問いの解決に向けて取り組む中で、もっとも大切なことは何かと言えば、「途中でへこたれず、ねばり強くやり遂げよう」とする姿勢なのではないか
と私は考えています。そのような姿で取り組んでもらえるような授業をしてみたいものだと思いながら、なかなかそんな授業を仕組むことができず、
ついつい「もっとがんばりなさい」と意味のない励ましをしてしまう経験を積み重ねながら30年経ってしまいました。
 子どもが自分の達成の成果について「こんなところでいいや」「この程度で十分」などと妥協してしまわずに、「もっとこうしてみたい」「よりよい方法
はないか」とより価値の高い方向へ進んでいくことができれば、自己学習力を発揮している姿と呼んでよさそうです。
波多野誼余夫獨協大教授は、「自己学習能力」について次のように指摘しています。

「自己学習能力」
 1、自己の理解の程度を識別し、かつそれを深めるのに適切な方略を
    採用する「自己制御能力(モニタリングの能力)」
 2、これを支える「深く知ろうとする意欲」
 3、「自分の知的可能性についての自信」
岩波新書 『知力と学力』PP.123
波多野誼余夫・稲垣佳世子

 無我夢中で我を忘れ、時間を忘れてものごとに熱中してしまう、いわば「フローの状態」でやり遂げようとすることは私たちにもよくあることですが、
そのようなときに私たちの内には、ついつい自分の達成状況を監視して「○○のようにできればよいだろう」という「めやす」が生まれ、それに照らし
合わせて適切な手段をとったりその実現に向けて苦心したりしようとする姿勢が生じるようです。
つまりそのような状況の中では、自己内自己が自己を客観的に見つめ、自己を評価する、つまり「メタ認知」が働くようなのです。
ところで、学校での学習の中では、そのような「めやす」を学習者自身が持って自分の学習活動をコントロールし、自ら学習の成果をめざすということ
については、さほど重視されてきませんでした。
 日常の生活の中で我が子に接するときには常に「めやす」を意識しているのに・・・。 たとえば、幼い子どもをお風呂に入れているときに、多くの親
は『よく体が温まるように、肩までお湯につかって100数えてみようね。』などと言うはずです。
ここでの「めあて」は、「体を温めること」であり、「めやす」は「100数える間の時間」です。多くの親は、その程度の時間、お湯にゆっくり浸っていれば湯冷めしないような体の温まり方ができるだろうと思っているからそうするのでしょう。
 また自動車学校では、右折や左折、縦列駐車や坂道発進など、運転の経験の浅い生徒に対してとてもわかりやすい「めやす」を示して指導してくれます。
アクセルをふかしエンジンの音がこのように変わったときにサイドブレーキをはずせば、うまく坂道で発進できるとか、運転席から見てボンネットの一番前のラインが道路の向こう側の線にかかったときにハンドルをきれば、脱輪せずに曲がれるといった具合です。
「(逆戻りせずに)発進」したり「(脱輪せずに)曲がる」ことが「めあて」で、「エンジンの音が変わ」ったり「(道路の線に)合」ったりすることが「めやす」であることはもうおわかりでしょう。
 私は、教室の子どもたちが持つべきは「めあて」だけではなく「めやす」も併せて持つべきだと長いこと考えてきました。
しかし、上に挙げた2つの例は、学習者が「めやす」の達成に向けてがんばれることはあっても、それがどのような意味を持つか、ということについて学習者自身が意識できていない、という意味であまり良い例ではないな、とこの頃考えています。
自己評価できるためには、「めやす」の持つなかみが学習者自身に「大切なもの」として意識され、常にその観点に立ち返りそこから自分の活動を見直し確かめ、よりよい方向へ進むべく制御(コントロール)していくことが欠かせません。そのためには、「めやす」が指導者から与えられるものではなく、学習者自身の内に自ずと生じてくるようなものである必要があると考えるからです。そこで「めあて」そのものを工夫し、「めあて」が提示された瞬間に学習者が『こんなふうにしてみたい』とか『こうできればいいんだな』というように「めやす」が持てるような「めあて」にしたいと思うのです。
こんな例を挙げればわかっていただけるでしょうか。
 季節はずれの話題で恐縮ですが、この頃はバレンタインデーに手作りのチョコレートを贈ることが流行っているとか。そこで、仮に「大好きな人に喜んでもらえるようなおいしい手作りのチョコレートを作って贈ろう」という「めあて」を設定したとしましょう。
そうすると、私たちの内に、まず相手に喜んでもらえるようなチョコレートにするために、どんなデザインにするか、どんな味にするかなどについて工夫の観点が生じることでしょう。チョコレートを作るための材料は何?どうしたら作れるの?どんなことに気をつければおいしくなるの?といった疑問を解決するための探索活動も自らの手で展開していけるでしょう。
 しかも、作りながら「相手においしいと言ってもらえるようなデザインや味」を求めて、見直しや確かめの活動をついついしてしまうことが予想されます。舌触りのなめらかさはこの程度でどうだろうか、苦さと甘さのバランスはこれでいいだろうか、硬さ(柔らかさ)はどうだろうか、といったことについて自分の満足のみならず、相手の立場に立ってまさに「問い返され」ながら活動を深めていくことができるでしょう。
 そして、そこでは「作って贈る」という「めあて」と「おいしいと喜んでもらえるような」ものに迫る「めやす」とが不離密接な意味あるものとして、作り手に意識され作成中ずっと「問い続けられる」環境として働くことが期待できます。
そのような学習環境としての「めやす」が無理なく生じ、子どもたちに意識できるような「めあて」の設定を工夫することが主体的な学習を生み出す一番の近道、自律的な学習の姿に近づく最大の要因だと思われてなりません。


