豊島―これからのl0年()

 

津川敬 環境問題フリーライター

 

 香川県の豊島と直島――。この二つの離島でいま大がかりな工事が同時並行の形で進行中である。

  豊島の産廃を引き受け、中間処理をしてほしいという香川県の要請を直島町が正式に受け入れたのは2000年3月22日のことであった。それ以降、多くの難題を孕みながら直島には2001年8月から中間処理施設の建設工事、豊島では2000年12月から廃棄物を送り出すための基礎工事が始まっている。直島の中間処理施設建設工事は期限を30ヵ月と定められ、それが終わり次第、さらに1O年を要する事業が本格的にスタートする。日本の廃棄物処理史上、稀に見る大プロジェクトの発足である。

 
二つの島影

ケロイド状の山肌と
三菱マテリアル直島精錬所の船着場

  瀬戸内海に面した岡山県宇野港から豊島を経由し、小豆島の土圧港を目指すフェリーはものの5分ほどで異形の島影に出会う。直島である。日本のエ-ゲ海と呼ばれ、緑の島々に恵まれた瀬戸内海の中で、この島の北海岸は唯一ケロイド状の山肌がむき出しになっている。その奥に広がっているのが大正6年設立の三菱マテリアル樺シ島製錬所だ。敷地面積約180ヘクタール、工場建屋面積は約10ヘクタールという(写真)。

  銅製錬を中心としたこの工場が84年前に動き出して間もなく、煙突からの煙で山を覆っていた樹木はことごとく枯死した。銅製錬の原理は銅の粗鉱に含まれる鉄と硫黄を溶融しながら分離し、次第に銅品位を高めてゆくというものだが、そのあと硫黄分だけを燃やす工程がある。大正年間には公害防止の理念はなく、煙に含まれる大量の亜硫酸ガスが山を丸裸にした。

  フェリーは直島北海岸をかすめながら南下し、いくつかの小島の間を縫いながら20分ほどで航路を北東にとる。やがて右手前方に見えてくるのが豊島北海岸である。1年前、そこは一面の荒野であった。

  周囲20キロ足らずの豊島をはるかな上空から見ると全体がエイの形をしている。その東側部分を頭部とすれば、不法投棄事件は島の西側、小さな尾びれの部分で起きた。その地区一帯を水ヶ浦と呼ぶ(図)。

  海の風景がもっとも美しいのは陽が沈む時である。水ヶ浦は昔から豊島随一のサンセットサイドとして聞こえていた。

  豊島の不法投棄事件が明るみに出たキッカケは1990年11月の兵庫県警による一斉摘発である。粗野で粗暴な小男、豊島観光開発株式会社代表・松浦庄助によって不法投棄され、水ヶ浦を埋め尽くした廃棄物総量は、のちに50万トンと判明した(汚染土壌を含めれば62万トン)。

  その翌年公表された日本全土の不法投棄量が209万トンだったから、この小さな離島に起きた事件の由々しさが想像できよう。

  20ヘクタールに及ぶ水ヶ浦の敷地は山を切り崩した砂利の採取跡地だった。海面スレスレの地点からおよそ10メートル、高いところで2Oメートルまでシュレッダーダストや製紙汚泥が積み上がり、そのまま放置されていた。さらに横っ腹にドクロ

フェリーから見える豊島北海岸
(ゴアシートが銀色に光る)

マークをつけた正体不明のドラム缶がゴロゴロと掘り出され、あまりの惨状に兵庫県警の捜査員が絶句したという。事件発覚後、香川県が実施した実態調査では処分場の溜り水から鉛、油分、総水銀、BOD、CODが排水基準を超えて検出された。


その現場はいま真っ平らに整地され、敷地を覆う銀色のゴアテックスシートが秋の陽光にキラキラと輝いていた(写真)。

  フェリーは北海岸に連なる甲崎を迂回し、豊島の玄関口・家浦港に着く。

 



汚水の漏出

  不法投棄の現場、水ヶ浦は家浦港から西南に約3.7キロ入ったところにある。ひっそりとした町並みを抜け、くねくねした町道を15分ほどクルマで辿る。途中、雑草が生えるにまかせた休耕田が多かった。

