運動と思想的立場


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欧米の「動物愛護」運動ではラディカルな団体が成立しています。また、それぞれの活動家の思想的立場を示す言葉も頻繁に出てきます。

しかし、日本では活動家がそれぞれの思想的立場について論じるということはほとんどありませんでした。
マスコミによる「動物公害」キャンペーンの下、「排斥主義」まで罷り通る日本の状況にあってはラディカルもクソもなかったのです。
実際、私自身も思想的な立場について語ることはほとんどありませんでした。語ったところで誰も関心を示さないというのが現実でした。
活動の現場では「それどころではなかった」というのが実態でした。

しかし、エコロジーブーム以降、第3の波系の団体を中心にラディカルな主張や思想的立場を語る活動家が現れます。
私は「ついにそういう時期が来たのか」と期待感を持ってしまいました。

ところが、彼らに会って話してみると、「欧米ではそう言ってるから」とか「なんだかわからないがカッコいいから」という人がほとんどでガッカリしてしまいました。
彼らは、ただ欧米の情報を輸入して受け売り販売しているだけで思想的背景なんか何にもなかったのです。
そもそも「動物愛護」とは無縁の彼らが「動物愛護」運動を始めるにはそういう手法をとるしかなかったのでしょう。

それでも、彼らは「カッコいい」という理由で強引に欧米のものまね活動を続けていきます。
その結果、ライフスタイルの変更を迫るようなラディカルな課題が取り上げられる中、一方では排斥主義のような底辺の課題が放ったらかしにされるという非常にアンバランスな状況が発生します。

こういった現象は、たちまち世の退屈な知識人たちの餌食となり、「※思想的整合性がないではないか」と批判を浴びせられることになります。当然、社会的にもフィットしません。
人々に向かって、「あれをしろ、これをするな」と命じれば、当然、相手からは「なぜなのか?」と返答されます。
つまり、大義名分を説明する必要があるわけです。それらは大抵思想的な基準に基づくものでなければ人々は納得しません。それができていなければ反発を食らうだけです。

要するに、第3の波の活動家はその時々で自分の目についた問題に反応しているだけで、この世にどのような問題があるのかを把握できていませんし、それらを思想的に整理分類するということも全くできていないのです。言い換えれば、何がラディカルで何が保守的なのかを自分なりに説明することができていないのです。これではまずいです。

そもそも、思想的立場について語るのなら、まず、どのような思想的立場があるのかを把握するということから始めなければなりません。

そこでこの項目では思想的立場を示す用語について考察してみます。


まず、右の見取り図にあるようにざっとA〜Eまでの5つの立場が必要上考えられます。そして、A〜Cまでの3つの立場を総称する用語としてFが考えられます。

Eは最悪の状況に反対するだけという立場です。目安としては「※排斥主義」に反対する立場になります。

DはEの次に悪い状況に反対する立場で"虐待"に反対する立場ということになるのですが、年々"虐待"の定義は※広義化される傾向にあります。ここでは「ハードな虐待」に該当しますので、目安としては「サディズム」に反対する立場ということでよいでしょう。

そして、C、B、Aとだんだんラディカルな立場になっていくわけですが、ここで目安となるのは"※"という概念であり、それに対する""という概念です。それらを定める基準は近代社会では"※権利"概念です。
権利の枠内(権利未満)の立場がC、権利を確立する(守る)立場がBで、権利の枠を超えた最もラディカルな立場がAということになります。

これらの目安からそれぞれに該当する言葉を入れていけばよいということになります。

用語見取り図1

さて、Bの"権利を確立する立場"は、"解放"という言葉が社会科学的に決められているので他の言葉は考えられないところです。

また、Fにはご存知の"※愛護"という言葉がマスコミによって半ば記号化されて決められてしまっています。

   

Eには"共存"か"共生"といった言葉が入るかと思いますが、"共生"は※もっと広義にもっと徳のある意味で使われることが多いですし、「排斥主義」は存在そのものを否定する立場ですから"共存"の方が妥当でしょう。

