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「子供と遊び」

はじめに
 「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というセリフは、親の口からこれまで何回発せられたことでしょう。遊びは実に楽しい反面、そればっかりやっていると勉強が追いつかなくなる、という親の意志表示ですが、これほどの決まり文句はそうあるものではありません。遊びは大人から悪者扱いにされることが多いのですが、いつの時代でも遊びは子供にとって楽しく、必須な要素であることも事実です。
 今日、子供の遊びが、量・質ともに変化してきていることに異論を挟まれる方は少ないと思います。このような変化が、子供の成長や人格形成に与える可能性について考えたことがありますか? 子供にとっての遊びとはどんな意味を持ち、大人になっていく過程でいかなる影響を及ぼしていくのでしょうか。共に考えて頂ければ幸いです。

遊びの2つの役割
 人間が生きていく上で、食べ物は必要不可欠なものです。同様に、遊びは子供にとっては(いや、大人にとってもそうですが)非常に重要な要素だと断言できます。では、なぜでしょうか? 私は2つの理由があると思います。1つめは、もちろん、遊びは楽しく、心身ともに自らをリラックスさせる機能があるからです。2つめは、遊びを通して実に多様な事象を学びとり、それらが大人になるための肥やしになっている、という事実があるからです。ある遊びによって、何を学ぶことになり、明日以降の子供の生活にどのような影響を与えるのかはあまりはっきりとしないのが普通です。ただ言えることは、子供が遊びを通して学び取ることは、学校で習うようなきちんとした枠組みをもった知識体系でなく、その時点では何の役に立つのかわからない、原体験ともいうべきものであるということです。遊びを通した多くの体験は、成長するにつれ忘れさられるのが普通ですが、無意識のうちに何かの役に立っていたり、特定の体験が長い間、根付いていて、自分の価値観や判断基準に深い影響を与えている事実に、ある日、自ら驚く場合もあると思います。

猫屋敷とボルト
 先日、こんなことがありました。3年生の息子とその友達に、「猫屋敷行く?」と誘われました。自転車で5分ほど走ってみると、廃屋とまではいかないまでも、誰も住んでいない一軒家がありました。しばらくの間は、猫にお菓子をやったり、さわったりして遊んでいましたが、友達が「ここの庭にはいろんなネジが埋まってるねんで」と自慢げにネジを掘り返し出しました。「それはネジというよりは、これがボルトであれはナット、この薄いやつはワッシャーっていうんやで、覚えときや」と教えると、「うん、わかった」と子供達。そのあと学校へ行って、学校内の裏庭などに築き上げた秘密基地を誇らしげに案内してくれました。「秘密基地」をつくれる環境が乏しい今日、子供達の発想が自分が子供だった時代とあまり変化していないことに、少し安堵を覚えました。 
 次に彼らは、先ほど掘り起こしたボルトを校庭へ投げつける遊びを始めました。「ドッカーン!」と大きな声を上げながらボルトを単に地面に叩き付けるだけなのですが、ほどなく子供たちは、ボルトが細長いにもかかわらず、地面に付くボルトの投げ跡がボルトの形でなく、いつもまん丸なことに気づき出しました。ボルトを投げると周辺の砂が均等に飛び広がるためにそうなるようなのですが、なぜあんなにきれいな円形を残すのか、よくわかりません。「わー、なんでこんなにきれいな丸の形で跡がつくんやろ?」。息子と友人は、いろいろな説を唱えては、その説を立証するために何度かボルトを叩き付けていました。まるで、理科の実験の雰囲気です。ここで、私がその理由を説明できれば格好よかったのですが、結局わからず、子供達とともに「不思議やなあ、変やなあ」と唸っているだけです。そのあと、原因もわからないまま、「誰が一番大きな円を描くか」、という遊びで盛り上がりました。楽しい午後でした。

