概要-日本に「動物愛護」団体はあるの?-


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Q
愛犬がある災難に巻き込まれたため動物愛護団体に助けを求めたことがあるのですが、その経験から、私は日本には本当にしっかりとした団体がないのだなあということを痛感しました。それはよくわかったのですが、でもなぜないのかがわかりません。


A

以前、オランダ人活動家のウィムさんが来日した際、改革派のHさんに会ってこんなことを言いました。

「いやあ、日本に来てからあなたが初めてですよ。話のピントが合ったのは」

オーストラリアのシンガーさんも同様のことを言っていました。

「私の著作を読んでくれているのはありがたいんだが…」

彼らはせっかく日本に来ているのだから日本の「動物愛護」シーンのことを知りたかったのです。
ところが、日本の団体関係者は彼らに対し「尋ねる」ことばかりで「語る」ものがなかったのです。日本の運動の歴史を語ることも、運動をとりまく環境を語ることも、運動の課題を語ることも何もできなかったのです。
これでは運動としての体をなしていないではないかということです。

当方も「動物愛護団体」の一員でしたがイケてると思ったことは一度もありません。自身のふがいなさも含めていつも「この程度では"動物愛護団体"とは呼べないな」と思ってきました。

何年前だか忘れましたがドイツである日本人男性が騒ぎを起こしました。
この日本人は街中(まちなか)で犬を蹴っ飛ばしたのです。
すると、彼はたちまちその場にいた一般市民たちによって取り押さえられてしまい警察に連行されました。
彼は怪訝な顔をしてこう訴えたそうです。

「野良犬が近寄ってきたから蹴っ飛ばした。私は動物嫌いなんだ。どうして逮捕されなければいけないんだ!」

この言い分がドイツ人には驚きだったので日本人の「動物観」を示すものとしてマスコミで取り上げられてしまいました。

私はこの話を聞いて日本とのあまりの違いに唖然としてしまいました。
日本では警察官が虐待に遭遇しても知らん顔をしているのです。
例の神戸の酒鬼薔薇少年にしても、彼が猫を惨殺していることを地域の住民たちは知っていたそうです。知っていながら放ったらかしにしていたわけです。もし、これが欧米社会なら彼は猫を虐待した時点で逮捕されていたでしょう。小学生も殺されずに済んだでしょうし彼も殺人鬼にならずに済んだでしょう。

このように考えてみれば簡単な話で、もし、ちゃんとした"動物愛護団体"があるのなら日本の状況はもっと良くなっているはずなのです。
今日のお寒い状況は日本にちゃんとした"動物愛護団体"がないことの証であるともいえるのです。


しかし、そう言ったのでは身も蓋もありません。もっと詳しく考察してみなければなりません。

「日本に"動物愛護"団体はあるのか?」

これは広く定義するのか狭く定義するのかにもよります。

「"動物愛護"活動をやっている団体」と定義するのなら間違いなく「ある」といえるでしょう。

しかし、「"動物愛護"活動をやっている」というのなら何も"動物愛護団体"を名乗る団体だけに限ったことではありません。
甲子園に何度も出場している某高校の野球部は学校に迷い込んだ野良犬たちを保護していますし「里親」探しもしています。
また、某運送会社の経営者は引越しで置き去りにされた動物たちを会社ぐるみで面倒をみています。
これらを"動物愛護団体"と呼ぶのかと聞けば、誰もが「それは違う」と答えるでしょう。
多くの人は"動物愛護団体"の定義にもっと本質的な性格を求めているはずです。
おそらく、思想性や精神性や技量といった要素を一定水準以上備えているかどうかを問題にしているのだと思います。

そう考えた場合、果たして日本に"動物愛護団体"はあるといえるのでしょうか。

結論から言うと「ない」と思います。いや、むしろ、「ない」と規定して行動することが戦略上重要だと思います。

では、現存する"動物愛護団体"を名乗る団体(「動物愛護団体」)の本質は何なのでしょうか?

