辛亥革命

革命の拠点となった東京
中華思想の清では、清以外はみな文明の遅れた野蛮人であり、蛮夷から学ぶものは何も無いと考えてきたが、それは阿片戦争を期に大きく意識変化を迫られる事になった。
そこでまず、清には無い先進技術だけを取り入れる洋務運動が起こった。なかでも西夷で最も優れている大鑑巨砲主義の軍事技術を学ぶ為、多くの西洋人が雇われた。北洋艦隊で雇われた技術者などには、清の将校の二十倍以上の給与が出されるなど、地位も高く破格の扱いを受けた。
しかし、巨費を投じ三十年をかけてつくられた北洋艦隊は、日清戦争で我が国海軍によって無惨にも壊滅し、陸軍なども連戦連敗であった。
そのショックで西洋に学ぶ運動は我が国に学ぶ運動に変わった。それが戊戌維新である。戊戌維新は西太后により失敗に終わったが、義和団事件の後、清は崩壊の危機に直面した。結局、西太后は実力派官僚の李鴻章、張之洞、劉坤一の三度にわたる要求の末、自らの手で潰した戊戌維新と同じ内容の政治改革をせざるを得なくなり、幽閉中の光緒帝の名で詔諭を下した。
このため我が国に学ぶ運動が始まり、各地方の実力者である総督や巡撫などが日本人を雇い入れ、政治、軍事、産業などの分野の顧問とした。最盛期には約六百人の日本人が雇われていた。
また、清の知識階級の若者達は留学生となって我が国を目指した。そして日露戦争で我が国が勝利すると、清から我が国に来る留学生は急増した。
戊戌維新に失敗して追われる身となった者や、地方の革命派も武装蜂起に失敗すると、亡命先として東京へと押し寄せた。
やがて我が国で、清の留学生達による革命団体が組織されるようになった。支那全土に共通する標準語教育がまだなされていなかった清では、例えば北京語と広東語では、日本語と朝鮮語、英語とフランス語ほどもの違いがあり、地方が異なると言葉が通じなかった。
また文化や日常の習慣も、地方によってかなりの違いがあるので、革命派は地方別に結社を作り活動していた。なかでも主流は宋教仁黄興譚人鳳らで組織された湖南人の華興会と、章炳麟、陶成章、徐錫麟、秋瑾ら浙江人が組織した光復会孫文が中心となった広東人の興中会であった。
この様に地方ごとに勢力が分散されていたので、頭山満犬養毅宮崎滔天らにより、康有為らの維新派と地方の革命派の大同団結がはかられたが、結局話が合わず物別れに終わったが、その後、革命派だけで中国革命同盟会が結成された。
日露戦争の時期がピークに達した清の来日留学生は、明治三十九(19062566)年には一万人前後もいた。当時の留学生の政治集会には千人規模の大集会もあった。飯田橋の富士見楼で開かれた孫逸仙(孫文)歓迎大会には千人以上が集まり、章炳麟が上海から東京に迎えられたとき、革命の英雄として東京で歓迎会が催された時は三千人以上が集まった。
政治勢力の流派は、主に体制維持派の維新派と反体制派の革命派に別れたが、維新派でも康有為は開明専制、梁啓超は穏健的な立憲政治を目指し、革命派でも孫文は絶対的権力を持つ強権政治的な大統領制、宋教仁は議会民主制の内閣制、と様々あった。
この頃の東京は、ジュネーブやパリ、ロンドンと同じく、各国の亡命者が行き交う革命の基地となっていた。清の維新や革命の志士たち以外にも、フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール、ポーランド独立の英雄ヨーゼフ・ピルスーツキー、ロシアのナロードニキのニコライ・ラッセル、無政府主義者のミハイル・バクーニンなども顔触れのなかにいたのである。

