄になったようにも思われます。
もちろん、母の愛は昔も今も子供を第一にと、常に努力してきました。
でも最近の日本の事情は、個人の努力ではもうどうにもならない位、複雑になってきていると思うのです。
21世紀の時代は、社会の仕組み自体があらゆる良い方向に向いて、母も子も心配の無い生活が出来れば・・・、と願います。
母の日の花
母の日の花といえば、カーネーション以外にはありませんね。
その花言葉はズバリ「母の愛」。
この時期、美しく咲くカーネーションは、まさにお母さんにぴったりの花です。
でもどうして、母の日にカーネーションを贈るようになったのでしょう?
それは、十字架に掛けられたキリストを見送った聖母マリアが流した涙が、地面に落ちて生まれた花という言い伝えにちなんで
いるそうです。
そして赤い花びらは、その時キリストの体から飛び散った血の色であると言われています。
子を思う優しい母の愛が、この花を生んだのですね。
また、古代ギリシャ人がオリンポス山の神々、とりわけ主神ゼウスに捧げた花とも言われています。
カーネーションと呼ばれるようになったのは、昔この花で冠を作った事から、この花は花冠・花輪を意味するラテン語のCorona
が変化して、Carnationとなったと言われます。
母の日の始まり
始まりはアメリカに住むある女性の行動からなのです。
1905年5月9日、アメリカのミズーリ州ウェブスターの教会の牧師の妻、ジャービスさんが急病で亡くなりました。
ジャービスさんを慕っていた子供たちは、ジャービスさんが亡くなった日には教会へ集まり、ジャービスさんを偲んでお話を
しようと相談しました。
そしてその時には、ジャービスさんの娘のアンナさんも呼ぶ事を決めたのです。
ウエスト・バージニア州に住んでいた娘のアンナさんは、教会でお母さんの命日に白いカーネーションを配りましたが、
その事をきっかけとして、多くの人々がもっと母親を大切にできるように・・・、と考えるようになりました。
そして、1907年から母親のための祭日をつくる運動を始めたのです。
1908年5月10日、アンナさんによって最初の「母の日」の礼拝がシアトル市グラフトンの教会で行われました。
この時、ウエストヴァージニア州には、407人の子供と母親が集まったとされています。
それと同時に、ファラデルフィアのデパートでは「母の日記念会」が盛大に行われました。
その後、この新しい行事は1911年にはアメリカのほとんどの州で祝われるようになったのです。
1912年、国際組織が発足されると、翌年の1913年にはアメリカの衆議院が、満場一致で法律に定める事を可決します。
その翌年、1914年ウイルソン大統領によって、5月の第2日曜を「母の日」と法律で定められると、正式に国家的な行事として
認められました。
こうして今では「母の日」は、アメリカの国家的行事には留まらず、世界的な行事となりました。
その後人々は「母の日」にお母さんへカーネーションを贈るようになりました。
日本では、1915年(大正4年)に当時の青山学院教授アレクサンダー女史が「母の日」を紹介しました。
その後、婦人矯風会等のキリスト教関連団体が中心となって広め、1923年に最初の「母の日」の行事が行われました。
1931年になると、皇太后を国の母とみなし、皇后の誕生日である3月6日を「母の日」と定めました。
1937年には、森永製菓が提唱した事もあって、次第に「母の日」は広まっていきました。
太平洋戦争後、1947年に日本でも5月の第2日曜日を母の日とするようになりました。
以前は母親が亡くなってしまった人は白いカーネーションを、母親が健在の人は赤いカーネーションを贈っていました。
赤いカーネーションには「健康を祈る愛」、白いカーネーションには「亡き母を偲ぶ思い出のために」という意味があるからです。
ところが最近では、カーネーションの品種改良も有り、色合いが豊富になった事や、個性や好みに応じたりと、あまり色には
こだわらなくなってきたようです。
母へのプレゼント
現在の日本では、母の日のプレゼントで一番多いのが、どうやらエプロンのようです。
でも今のお母さんが一番欲しいのは、お花なんですって!
その次は服・宝石・バック・化粧品・・・、と続きます。。
どうやらエプロンが欲しいお母さんは、今時あまりいないようですねぇ〜。
リンチャコもエプロンは持ってはいますが、使う事は滅多にありません。
あっ! こんな事書くと、エプロンするほど大変な事を家でやってないって、バレバレだわぁ〜!!
