甲申政変と日本

金玉均の日本視察
朝鮮では我が国との修好条約締結後、我が国とへ使節や視察団、留学生などを活発に派遣しはじめた。こうして国外を見聞して朝鮮の改革に必要を実感し主張し出した人々を、開化派と呼ぶ。
その開化派の中では、清との関係を維持しつつ近代化を行おうとする者と、清からの独立を果たし我が国の明治維新を手本に近代化を行おうとする者とにわかれた。金玉均が中心となった後者を独立党と呼ぶ。
明治十五(18822542)年に国王の内命で我が国を視察に来た金玉均は、長崎で地方議会、裁判所、小中学校や師範学校、電信施設などを見学し、大阪では府知事らと会見して練兵場、印刷所、建設会社などを訪れ、また京都では府庁訪問、第二回内国博覧会見学、盲唖院見学など精力的に活動している。
五月に東京へ着いた金玉均は、福沢諭吉邸を拠点に二ヶ月ほど滞在し、その間休む間も無く様々な人物と会っては意見を交換し、政治、経済、軍事全般に渡る様々な施設へ通い詰めた。
福沢諭吉の紹介で政界の井上馨大隈重信、財界の渋沢栄一や大倉喜八郎等をはじめ、榎本武揚、副島種臣、内田良平など、民間人を含む多数の人々と、ほとんど連日連夜の会合をもっている。
また横浜の清領事館をはじめ、各国の領事館もくまなく訪問しており、外国事情の収拾にも余念がなかった事が知られる。各省庁や民間施設の視察にも多くの時間を割き、適宜、朝鮮政府にも必要と思われる機材の発注もしている。
この旺盛な働きぶりからも、金玉均が我が国からいかに多くのものを吸収しようとしていたかがわかる。
七月末、金玉均一行は東京を発って神戸から船に乗って帰路につくが、下関に着いたときに壬午軍乱の知らせを受け、花房公使の乗る明治丸に同乗して帰国している。
壬午軍乱後に結ばれた済物浦条約で、朝鮮は謝罪の国書を我が国に修めることが定められた。朝鮮政府は清には軍乱鎮定のお礼として陳奏使を送ったが、我が国に対してはこれを修信使の名の下に派遣している。朝鮮が名目を保とうとした訳だが、我が国は特にこれについて文句を付けようとはしなかった。
明治十五(18822542)年九月に来日した修信使一行の中に顧問として参加した金玉均が居たが、彼はこの時にも福沢諭吉邸を訪れている。
この二回の訪日で金玉均は福沢諭吉から多くのことを学んだ。この頃の朝鮮では、洋書を読解するだけの語学力のある者は居なかった。ちょうどこの頃から朝鮮は、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアと次々に修好条約を結んで行くが、当時の朝鮮には条文の欧文を正確に読んで理解できる者が育っていなかった。金玉均等が「独立、自主の意義」を悟ったのは福沢諭吉やその門下生らを通してであった。

閔氏一族による外戚政治を行い朝鮮国を私物化した、朝鮮国王高宗の妃・閔妃
閔妃

壬午軍乱後の朝鮮
壬午軍乱期に、閔妃は忠州の閔氏一族の屋敷に匿われていた。閔妃は軍乱終息と共に王宮に戻ったが、その際一人の巫女を伴った。この巫女は閔妃が匿われていた家の召使い身分の女であったが、「閔妃は無事王宮へ帰る」と預言し、それが的中したことで閔妃が気に入り王宮に連れて帰ると宮中に祭壇を設け自らの安泰の為に祈祷させるようになった。
やがて閔妃は、宮殿北にある北廟に王家直属の祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を行わせるようになった。
国家財政は窮乏の一途を辿っていたにも拘わらず、この祭祀の為に、北廟には山海の珍味や各地の名産品が山の様に運び込まれ、国費は惜しみなく費やされたのである。また彼女の下には各地から祈祷師、巫女、占い師、易者、僧尼らが続々と集まる様になり、これらを賄う費用もまた国費から歳出された。
こうして北廟の祭主は大霊君と号され、宮廷内で最も重きを成す様になった。取り巻きの祈祷師達もその威勢に与った為、上級の品階や大職を求める官僚達は、彼らに金品を贈って機嫌を取らなくてはならなくなった。
この祭祀の為にやりくりのつかなくなった宮廷の財政の穴埋めとして利用されたのが、税関収入であった。当時、朝鮮の税関を統括、監督していたのは、から派遣された外交顧問のメルレンドルフだった。
メルレンドルフはさらに、閔氏政権に財政難打開の方策として悪貨の鋳造と云う知恵を授けた。それは「当五銭」と呼ばれ、従来の貨幣価値の五分の一の価値しか無いものだった。
この悪貨を漢城、江華、平壌で大量に鋳造しはじめた為に、市場は悪貨で溢れ、物価はたちまちの内に暴騰した。独立党はこの政策に猛反対したが受け入れられず、更に無制限な鋳造へと拍車がかけられた。