孫文・字は徳明。号は逸仙。中山樵や高野長雄の日本名も使用した
孫文

孫文の革命運動
革命派の興中会を指導する孫文西暦1895(明治二十八・皇紀2555)年、清朝打倒を目指し広州蜂起を計画するが事前に漏れ不発に終わり、陳少白、鄭士良らと共に我が国に亡命した。以後、孫文は約三十年間我が国と大陸、欧米を往来し、この間十二回来日し、延べ十年近く我が国に滞在し、革命の拠点としていた。
やがて孫文は、陳から宮崎滔天を通じて犬養毅大隈重信、尾崎行雄、頭山満ら我が国朝野の要人を紹介され、我が国からの支援工作を行った。生活費は玄洋社社長で九州炭坑王の平岡浩太郎衆議院議員から、一年分面倒を見てもらっていた。孫文思想の三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)の一つ、民生主義の平均地権という土地均等分配の思想は、宮崎滔天の兄、民蔵の運動からその思想的影響を受けたと云われる。
孫文を犬養毅に紹介したのは宮崎滔天と平山周であり、頭山満に紹介したのは犬養毅だった。当時、孫文の亡命受け入れに外務省次官の小村寿太郎は反対していた。犬養毅は大隈重信を説得し、平山周の語学教師という名義で、外務省参事官の尾崎行雄が保証人となり東京府の居住許可を受け、敷地二千平方メートル余りを有する広大な屋敷を借りることが出来た。みな頭山満の援助である。
1900(明治三十三・2560)年、孫文は再び挙兵して恵州蜂起を起こした。その計画は、日本人志士らを交えて孫文が香港の港に浮かべた船中で練られ、革命軍外務長には日本人志士の平山周を充てたほか、福本日南が指揮官となり、内田良平が参謀長となる義勇軍を計画している。また福岡の島田経一は自分の豪邸を売って、恵州蜂起を支援した。
孫文と当時の台湾総督児玉源太郎との間では、三個師団分の武器援助という約束もなされていたが、その情報が伊藤博文の耳に入り、イギリスの干渉を恐れて止められ、日本からの武器購入は失敗に終わった。 結局、恵州蜂起は失敗に終わり、山田良政が戦死し革命運動で最初の日本人犠牲者となった。
明治三十八(19052565)年、革命派による中国革命同盟会が結成された。七月三十日に、宮崎滔天や末永節らの支援のもと内田良平宅の黒龍会本部で準備委員会が開かれ、十一月二十日に坂本金弥宅(現ホテルオークラ)で成立大会が開かれた。
孫文ら広東派の興中会、宋教仁や黄興ら湖南派の華興会、章炳麟ら浙江派の光復会など三百人が入会した。日本人も宮崎滔天や平山周、北一輝など八名が参加している。 同盟会の機関誌『民報』の編集長は章炳麟であったが、印刷人は末永節で、発行所は宮崎滔天宅であった。梅屋庄吉は、有楽町に同盟会後援会事務所を設け、『民報』発行の資金を提供した。宮崎滔天や萱野長知は我が国への宣伝誌として『革命評論』を刊行し、二大専政国家ロシアと清の革命断行と国体変革を呼びかけた。
孫文の革命運動は、同志や華僑よりも、我が国の有力者に依存していた。ことに資金、武器調達、さらに身の安全の保護の面に於いては、多くの我が国有力者の協力を得ていたのである。 だが孫文は、資金問題を巡って同盟会内部で対立した。指導者の孫文は、引退の形を取って我が国を離れアメリカに渡ったが、我が国政府から革命活動資金として六万円が渡され、また鈴木久五郎も孫文に一万七千円を寄付しているが、孫文は、同盟会の機関誌『民報』にそのうちのたった二千円しか回さず、その他交際費として二千円残してアメリカに渡った為、同盟会内部で孫文批判が相次ぎ、同盟会は空中分解の様相を呈した。
その後の革命各派は、それぞれの地方へ帰り独自の革命運動を展開した。
孫文の革命運動はその後、1906(明治三十九・2566)年の萍瀏醴蜂起から1911(明治四十四・2571)年の黄花岡蜂起まで、華南地方での数次の武装蜂起を煽動したが、その悉くが失敗した。
明治四十(19072567)年一月、孫文は演説で「革命の目的は『滅満興漢』(満州民族王朝清からの漢民族の独立)である。日本がもし支那革命を支援してくれると云うのなら、成功の暁には満蒙(満州とモンゴル)を謝礼として日本に譲っても良い」と述べている。