 

かつて見学者で賑わった豊島水ヶ浦の現場(1995年頃)
同じ現場はいま(2001年10月末)

案内してくれた豊島住民会議の砂川三男議長がいう。

  「水田は豊島全体で114町歩あるんですが跡取りがいません。皮肉なことに休んでいる田んぼが多いから今年のような猛暑でも水は十分足りていました。7年前(95年)に1588人あった人口がいま1361人です。実に15%が島から外ヘ出てしまった勘定ですわ。小学生は34人、中学生が4人。去年生まれた赤ん坊が2人です。このままいくと6年後には小学生2人になってしまう」

  豊島の総面積は14.16平方キロ。東京目黒区とほぼ同じである。ちなみに目黒区の現在人口は23万6000人という。

  現場に到着する。何度も訪れ、見馴れている風景だが、重傷者が包帯やギプスをまいたように敷地全体に工事の手が加わっている。

  クルマを降り、歩いて北海岸に出る。先刻フェリーから見たゴアテックスが目映く、数人の作業員以外、人の気配はない。ここはかつて来島者で賑わい、油と有機溶剤が入り混じったような臭気が漂う、メインの見学者コース≠セった(写真)。

  「いまもごみの層から1日129トンの汚水が海へ流れ出しているんですわ。早急にこれを止めにゃいかんのです」






 

A(西海岸と南側敷地)の部分に埋まっている廃棄物をBに移す。
Aの整地が終わったら特殊前処理施設、中間梱包施設、高度排水処理施設を建設する。北海岸の点線が鋼矢板。

工事は暫定環境保全措置という名で始まった。手順は以下のとおりである。


<第1工区>

  まず北海岸から有害物が漏出しないように鉛直遮水壁として長さ370メートル、深さ18メートルの鋼矢板を入れる。柱状ソイルセメント(土にセメントを混ぜ、湿らせて固めたもの)による遮水工も考えられるが、10数年先に廃棄物の撤去が完了した際、元の自然海岸に戻したい、というのが住民の願いだから切断の上、除去することが可能な鋼矢板とした。

<第二工区>

  ここでは廃棄物の掘削移動を行なう。西海岸や南側の敷地に埋設されている廃棄物群を中心部に寄せ集める作業だ。

<第三工区>

  廃棄物を掘削移動させたあとの西海岸を整地し「高度排水処理施設」や「廃棄物の前処理を行なう施設」および「中間梱包施設」を建設する。直島の中間処理施設が完成し、廃棄物の本格掘削が始まるまで、廃棄物の表面はシートで覆われる(図)。

 

先行き不透明


 

廃棄物入りドラム缶を「入れ子」にしたドラム缶。脇に腐った空ドラム缶が
汚水をいったん溜める中継池。ここから斜面上めでポンプアップする

砂川氏がいう。

  「工事をやればやるほど新しい問題が出てきます。まずこれほどの汚水が漏れ出すとは計算外だったし、汚染土壌の多さも予想外でした」

  掘削現場では138本もの腐りかけたドラム缶が発掘≠ウれ、作業員を仰天させた。

  中身が分からないため、ひと回り大きいドラム缶に入れ子にして置いてある(写真)。

  「6年前の調査で50メートルメッシュ(網目)の掘削をやったけれど、あくまで抜き取り調査だから、今後どんな廃棄物が出てくるかわかりません」

 現場の大モは斜面で、テッペンから下は約25メートルのごみが埋まっている。低い方でも約15メートルと想定される。不法投棄量50万トン≠ェ実感される数字だ。

  北海岸で行なわれるのは、汚水処理ではなく、それを敷地内で循環させ、海へ流出させないようにする工事である。地形的にも土木工学的にも「汚水を外に持ち出すこと」は不可能なのだ。完了しても汚水は16分の1ほどは流れ出すという。約8トンである。

  汚水はいったん揚水ポンプで斜面上まで押し上げ、敷地内を循環させた上、最後は蒸発散させる。フッ素樹脂のゴアシートは蒸発を助け、雨水の流入を防ぐ。そうすることで汚水は徐々に減って行く。