金玉均と独立党の活動
金玉均は二度目の我が国滞在でも、会合や視察などに精力的な活動を見せている。福沢諭吉もまた、彼に対してこれまで以上に各方面での援助を惜しまなかった。
済物浦条約による賠償金五十万円の支払いでは、福沢諭吉が井上馨外務卿を紹介し、井上馨を通じて横浜正金銀行から朝鮮政府に資金を融通させている。返済期限も五年返済から十年返済へと期限を延ばされた
福沢諭吉は、金玉均に先んじて帰国する朴泳孝ら一行に、井上角五郎ら三名の門弟と印刷技術者二名、元軍人二名を同行させている。目的は新聞の発行などの文化活動の援助である。
こうして明治十六(18832543)年十月三十一日、井上角五郎による朝鮮初の新聞『漢城旬報』が創刊された。
三月に我が国から朝鮮に帰国した金玉均は、すぐに四十数名の青年達を我が国に留学させ、その監督を福沢諭吉に依頼している。福沢は来日した彼らを自分の別邸に入れ、慶應義塾陸軍戸山学校、各種の技術学校にそれぞれ修学させている。
一方、金玉均と共に来日していた朴泳孝は一月に朝鮮へ帰国すると、警察制度の整備の為に「巡警部」を、また道路の近代的な改修の為に「治道局」を設置し、市内の美観や衛生のために、沿道の簡易建物の整備などを行っている。これら一連の施策は、朴泳孝の帰国の際に、金玉均が彼に託した国王宛の上奏書の内容を実行したものであった。
しかし、こうした近代化政策は守旧派から大きな反発を受け、朴泳孝は京畿道広州留守という地方守備の武官職に転任させられた。朴泳孝はここでも近代化を目指し、我が国の陸軍戸山学校の卒業生を教官として、近代的な軍事訓練を始めた。しかし、やがてこの職も罷免されてしまった。
こうして閔氏政権メルレンドルフなどとも画策して、徐々に金玉均ら独立党への圧迫を強めていった。
一方、金玉均の二度目の訪日の間に、我が国の駐鮮公使は花房義質から竹添進一郎に交代していた。竹添公使は金玉均と悉く対立した。竹添は金玉均の改革思想を批判する一方で、清や閔氏政権のかたを持つ姿勢を見せ、「金玉均は信用のおける人物ではない」と本国へも報告していた。
こうした新任の竹添公使のそれまでの公使とまるで異なる態度は、が対鮮干渉政策を強化させた事により、それを受けた我が国政府が柔軟外交へと外交方針を転換させた為であった。