辛亥革命で革命軍司令官として活躍し、その後暗殺された宋教仁
宋教仁

辛亥革命
同盟会の分裂騒ぎの後、宋教仁らの湖南派は、華南辺境の両広革命に固執する孫文に対抗して、長江革命を主張し、孫文と一線を画して革命同盟会中部総会を設立した。
1911(明治四十四・2571)年に四川省で民間資本鉄道の国有化反対運動が起こり、それに乗る形で十月に黎元洪らが湖北省の武昌で反乱を起こした。これを武昌蜂起(武昌起義)と呼ぶ。
これに呼応する形で、湖南派らが各地で武装蜂起し、辛亥革命が起こった。
辛亥革命に直接参加した日本人は、張之洞の新軍を教官として育てた元陸軍中佐大原武慶、それに大連から駆け付け黄興と共に第一線で戦った末永節らがおり、萱野長知は梅屋庄吉から七万円の資金を貰い、上海租界駐在の本庄繁と漢口の寺西駐在武官の協力を得て、最前線に急行した。最前線で金子新太郎歩兵大尉や石間徳次郎は戦死し、甲斐靖歩兵中尉や岩田愛之助も負傷した。
梅屋庄吉は、この年の十月末までに十一万六千円を支援し、撮影技師を送って革命記録映画をつくった。 一方、北一輝は孫文よりも宋教仁を評価していた。孫文の革命思想は西洋の革命をただ表面的に真似ただけであり、しかもその方法がほとんど他力本願で、列強諸国や華僑から支援を求めるだけで、自らは海外の安全地帯に逃れ同志に犠牲ばかり強いていると見ていた。しかし宋教仁については、ほとんど他人を頼らずに革命の為に自力で奔走し、真に国を愛する革命者としてその情熱を高く評価していた。
北一輝は辛亥革命が起こると、宋教仁の電報を受けてすぐ黒龍会の内田良平から資金を貰って、上海に向かい、宋教仁の支援に駆け付けた。そして宋教仁の軍師として、革命の嵐の中で武漢、南京、上海と駆け回った。 北一輝は宋教仁や黄興、譚人鳳に「中部同盟会の会長として黎元洪の上に立ち、革命の総統になるべし」「まず武昌に臨時軍政府を樹立すべし」などと頻りに助言し、革命後のプランを練った。
平山周、小幡虎太郎、谷村隆三らは天津から南京に駆け付け、葛生能久ら黒龍会の志士達も南京攻略に参戦した。宮崎滔天山田純三郎は陳其美の上海占領に加わった。
武昌蜂起後、武昌の新軍蜂起軍は一時、武漢三鎮を占領したものの、清軍に撃退され失敗した。しかし宋教仁が指揮を執った革命軍は、陳其美率いる水軍に支援されながら南京を攻略し占領に成功し、南京を革命軍が支配する首都として臨時政府が樹立した。これにより十四の省が次々に清朝からの独立を宣言し、各省代表が南京に集まった。
十二月十四日、南京での各省の代表会議で、北一輝ははじめ黄興に「総理」になることを薦めたが、実現せず、あらためて「大元帥」を提案した。しかし、東京から南京に帰ってきた章炳麟に反対され、結果的に黎元洪が大元帥に、黄興は副元帥止まりとなった。
孫文はアメリカで辛亥革命のニュースを聞いて、十二月二十五日に上海に帰ってきた。その時、孫文は既に欧米や日本で多くの支持者を得ていた。
上海での大総統をめぐる指名会議の「宋教仁にするか、孫文にするか」という討議では、同盟会の出資者である骨董商の張静江が孫文を指名し、それで大勢が決まった。
孫文は国際的な知名度が高く、かつての同盟会幹部と宮崎滔天をはじめ、多くの日本人志士と日本軍部の支持を得ていたので、十二月二十九日の南京での十七省の代表会議で、一省一票による投票の結果、孫文が臨時大総統に選ばれた。
1912(明治四十五・2572)年一月一日、革命軍は、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立させた。
臨時大総統孫文は、犬養毅を政治顧問に、寺尾亨副島義一を法律顧問、阪谷芳郎と原口要を財政顧問として招聘した。また孫文の秘書には池亨吉を、黄興の秘書には萱野長知を、宋教仁の秘書には北一輝を参画させ、日本軍人を南京などの陸軍学堂の教官に招聘した。
黒龍会の内田良平は、「辛亥革命は日本人がやったことだ。日本人が中華民国を作ったのだ」と言ったが、これは誇大表現であるにしろ、それは必ずしも過言とは言えないものであった。