 いまどこの学校でも「インターネットを利用した教育実践」が数多くなされています。 そして、その学習の多くが、いわゆる「調べ学習」という形でなされています。
 ところで「調べ学習」というのは、どういう「学習」なのでしょうか。総合的な学習に限らず、各地でそして各教科で「調べ学習」と呼ばれる学習形態が実践されていますが、その中では、まず子どもたちが「これこれについて調べる」という課題を持ちます(自分できめる場合も、先生から与えられる場合もありますが)。そのあと、図書館(図書室)やインターネットを活用するなどして情報収集し、それらを「ノートにまとめる」という手順で行われます。
 私が垣間見たところでは、確かに書籍やデータ・ベースの中を探索して情報を収集し、調べているように思われるのですが、『ここにこんなことが書いてあった』『これはこんな意味です』とそれらに書かれていることをノートに写しまとめるだけで『わかった』と充足してしまうことが「学習」と呼べるのだろうか、という感想から逃れ得ません。
 どこかに書いてあることを「写し取り」「まとめて」「発表する」ということが「調べて学習する」ことのなかみで、そこに「感想」でもつけば二重マルがもらえるというのが「調べ学習」のようなのです。
どうしてこれが「学習」になるのかはわかりませんが、ともかく、こういうことを「調べ学習」と呼んでいるようです。
 もう既に世の中では周知のことがらをなぞって「覚える」ことをねらうのであればともかく、「調べ・探索し、発見し検証して知を構築する」ことを体験的に学ぶ、つまり学ぶことを通して学び方を身につけることをねらうのであれば、このような「調べ学習」と呼ばれる学習に意味があるとはどうしても思えません。
佐伯胖東大教授も、そのことに関して次のように指摘しています。
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   もちろん、子どもたちが自主的に課題意識をもち、議論を深めた上で、「どう
  してもここが知りたい」ということで調べ、その結果をさらに批判的に検討する
  という、まさに「探究活動」となっているケースもなくはない。
  たとえば「オクマジャクシの成長」の観察の中でそのエサを多種多様に実験して、
  「野菜」よりもにぼしやウインナーなど肉類の切れはしを好むことをつきとめた
  り、「シッポ」がなくなる謎の解明を進めていくうちに現代生物学の最先端での
  最近の「発見」を知るに至ったりという実践がある。
   しかし多くの場合は、子どもたちには「仮説」もないし、したがって「検証」
  もない。自分なりの疑問も発見もない。対立する意見の交換も議論もない。
  ただクイズ番組でのクイズヘの「解答」を求めるように、「これこれについて
  はどうなっていますか」と問い、「こうなっています」という答えをみつけれ
  ばそれでオシマイという断片的知識の収集だけである。誰かが「ここがおかし
  い」といっても、「でも、調べたらこう書いてありました」といえばそれで済   
  んでしまうことが多い。
  「日本各地の伝統工芸を調べました」「日本各地のお雑煮の中味を調べました」
  というような報告は、それ自体「おもしろい」にはちがいないが、「だから、
  どういうことが言えるのか」がまったく追求されていない。
                  佐伯胖 「新・教育とコンピュータ」岩波書店 1998