朝鮮の独立、近代化をはかった独立党指導者・金玉均
金玉均

独立党のクーデター計画
明治十七(18842544)年五月、ヴェトナムを巡ってフランスと対立を深めた為、呉長慶が朝鮮駐在清軍の約半数の千五百名を本国へ移駐すると、我が国政府は竹添公使を本国へ呼び戻し、再び金玉均独立党への積極的な援助へと方針を転換させた。
八月に清仏戦争が勃発すると、清はその為に更なる大きな力を割かざるを得なくなった。千五百名と半減した漢城駐留清軍は、清仏間の決着が着くまで増派は有り得ない事が明確となった。
十月三十日、竹添公使が再び赴任されると、竹添公使は一転して金玉均ら独立党へ協力的となり、積極支援へと転回した。 十一月二日、竹添公使は朝鮮国王高宗へ謁見し、村田銃十六丁等を献納して、壬午軍乱の賠償金の残り四十万円を我が国が放棄する旨を伝えている。
十一月四日、金玉均ら独立党は、我が国公使館の島村久書記官を朴泳孝宅に招き、そこでクーデター計画を打ち明けた。
島村書記官は金玉均等の決意を聞くと、驚くことなく、より速やかなる決行を勧めたという。金玉均はそこで、三つの案を提示し、検討の結果郵政局開局の祝宴に乗じて決行することを決めている。三日後の十一月七日、金玉均が我が国公使館を訪ねて竹添公使に計画を打ち明け、竹添から支援を約束された。
十一月二十九日、金玉均は参内し、高宗に次の様に奏上した。
「清仏戦争と財政窮迫の為に、清の力は急速に衰え、日本の対清政策は大きく変化しました。最早清に依頼する時代ではありません。内には制度の革新と外には独立の宣言が急務であります」
次に金玉均は「日本と清がぶつかればどうなるか」という高宗の質問に答えてこう述べた。
「日本が単独で清と戦えば勝敗には予測しがたいものがありますが、フランスと呼応して戦えば日本の勝利に間違いはありません」
それに対して高宗はこう言った。
「それならば今の時期を逃すべきではない」
そして高宗は「時局の危機にあたり、国の大事を卿に委託する」と言い、金玉均の求めに応じて親筆の密詔を与えた。
こうして金玉均ら独立党が起こしたクーデターを、甲申政変(甲申事変)と呼ぶ。

