説得と姿勢


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虹線



Q 私は動物好きですが、愛護団体の人をどうも好きになれません。たぶん、やたらと威張っているからだと思います。


A
ここでは、団体が社会と接する際の「姿勢」について考えてみます。

「生きものをモノだと思っている」という主張に限らず、一般に「動物愛護団体」は世間に対し「自分たちはわかっているが世間はわかっていないので啓蒙してやる」といった姿勢をとります。
また、活動家の中には自分のことを「次元が高い」とか「偉い」とか「誰よりも動物のことを考えている」と叫ぶ人もいます。
ついこの前まで肉を食べていたことをコロっと忘れて、まるで産まれた時から肉食していなかったかのように振舞う人もいれば、運動に入ったばかりなのに「自分は優れているので金銭報酬をもらう資格がある」と言う人までいます。
こういった姿勢を「高姿勢」あるいは「上段の構え」と呼ぶことにしましょう。

「昔からこんな調子だったのか?」というとそれは違います。
これはエコロジーブーム以降の現象で、主に新興団体に多く見られる傾向です。
エコロジーブーム以前は、「自分たちには思想的なことはわからない」とただひたすら黙々と活動している人がほとんどで、とても謙虚であり等身大の主張しかしていませんでした。
私などはそれらを見ていて「あまりにも低姿勢過ぎるのではないか」と思ったくらいです。

ところが、人間とは不思議なもので、それだけ低姿勢だった人たちの中にもここ近年高姿勢をとる者が出てきているのです。
まったくどうしてこんなふうになってしまったんだろうという感じで、とにかく日本の団体は世間に対して高姿勢をとることに快感を得てしまったかのようです。たぶん、ヒロイズム病が蔓延してきているのだと思います。

もっとも、高姿勢だから即問題だということはないと思います。時と場所によっては、あるいは相手や事柄によっては高姿勢をとることも必要でしょう。たとえば、※権力相手には高姿勢をとった方がうまくいくようです。

しかし、そういった特殊なケースを除いて、一般に高姿勢をとるからには人々を納得させるだけのそれに見合った中身を持っていることを世間から要求されるものです。
それがないと反発を買うことになります。たとえば、人権意識もあやふやな者に「動物の権利」と言われて納得する人はいません。
中身がなければ「団体」や「活動家」ではなく「運動」そのものへの反発となり、結局は動物たちが被害を受けることになったりするものです。

では、高姿勢を納得させるだけの中身が日本の団体にあるかというと、どう見てもそのように見えません。
インターネットでも「愛護団体」の主張や活動に対する一般からの反発をチラホラ見かけます。
内部にいた私でさえ中身のない高姿勢には辟易とするのですから、一般の人が反発を感じるのは容易に想像できます。

そもそも、「次元が高い」「偉い」「誰よりも動物のことを考えている」などと言っていますが、では、なぜそんなエラい人がエコロジーブーム以前は何もしていなかったのでしょうか?
向かい風が吹いている時には知らん顔をしておきながら、追い風が吹くようになってからノコノコ出てきた人に次元もクソもないじゃないですか。
また、そんな人に限って怪しい団体にひっかかったりしているという情けない事実もあります。


日本初の毛皮反対活動が登場した頃、浅田彰さんは、さっそく『クレア』という女性雑誌で「彼らはエコロジーを何もわかっていない。毛皮反対とか言ってイイ気になっているだけだ」と批判していました。
浅田彰さんに限らず、思想的な主張をするとその筋の人から必ずツッコミが入るものです。活動家はそれにも対応する必要があります。
つまり、思想活動をやる場合は"ちゃんとやらねばならない"ということです。コケるのなら表立ってはやらない方がマシなのかも知れません。
特に高邁な思想を振りかざすのなら、それに見合う体づくり、トレーニングをしなければなりません。振れもしないのに重いバットを持って出ていっても空振り三振です。

