豊島―これからの10年()

 

津川敬 環境問議フリーライター

 

敷地180ヘクタールの
三菱マテリアル(株)直島製錬所
(手前が中間処理施設)

  1999年8月28日、「豊島のごみを直島で」という県の事業計画を直島の住民は新聞紙上ではじめて知った。寝耳に水≠フ住民に対し香川県主催の第1回読明会が開かれたのは同年10月23日のことである。

  情報開示の乏しさを追及する声やダイオキシン問題などで説明会は紛糾、前途多難と思われたが、11月21日に再度開かれた説明会では「事業受け入れ止むなし」の声が多数を占めた。

 
水面下の動き


  その5ヵ月前、同年6月の香川県議会では連日次のような論議がつづいていた。

  「巨額の税金を投入して中間処理施設を建設するのに豊島の廃棄物を処理しただけで施設を撤去するのは大きな経済的損失である。引き続き豊島以外の廃棄物も受け入れて処理すべきだ」。

  県議会全体の空気は豊島というちっぼけな離島に多額の税金を注ぎ込むことに決して好意的ではなかった。

  対する知事の答弁は終始「97年7月の中問合意を尊重したい」にとどまっていたが、それは表向きであった。その時点で「直島処理案」はすでに回まっていたのである。

  97年中間合意の中で最大の焦点は「(中間処理施設を使って)他所の廃棄物処理を行なわない」という文言であった。豊島の住民が最も恐れたのは豊島が「恒久的な廃棄物処理センター化」することであり、その文言が絶対に譲れぬ防衛ラインであった。1991年には要綱(香川県産業廃棄物処理等指導要綱)がつくられ、そこに「県外産廃の持ち込み禁止」が明記されている。故平井城一前知事が豊島事件の反省をこめて残した貴重な遺言でもあった。

  それなら豊島を外すしかない。水面下で別の処理候補地を求め、県が動いた。

山積みになった銅スラグ。
「これが有価物なら」憮然と語る
三菱マテリアル直島製錬所労働組合
那須澄雄委員長

  ターゲットは直島最大の企業、三菱マテリアル直島製錬所である。当時、同社は銅不況の真っ只中にいた。

 「製錬所の頭の上にシベリア寒気団が居座っているんです」。

  三菱マテリアル直島製錬所労働組合の那須澄雄委員長がそういって苦笑した。

  円高の影響で事業全体が落ち込んでいたところに世界の銅生産が過剰ぎみとなり、三菱マテリアル本体(従業員約8900人)も98年下期の利益が当初見込みの60億円から大幅に減少して27億円にとどまった。

  99年3月期は無配転落が必至となり、本社内に非常事態対策本部が設けられた。200人に及ぶ管理職が自発退職を迫られ、組合員を含めた賃金カットが本格化した。

 「豊島廃棄物中間処理」の話が県から持ち込まれたのはそんな時期である。

  直島製錬所の従業員は現在370人。16年前のバブル台頭期には約800人だった。

  企業の最盛期には約1500人いたといわれ、直島の子供たちは「大学に行くより三菱金属(マテリアルの前身)に入る」ことを望んだという。島には三菱の関連企業・直島化成、直島吉野石膏などがあるものの製錬所を含め、すでに雇用吸収能力は失われている。

  マテリアル労組の危機感はつのる一方であった。97年には自らの雇用を守る立場から「21世紀の製錬所を考える委員会」を立ち上げている。2年間の論議の末に得た結論は@既存事業の高付加価値化、A産業廃棄物処理事業の展開の2つであった。

  那須委員長がつづける。

  「銅産業は昔から人のいやがるものを処理するノウハウを持つているんです。そこで労組は産業廃棄物処理の推進を会社側に提言しました。それが重金属類の処理を得意とする非鉄産業の社会的使命だし、ひいては製錬所の基盤強化と雇用の安定につながるのです」。

  豊島産廃受け入れの下地は労使間ですでに出来上がっていたのである。

 
◆「直島処理に問題なし」


  99年8月27日、直島処理案が9月県議会に正式提案された。

  真鍋知事からは「三菱マテリアル直島製錬所が循環型社会の実現に向けたリサイクル事業に強い意欲を持つているとお聞きしたため、同社敷地内に中間処理プラントを建設する」との経過説明があり、それ以降、事態は異例のスピードで進行した。

