Linuxプラットフォーム 最終更新日:平成30年12月8日みんな Linuxer になろう!
✪お詫び‥‥豪雨災害に関して
 7月上旬に発生した豪雨災害では当館も浸水し多大の被害を被りましたが、しばらくの間普通になっていた固定電話も復旧し、メールの送受信もできるようになりました。 しかし、このたびの当館の被害は壮絶なもので、館内の展示を復旧させるにはまだまだ多大の時間と労力が必要かと思います。 復旧途中の展示でよろしければご来館ください。 しばらくの間、入館料は無料にしています。 御了承ください。

← 館入口付近の壁際に掲示した洪水時の最高水位

  収蔵庫(物置)の様子 →

 当館が収蔵庫として使用している家屋の内部は、まるで地震の震災後のような状況でした。 まこと最悪の夏でした。
 ご覧になっているHP以外にも、別のサーバーに当館のHPがあります。 以前、当館の公式版としてアップしていたものです。 ご覧になりたい方は、イワミケーブルのサイトをクリックしてください。


●昨今のインターネットを用いた検索技術の向上のために個人の情報を他人が容易に入手できるようになった現状を懸念して、当館のホームページではなるべく個人や団体組織の実名を掲載することは控えさせていただいております。 御了承ください。


★当館のコンセプト…「知識は結果ではなく過程」
分け隔てなく多くの人たちがつどい、地域の自然の情報や資料を持ち寄って自主的に調べ答えを出していく、こういった探求的で発見的な学習活動の場を醸成していきたいものです。




郷土の自然をテーマにした探求的で発見的な学びの場を!
目 次
●手と足でつくる博物館 小さな自然館概要

●すべて手作り 展示の概要

●自然科学の追体験 野外発見学習

●郷土の自然を探求しよう 我が郷土は発見の宝庫 只今、作製中です 

●郷土の火山跡を歩こう 参加者募集ー桜江の火山

●鉱山の自然に科学の目を向けよう 参加者募集ー銅ヶ丸鉱山

●露頭状況抜群のフィールドみんな銅ヶ丸へ行こう 只今、作製中です

●手作り天文台 「桜江天体観測所」


ホームページはあくまで情報、実物ではありません
 ← 1980年代、将来のコンピュータの方向性を示した名著
    (コンピュータアーキテクチャ、TRONからの発想〔坂村 健著〕)

 身体的な事情で遠くへ出かけることが容易でない人は別ですが、歩いていくらでも出かけられる人でも、ホームページを見ただけで全てを知ったような気になられて全然やって来られる気を起こされないという方々が多いように思います。
 当館はトタン屋根の世界一粗末な建物ですが、一応のところ博物館なので、館内にはたくさんの展示物があります。 ホームページを見ただけでは、館の展示に関してほとんど何もわからないと思います。
 ホームページはあくまで情報であって展示物、実物ではないので、実際に足を運んでいただいて当館の本当の情報を観ていただきたいです。

 一般に個人・団体組織のホームページに載っている情報は、本人達に都合の良い情報ばかりで、世間に知られてはまずい情報などはほとんど隠蔽されているのが普通なので、しょせん偏った情報の発信源でしかないという気がします。
 当館に関してもホームページの情報だけで当館の状況や優劣を判断されることのないようにお願い致します。

インターネットには二つの顔がある
  いくら科学技術が進歩しても
人のモラルがついて行かなければ何にもならない

←「猿の惑星」(1968年 20世紀フォックス)のDVDからキャプチャした画像

不時着した未知の惑星が、実は核戦争で荒廃した地球だったことを知り、愕然とするクライマックスの情景


「続・猿の惑星」(1970年 20世紀フォックス)のDVDからキャプチャした画像 →

「全能なる爆弾よ」
最終爆弾を神として崇拝するミュータント化した人類の生き残り達

←暑い夏、踏査中に見つけたクワガタ虫

先日、館へ遊びにやってきた子供達の一人が、「インターネットをやらせてよ」というので、気安く「いいよ」といってやった。 ところが、筆者が館の裏で三時間ほど作業して準備室へもどってみると、その子はまだネットに接続していたのに驚き、何に夢中になっているのかと聞くと、なんとその子はチャットをずっとやっていたのである。
小学校五年生の子供が何時間もインターネットに夢中になっている様子を目撃して、筆者は愕然とする思いであった。