遊びのパワー
 ここで、ご紹介したエピソードは、子供達の長い「遊び史」における、ほんの一瞬の出来事です。子供達のこの日の体験が、将来、どのような意味を持つのか、考えても意味のないことですが、類似の体験を何度も繰り返し積み重ねていくことで、物事に対する好奇心や探求心が養われていくのではないかと想像するわけです。特に小学生時代に、自らの意志で獲得した体験は、人格形成や社会で必要とされる能力の開発に少なからず反映するのではないでしょうか。
 遊びといえば、今日ではゲームボーイなどの機器遊びが主流です。しかし、与えられたものを単に消化していくだけの、いわば「作業的遊び」は、快楽を与えるレジャーとしては機能しても、想像力や創造力を伸ばすという目的にはそぐわないと私は捉えています。画面を見ながらただひたすらボタンを押していくだけの繰り返しでは、生産的能力や思考力が身につくとは到底思えません。例えば会社で、「ここに書いてある方法で、この書類を処理して」という指令には無難に対応できても、「ここに真白い紙がある。自分の企画を思うように描いてみなさい」といった要求には充分に応えることができないと思うのです。「自分の考えを述べる」という基本的なことにまでマニュアルに頼る時代・・・。私は、仕事柄、大学生と接する機会が多いのですが、上記したタイプの学生が余りにも多いことに本当に危機感を感じています。自らの意見を発することもなく、指示を待ちながら友人と群れ楽しんでいる集団が社会へ出てからどのように自己表現をしていくのでしょうか。このような学生が増えた原因の一つとして、学校や家庭での教育の問題に加え、私は、子供時代の遊びの質に根深い問題があることを指摘したいと思います。

児童ホームの役割
 そういった点で、児童ホームは創造的な遊びが優先されている場であり、また、異年齢の子供とのつきあい・遊びを通して得られる体験も貴重だと思います。行動範囲や遊ぶ友達が限られている、というのはデメリットだと思いますが、否が応でも、毎日友達と顔をつき合わせ、泥まみれになりながら遊ぶ場を保証されている、という環境の有り難さについて、子供達は自覚する必要がなくても、大人はきちんと認識しておく必要があると思います。ホームがないと想定した場合、放っておいてもそのような環境が子供達に簡単に与えられるという時代ではありませんから。そう考えると、児童ホームが単に「働く親を持つ子供が通うところ」ではないことは明らかです。
 ホームのような場を持たない子供達が、いかなる方法で「遊びに対する潜在的欲求」を昇華しているのかと考えると、とても不安な気持ちになります。日頃、ゲーム機器などでしか遊ばない子供達が何かのきっかけで、創造的な遊びの場を与えられ、本来の活き活きとした表情を示すことを報道などでよく耳にします。このことは、現在の子供が本質的にゲーム人種になっているのではなく、環境次第でいくらでも遊ぶ能力を身につけていけることを示しています。中学、高校に進んで、「はじける」ような気質を失っていくまでに、できるだけ有意義でおもしろい遊びの体験を増やしてやりたいと感じているのは私だけではないと思います。
 私が小学生だった時代では、家に帰ってランドセルを置くと、すぐに近くの公園や秘密の場所に集結し、暗くなるまで徹底的に遊ぶのが全く普通でしたが、今はどうでしょうか。理想的な環境を設定するのは無理だとしても、現状に応じて子供の遊びの環境を少しでも改善していくのは社会の義務だと思います。ホームは、そのような目的を実行するための重要なきっかけを与えられる場であると信じたいのです。
 本筋からは離れますが、私が住んでいる市では、3年生までしかホームに在籍できないという制度は非常に遺憾に感じています。例えば高学年生が、ときには、1、2年生の世話をし、指導員を助ける、あるいは逆に低学年生が高学年生を見て、あこがれながら成長していく、といった場面を想像すれば高学年生がホームに在籍するメリットは計り知れないと感じます。もちろん、高学年には高学年に応じた環境を設定してやることが重要ですし、何より財政的な問題があるのでしょう。しかし、子供をとりまく社会環境を考えれば考えるほど、高学年までにホーム(あるいは全く新しい枠組みの組織)を拡張することは、今後、ますます重要になっていくものと思います。

おわりに
 21世紀を間近に控え、先の見えにくい時代になってきています。そんな難しい時代を迎えるにあたって、子供に対する教育の重要性が増してきていることはいうまでもないと思います。これからは、知識を詰め込むのではなく、たとえば白い紙を与えられた場合、どの程度の自己表現ができるか、といった能力が社会的に必要とされる時代になります。そう捉えた場合、幼いころにどのような遊びの環境を整えてやればいいのか、ただ単に子供を喜ばせるという目的だけでなく、教育としての遊びと位置づけ、改めて考え直す必要があるのではないでしょうか。