  いまのところポンプのパワーが小さいため中継池を設けていったん汚水を溜め、そこからまた上まで押し上げている(写真)。特注の強力ポンプが到着次第、汚水は一気に斜面上まで圧送が可能になるという。

  雨水は汚水と選別され、敷地南側と東側に雨水排水路を敷設、排水を沈砂池等に導いた後、水質を確認して海域に放流する。

  西海岸が整地され、高度排水処理施設ができればそこから本格的な汚水処理が始まる。

  以上の工事は同時並行で急ピッチに進められているが、現在(2001年10月末)までに約7億円の工費がかかっている。工事は始まったばかりで、この先いくらになるか予想もつかない。

  これについて99年4月、豊島住民会議に推されて当選した石井亨県議会議員がいう。「工事のひとつひとつが一般的な土木工事みたいに積算できるものじゃありません。途中で何度も補正が入る筈です」

  そのたび県議会はピリピリし、「どこまでが上限か、全体像を出せ」と担当部局を突き上げている。直島の中間処理施設の建設費やランニングコストの不透明さもあって、香川県の出費は天井知らずとなりそうだ。

 
瀬戸内屈指のリゾート地


  豊島と直島をつなぐフェリーの運航はまったくない。豊島から宇野港に戻り、改めて直島行きに乗り込むしかなく、接続が悪ければ数時間をロスすることになる。これはもっぱらフェリー会社の経営事情によるもので、両島の距離は10キロと離れていない。いわゆる指呼の間である。

  だが豊島のごみを直島で処理することは、単に距離が近いだけでは済まぬ多くの難題を抱え込むことでもある。

  まず豊島ではごみを前処理し、細かく裁断して梱包の上送り出すことになるが、船の発着に現在の港を使うことはできない。そのため新たな桟橋を両方の島に設けねばならないが、その場所をどこにするかも問題である。潮流の関係で、漁業者からクレームがつく可能性もあり、話がこじれればさらに予算増を招きかねない。

  直島――。正式には香川県香川郡直島町という。この島は東西2キロ、南北5キロ、周囲16キロの小さな離島だが、行政としての直島町はその周囲に点在する27の島々を含んでいる。本島の面積は約8平方キロメートル、人口は属島を含め3889人である。煙害でただれた北海岸の山肌から受ける印象とは異なり、直島本島は寒暖の差がゆるやかで年間降雨量も少なく、瀬戸内型気候に恵まれたのびやかな島のひとつである。

  江戸時代、天領の地だった直島は古くから民衆芸能も盛んだった。そのひとつ、直島女文楽は国の無形文化財にも指定されている。

  島の南東部にはベネッセコーポレーション鰍ェ造営した国際キャンプ場があり、夜になると西海岸からイルミネーションで飾られた瀬戸大橋が望めるなど、島の大部分は年間2万人の観光客を集める瀬戸内海屈指のリゾート地としていまひそかな人気を集めている。

  さらに直島周辺の海域はハマチ、鯛、カンパチなどの豊富な漁場でもある。年間100億円の水揚げを誇り、特にハマチと海苔の養殖では香川県随一の実績を持つ。

  そんな直島が、なぜ豊島の廃棄物を受け入れるに至ったのか。

  もう一度豊島問題を振り返る。

 
紆余曲折の公害調停


  もともと、豊島住民の悲願は一刻も早く廃棄物を島外へ撤去させることであった。だが「あくまで(撤去は)業者の責任。県の代執行は考えていない」を繰り返す県の頑な態度に住民たちが選んだ道が公害調停だった。

  香川県には「シュレッダーダストを廃棄物ではなく、有価物だ」との判断を行なった重大な責任がある。松浦庄助はそこにつけ込んだ。いわば県と松浦は共犯≠ナあった。

  1994年3月23日の第1回調停から2000年5月26日の調停成立までの6年間に重ねられた調停作業は36回に及ぶ。

  94年7月29日の第4回調停では異例ともいえる2億3000万円の調査費が国の予備費から計上され、公害調停委員会が委嘱した3人の専門委員による生々しい調査報告が出るに至って解決の道も間近と思われたが、その後の調停作業は難航をきわめた。