  まず技術検討委員会(委員長。永田勝也早稲田大学教授以下8名)がわずか1ヵ月半の論議で「直島処理に問題なし」の結論を下したこと。第二に漁業も含めた風評被害に対処する基金の設立が準備され、同年9月16日には直島町長が「町の活性化、2次公害の防止策などの4条件がクリアされれば(処理案を)受け入れる」との姿勢を早々と打ち出している。さらに豊島産廃と一緒に直島町から出る一般廃棄物も処理しようという条件も県は用意していた。

  技術検討委員会とは97年7月18日の中間合意成立の10日後に発足した「中立的専門委員会」だが、委員は県知事が委嘱し、事務局は廃棄物対策課に置かれている。庶務全般は県職員が取り仕切っており、各委員には応分の報酬が支払われる。まったくの中立機関とは言い難かった。そこでは豊島住民会議の発言が一切封じられていたからである。

  第一次技術検討委員会は「豊島での処理」を前提とした約1年間の論議のあと、98年8月、報告書をまとめた。その中で中間処理については@ロータリーキルン、Aコークスベッド、B表面溶融による溶融処理の3方式のいずれかを採用すると決めている。

  次いで豊島の環境保全対策を目的とする第二次技術検討委員会の報告書が99年5月10日に発表され、これですべての作業が完了したと思われた直後、直島処理案が急浮上した。技術検討委員会は計画の全面変更を余儀なくされ、第三次検討委員会が同年9月に発足したが、作業は前記のとおり1ヵ月半で終わり、同年11月中旬には報告書ができあがった。大半は県が契約したコンサルタントの手でつくられていたのである。

  処理プラントについては提示済みの溶融3方式で可能。汎用性が高く、豊島産廃以外の廃棄物も処理できる。副成物として生ずる飛灰も製錬所内で連続処理が可能であり、さらに産廃の運搬方法や二次公害防止策、環境保全措置など報告書は多岐に渡っていた。

  ちなみに99年度の産廃対策費は豊島での処理を予定したもので、プラント整備費166億円、用地造成費と環境保全措置費が48億円となっているが、直島処理となれば到底そんな額では済みそうにない。

  11月21日、県は報告書を携えて第2回住民説明会に臨んだ。

 
県ヘの不信感


  この日、受け入れに反対する声はすっかり影をひそめていた。そこには町民の7割が製錬所に関わっているという企業城下町・直島の厳しい現実があった。

  自らも長らく製錬所で働いたというある男性が次のようにいう。

  「息子と孫が会社(製錬所)に勤めているが家の中で豊島の産廃は話題になっても、会社の中で話すことはタブーになっとります」。

  99年4月の統一地方選挙で豊島住民会議に推されて当選した香川県議会議員・石井亨氏がいう。

  「直島処理の話が具体化した直後から、直島とのコンタクトがとれなくなりました。知り合いに電話をかけても『いや、ちよっと』といって切られてしまう。『豊島の人と連携しながら直島の未来を考えよう』と町民に呼び掛けていた町会連合会長もその職を解かれてしまったのです」。

  だが町民は「技術的に問題なし」という県側の説明を本当に信じたのか。そうではなかった。

  まず第一に、テレビや新聞で豊島産廃の無惨な実体は直島にも伝わっており、それに対する二次公害の可能性について、報告書は具体的に触れてはいない。

  第二にその有害産廃が船で運ばれてくることへの不安がある。過密な瀬戸内海航路で98年12月土砂運搬船が直島沖で沈没した。一度事故が起きれば間違いなく有害産廃は瀬戸内海に拡散する。しかも大型バージ船(平底船)の調達費、その運航費を含め、50億円の巨費が投じられる予定という。

  第三に風評被害の兆しが直島にも起きていたことである。ある住民の話では「毎年大阪の友人に直島海苔を土産にしていたのに、今年はいらん、豊島と直島は隣同士やろが」といわれ、ショックを受けたという。さらに風評被害対策として県による基金の設立が準備されているが、1969年に起きた水島コンビナートの重油流出事故の苦い経験がある。

その際、香川、岡山、兵庫など沿岸4県の漁協に三菱石油から補償金が支払われたが、その途端、魚は売れなくなった。  そして何よりも大きかったのは香川県そのものに対する直島住民の不信感である。

  行政区分こそ直島。豊島両島は香川県に属しているが、生活・経済上は完全に岡山圏であった。島の高校生の七割以上は玉野市(宇野)の「玉高」か「玉商」に通い、住民の大半も買物はフェリーで玉野市のスーパーに行く。

