公害の原点
ーー足尾銅山鉱毒事件の現地を訪ねてーー

                                      文  ・石川徹也
                                      写真・臺  宏士
 

 2001年12月10日に田中正造が足尾鉱毒問題を天皇に直訴してから100年が経つ。山を考えるジャーナリストの会では、この機会に日本の公害問題の原点を振り返ろうと、足尾銅山(栃木県)の視察会を9月22日に、西日本最大の煙害事件を引き起こした別子銅山(愛媛県)の視察会を10月8日に行なった。ます、足尾銅山の視察会から報告する。
 

足尾鉱毒事件とは
 

 足尾銅山鉱毒事件とは、栃木県上都賀郡にある足尾銅山から流出する鉱毒が、周辺の山を源流とする渡良瀬川沿岸の農漁業に被害を与えた事件である。
 

 1600年ごろに開かれた足尾銅山は、1877年に後の古河財閥の礎をつくる古河市兵衛が経営を始めてから急激に発展した。しかし、翌年から洪水の度に、渡良瀬川の魚が死んで浮き上がるなどの異変が起き始めた。足尾銅山から垂れ流された鉱毒によるものだった。1880年には栃木県令が有毒を理由に渡良瀬川の魚の捕獲禁止を布告した。
 

 さらに、銅の精錬のために、銅山周辺の山林を乱伐したり、大量の硫黄分や硫酸を含んだ煤煙によって周辺の森林は大きな被害を受けた。丸裸となり、保水力を失った山では洪水が頻繁に起こるようになり、鉱毒被害は深刻化していった。
 

 1891年の帝国議会で、栃木県選出の衆議院議員田中正造は、足尾鉱毒事件について初めての質問を行なった。1897年には渡良瀬川鉱毒被害農民2000人が請願のために上京するなどしたため、政府も古河に対し、鉱毒除外工事の命令を行なった。しかし、鉱毒被害はなくならず、地元では操業停止の声が強くなった。そして、1900年2月には、被害民数千人が請願のために上京途中に、川俣村で警官隊と衝突するという事件(川俣事件)が起きた。
 

 この事件に激怒した1901年に代議士を辞職した田中正造は、鉱毒事件を天皇に直訴し、マスコミや世論は鉱毒事件の早期解決を政府に求めた。
 

 それに対し、政府は1902年3月に、再度足尾銅山に対し、厳重な鉱毒予防工事の実施命令を出すなどの対策を取り始めた。しかし、その一方で政府は、渡良瀬川と利根川との合流点に近い栃木県下都賀郡谷中村を1907年に土地収用法に基づき強制収用し、新たな問題を生んだ。鉱毒水をため込む巨大な貯水池を、谷中村に造ろうという計画によるものだった。
 

日本のグランドキャニオンへ
 

 現地視察会の前夜、佐野市の私の山仲間である山本俊一郎氏の自宅離れに泊まった臺、伊田、石川の3人は寝酒も早々と午前2時前には切り上げて寝る。翌朝、山本氏の案内でまず、佐野市内の田中正造の生家を訪れる。受付兼案内人の説明を聞きながら、書斎などを見る。その後、車で約2時間ほどをかけ、足尾へと向かう。
 

 足尾鉱山が閉山したのは、1973年である。30年近くが経つというのに、周辺の山はいまだ赤茶けた山だった。地元では「日本のグランドキャニオン」と名付け、観光地としての振興を図る動きもあるという。


 

 圧巻は鉱山の足尾精錬所である。松木川沿いの岸壁上に立つ精錬所は、巨大な戦艦の大砲のような煙突を一基空に向けて立っていた。精錬所は、1989年に古河鉱業の撤退によって、第二会社に移され、今では廃墟のような雰囲気を漂わせる。1893年に当時最新のベッセマー式製錬を導入したのを機に、後に「東洋一の大銅山」と称される礎を造った。わずか100年あまりでその栄光から廃墟へと滑り落ちた風景は何を意味するのか。
 

 因果応報ーー。人間社会ばかりか自然そのものを激変させた報いが、その歴史を閉ざしたのであろうか。
 

 次に松木川沿いの未舗装道路を遡り、松木村があった場所へと行く。周辺の山は「日本のグランドキャニオン」そのものだった。緑がほとんどない斜面には赤茶けた岩肌が露になっていた。山本氏の知り合いのロッククライマー君は、この山を指し「ここは天国だー」と絶叫したという。見る立場が変われば、見方は180度違ってくるものだ。


 

 松木村は、精錬所からの煙害に苦しめられ、約270人の住民は、1902年に移転を余儀なくされた。今、松木村跡地には古びた墓がいくつか残されている。それらの墓は、精錬所のカラミを投棄し続けた松木堆積場の黒い斜面を恨むように立っていた。
 

 足尾が今、私たちに伝えるものーー。それは、産業公害の恐ろしさだけでなく、権力者の意志に従うしかなかった当時の民衆の嘆きであり、その嘆きを怒りに転嫁させていった田中正造という人間の生き様である。こうした公害の構造そのものは、1970年代まで、近代化先進国家へと脱皮したはずの日本でいまだ普通に見られた光景でもあった。