「動物保護法」か「動管法」か


Copyright(C)2001〜, jem4wn

虹線



この件ほど書いていて情けなく、かつ日本の運動の現状を示す事柄はないかも知れません。

わが国では1972年に動物愛護精神の啓蒙を目的とした『動物の保護及び管理に関する法律』という法律が作られました。「動物愛護」バッシングが始まる前のことでした。(この法律は昨年改正され名称も『動物の愛護及び管理に関する法律』になっています。)

この法律には問題点が二つあります。
一つは内容の問題です。目的が啓蒙にあるため欧米の法律と比較した場合、お話にならないほど不十分です。
しかし、もっと問題なのは実行性の問題です。これまでこの法律が使われて動物たちが救われることはほとんどありませんでした。つまり、有名無実の存在なのです。

なぜそうなっているのかというと、一つには、マスコミなどの権力側がこの法律を都合が悪いものとして※無視したからですが、もう一つの理由は、そこへ持ってきて「動物愛護団体」の側がこの法律を、なんと、「動管法」と呼んでしまっているからです。
「動物愛護団体」自身が「ええ、これは管理のための法律なんですよ」と言っているわけですから、有名無実化するのは当然です。
これでは何度法改正しても同じことです。

ではなぜ「愛護団体」はこの法律を「動管法」と呼ぶようになったのでしょうか?


80年代の中頃、「動物愛護」活動歴のない新左翼活動家のグループが運動に入ってきます。
「動管法」と呼ぶ提唱はこのグループのリーダーのOさんによって行われたものです。

Oさんは『日本みどりの連合』と『動物実験の廃止を求める会』を創設し、まず、「欧米にある『動物虐待防止法』を日本にも作ろう」ということを活動目標に掲げました。
そして、既存の『動物の保護及び管理に関する法律』は手ぬるいとして批判しました。

これ自体はごく普通のことで既成の団体も異口同音に主張していたことです。違っていたのは批判を表現するにあたって新左翼の「革命理論」を適用した点です。Oさんはこの法律を「動管法」と呼んで"否定"することにしたのです。

ここで言う「革命理論」とは、現状に甘んじて今ひとつ革命に踏み切れない民衆を革命に駆り立てるために「革命するより他ない」という極限状態を作り出し追い込むという戦術のことです。いわゆる「革命か死か」というやつです。
つまり、『動物の保護及び管理に関する法律』を「動管法」と呼ぶことは、法改正運動のためにこの法律を「使わない」「使えない」ようにすることを意味するのです。「法改正か死か」ということです。
逆に、この法律を「動物保護法」と呼び、使いながらもっとよいものに改正していこうとするのは「持続的改革理論」ということになります。

Oさんたち新左翼グループはこの後分裂しますが、「動管法」という呼び名は『地球生物会議』のNさんや『アニマルライツセンター』のKさんら新左翼系活動家に受け継がれ広がっていきます。そして、なぜか既成の団体も次々とこれに同調していきます。
つまり、日本の「動物愛護団体」は総体としてこの法律を「棄てた」ことになります。

「愛護団体」の側からこのような方針が出されたわけですから、行政やマスコミがこれを見逃すはずがありません。これならこの法律を取り上げても安全です。これ幸いとさっそく彼らも「動管法」と呼ぶことにしました。「愛護団体」からのこのプレゼントをありがたく頂戴することにしたわけです。

こうして、この法律は世間的にも「動管法」と呼ばれるようになり有名無実化が促進されていったのです。


さて、「革命か死か」と気勢を上げるのは結構ですが、死ぬのはいったい誰なのでしょうか?
もちろん、「動物たち」です。
法律があるのに「理想的でない」という理由でそれを使わないということは、理想的な法律ができるまでの間は「すまないが死んでくれ」ということです。

黒人解放運動が革命理論を使うのは黒人の勝手です。女性解放運動が革命理論を使うのも女性の勝手です。
自分のために自分の命を懸けるということはよくあることですし、他者のために自分の命を懸けるということもよく聞きます。
しかし、運動者が運動者でない他者の命を賭けて運動をするというのは聞いたことがありません。
犬や猫が「革命理論」を使うことに同意したのでしょうか?
なぜ、このような理論を使わねばならないのでしょうか?