今の社会には、インターネットでのチャットやオンラインゲームなどの仮想世界の中に自分の生きがいを感じる者が多いという。 生きる喜びを仮想世界の中に感じるとは、実に情けないことである。
人というものは、人間同士の心の交流や緑豊かな自然との触れ合いの中に生きる喜びや心の安らぎを感じることができてこそ、人というものであろう。 生きる喜びや安らぎをインターネットの仮想世界の中に感じるようではどうしようもない。

今は家庭でもブロードバンドの常時接続が当り前になってきていて、仮想世界の中にのめり込んでいく子供や大人達がどんどん増えているような気がする。 また、同時に出会い系サイトなどの普及にともなって男女間の愛情が軽薄なものになってきていて、不倫や不道徳な行為が当り前になりつつあるような気もする。
はたしてインターネットは、人類に明るい未来をもたらしてくれるのだろうか。 一体、インターネットとどうつき合っていくべきか、考えさせられる思いである。

筆者としては、インターネットに過度に依存するようなことだけはしたくない。やはり、泥と汗にまみれた活動こそ人間の活動の原点・出発点であると思っている。 また、人と人との心の触れ合いや友情、愛情(愛欲はほどほどに)も大事にしたいものである。



UNIXライク(UNIXに似た)を目指そう!
世界中でマイクロソフトのWindowsやアップルのMacが家庭のすみずみまで浸透している時代にUNIX系OSのLinuxを厚く重んじている当館は、ちょっと変わった存在である。 しかし、オープンソースは、自己の利益を度外視して世界中に平等に貢献できるものであると確信している。
 正直のところ当館は、あまりインターネットを使っていない。 最近ではメールもほとんど使わなくなった。
正直のところ、インターネットというものに嫌気がさしている。 しばらく先端の技術というものから離れて、スタンドアローンでUNIXライクを目指してみようと思う。 難しいCのソースコードが出てきて、パソコンを使うよりも、なかなか読み進められない本をにらみつけている時間の方が多いのではあるが、やたらパソコンパチパチよりも、このような態度の方が情報科学や情報教育の基本として望ましいのではないかとつくづく感じている。

「個人立」は決して当館の造語ではない!
先日も当館へ来館された方が、当館の看板を見られて、「個人立」というのは大変ユニークだと驚いて言われた。
しかし、この「個人立」というのは、決して当館の造語ではないのである。 8年前に日本博物館協会が出版した「博物館研究5月号」の中に「個人立・日本玩具博物館ー22年の歩み」という題の記事が載っていたからである。

この「日本玩具博物館」は、個人が設立し運営しているもので、スタッフは館長、総務、学芸員、学芸員補、受け付けの5名である。

この記事の中で特に印象に残ったのは、「当館を設立した1974年、この姫路地方には兵庫県立博物館も姫路市立美術館も文学館もなかった。 私は失われていく日本の伝統的な玩具や人形を守り伝えていく砦としてこの地にささやかな施設をつくった。 私財を投じ、人生を賭け、世界的にも認められる内容の玩具博物館を築きあげた。」
筆者はこの記事を読んで大変感動する思いであった。 強い信念を持って、何もないところから形あるものを築き上げていった人間の人生を感じた。

この生き方に大変敬服し、当館もこの「個人立」という語を使わせていただくことにしたわけである。
父(故人)の名がつけられた星
✦小惑星(登録番号14535)
"Kazuyukihanda"

夜空を見上げると無数の星が見られますが、その中の一つに父の名がつけられた星があることを知っておられる方は、おそらく専門化筋の方々ぐらいだろうと思います。
小惑星の探索では、その名を世界に知られている安部裕史氏(島根県八束町大根島在住)が、1997年9月1日に発見された登録番号14535の小惑星を氏の御厚意によって2001年になって父の名を使って命名していただき、"Kazuyukihanda"としていただきました。
父と安部氏とは、同じ天文仲間として古くからの付き合いで、十数年前に美保関に隕石が落下した当時、隕石研究の専門家である村山定男先生等とともにいっしょになって民家の中を隕石の破片捜しに大奮闘したこともありました。
父は亡くなってしまいましたが、しかし、これからは天空の星となって、いつまでも我々の心の中に生き続けていくのだろうと思います。 あらためて安部氏には、この場をお借りして厚くお礼を申し上げる次第であります。