  「香川県にやってもらったことは何ひとつない」。1959年から9期36年間直島町長を勤めあげ、現在名誉町民になっている三宅親連氏(明治41年生まれ)の口癖である。

  直島は古くから水不足に悩まされていた。その窮状を救ったのは香川県でなく1969年、水を直島に供給する海底導水管を引いてくれた玉野市である。その水は年間降雨量の少ない直島住民の生活を潤し、島の経済を支える製錬所への安定給水につながった。

  「水をもらった岡山県には足を向けて寝られない」。これも三宅氏の口癖だというが、その思いは香川県から継子扱いされてきた直島住民も同じであった。

  「その香川県が急にニコニコして擦り寄ってきよった。何かと思えば産廃処理の話や」。

  直島で長らく架橋誘致の運動をしてきたある有力者が憮然としていう。香川県は架橋に冷淡だった。

  だが直島住民の弱みはそうした県に対する反発はあっても、「製錬所の危機」という現実には逆らえぬことであった。そうした直島住民の屈折した心情を見通したように香川県は直島処理案を「循環型社会のモデル事業」という美しいスローガンで飾った。

 

豊島年表(本稿に関わる主要事項のみ)

1990年11月16日 兵庫県警が豊島総合観光開発鰍強制捜査

     28日 「豊島廃棄物対策住民会議(略称豊島住民会議)」結成

   12月20日 県がシュレッダーダストを廃棄物と確認

1992年8月10日 住民が県知事に廃棄物撤去要請

1993年11月11日 住民500人が公害調停申し入れ、弁護団長に中坊公平氏

1994年12月13日 公害調停に専門委員の調査を閣議決定

1995年5月    専門委員が処分地の調査報告

1996年12月4日 第13回公害調停で県が遮水壁方式に固執

1997年7月18日 公害調停で中間合意が成立(豊島以外の廃棄物処理せず)

   7月28日 技術検討委員会が発足(委員長・永田勝也早稲田大学教授)

1998年8月    技術検討委員会、溶融3方式と焼却灰セメント化を提案

   8月18日 第二次技術検討委員会が発足(豊島の暫定的環境保全措置)

   8月30日 真鍋武紀(元農水審議官)が県知事に当選

1999年4月11日 豊島住民会識の石井亨が県議会議員に当選(7340票)

   8月30日 真鍋県知事が記者会見で中間処理を直島で行なうと発表

   9月    第三次技術検討委員会(直島処理に対処)発足

   10月3日 第三次技術検討委員会が審議終了

   10月15日 直島町第1回住民説明会(県を追及する声)

   11月3日 技術検討委員会最終報告を公表(「技術的に問題なし」)

   11月21日 第2回直島町住民説明会(受け入れやむなしの声)

2000年3月6日 香川県が直島漁協等に風評被害補償基金30億円を提示

   3月22日 直島町が豊島産廃の中間処理撃け入れを正式表明

   6月6日 公害調停成立・最終合意で真鍋県知事が住民の前で正式謝罪

   9月13日 県が直島製錬所内のプラント建設工事の入札公告

   10月13日 プラント工事入札に応札企業ゼロに

   11月13日 県、潟Nボタと随意契約を余儀なくされる

   12月    豊島暫定環境保全事業の工事着工

2001年8月3日 三菱マテリアル直島製錬所で中間処理プラント工事着工

2001年12月15日に決まった海上輸送ルート 4〜9月の航路(局島東側を迂回)
10月〜3月の航路(局島と家島の間を通過)

応募企業ゼロ


  豊島産廃で製錬所が潤い、それが町の活性化につながる。直島町当局がその建前にすがって中間処理の受け入れを表明したのは2000年3月22日のことである。県はすでに直島での実績ができれば豊島以外の産廃を処理するという構想も明らかにした。

  事態は予想以上に急テンポな展開をみせ、同年6月6日には最大のヤマ場である知事謝罪が実現した。94年3月の調停開始から6年3カ月に及ぶ県と住民側との息詰まる攻防に終止符が打たれ、最終調停が成立する。

  こうして焦点は豊島からの産廃運び出しと中間処理施設の建設作業に移った。

  県は直島処理案全体の総費用を約300億円と見積もった。2016年度までにすべての撤去作業を終了し、国からは約65億円の支援を予定している。だが果たしてそれだけでことが納まるのだろうか。不確定要素があまりにも多すぎた。

  まず廃棄物の運搬方法である。豊島から直島への最短コースはハマチや海苔の養殖場を横切るため直島漁協が強硬に反対している。

  直島の南を廻る西航路は時間がかかりすぎ1日2往復が困難という理由で頓挫した。直島の属島・井島の北を迂回するコースは岡山県の港湾区域で玉野市側漁協への補償問題が絡んでくる(図)。使用する船舶も当初の砂利運搬船の利用構想から密閉式のコンテナ方式を採用することになった。

