三沢
1.三沢市の紹介
5.砂鉄と旧国鉄五川目
(いつかわめ)
線
2.市名の由来余話
6. 川目部落
3.基地拡張余話
7.三陸大津波と三沢大火
4.太平洋無着陸飛行
8.写真コーナー
三沢駅
三沢空港
1、三沢市の紹介
三沢市は青森県の東部
太平洋に面し人口43000人
ほどの小都市です。
東京からJR三沢駅まで
新幹線を乗り継いで四時間、
羽田空港から三沢空港まで
1時間、大阪
(伊丹)
空港から
三沢空港まで2時間です。
(三沢には空港があるのです)
三沢市街から小川原湖までは
車で15分です。
市域の東は太平洋に面し
砂浜と松原が形成されており
南部には漁港があります。
北部には高瀬川が位置し、小川原湖と太平洋を結んでいます。
西部は小川原湖とJR東北線によって 境界されていると見てよいでしょう。
南は隣町
(下田、百石)
です。
市のさらに西、十和田・八甲田国立公園までは車で1時間です。
小川原湖の北には
むつ小川原大規模開発地域があり、むつ小川原港が築造中です。
そこには国家石油備蓄基地が稼動しており、核燃サイクル施設も建設中です。
2、市名の由来余話
・旧海軍三沢航空隊
戦雲の近ずく 昭和14年、朝鮮人の徴用により工事が始まり
(戦前から戦時中、当地でも多くの朝鮮人が強制労働に従事していた。
いわゆるタコ部屋が花園地区や後久保地区にあった)
旧三沢村に旧海軍北部方面
(本部 むつ市大湊港)
三沢飛行場が
(滑走路は風の方向次第でどちらにも飛び立てるように三角形をしていた)
開戦の二ヵ月前に完成し
三沢航空隊本部と第41海軍航空廠三沢分工場が発足しました。
(方面本部には建設局 土木局 機械局など五つの局があり
私の義叔父は若くして建設局の局長であった。
義叔父は近ずく戦雲のもと国家予算を使い
三沢の地にいちから飛行場の建設に当たり完成しました。
今なお米軍が使用している旧い格納庫はこの時に建設したもので
当時としては国内で最大級の建造物でした
なお終戦直前三沢飛行場は米軍機の攻撃・空襲を数回うけた)
(湖畔の高台に跡碑がある)
・しかし終戦と共に占領軍
(米軍)
が進駐し接収され
基地の急拡張工事が行われました(米軍三沢基地となる、次G項)。
村は急膨張
(発展)
し町制施行となりましたが
町名を“三沢町”
(浜三沢部落、村域の中心部で旧役場所在地名)
とするか
“古間木
(ふるまき)
町”
(古間木部落 旧国鉄古間木駅名 現三沢駅所在地名)
とするかで
またもや“大混乱”
(部落間の競争)
となり収拾がつきません。
(古くから両部落間の競争が激しく 村名は三沢、駅名は古間木と引き分けてきた)
そこで司令官
(終戦当時は天皇陛下よりもエラかった)
に 決めてもらうべ となり
村長をはじめ 議員等が進駐軍の米軍基地に出向いたところ
何を思ったか司令官は
“oh、 misawa”
(ああ、ミサワか)
とつぶやきました。
それを村長等は“大三沢”と受け取り、大三沢町となりました。
(駅名は 古間木駅のままです)
その後 市制施行に当たり おこがましいと“大”の字をとり
三沢市となりましたが 駅名が三沢駅と変更になるのは ずっと後のことです。
それにしても 部落間の競争の産物とは民俗学上からも面白いですね。
3、基地拡張余話
三沢には前項でふれたように米軍基地があります。
戦後 米軍の進駐による基地の大拡張の際
周辺の土地
(特に隣接の田畑 山林等)
は接収
(強制 無償)
されました。
取り上げに 恐れおののいた百姓達は
“飲んだ方がいい”と 酒1升と畑1反歩を当時いくらでも交換してくれたそうです!
本当でしょうか?