Dですが、昔から残虐行為に反対する立場は存在していましたが、今日、それは"※人道"と呼ばれています。

Aの権利を超えた立場とは、「それをするのは善いことだがやらなくても罪ではない」という立場ということになります。すなわち、道徳律に該当する立場です。これは政治的には"福祉"と呼ばれています。

問題はCです。権利の枠の中、罪の枠の中で何か手助けや施しをしようという立場です。
したがって、ライフスタイルの変更を伴なわない主張をするほとんどの「動物愛護」活動家の立場はここに該当するわけですが、にもかかわらず、これといった※固有の用語が使われているわけではありません。
日本の「動物愛護団体」のプロトタイプを示していると思える『日本愛玩動物協会』は英語名称に"care"という概念を用いています。この"ケア"という言葉をとりあえず妥当と考える向きが多いです。

用語見取り図2


これが一応現在の※スタンダードであるといえます。

しかし、実際の使われ方はかなり混乱したものになっています。

思想用語の使われ方が乱れるのは、次の3つの理由によります。

    ^嫐をよくわからず使っている
    ⊆造領場をごまかしたり、正当化や美化するために故意に詐称する
    J未離好織鵐澄璽匹飽裕鬚靴討い
,砲弔い討蓮特に説明の必要はないでしょう。そのまんまです。
△呂い錣罎"概念操作"のことですが、行政などの対抗勢力が行う場合もありますし、「動物愛護団体」がやる場合もあります。
は"ユダヤ・キリスト教のスタンダード"などのことを指します。たとえば、"福祉"の乱れはこの影響によっています。

さて、ここで考えなければならないのはどういう使い方をするのが運動にとって「動物たち」にとってよいのかということです。

たとえば、Fの"愛護"という立場は、良い方向であれ「現状を変える」という立場になります。これに対して、"人道"や"共存"という立場は「現状を守る」当たり前の立場ということになり、"虐待"や"排斥主義"が悪い方向に変えることを意味します。
つまり、良い悪いは別にして、現状に対して"愛護"は「アブノーマル」で、"人道"や"共存"は「ノーマル」という関係にあるわけです。当然、"人道"や"共存"の方が"愛護"よりも訴求力ならびに実行性が強いことになります。
たとえば、同じ事柄を取り締まるにしても、「それは排斥主義であり共存に反する」とか「それは虐待であり人道に反する」と言う方が、「それは動物愛護に反する」というよりは取り締まられやすいのです。『動物の保護及び管理に関する法律』も"動物愛護"として改正するよりは、"人道"として改正した方がより多くの人の賛同を得られ、より厳罰化ができたはずです。

これらから、行政などの対抗勢力側はたわいのないことをもってして「この程度でも"動物愛護"と呼べる」となるべく訴求力や実行性の弱いFの"動物愛護"の範疇を"人道"や"共存"のところまで広げてしまおうと画策したいところなのです。
つまり、「やらなくてもよいことをやっているんだから、これで十分だ」と現状をより肯定しにかかるわけです。犬や猫を集めて殺す施設に『動物愛護センター』という名称を付けたりするのもこのためです。

一方、「動物愛護」運動側としては逆に「この程度では"動物愛護"とは呼べない」となるべく"愛護"の範疇を狭め、"人道"や"共存"の範疇を広げたいところです。

ところが、日本の場合は困ったことに「動物愛護団体」がそのような戦略に立脚しておらず、それどころか、自身がヒロイズムに浸りたいがために、より徳のある立場を詐称する傾向が強いのです。"人道"に該当する活動をしていても"愛護"と呼んだり、"ケア"に該当する活動をしていても"福祉"と呼んだりしてしまうわけです。

つまり、結果的には、あろうことか「動物愛護団体」自らが対抗勢力による概念操作に貢献してしまっているという図式になっています。
そのため、スタンダードが運動に不利な方向や形にどんどん乱れて行く傾向にあります。

「動物愛護団体」が真に「動物たち」のことを考えるのであれば、いらぬヒロイズムは捨てて、運動戦略に立脚した思想用語の使い方をするように注意すべきでしょう。





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