  6月26日には「豊島廃棄物等技術委員会(以下技術委員会)」が設置されている。最終調停の条項中にうたわれている「専門家の関与」に基づくものであり、8月には豊島住民の代表者と香川県の担当職員による「豊島廃棄物処理協議会(以下協議会)」が設けられた。

  今次計画のメインである中間処理プラントの発注作業は、資格審査や技術審査に日数を要することから予定より3ヵ月遅れ、メーカーに対する入札公告が行なわれたのは9月13日のことであった。だがここで予想外の事態が起きた。

  公告から1ヵ月後の10月13日、入札に応じたのはたったの1社であり、それも同日が期限だった技術審査申請書を提出せず、参加を辞退したのである。実質応募企業ゼロという事態に関係者のショックは大きかった。

  県は処理施設建設の工期を2年3ヵ月、稼働開始を2003年4月と見込んでいた。直島の一廃処理をその施設で行なう協定になっており、それが国の示すダイオキシン恒久対策に対応できるギリギリの日程であった。

  やむなく技術委員会は11月上旬、三つの溶融方式(コークスベッド、ロータリーキルン、表面溶融)の施工実績を持つ7社を招いてヒアリングを行なったが、うち6社は最初から逃げ腰であり、参加の意思を示したのは潟Nボタ(大阪)ただ1社であった。

  94年の公害調停開始以来、豊島住民会議の技術顧問を務めている医療法人南労会・環境監視研究所(大阪)の中地重晴氏がいう。「豊島の産廃処理事業にはどのメーカーも強く参加を希望していました。成功すれば自社の技術を日本だけでなく世界中にアピールできるのですから」。

  県は最初、厳しい受注条件を緩めようとした。だがその条件は、中間処理受け入れで豊島・直島の住民を説得する最大の決め手であり、技術委員会にとっての生命線でもあった。

  結果としてクボタだけが残り、再度一般競争入札をする時間的余裕がないと判断した県は同社と随意契約を結ぶこととした。

  ちなみにクボタは最初の入札時に他の部署が起こした不祥事で県から指名停止を受けていた。それにしてもなぜ日本を代表すると自負する大手メーカーが手のひらを返したようにことごとく逃げてしまった≠フか。いくつかのメーカーに当たってみた。

 
何が出てくるか


  そのひとつ、コークスベッド方式ではトップの実績を持つ新日鉄のある営業スタッフがいう。「うちはコンサパテイブな企業ですから、何よりもトラブルを嫌ったのです」。

  別の機械メーカーによると、「クボタさんは随契の条件として工期の延長や条件の緩和を県に申し入れたという噂だ」という。

  だが前出の中地氏は、「技術委員会の条件は現在のところ日本一厳しい。他社にもいろいろ注文を出した」という。

  新日鉄の場合、コークスを仰山使うのでスラグの量が多くなるから技術委員会も乗り気ではなかった。ロータリーキルン方式は場所をとるのでメーカー側がもっと敷地を広くできないかと要求したが県から断られた、と中地氏は明かす。だが多くのメーカーが参入に逡巡した最大の理由は何といっても「何が飛び出してくるかわからぬ豊島のごみ」への恐怖と、今後一層厳しさを増すであろう住民の監視体制である。

20世紀の負の遺産・豊島産廃。
現地の小屋に住民が持ち込んだ。

  最終合意のあと、豊島住民会議は裁判で産廃処理業者から損害賠償代わりに取得した土地に小屋を建て、現場から掘り出した廃棄物を展示している。それは現代彫刻と見紛う巨大なレリーフだった。粗い木組に大小さまざまな廃棄物が特殊なペーストで張りつけられており、日本有数のメーカーが逃げ出したくなる気持ちも納得できる迫力である(写真)。

  そして住民側は技術委員会が安全性・信頼性を強調すればするほど溶融という技術に不安感を増幅させた。豊島住民会議の安岐正三さんの次の言葉がそれを象徴している。

  「不法投棄された産廃だから不完全な技術でも許されるのであって、これを恒常的な処理システムに採用するにはあまりにもリスクが多すぎる。あくまで原状回復のための緊急避難措置であって、これを恒久的な受皿にできるかどうかはまた別の問題です」。

  史上最悪ともいえる豊島産廃と、住民の厳しい目に敢えて対峙しようとするクボタの阿部清一。焼却炉技術部溶融担当部長を訪ねたのは2001年11月半ばのことである。

              《以下次号》

     へ     へ