あとがき


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虹線



このページではウダウダと能書きをたれていますが、結局のところ、その国の「動物愛護」レベルはその国民の「動物愛護」精神の度合いで決まっているだけなのかも知れません。
日本の動物たちの境遇が劣悪なのは、日本人の気持ちの表れでしかないのでしょう。
もちろん、日本人だって「助けたい」と思っているのでしょうが、問題はその気持ちがどれくらいの強さなのかです。

活動家にしてもそうです。「助けたい」という気持ちが「銭儲けしたい」とか「ヒロイズムに浸りたい」といった邪念を上回るほどの強い気持ちであれば、邪念に行動を支配されることなどないはずです。
邪念に負けて運動被害を引き起こすような活動家は、結局は「助けたい」という気持ちが弱いのだと思います。ただそれだけのことなのだと思います。

ならば、弱いなら弱いながらできることは何かと考えねばなりません。
このページでやっていることは理性に訴えることだけです。理性で邪念を制御したり、弱いながらも持っている「助けたい」という気持ちを補完したりすることによって、運動被害をなくし「助ける」という結果を誘導しようというものです。

でも、「助けたい」という気持ちを強化するという効果はこのページにはないと思います。
残念ながら、当方にはその才能はないようです。

環境が「助けたい」という気持ちの強さと関係しているのかも知れません。
日本はまだ社会が近代化されていません。サディズムの秩序体系が根強く残っています。強者と弱者との関係が支配関係になっていて保護関係になっていないのです。
考えてみれば、欧米だって中世の封建時代は動物虐待が横行していましたし、「動物愛護」は倒錯した愛情表現だとして否定されていました。
だから、社会を近代化して秩序体系をサディズムから近代ヒューマニズムに移行することが「動物愛護」精神発生の基盤なのかも知れません。「動物愛護運動」だけが「動物愛護」運動ではないということです。

しかし、環境が問題の本質ではないと思います。
私は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が好きです。カンダタはクモが巣を作っている姿に感動し巣をはらうことができなくなってしまいました。
私自身の「動物愛護」精神のルーツを考えてみても、理論書ではなく『ドナドナ』でした。『ドナドナ』は幼い私の心を揺さぶりました。
母が言うには、『ドナドナ』を歌うと幼い私はいつもボロボロと涙を流して泣いたのだそうです。親というのは悪趣味なもので、その姿が可愛いので母は何度も歌ったとのことです。
私はそのことをよく覚えていないのですが、その気持ちは私の中の深い部分でずっと息づいてきたのだと思います。
残念ながら、私には『ドナドナ』のような作品は書けません。でも、どこかにそのような才能を持った人がいるはずです。
どんな悪人にも良心というものがあるものです。そこに訴えかけるようなことを運動はしなければならないのだと思います。



虹線


更新Friday, 20-Apr-2001 00:03:13 JST





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