2001年6月号の月刊「天文ガイド」の記事 小惑星センター2001年3月1日発行の
「小惑星回報(MPC)」の記事




前回掲載した表紙ページ
H30年9月7日記載の表紙ページ へリンク
H30年9月1日記載の表紙ページ へリンク
H30年6月1日記載の表紙ページ へリンク
H30年4月22日記載の表紙ページ へリンク
H30年3月21日記載の表紙ページ へリンク
H29年12月24日記載の表紙ページ へリンク
H29年10月31日記載の表紙ページ へリンク
H29年9月24日記載の表紙ページ へリンク
過去に掲載した表紙ページあれこれ
H29年5月4日記載の表紙ページ へリンク
H27年12月31日記載の表紙ページ へリンク
H22年5月15日記載の表紙ページ へリンク
H20年4月12日記載の表紙ページ へリンク
過去に掲載して好評だったページ
H20年3月21日記載のページ へリンク
H15年11月記載のページ へリンク
H13年1月記載のページ へリンク




我が郷土の自然史の原点はここ! ↓
三郡変成岩と桜江層群が接する断層境界

江津市松川町長良 長良川流域

江津市桜江町勝地 勝地川流域


(平成30年12月8日記載)

樹幹の化石”珪化木”
(大田市仁摩町)
 先日、久しぶりに三瓶へ行く機会がありましたが、三瓶に限らず大田市方面へ出かけるにつけ「大田は、ええのお〜、三瓶山あり、石見銀山あり、市内じゅう鉱山だらけ、さらには日本海側には珪化木や鳴き砂ありで、まこと大田は自然関係の地域資源の宝庫だ!」とつくづく痛感します。 反面、我が郷土江津は、、、、何とも淋しく絶望的になります。

 江津には観光的な自然関係の地域資源が乏しいという理由もあって、市民全体に郷土の自然に対する意識や愛着がきわめて薄いです。 江津は、ビジネスコンテストといった起業関係のことや農林畜産物の地産地消関係のことに大変熱心なところで、自治体もこれらを厚く高遇しています。 反面、当館のような世界一粗末な博物館などはクソ食らえ、といった感じです。
 しかし、どんな自然でも目的を持って探求していけば、観光的な価値は見い出せなくても学術的・教育学習的価値は見出だせるものだと思います。


江津にも大田に負けないくらいの自然史関係の資源がある!?
氷河時代の河道跡・・・チャネル充填堆積層
(江津市浅利町 浅利トンネル付近の採石場)

 国道9号線を江津から大田方面へ行く途中の浅利トンネル手前の山側に採石場がありますが、ここにはまるで活断層の跡ではないかと思えるような崩落斜面が見られます。

 筆者は当初、「ここには活断層が通っている、大変だ!」と意気込んで後から双眼鏡で頂上付近を観察してみたら、どうもそうではないようなのでちょっとがっかりしたことがありました。
 しかし、頂上付近に、砂礫層が基盤岩(溶結凝灰岩)に高角度の不整合で載っているようなところが見られたので、これはもしかして基盤岩にできた高角度の断層に侵食が進んで溝状(チャネル)の凹地が形成され、ここに河川が通って砂礫が堆積したのだ。 つまり、当時まだ海岸線がずっと沖合にあった氷河期のころの堆積層だと思い、大きな興味を感じてしばらくの間この周辺を踏査したことがありました。

 真夏の暑い時期でしたが、急崖を登って頂上付近まで行くのは危険すぎるので、背後の山間を通っている林道から藪を伐採しながら目的地まで行きました。 まこと、どえらい思いをしました。
 今から16年前の平成14年の夏でしたが、当時これに関する記事を本HPに載せたことがありました。
16年くらい前に掲載した「浅利チャネル堆積層」に関する記事 へリンク