実は提唱者のOさん自身はとっくに「動管法」と呼ぶことをやめているのです。
OさんがNさんらと分裂して『動物実験廃止協会』を作ってしばらく経ってから会員の人から「団地問題で困っている」との依頼を受けます。
そこで、Oさんは『動物の保護及び管理に関する法律』を「動物保護法」と呼んで使います。以後、「動管法」と呼ぶことをやめてしまいます。
Oさんは「動物愛護」運動に「革命理論」を持ち込むことの問題性に気付いたようです。
しかし、他の会はその後も「動管法」と呼び続けています。

革命路線が即悪いということはないと思います。これも状況次第でしょう。
しかし、今件の場合、既存の法律が不十分であることは誰もがわかっていることなのでそれをアピールする必要は全くありませんでした。「動物保護法」と呼んでも改正運動に何ら支障はないはずです。
それを考えると、単に気勢を上げるために「動管法」と呼んでいる"無責任革命路線"としか思えないのです。


ところが、しばらくするともっと不可解な言動が目立つようになってきます。

各団体は「動管法」と呼んでおきながら、行政に対し、なんと「使わないとはけしからん」と有名無実ぶりを批判し出すのです。
自分たちも使えなくしておいてよくもそんなことが言えたものです。
これはいったいどういうことなのでしょうか。

どうやら、彼らは意味がわからず「動管法」と呼んでいるようなのです。

これはにわかには信じがたいことです。
考えてもみて下さい。「動物」を略して「動」とする用法は日本語には見当たりません。「動燃」という原発組織や「動労」といった国鉄労組がありましたが、これらはいずれも「動力」を略したものです。
また、法律の名称は"管理"よりも"保護"が先にきて『動物の保護及び管理に関する法律』となっているのですから、思想などなくとも、略すなら「動物保護法」とするのが自然です。
「動管法」は人権侵害だとして悪名高い『入管法』と語呂を合わせた意図的な言葉なのです。
だから私はこれを使う人はてっきり故意に使っているのだとばかりに思っていました。

どうしてこんなことがわからないんでしょう。おかしいと思わなかったのでしょうか?
『アニマルライツセンター』のKさんなどはOさんと同じように団地問題の依頼を受けながら、それでも「動管法」と呼んで裁判を闘っているのです。ただでさえ負けることの多い団地問題訴訟で自分の方から「これは管理のための法律です」と言って法解釈を不利にしているわけです。当然、裁判は負けました。
自分たちが何をしているのかもはっきりわかっていない。これはいったいどういうことなのでしょうか?

答えは意外と簡単でした。要するに、彼らは「何も考えていない」のです。
日本の「動物愛護団体」は感覚的に行動しているだけで、「考える」ということをほとんどしないのです。

マスコミが言うように「動物愛護団体」は知的レベルが低いのでしょうか?
そんなことはありません。いわゆる一流大卒の人もいますし、「どうやって銭儲けをするか」「どうやって楽しむか」ということについては考えているのです。
もっと正確に言えば、自分のためには考えるが、彼らが「助けたい」と称する犬や猫のために考えるということをしないのです。

動物たちがひどい目に遭っているのはヒトよりも知能が低いからです。ものが言えないからです。
であるなら、「動物愛護」運動とは端的に言えば彼らの頭脳になることであり、代わりにものを言うことであるはずです。
しかし、日本の「愛護団体」はヒトとしてのその大きな脳ミソを犬や猫のために決して使おうとはしないのです。
「どうして犬や猫のために頭を使わなきゃいないんだい?」という者までいるのです。
これでは、「動物愛護団体までもが動物愛護運動をバカにしているのではないか」と言われても仕方ありません。

では、どうして犬や猫のために頭を使おうとしないのでしょうか?
結局は、「言うほど"助けたい"とは思っていないから」ということになるのではないでしょうか。


どうしても犬や猫のために頭を使うのが嫌なら、活動をそれに合ったものに限定縮小すべきなのです。
ところが、頭を使うのが嫌であるにもかかわらず、「カッコいい」という理由で法改正のような高度に知的な活動をやたらとやりたがる団体があるのです。これでは今後何をしでかすやら危険きわまりない話です。

このページで解説したことにより、今後は「動管法」とは呼ばなくなるかも知れません。しかし、このページのことは隠してこっそり変えるのだと思いますし、なぜ間違えたのかを反省したりもしないでしょう。
いくら言葉だけ変えても、それをもたらした体質が変わらない限り、必ず別の問題を引き起こすことになると思います。





更新Wednesday, 25-Apr-2001 23:36:59 JST





mail

目次に戻る