一般にラディカルな主張をする活動家は一様に毒突かれて苦戦しています。
こういった現象は一見するとラディカルな主張には避けられないことのように思われます。

ところが、実は同じようにラディカルな主張をしているのに全然毒突かれない人もいるのです。
シャカやフランチェスコやガンジーがそうです。
彼らは毒突かれないどころか、「さすが偉い人は言うことが違う。人間以外の生きもののことまで考えているのか。ああ、偉い偉い」と賞賛されるのです。これはいったいどういうことでしょうか。

これに似たような現象が「動物愛護」バッシング期にもありました。
マッカーシズムでハリウッドの赤狩りが行われたように、「動物愛護」バッシングでも芸能人が叩かれました。中でも、当時、人気アイドルだった大場久美子さんは最も激しくバッシングされました。
ところが、その一方で盛んに「動物愛護」発言をしているのになぜかバッシングされない人もいました。※イルカさんです。大場久美子さんはイルカさんの弟子のようなもので、イルカさんに触発されていたのですから、本来なら師匠のイルカさんがバッシングされてしかるべきです。なのに、なぜかイルカさんはバッシングされなかったのです。
イルカさん自身が非常にうまく立ち回っていたということもあると思いますが、理由はそれだけではないと思います。イルカさんはバッシングを受けない何かを持っていたのだと思います。

その何かとはズバリ「人徳」でしょう。もっと正確に言えば人徳があるように見えた。だから、バッシングされなかった、いや、できなかったのだと思います。
一方、大場久美子さんは何も考えていない※ミーハーに見えた。だからラディカルな主張をしているわけでもないのに狙われたのだと思います。

普通の人が説けば毒突かれるだけのラディカルな思想も、シャカやフランチェスコやガンジーのような人徳のある人物が説けば、逆に人々に受け入れられて普及していくのです。
人間以外の動物の幸せを考えようという「動物愛護」という立場はそれ自体が社会運動としてはラディカルであると分類されています。ましてや、ライフスタイルの変革を求めるような立場は究極のラディカリズムだということになります。
したがって、それを説く者は社会問題全般に対してもラディカリストであることを求められるのです。でなければ「筋が通らない」というわけです。そして、シャカやフランチェスコやガンジーは実際にそうだったのです。彼らは人間社会の問題にもちゃんと向き合っていたのです。彼らの人間以外の動物への愛は決して※「偏愛」や「差別愛」ではなく「博愛」だったからこそ人々から認められたのです。

ひるがえって、日本の団体や活動家はどうでしょうか。
残念ながら、「人徳」があるかどうか以前の段階です。
というのも、そもそも思想といっても自分たちでいろいろ考えたり議論したりしているわけではなく、欧米の情報などを咀嚼せずに取って付けているのがほとんどなのです。
「外人の書いた本を読んだ、書いてあることを覚えた」だけではダメなのです。それでは「焼きイモ食った、屁をこいた」と言っているのと同じです。自分の目で観察し自分の心で問題意識を持ち自分の頭で解答すること、もがき苦しむことが基本になければ、知識が血となり肉となることはありません。
実は、※「生きものをモノだと思っている」という主張も虐待事件の度にマスコミがそう言っていたのを取って言ってるに過ぎません。
これでは、到底、ラディカルな主張を展開できる状態にはないわけです。


低姿勢になればよいとは思いません。低姿勢をとった結果、相手がなめたり付け上がったりすることもあります。
だからといって、高姿勢をとっていたのでは運動が受け入れられることは難しいでしょう。
世間と一緒に考えていこう」という姿勢と等身大の主張をすることが肝要だと思います。

しかし、問題なのはヒロイズム病をどう克服するかです。
ヒロイズム病に感染した人たちは活動の目的が「助けること」から「助けたいと称する自分を楽しむこと」に変質してしまっているわけですから、そういう人が高姿勢をとるのはある意味当然のことといえます。
彼らは、たとえ運動が世間から反発されようが動物たちが八つ当たりを受けようがそんなことはお構いなしで高姿勢を続けるのではないかと懸念されます。





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