  翌95年7月18日、専門委員は調査結果を踏まえ、「産廃を島外に搬出して遮断型処分場に搬入する」から「豊島で中間処理、そこに管理型処分場をつくる」までの六つの処理案を提示した。いずれも10年かかる作業であり費用も130億円から190億円を要するという大がかりなものであった。

  だが奇異だったのは、その末尾に「豊島の処分地に変更を加えることなく、産廃の周囲と表面に遮水工を施し、廃棄物層下の地下水をポンプ

豊島住民会議の銀座デモ。数寄屋橋で廃棄物と汚水を展示

で汲み上げる」という第7案がつけ加えられていたことである。

  廃棄物の大半は有害性の判定基準を大幅に超えており、特別管理廃棄物として遮断型に封じ込めるか、その有害性のレベルを中間処理によって低下させた上、管理型処分場に埋め立てるしか方法はない筈だった。

  第7案は豊島廃棄物の持つ有害性に目をつぶった文字通り「臭いものにフタ」計画であり、多額の費用を使いたくない行政側の意向を汲んだ政治的配慮≠ェ匂っていた。コストも約61億円と半分以下であり、工期も2年ときわめて安直なものである。

  当然のことながら豊島住民は第7案の削除を求めた。しかし県は「廃棄物からの環境汚染は軽微」とし、第7案の採用に固執した。これ以降県と住民側との対立は深まる一方だった。調停打切りの危機に何度も見舞われ、高齢者の多い豊島住民42人が夜行バスで上京、銀座で道行く人に廃棄物の実物を示して理解を求める行動も起こしている(写真)。

 
知事決断ヘ


  事態が動いた。96年夏、豊島事件が重要な政治課題に発展しかねないと直感した当時の橋本総理大臣(岡山県出身)が「解決に向けて国の支援を惜しまない」と発言したのである。

  これを受ける形で同年11月24日に開催された第3回豊島住民大会は「島外ではなく島内での中間処理案を受け入れる」ことを決議した。島外へ持ち出したとしてもその受け入れ先に迷惑が及ぶ。世論の支持を得るための苦渋の選択であった。

  12月20日に至り、厚生省が見解≠示した。「県が主体となって中間処理を行なうこと。公害調停で合意すること」を条件に財政支援を行なう、というものである。

  これを受けて香川県は1週間後の12月26日、第7案の採用を撤回した。

  こうして双方が歩み寄る気配が濃厚になり住民側は「県が責任を認め謝罪してくれるなら損害賠償請求権を放棄する」との決議を行なった。だが県はそれを拒んだ。県が強気である理由は県議会のほとんどが豊島住民の要求を支持していないことである。

  事態が膠着したまま、最終調停に向けた地ならしとしての中間合意が1997年7月18日成立した。何よりも住民が恐れていたのは、大量の汚水が北側の海に流れ出していることである。時間がなかった。

  県は豊島での中間処理を前提とする技術検討委員会を発足させ(委員長・永田勝也早稲田大学教授)、99年5月10日、第二次技術検討委員会の最終報告書が公表された。

  豊島での中間処理―――。それは豊島住民がさらに10年間、二次公害のリスクにさらされることを意味していた。豊島に悲壮感が漂った。

 だが最終調停に辿り着くまでにはさらに超えるべき三つのハードルがあった。

  第一に県知事の謝罪である。豊島住民にとって絶対に譲ることのできぬ最後の一線であった。第二に中間処理を行なう土地は豊島住民が業者から賠償金代わりに裁判で取得したものであり、その使用料を県に要求していたこと、第三に県議会の中に「施設の耐用年数がくるまで島外のごみも受け入れて処理すべきだ」という声がますます強くなったことである。再び事態は硬直化すると思われた。

  ところがその流れを一挙に変える事態が起きた。98年8月、平井城一知事の任期満了で新たに当選した真鍋武紀知事が99年8月30日の記者会見で「中間処理を豊島でなく直島で行なうこと」を発表したのである。これなら少なくとも第二と第三の壁は消える。

  残るのは知事の謝罪だけであった。だがこの案を承諾すれば、今度は直島が県外のごみを受け入れる「廃棄物処理ランド」化することは必至であった。

  直島に衝撃が走った。

              《以下次号》

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