まさかとお笑いになるでしょうが、こう言う話があるくらいです。
パンクボーンとハーンドン
4、 太平洋無着陸飛行
さらに興味深いのはリンドバーグが
大西洋の無着陸横断飛行に成功した後、
次は太平洋の無着陸横断飛行だ
と冒険好きの多くのヒコーキ野郎達が
この淋代海岸から飛び立ちました。
多くの失敗の後ついに成功したのです。
三沢からアメリカの西海岸
(ワシントン州 ウエナッチ市)
へ
初めて太平洋無着陸横断飛行に成功したのです。
(パンクボーンとハーンドンの二米国青年が 愛機ミスビードル号で41時間半の飛行)
第二次世界大戦の足音が聞こえて来る頃のことでした
(昭和6年10月4日)
。
リンドバーグから わずか二年後(昭和6年)の事です。
歴史的快挙であったのですが近ずく戦雲のため評価される事はありませんでした。
多くの失敗を惜しみ 初めての栄光を達成した、この歴史的事実を称えて
翔翼の碑が湖畔の高台に建立されています。
基地専用線
5、砂鉄と旧国鉄五川目線
現在JR三沢駅から三沢基地まで
全長7kmほど 鉄路の専用線があります。
これは 戦時中の19年 戦時特例法のもとで
旧海軍の軍用側線として
旧古間木駅から基地まで建設されたものです。
最長期の総延長は25kmほどもありました。
そしてこれは旧国鉄五川目線の名残りを
僅かに伝えています。
やはり特例で軍需用に
専用線の先端部途中より分岐して
更に海岸の五川目部落まで新側線路が敷設されました。
これは日本砂鉄会社の出資で 敷設工事はもとより国鉄が担当しました。
戦時中の事とてやはり朝鮮人の徴用により
(現在の岡三沢地区や花園地区の一部に朝鮮人の"タコ部屋"がありました)
突貫工事により僅か一ヶ月ほどで新たに6kmほどの鉄路が完成しました
(社専用線?)
。
これが国鉄五川目線と呼ばれた鉄道です。
そしてこれは砂鉄の輸送を目的としたものでした。
その昔、戦前からこの太平洋の砂浜は砂鉄の産地でした。
日本砂鉄、東北砂鉄、日本高周波、日曹鉱業等が操業していて
採掘された砂鉄は現場からトロッコやトラックで集められ
五川目で貨車積みされ、全国
(?)
へ輸送されました。
その後トラック輸送の本格化が到来し
資源の質の問題や 他資源への転換もあり
さらに戦後進駐した米軍基地の建設拡張工事の業務
(特に滑走路建設用のコツ材を海岸から運搬)
の終了と共に
22年に発生した転覆事故がキッカケ
(?)
で廃線の運命となり
基地より以遠の線路は撤去され、五川目線の名称も消えました。
僅か数年足らずの稼動でした。
もしこれが発展していれば下北まで延びていたかもしれないのです。
大変惜しまれてなりません。
線路跡は現在、道路
(空港前)
となっています。
かかる事実を知る人も少なくなって来ましたが、
戦時中とはいえ
国鉄全体として旅客輸送を縮少しているなかでのことでした。
何事も軍需関係が"戦時特例"、最優先されたのでした。
それにしても朝鮮人には申し訳ないことをしました。
ちなみに余談ですが 前述のタコ部屋の如く 三沢には旧く
赤線地帯、青線地帯、マッチバコ、A地区(官舎)、B地区、C地区(官舎)、特借(とっかり)
D地区(官舎)、クロンボ横丁、中塩小路、水交舎、酒保(しゅほ)、士官官舎
下士官官舎、Bバリ地区、たぬき小路、E通リ、三角滑走路、場内(じょうない)
と言った"面白い"呼び名が多くありました。
歴史を訪ね これら一コマ、一コマを知る時 私は大変な感激を覚えてなりません。
・朝鮮人に申し訳ない歴史
を、ついでにもう一つ。
明治の元勲伊藤博文は 初代首相を含め四度の
組閣や枢密院と貴族院の議長を歴任した後
初代韓国統監に就き内政を握り
韓国併合の立て役者として"日帝植民地支配の主役"
でもあった。伊藤博文の朝鮮政策は
「日本のすべての政治家の中で最も温和な政策」
("天皇の主治医"ベルツ、ドイツ人)
ではあったが、、、、
明治42年10月26日 ハルビン駅(中国、黒竜江省)で三発の銃弾が伊藤博文を襲った。
日本国内の新聞は連日
犯人を「卑劣な暴漢」 「死刑当然の奸族」と
いった調子で書き立てたのである。
銃弾を放ったのは韓国人・安重根(アンジュングン、30才)である。
安重根は「大韓万歳」と三回叫び、身体を取り押さえられた。
安重根は教育者・キリスト教徒であったが
日本の侵略主義に対抗し「義兵闘争」が韓国全土で激化する中
自らも義兵を組織し、独立運動に立ち上がったのである。
安重根は裁判で
日本による韓国支配の不当性と祖国の独立を主張し
たじろぐことは一度もなかった。
日本では「凶悪犯」としてその名を轟かせた安重根に
収容された旅順監獄では、畏敬の念を抱く日本人官吏が多く
彼の見識や人柄に敬意を払い、タバコなどを差し入れたり
記念の揮毫を所望する日本人官吏がたえなかったが、、、
翌年2月処刑された。
「日清・日露戦争に反対していたとされる明治天皇の真意を裏切り