おそらく、「ペット愛好団体」に該当するのだと思います。
もっと正確に言えば、「"動物愛護"活動をするペット愛好団体」です。
これが、日本の「動物愛護団体」の実態といえるでしょう。
『日本愛玩動物協会』という団体がありますが、この会が現代日本の「動物愛護団体」のプロトタイプなのだと思います。多くの団体はこの会ほど素直ではなく虚栄を張っているに過ぎないと思います。

「ペット愛好団体」であっても、それはそれで構わないのだと思います。
「ペット愛好団体」は"動物愛護団体"への過程かも知れませんし、本質が何であれ「動物愛護」活動をすればそれで「動物たち」は救済されるわけです。
もっと言えば、「動物愛護」活動が成立するのであれば、別に「動物愛護」団体などなくてもよいのかも知れません。

しかし、なぜか日本の団体は"動物愛護団体"を名乗りたがります。そこに潜む問題がありますし、そこにこのページの意識もあります。

つまり、日本のいくつかの「動物愛護団体」は『日本愛玩動物協会』のような単なる「動物愛護活動をするペット愛好団体」ではなく、「"動物愛護"のヒロイズムに浸りたがっている性質(たち)の悪いペット愛好団体」と呼ぶぺき側面を持っているといえるのです。


では、なぜ、ちゃんとした"動物愛護"団体が「ない」のでしょうか?

それはなんといっても日本の運動環境が悪過ぎるからです。
70年代に発生した「動物愛護バッシング」により「動物愛護」という観念自体が市民権を失っている状態がずっと続いています。
ドイツでのお騒がせ男もおそらくバッシングの影響を受けて「動物嫌いは犬を蹴っ飛ばしてもよい」とのおかしな感覚を身に付けたのだと思いますし、一方、世の「動物好き」の人たちは自身の「動物愛護」精神を自粛したり萎縮させたりしています。
要するに、日本では「動物愛護」は"弾圧"されてきたのです。
そのため、「愛護団体」によらない「動物愛護活動」も活発とは言えません。これは問題です。
だから、いつまで経ってもドイツのようにならないのだと思います。

では、どうすればよいのでしょうか?

まず、そのことを訴えることから始めるべきではないでしょうか。

「日本では"動物愛護"は弾圧されている。だから、"愛護活動"も"愛護団体"も存在できない」

と世の「動物好き」の人たちに訴えるのです。
そして、「日本には"動物愛護団体"などない」と規定し「日本にも"動物愛護団体"を作ろう」という運動を展開すべきでしょう。

ところが、何度も言いますが、困ったことに多くの活動家は「動物愛護団体」を名乗りたがるのです。ないのに「ある」と言いたがるし、イケてないのに「イケてる」と言いたがります。
そして、事実と異なる「楽観的な状況認識」を伝え、世間知らずの「女の子」たちを勧誘していきます。
こうして、見かけ上の「動物愛護団体」及び「動物愛護運動」が構築されてきたわけです。
こういったことは、結局は日本の「動物愛護」状況をよりわかりにくくし、ひいては権力や体制に利用されるだけです。今から10年前に行われた※『ワシントン条約会議』の時がいい例です。

これでは、あまりにも戦略というものがなさ過ぎます。、
運動環境を変えることは難しいですが、現状を訴えて正しい認識を持たせることならできるのですから、活動家が声を合わせて「弾圧されている」と訴えることから始めるべきなのです。
そうすれば、人々も「あっそうだったのか」と覚醒し、報道に接する際も割り引いて見るのでしょうし、「動物愛護バッシング」や「動物公害キャンペーン」にもひっかかりにくくなるでしょう。
さらには、「それではいけない」と7割を超える「動物好き」の世論が自粛や萎縮を解き放ち立ち上がってくれるでしょう。
だいいち、そうしなければ「動物愛護バッシング」前の自然な日本の状態には戻らないでしょう。
とにかく、「動物愛護バッシング」と「動物公害キャンペーン」で日本人はすっかり狂ってしまっているのですから、この状況下ではどのような運動もうまく機能しないでしょう。

正しい状況認識がなければ正しい戦略は立てられませんし、正しい戦略を立てなければ運動として機能しません。
今日の日本の状況は、日本の「動物愛護団体」が運動環境を変えるための適切な対策をとって来なかった結果だといえるのです。






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