現在のアメリカでは、「母の日」はクリスマスについで最も大きい行事の一つとなりました。
家庭第一のアメリカですから日本同様(それ以上?)、デパートの母の日商戦も活気に溢れ、夫は妻へ、子供は母へと
プレゼントを用意します。
小学校でも母の日プロジェクトを作り、本棚などの工作を作る等、自分に見合った作品を母の為に作るそうです。
エプロンの歴史
エプロンは、古代エジプト時代から存在が確認されている以外と古い衣類ですが、今のエプロンとはずいぶん趣が違いました。
今のような実用的なスタイルになったのは、16世紀頃からです。
それまでのエプロンは、王族・僧侶等の権力者の象徴として使用されていました。
更に中世には、武装の一部として用いられてもいました。
17・18世紀のヨーロッパでは、貴族・上流階級の人々によって、豪華に飾り立てた装飾品として競われるようになります。
その当時のエプロンは、小さい形・精巧なレース・贅沢な布地に金銀の刺繍の施されたもの・ポケットのついたもの・三角や
ひし形などの小さな胸当てのついたもの・・・etc. デザインや趣向を凝らした物でした。
やがて、フォーマルドレスに「飾りエプロン」を着用することが流行すると、ついに宮廷服に取り上げられるようになりました。
最も豪華なエプロンとして有名なのは、フランスの各王様ゆかりの人物のエプロンです。
アンリ4世の妃マリー・ドゥ・メディシスのエプロンは、ダイヤモンド・真珠を2,000個あまりも付けた物でした。
ルイ15世の寵愛を受けたポンパドール夫人のエプロンは、金糸・銀糸で織らせた布に一面ダイヤモンドを散りばめた物。
ルイ16世の妃マリー・アントワネットのエプロンは、絹のローブの上に、レース・リボン・生花・造花・花模様の布などで飾り立て、
その上に真珠をあしらった豪華な物。
いずれも、これでもかこれでもか! と、贅の限りを尽くしたエプロンですが、実用目的とは程遠い物でした。
世界の民族衣装の中には、今でも実用よりも装飾を目的とした美しい芸術的なエプロンが数多く見られます。
黒の絹地にスパンコール・ビーズ・金糸の刺繍を施したユーゴスラビアのエプロン、毛織物にビーズ・毛糸で華やかな刺繍をした
エプロン、細かいアコーディオン・プリーツのスカートと組合わされた刺繍のあるエプロン・・・etc.があります。
日本では、弥生時代の始め頃にはすでに織物が存在していました。
その頃からエプロンが存在していたかどうかはわかりませんが、服を着るような生活をするようになれば、その服を汚さない為に
前掛けをするようになったと想像できます。
ただし、記録では中国からの渡来された物と言われていますが・・・。
やがて作業用としてのエプロン=前掛けは、庶民・商人等の大衆に用いられるようになります。
この「前掛け」は、胸当てが無く腰から下げる一枚の布でした。
その形から、江戸時代には「前垂(まえだれ)」と呼ばれていました。
その後、文明開化が起こり明治の時代には、洋服とともにヨーロッパから現代の形のエプロンが入ってきました。
この時日本に入ってきたエプロンは「洋装前掛け」「サロン」と呼ばれ、やがて上流階級のご婦人方の憧れのスタイルとなります。
大正時代、服飾文化の代表として登場するのは「カフェー」の女給スタイル。
このスタイルは、髪を洋風に結い、着物の上から胸当て付きで丈の長い白いエプロンを付けたいわゆる「和洋折衷」でした。
やがて、昭和40年代の太平洋戦争後、庶民にはまだまだ前掛けや割烹着の全盛であった時代ではありましたが、そんな時代に
海外ブランドのファッション性高いエプロンが登場しました。
これは「ドレスエプロン」と呼ばれ、爆発的エプロンブームを呼びました。
エプロンの語源
現在の英語の呼び名「エプロン」は、13世紀「アポーン(aporne)」、14世紀「ナプロン(napron)」の呼ビ方が変化したと
考えられています。
「ナプロン」のスペル「napron」は、不定冠詞の「a」を付けて「a napron」とするのが正しいのですが、間違えて「an」を付けた為に
「an apron」としてしまいました。
それを更に「an」を除いて「apron」(英語)にしてしまった・・・、というのが語源の由来とされています。
ちなみに「ナプロン(napron)」は、ラテン語で一枚の布という意味の「mappa」(マッパ)からきているそうです。