 礫がちの砂礫層が途中でプッツンと途切れているので、一見して断層によって切られて変位しているように見えます。 ここは急崖になっているので、実際に近寄って正確に観察できませんが、この層より上に堆積している砂がちの砂礫層は整合で堆積していて右側の露頭の方へもずっと続いているので、露頭面に現れている砂礫層全体が切られて変位していることはないです。 また、断層運動による引きずりの痕跡も全くみられません。
 もし、上の砂礫層も切られていれば活断層により変位している可能性があって大変なことになると思います。 我が郷土にも活断層が通っていることになり、近い将来大地震が起こる危険があることになります。

 ともかく、どれくらい昔かといった絶対的な年代は筆者にはわかりませんが、大昔ここには円礫がまとまって堆積するような環境があったわけで、筆者としてはここを川原の礫を堆積させるような河川が流れていたと考えています。 つまり、当時の海岸線はここよりもはるか沖合にあったことになります。 はたして氷期の海面低下の時代であったのでしょうか。
しかし、もしかして活断層が、、、、

 ← 出雲市多伎町の礫浜

 円礫がまとまって堆積するような環境は、河川の川原ばかりではありません。 左の写真は出雲市多伎町の海岸で、ここは円礫ばかりが集積していて、これらの円礫のなかには貝などの化石をたくさん含んでいるものもあり、以前から化石採集の観察会などに利用されているところです。

 海岸の地形は砂浜や磯ばかりではなく、このような俗に「礫浜」と呼ばれるものもあります。
 筆者がこれまで氷河時代の河道跡と考えているところにある砂礫層の円礫は、もしかして海岸の礫浜に集積していたものだったかもしれないです。 もしそうだとすれば、もともと海岸沿いにあったものがなぜ急崖の頂上付近にあるのか。 海面が低下したのか、それとも陸地が隆起したのか。
 もしかして、江津沖の海底に活断層があって、何百万年も前から何千年〜何万年の周期で何度も活動を繰り返し、陸側の地盤を隆起させてきたのかもしれません。

未固結層にみられる擾乱の跡
(江津市浅利町 江津工業団地敷地内)
 浅利トンネル付近のチャネル充填堆積層の産地からトンネルを通って少し行くと江津工業団地の広い敷地があります。 今でこそいろんなメーカーの工場が立ち並んでいますが、16年くらい前は、広い敷地内はガラガラで、砂礫層や砂層など陸成層の良好な露頭が広く見られました。
 敷地内は造成地なので、埋積され踏み固められた層が上部を覆っていましたが、その下にはスランプしたとしか思えない複雑にうねった縞のラミナ(葉理)の砂層がありました。 現在は道路ができていて露頭を見ることはできません。

 今年の三月に東京の大学を卒業された同町出身のKさんからいただいた卒業論文のテーマが泥岩層の生物擾乱に関するものでしたが、この浅利の砂礫層や砂層は主に河川の氾濫時の洪水で堆積したものなので、各所に黒褐色化した樹木が散乱して含まれているのは見られますが、サンドパイプのように生物が長く生活していた痕跡は全く見られません。
 この浅利の未固結層には生物活動による擾乱の跡はみられませんが、代わりに地盤の急激な隆起あるいは沈降によっておきた擾乱と思われる跡がみられます。

 当時撮影したデジカメの写真を不覚にも無くしてしまい(写真をストアしていたハードディスクを知らずに再フォーマットしてしまったため)、加工画像しか残っていないので大きな画像で表示できないのが残念です。(加工画像中の「写真①〜⑦」の記載は本文とは無関係です)  

  

  
 砂層には生痕や生物擾乱の跡などは全くないですが、上の写真のように1m以上もある大きな黒褐色化した樹木や褐鉄鉱で固くなった長径が4.5mもある大きな砂のノジュールなどを含んでいて、その間を埋めるようにして複雑にうねったラミナの砂層があります。 この砂層にはところどころに小断層と思われる軽微な断裂がみられ、それに沿って弓なり状のラミナがみられます。

 砂層にみられるラミナが初生構造なら、含まれている樹木やノジュールは砂層堆積後に混入したもので混入時に周辺のラミナが複雑に乱されたのだと思うのですが、もしラミナと思っている構造が流紋岩の流理構造のような流動の跡だとすれば、砂層堆積後に地震のような地盤の急激な変動によって砂が流動し、層内の内部摩擦の違いによってラミナのような縞状の構造ができたのではないかと思います。
 地震の急激な地盤の変動によって層内にできた擾乱の痕跡かもしれないです。 やはり、江津沖の海底には活断層がある、と思いたくなる心境です。

