ラディカルな会は必要?



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虹線



ラディカルな立場や主張はその使い手がヘボいとディベートの場で「動物愛護」つぶしに※悪用されかねません。

しかし、ラディカルな会は必要です。「活動」が必要というよりも「存在」自体が必要です。もっと正確に言えば、たとえどんな段階にあろうと「ラディカルな主張の存在を世間に知らしめること」は戦略上絶対に必要です。

なぜなら、ラディカルな主張が存在しなければ座標空間そのものが安定しないからです。
もし、ラディカルな主張が存在しなければ、存在している主張の中で相対的にラディカルな主張がラデイカルな主張として世間に扱われることになります。しかし、それは真のラディカルな主張ではないわけですから、座標空間が反「動物愛護」寄りに見かけ上ずれることになります。

「動物愛護」バッシング期には「愛護団体」はいいようにマスコミに罠にはめられ、どんどん主張を軟化させていきました。
しかし、どんなに主張を軟化させても「動物愛護団体」と名乗っているからには世間には「偏った主張」としか受け取られません。譲歩していることを示すラディカルな主張がそこに存在していなかったからです。

これに対し、「動物愛護」に反対する人たちは自分たちを「動物嫌い」とは決して名乗らずに批判していました。「動物嫌い」の人たちは「動物嫌いの会」を作ったりすることもありません。
「動物愛護」批判をする人たちは、いつも自身のことを「中立の一般市民」と名乗っていたのです。
それでいて、主張はいつも「動物嫌い」寄りの偏ったものだったのです。
これによって見かけ上の座標空間はさらに反「動物愛護」寄りにずれることになります。

第三者すなわち世間がもめごとに裁定を下す場合は中庸に下す傾向があります。しかし、座標空間そのものがずれているため、下される裁定はいつも限りなく反「動物愛護」寄りになってしまうわけです。
 

【動物愛護バッシング期の座標】

図1                  図2

つまり、戦略的に相手の方が一枚上だということです。
「動物愛護団体なんだから偏った主張をすべきである」と説得しても、マスコミのいいなりになっている人たちには聞き入れてもらえません。
ならばと、「偏った主張をしないのなら動物愛護団体を名乗るべきではない」と説得しましたが、困ったことに「動物愛護団体」の人たちは皆「動物愛護団体」を名乗りたがる傾向が強くこちらも聞き入れられませんでした。
こういった傾向は今でも基本的には何ら変わっていません。

このような状況を打破するためにはどうしてもラディカルな主張が必要になるわけです。ラディカルな活動のためだけでなく保守的な活動のためにもラディカルな主張は必要なのです。
また、ラディカルな会を名乗る団体は、たとえ「変人だ」「非常識だ」と世間からそしりを受けようが、絶対にラディカルな主張をしてもらわねば困るのです。



虹線


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