支那革命に参加し奔走した北一輝
北一輝

孫文と袁世凱
辛亥革命において、清朝は袁世凱を討伐にむかわせたが、清朝不利を確信した袁世凱は部下の段祺瑞馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方では極秘に南京臨時政府と交渉し、自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、二月に宣統帝溥儀退位させた。
孫文は、1912(大正元・2572)三月に基本法たる臨時約法を公布したが、北京の袁世凱へ妥協して大総統就任後二ヶ月で辞任し、袁世凱が臨時大総統に就任した。
北京の袁世凱は、陸軍大学教授で早稲田大学教授でもあった有賀長雄を、法律顧問として招聘し、孫文の臨時約法に代える新約法をつくった。それは、大日本帝国憲法の天皇の権限を大総統の権限に置き換える等したものだった。 袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、鉄道大臣となり鉄道協会をつくり、我が国から専門家を招聘して鉄道事業調査を依頼したりと、鉄道建設に夢中になった。孫文は、自ら三百五十万里の夢の様な鉄道建設計画を作り上げ、世界最強の大国に作り上げることを夢見ていた。
当時の有吉明上海総領事は、孫文の鉄道計画を見て、「漠然たる空想に出でたるものに過ぎざる」としている。実際、孫文の計画には、資金はどうするのか、人材はいるのかと云った現実問題には一切考えを及ぼしてはいなかった。
袁世凱の政治方針は、中央に強大な権限を持たせ、総統が強権を行使することで広大な国土を統治すると云う、強権型の開明専制主義であった。
しかしこれに対して当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は十二月の選挙で圧勝した。
国会を率い影響力を拡大させつつあった宋教仁に対し、袁世凱や孫文は警戒感を抱いた。1913(大正二・2573)三月、こうした雰囲気の中、宋教仁は暗殺された。宋教仁の死を知った北一輝は失望し、革命を諦め日本へ帰国した。北一輝はその後、辛亥革命についての「支那革命外史」を著している。
袁世凱は大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。また多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声が上がり、孫文や黄興、李烈鈞らは第二革命を唱えて北京政府と対立し、九月に反乱を起こした。
第二革命軍は、袁世凱打倒の武装蜂起をしたが、その資金繰りに手を焼いた。孫文は、我が国から二個師団分の武器と現金二千万円を得る引き替えに、我が国へ満州を売却しようとした。孫文は、かつての陸軍参謀総長の長谷川好道大将に、宮崎滔天を介して二個師団を派兵して孫文を支援すれば「成功の上は、全満州を天皇に献上する」と持ち掛けてもいる。
しかし、第二革命軍の蜂起を袁世凱は武力で撃退し、第二革命に失敗した孫文や黄興、李烈鈞らは我が国へ亡命した。
こうして袁世凱は、十月に正式に初代大総統に就任した。さらに国民党の解散命令を出した上で、国会内の国民党議員を全員解職した。
孫文は、革命派への支援を我が国から取り付ける為に、様々な条件を我が国に提案した。我が国政府はこれを多少修正して受け入れる方針を示したが、実際孫文の革命は成功の見込みは薄かった。
そこで我が国は、北京の袁世凱政権を承認する条件としてこの孫文の出した条件を提示した。これは二十一カ条の要求と呼ばれる。二十一カ条の要求の内、要求をしている項目は実際は七ヶ条だけであり、残りの十四ヶ条は今迄結んだ約束事(条約等)の確認をしているだけであった。
その内容は、袁政権との二十五回に渡る正式交渉を経て数度更改し、袁政権の要望に応じて大部分は修正し、更に一部撤回して、しかも袁世凱総統の早期決着という形の要望で「最後通牒」と言う事にして、十六ヶ条を受諾させたものであった。
特に、内政干渉になりかねない五号条項については、我が国側はあくまで希望的要項として提出したが、袁政権側は強制的要求として受け取り、秘密条項という約束を破って暴露した為、国際的な批判を浴びた我が国は五号条項を撤回した。我が国国内でも、この要求に対しては様々な批判が挙がり、この二十一ヶ条の要求は帝国議会に置いて否決されている。
袁世凱は、共和制の脆弱性を人民に見せつける為に、この二十一ヶ条の要求を利用した。
また孫文も、反袁世凱の宣伝としてこれを利用し、その内容を更に改竄し、我が国政府が二十一ヶ条要求という如何にも理不尽な圧力を袁世凱にかけ、袁世凱も力及ばず我が国に屈したかの様な宣伝を行った。
この為、大陸では急激に反日感情が高まり、各地で排日暴動が多発する様になった。

一元銀貨の袁世凱肖像
袁世凱

袁世凱の中華帝国
1915(大正四・2575)年、袁世凱帝政復活を宣言した。
1916(大正五・2576)年から年号を洪憲と改め、国号を「中華帝国」と改める事を宣言し、自ら皇帝に即位したのである。
袁世凱は、広大な支那を束ねる為には強力な立憲君主制が必要である、と考えていたのである。
しかし、北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。袁世凱の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁世凱を批判した。
1916(大正五・2576)年三月、内外の批判を受けて、袁世凱は帝政復活の取り消しを宣言した。六月に袁世凱が病死すると、袁世凱の部下であった張勲、馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権の座に就いたが、各地の離反や孫文らの革命政権が各地で乱立し、各地方を根拠とする軍閥が割拠する一国多政府の大動乱時代に突入した。
以後、中華民国の内乱は終息する事無く続き、やがて我が国もこの大動乱に巻き込まれていったのである。