 ラミナと思っていた波打った縞状の構造は、実は擾乱によってできた構造かもしれないです。

深成岩の貫入と火成活動
 ← 高角度に傾斜した溶結凝灰岩の地層

 左の写真は、チャネル堆積層がある山の背後を通っている林道沿いにみられる露頭で、当初は珪長岩の流理構造かと思っていましたが、実はこの構造は初生の溶結凝灰岩にできていたラミナの構造であることが後になって発見的に理解できました。
 露頭の岩石は、溶結凝灰岩の組織に脱ガラス化と再結晶作用が進んでできた珪長岩に似た後生的なものだと思います。
 この露頭にみられるラミナは高角度で傾斜していて少し下に凸に湾曲しています。 おそらく付近で起きた断層運動による引きずりの跡だと思います。 付近には谷川が通っていて、山斜面からは湧水もみられます。

 右の写真の露頭は、左の写真の露頭に隣接していて、当初は溶岩あるいは貫入岩にみられる自破砕の岩相かと思っていましたが、やはり断層角礫岩(カタクレーサイト)だと思います。
 しかし、もしかして溶結凝灰岩の中に含まれている本質や類質の角礫かもしれません。 今だによくわからない筆者にとっては謎の岩相です。

 この推定される断層を海岸側の方へ延長してみるとチャネル堆積層の露頭がある採石場を通ります。 おそらくチャネル堆積層の下位にある基盤岩(凝灰岩)にみられる断裂と同じ系のものだと思います。 もしかして、この推定される断層に侵食が進んで溝状の低地ができ、ここに河川が通って礫が堆積してチャネル堆積層ができたのかもしれません。

 右の写真は、チャネル堆積層の露頭がある採石場から直線距離で約1.7km西方へ行った渡津町塩田海岸にある俗に”ゴジラ岩”と呼ばれている露頭です。
 まるで怪獣のゴジラのような様相の露頭自体は花崗岩質岩石でできていますが、この背後にある露頭(細い岩脈が通っている)は溶結凝灰岩で、全く種類の異なる別種の岩石同士が接しています。
 どちらも薄片を作っていないので組織の様子がわかりませんが、おそらく花崗岩質岩石は花崗閃緑岩かあるいは石英閃緑岩だと思います。 溶結凝灰岩は、おそらくマトリックスに脱ガラス化と再結晶作用が進んで珪長岩のような完晶質の組織に変化しているのではないかと思います。

 浅利町〜渡津町の海岸沿いには、片岩や溶結凝灰岩に対して花崗閃緑岩や石英閃緑岩などの深成岩類の岩石が接しており、特に溶結凝灰岩の層へ強い熱水変質作用を与えています。 これによって、セリサイトのような白色粘土質の脈やプロピライト化したと思われる岩相、黄鉄鉱が濃集している細脈、茶褐色のヤケの強い露頭などが各所でみられます。
 しかし、溶結凝灰岩の層の上位にくる層(いわゆる「室神山層」「島の星層」と命名されている未固結層)には、熱水特有の変質作用の痕跡はみられません。

既存の知識のコピーや受け売りはしない
徹底的に歩いて発見的に理解する!
 ← レンズ状岩片(赤の矢印の先)

 浅利トンネル付近の踏査を始めた当初、砂礫層や砂層の基盤岩になっている岩石がよくわかりませんでした。 林道沿いの露頭の岩相は、微晶質〜顕晶質のマトリックスに大小の岩片(角礫)が含まれているもので、かなりの枚数の薄片を作ったのですが、どれもとても溶結凝灰岩とは思えない組織のものばかりでした。
 やはり、歩きやすい林道沿いの露頭ばかりを当てにしていては何もわかってこないと思い、道などない草深い山斜面に点在する露頭を追って、対ゲリラ戦を想定した特殊工作隊の戦闘訓練みたいなことをやって浅利トンネル周辺の山を歩きまくりました。 