軍閥の意に従い、軍事的帝国主義に邁進する伊藤の実像を
安重根は見抜いていました。そこで伊藤を排除すれば、韓国は独立し
同時に韓国・日本・清国が協力して列強を排除し
東アジアに平和をもたらすべきとも主張しました。
彼は当時にして、世界市民的発想を持つ思想家でした」(中野教授)
安重根の弁護を担当した、自由民権論者・水野吉太郎は
「生きていれば、韓国のために役立つ人になっただろうに」と処刑を無念がり
暗殺現場に居合わせた満州鉄道理事の田中清次郎(銃弾の一発を受けた)でさえ
「今まで会った中で一番偉いのは、残念であるが、それは安重根である」と言った。
しかし、安重根の願いがかなうことはなく
半年後には韓国は併合されてしまいました。
暗殺から、僅か10ヶ月後のことである。
朝鮮国のような文化国家が
植民地になることには本質的に無理があるのですが、、、
(講談社、日録20世紀より)
なおこの韓国が解放されるのは先の終戦を待たなければなりませんでした。
この安重根に対する評価はこんにち
韓国ではもちろん日本でも正当になされています。
6、川目部落
・三沢には集落の形態としては全国的にも珍しい川目部落があります。
海岸に沿って南から
一川目
(ひとかわめ)
部落、二川目
(ふたかわめ)
部落、三川目
(みかわめ)
部落
四川目
(よかわめ)
部落、五川目部落、六川目
(むかわめ)
部落です。
《 川標》
・これは十和田湖を源流とする奥入瀬川を起点として
一つ目の小さな川の周りに発達した集落が一川目部落
二つ目の小さな川の周りに発達した集落が二川目部落
というように六川目まであります。
なお、大関
貴ノ浪
はこの六川目部落近くの出身であります。
(ちなみに現在ある第一中学校の旧体育館の建設地鎮祭で
その時三沢に地方巡行に来ていた横綱鏡里が土俵入りを披露した、
のを小学生だった私は見ていました)
《優勝パレード・右は市長》
・そうです、三沢地方は古くから 水つまり川が"無い"土地でして、
それゆえ小さな川でも貴重で
人が住み着く前は
漁の時期に川毎に番小屋が設けられることに始まり
集落の発達の起点となったのです。
それほどに
沢
(水のある場所)
は貴重で
岡・浜・駒の三ッつの沢をもって
三沢の名の由来と説く古老も少なくなりました。
ちなみに江戸時代末期、三沢の人口は僅か400人ほどに過ぎませんでした。
《 文化財・南部駒踊り》 古代から
野生の馬を取り込む作業の様子を
民芸化した
・そういえばこの地方の周りには
一戸
(いちのへ)
、二戸、三戸、四戸、
五戸、六戸、七戸、八戸、九戸
(くのへ)
という地名と人名があります。
戸
(のへ)
とは馬の産地を意味し
この地方は昔から馬の大産地でして
南部藩時代に一戸郡
(ごうり)
から
九戸郡まで整理されました。
・明治以降も 終戦まで
軍用馬の生産が盛んでしたが
今は競争馬の生産が僅かに残っているのみで
牧場そのものに往時の面影はありません。
・ところで皆さんは
博労
(ばくろう、伯楽、馬喰)
という言葉を知っていますか?
これは終戦後まで
農耕用の重要な労働力である牛馬を売り買いした仲介人の通称です。
つまり農耕用牛馬は貴重な財産で
その取り引きの仲介が職業として成り立っていたわけです。
今で言う不動産の仲介業
(ブローカー?)
みたいなものでしょう。
そういえば、バクる という言葉がありますね。
強かに交換する と言う意味ですね。ここから来たのでしょうか?
それに ばくろうも、ブローカーも発音が似ていますね。
言葉も面白いですね。
震粛災記念塔
7、三陸大津波と三沢大火
・昭和8年3月3日 三陸沖に発生した津波は三沢にも
大きな被害をもたらしました。
(津波の高さは三川目で6mに達っしましたが
奇しくも北境の高瀬川が終焉の地となりました)
祖父の話では 四川目にあった私の生家の
前
(金毘羅宮の下)
まで津波が襲来したそうです。
この時の警戒心を忘れまい と
又、この時の死者の霊を慰めて震粛災記念塔が
宮の境内に建立されています。
是非一度 詣でて 見られたい。
なお この時の教訓から海岸に松の木が全国的に植えられました。
黒松は根が深く
(赤松は根が浅い)
丈夫で
防風・防砂と共に 防潮林に適している為です。
・昭和41年1月11日午後2時過ぎ 繁華街から発生した火は折からの強風に煽られて
市中心部
(約10万平方m)
を嘗め尽くしました。これが三沢大火です。
この朝 私は婚約中の妻と共に夜行列車で帰郷したばかりで
余りの騒々しさに昼寝を破られて見ると大火の真最中でした。
つまり私は偶然にも三沢大火に立ち会ったわけです。
8、写真コーナー
・三沢の祭り
・三沢漁港と海浜
・古牧温泉
・三沢市内の事業所
・太平洋無着陸飛行と旧海軍三沢航空隊
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