甲申政変
明治十七(18842544)十二月四日夕刻、郵政局開局の祝宴が開かれた。出席者は十八名。政府要人数名と各国代表の他、独立党からは金玉均朴泳孝等五名が出席した。竹添公使はいつでも出動できるように公使館で待機し、島村書記官が代理で出席した。
八時過ぎ、別宮へ放火したが警護兵に消し止められてしまった。宴会中にその報告を受けた金玉均は、近くの高官邸への放火を命じている。火災発生に、宴会はパニックに陥った。
金玉均、朴泳孝、徐光範の三名が我が国公使館に着くと、日本兵士が公館前に整列して出動態勢を取っている。既に帰還していた島村から予定に変更が無い旨を確認すると、一同は王宮へと向かった。道の要所に待機していた同志四十数名も、三々五々王宮へ向かう。
一同が金虎門に集まり、同志の一人である守衛が門を開けると、金玉均等三人はそのまま寝殿に直行する。四十数名の同志と三十名の日本兵が、金虎門への道路の要所を固めた。
平服で入る三人を咎める者達を「一大事発生」と一喝して振り切り、寝殿内に入ると国王の寝室に入り、郵政局に変乱が起こり暴徒らが王宮に向かっている為、至急正殿から景祐宮へ移るべき事を奏上する。
高宗閔妃と景祐宮へ入ると、金玉均は日本公使に保護を依頼すべき事を奏上し、高宗は自ら「日本公使来護朕」と記して、竹添公使への伝達を命じた。間も無く閣僚達が王宮へ駆け付けて来たが、殺害された。
翌十二月五日早朝、独立党は『朝報』をもって新政府樹立と閣僚の氏名を国民に公表し、各国代表にその旨通告した。
翌六日早朝、新政府の新綱領が発表され、政治制度全般にわたっての近代化政策が打ち出され、清朝からの独立宣言も盛り込まれた。
この日、沈相薫が国王の安否伺いと称してやって来た。朴泳孝は退去を命じたが、金玉均が問題無いとして参内を許した。この時閔妃の助言もあって、高宗は密かに、朝鮮政府から清軍に救援を求めるよう沈相薫に命じた。これにより清の袁世凱は、政府の要請という形をとり軍隊出動の名目を手に入れた。
午後一時過ぎ、袁世凱が六百の兵をもって王宮へ入り、高宗へ拝謁したいと要請してきた。午後二時頃、清への対応を協議している最中、清軍の砲撃が起こり一斉攻撃が始まった。
午後三時、清軍は呉兆有が五百名を率いて宣仁門から、袁世凱が八百名を率いて敦化門から攻撃してきた。宮門の内外で激しい戦闘が繰り広げられた。四百名の朝鮮兵達は、武器が不十分で経験も無い為に至るところで崩れ、清軍に加勢し始める者達も出てきた。その為、ほとんど百五十名の我が国兵士達だけで千三百名の清軍と戦わざるを得なかった。
我が国兵士は各所で清軍を撃破したが、宣仁門を守っていた朝鮮兵が一斉に逃げ出した為、形勢は次第に不利になっていった。
夕刻近くになっても銃声は止まず、各所で防戦していた我が国兵が、高宗守護の為に集まって来た。清軍兵士達は、交戦を避けて宮殿に乱入しあちこちに放火して略奪を始めたのである。清兵達は気勢を上げて威嚇するだけで、攻撃して来ようとはしない。
この間の戦闘で、我が国軍は死者一名、負傷者四名を出したが、清軍は五十三名の戦死者を出していた。我が国兵は勇敢で団結力も強く、また訓練も行き届いていた。対する清軍は、バラバラで纏まりが無く、不利となれば即座に逃げ散る、といった具合だった。
しかし、竹添公使が撤退を決断した為、高宗を北廟へ送りつつ脱出して、竹添公使と金玉均らは日本公使館へ退いた。
翌七日午後二時頃、公使館にいる者達が一斉に脱出を敢行した。漢城にいては危険な為、仁川にある日本領事館へ退却する事にしたのである。道々で朝鮮兵民から断続的に襲撃を受け、更に厳冬の雪道を夜通し歩き続けた一行は、翌八日の午前七時頃、漸く仁川の領事館に入る事が出来た。
清軍と朝鮮暴徒による略奪、暴行は凄まじいものがあった。付近の商店のほとんどが略奪、破壊の被害を受け、日本人家屋からの略奪が相次いだ。また、各地に纏まって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や殺戮の惨劇が引き起こされた。
清軍は七日から十日までの間に、高宗を陣営内に確保し、その間に国王に「自らの不徳による政変の責任」と述べた教書を発布させ、臨時政府を構成させた。そして、四日から六日までの宮廷記録を書き改めさせた
新閣僚には、開化派官僚から金弘集を筆頭に、金允植、魚允中らが入り、メルレンドルフは外務協弁として名を連ねた。閣僚の大半は、親清事大主義を旨とする者達であった。
こうして、金玉均率いる独立党による甲申政変は、わずか三日で失敗に終わった。
金玉均はその後、船で我が国に亡命を果たしたが、後に1894年三月二十八日、上海で朝鮮政府の送り込んだ刺客によって暗殺され、その首は漢城の城門前に晒し首にされた。

朝鮮の梟首刑「大逆不道玉均」金玉均は明治二十七年に暗殺後、切断されて大逆罪として晒されている。
金玉均は明治二十七年に暗殺され、切断されて大逆罪として晒された

漢城条約と天津条約
明治十八(18852545)年一月九日、我が国の特派全権大使井上馨外務卿と朝鮮の左議政全権大臣金弘集との間で漢城条約が結ばれた。甲申政変に対する日鮮講和条約である。
この交渉で朝鮮側は金玉均、朴泳孝の引き渡しを再三要求したが、我が国は「彼らは政治亡命者である」として、一貫して拒否し続けた。
漢城条約では、朝鮮による我が国への謝罪、我が国死傷者に対する朝鮮政府の損害支給等が定められた。
四月十八日、我が国の伊藤博文と清の李鴻章とにより、甲申政変の講和条約である天津条約が結ばれた。
天津条約では、日清両国が四ヶ月以内に朝鮮から撤兵することが定められた。またこの条約により、今後重大事変が発生して朝鮮へ軍隊を派遣する場合には、互いに事前通告をし、事変が平定すればすぐに軍隊を撤収し駐留しないことなどが決められた。