 右の写真は去年HPを更新した際にも掲載したことがありましたが、実は一番最初に掲載したのは浅利トンネル周辺の山を歩きまくっていた十数年前でした。 山の頂上付近から双眼鏡で日本海の海上を偵察しているように見えますが、決して大陸からの密航者を見張っているわけではないです。 ただ適当にポーズをとっているだけです。

 もうずいぶん前に元S大教授のY先生から浜田〜江津〜大田にかけての日本海側に分布する更新統に関する研究論文をいただいたことがありました。
 また、この更新統の中でも、いわゆる「都野津層群」として一括して命名されている未固結層に関しては、在野の研究者の中で調査研究では県内でこの人の右に出る人はいないと言われるほどの著名な人で、浜田市在住のU氏という方がおられます。

 このように、江津市沿岸の更新統も含めて、山陰の日本海沿岸の地質はすでに先人達によって調べ尽くされています。
 しかし、これまでに何度も強調してきたことですが、当館の究極の目標は、「野外発見学習」を通して「しぶとい思考力」と「代償を当てにしない学習意欲」を育むことです。 決して完成された科学的な知識をそのままコピーして世間に受け売りするようなことはしません。
 我が郷土の自然は、当館にとっては野外発見学習の実践の場です。 学習者の一人ひとりが豆科学者になって、地質学者達が科学的な知識を導出してきた過程をフィールドで少しでも追体験しながら発見的に探求していくことが野外発見学習です。 このような野外での活動によって少しでも多く「達成感」や「効力感」を体験して科学心や自然に対する愛着心を育んでほしいです。

 当館がうるさく強調している「発見学習」という語は、決して筆者の造語ではないです。
 筆者が学生のころ、「教育原理」という履修科目の講義で初めて「ブルーナー」の「発見学習」について知ったわけですが、この講義では本を読んで小論文を書けという課題がよく出されました。
 このころ自分はオートバイに野宿の装備を満載して山の中をウロウロすることが好きで、北伊豆から丹沢山地へかけて帯状に分布している活断層の露頭を追って山中をさまようことがよくありました。 有名な国府津ー松田断層など古くから多くの地質学者によって調査研究されてきた地域で、大学の先生方が学会誌に書かれた論文などを見れば一目瞭然だったのですが、自分としてはそのような知識は先行知識(先入観や偏見も含む)となって自分の野外観察の妨げになると考えて、あえて無視して白紙の状態で踏査をしました。 まこと足柄山の金太郎になった気分で活断層の露頭を追って山中を歩きました。
 教育原理の課題の小論文では、このような野外での経験をもとに発見学習は特に地学などの野外学習の分野に導入しやすいことなどを論じ、担当教授から大変ほめられたことがありました。

 大学生のときにブルーナーの「発見学習」の理論を知り、これに関する小論文を先生に褒められたというのが動機になって、これ以後自分は発見学習というものに強い興味と一種の憧憬の念のようなものを抱くようになった感じでした。

 ところが、ブルーナーの「発見学習」は、筆者が中学生〜高校生のころに施行されていた学習指導要領の特に理科の改訂内容の中核をなしていたものだったことを知り、ちょっと愕然としました。 それまでの知識注入的な系統性重視の教育の反省から、知識そのものよりも「科学の方法の習得」が重視され、「探求の過程」を重視して、これを通して「科学的なものの見方と考え方を習得」させるという内容のものになったそうです。
 しかし、自分の中学生〜高校生の時代を思い出してみると、学校や世間で「発見学習」という言葉を聞いたことはただの一度もなかったです。 偏差値で大学を序列化し、少しでも偏差値の高い大学へ入ることがまるで人生の最終目標であるかのような感じで子供達を勉強に追い立てていたという印象しかないです。
 あらためて、「学習指導要領など絵に描いた餅」(見るだけで決して食えない)と感じます。

 筆者が高校を卒業してから少し経って、あの「ゆとり教育」の学習指導要領に変わりましたが、カリキュラムを大幅に削減して子供達をただ遊ばせただけのことで、これまた「絵に描いた餅」でしかなかったという気がします。 おまけに、学力とは何か、という学力の概念が従来と同じであるわけだから学力が低下したと評価されるのも当たり前という気がしました。

 ←  我が母校・・・旧桜江町立K中学校跡(江津市桜江町川越)

 先々月の新聞に桜江町小田にある江津市立S中学校へ旧K中学校で美術の教員をされてた方が来校され、絵画を寄贈されたという記事がでていました。
 元教員の方は、筆者が在学していたころよりももっと前におられた方のようで、筆者は全く知りませんが、旧K中学校の記事が出ていて、在学していた当時のことがいろいろと思い出されました。

 このころのことを思い出してみても、学校で「発見学習」などという言葉を聞かされることは全くなかったし、理科の授業でも「探求の過程」を重視した指導といった感じはほとんどなかったです。 理科に限らず他の教科でも教科書中心の知識注入みたいな系統主義の指導だったように思い出されます。

 我が青春の中学生時代! と言いたいところですが、正直申して大変悲惨なものだったです。
 二年生のとき、クラス担任になった新採教諭から理不尽で不公平な指導を受けたり、横柄な態度で授業を受ける同級生や担任の腰巾着みたいになって機嫌をとる同級生などがいたり、体操部が何の理由も説明されずに廃部になったりして、教師や同級生に強い不信感を抱くことになって学校がどんどん嫌になっていったです。

 今にして思っても、何で未熟な新採がいきなりクラス担任などしたのか、と腹立たしくなります。 未熟な指導の一番の犠牲になったのは、新学期の学級委員になった筆者だったように思います。 それまで二学期や三学期の級長(学級委員)ばかりだったのが中学二年生になって初めて一学期の学級委員に任命され、夢と希望にあふれて新学期を迎えたはずが、完全に裏目に出てしまった感じでした。

 そして、二学期の秋に起きた「パンの食い捨て、ゴミ箱再捨て騒動」で、給食のパンを食い残してゴミ箱に捨てた行儀の悪い同級生の身代わりに筆者がなってしまうような事件があって、筆者の心は完全に学校から離れてしまった感じでした。
 この事件も新採教諭の未熟な指導によるものと今でも確信してます。

 幸い登校拒否にはなりませんでしたが、授業がぜんぜん面白くなくて居眠りばっかりするようになりました。 しまいには目を開けたまま居眠りをする特技を修得したほどでした。
 このころから学校不信になり、学校では目を開けて居眠りばっかりして、家へ帰って家で一生懸命勉強するような子供になってしまったようです。

 筆者の家での勉強はかなり変態的なもので、まるで教師が生徒へ説明するみたいに声を出して勉強しました。 特に歴史の勉強では、まるで歴史のストーリーを語るような口調でやりました。 英語の勉強なら声を出してやっても別にいいのでしょうが、数学や理科、社会、国語といったすべての教科でやるわけだから家族の者からは奇異に思われましたが、小学校の教師だった父親からは「おまえは教師の才能がある」と絶賛されました。 しかし、「そいう勉強の仕方は、テストではあまり良い点が取れんぞ」とも言われました。

 このようなちょっと変態的な勉強の仕方が災いしたのか、次第に筆者は勉強の仕方、学習の仕方はどうあるべきかを真剣に考えるようになって、勉強の仕方を勉強する、学習の仕方を学習するようなちょっと世間離れした感じの人間になっていったような感じでした。 そして、この延長が現在の自分という感じです。

 しかし、今思い出しても強い不信感を感じさせるのが、中学二年生のときに一体どいうわけで部員数が多かった体操部や卓球部が廃部になり、反対に同好会みたいに部員がわずかしかいなかった剣道部や陸上部が廃部にならずに存続したのか。 おそらく、数年後に廃校になって現在のS中学校へ統合されることになっていたので、S中学校にはない部は不要だと判断されてしまったのかもしれません。 あるいは、もしかして、新採教諭が指導する新しい部が開設されて、指導する教員のいない体操部や卓球部は不要とみなされてしまったためかもしれないです。

 生徒一人ひとりの能力を伸ばしてやるのが教師の仕事であるはずが、、、、とにかくこのころから、自分は完全に教師や同級生に対する不信感に苦しむようになり、どんどん学校の成績が落ちていってしまい、三年生のときには全学期を通して学級委員にはなれませんでした。

只今、作製中です!


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