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 さまざまな情報を収集し、フィルターにかけて選別したり、一見関係がなさそうに見えるいくつかの情報の間に新しい関係を見いだしたり、それをもとに今まで自分が持っていた知識を組み替えたりすること、それが本来の「調べ学習」の意味であるはずです。
 その意味では、先に述べたような学習は「学習」ではない、つまり「お勉強」の域を出るものではなく、それが「自律的な学習」の実現に役立つものであるとはとうてい思えませんし、ひいては「学習の自立」につながる「学力の育ち」に貢献できるものとも思えません。
 自分なりの納得を伴って「わかる」ということは、決して借り物の「誰かがそう言った(あるいはそう書いた)」ことからお手軽に得られるものではなく、「だからどうなのだ」「なぜそう言えるのだ」「それは他の問題でも言えることか」「そう言えるとして、自分はどうすればよいのか」などという検証や自分への問いかけを経てこそ得られるものなのです。そのような過程を経てこそ、『あゝ、やっぱりそうか』とか『なるほどそうか』と腑に落ちて「わかる」はずなのです。
 私にはインターネットを活用しようが図書室の書籍を活用しようが、従来行われてきた「調べ学習」では学習対象の内容について「知る・わかる」ということよりも、『ここにこんな情報があった』という情報の所在について知ることしかできないのではないかと思われてなりません。それは、知りたいことがあったときに、どこを調べればよいか、何を手がかりに調べればよいか、という方法を知るにはひょっとすると有効かも知れませんが、子どもにとって(あるいは大人にとってもそうかも知れませんが)内容に迫る働きかけの中でこそ、本来の学び方、つまり「探索の仕方・収集の仕方・選択の仕方・組み立て方・組み替え方・関係を見いだす見方や考え方・まとめ方等」などが自分にとってどうしても欲しい力や構えとして身につけていくことができるはずです。
 そうした働きかけが子どもの主体的な動きとして出てくるためには、子どもが喉から手が出るほどに手に入れたい、解決したいと思えるような「問い」が生じると期待できそうな課題が提供されること、あるいは日常の環境の中にさりげなく設定されていることなどが大事なのではないでしょうか。
 そしてもっと言えば、情報は容易に手に入っても、それだけで学習は終わりではないし、そこから先が実は本当の学習なのだ、ということを子どもたちにわかってもらう必要があると私は考えています。どうしたら、自分にとってかけがえのない知識となり、血や肉となる知識となるか、そしてテストが済んだら忘れてしまうような行きずりの知識ではなく、生きて働く知識になるのかということについて実感を伴ってわかってもらえるように働きかけたいと思うのですが、いかがでしょうか。


支持的風土を

 今回は、ある学校のある学級の「学級のめあて」から話を始めたいと思います。
 4年生のある教室の前面に次のような「めあて」が掲示されていました。
              【仲よし憲法(4年生)】
      第1条 小さなことでけんかなんかしない
      第2条 人の悪口をいわない
      第3条 仲間はずれしない
      第4条 いじわるをしない
      第5条 集団でこうげきしない

子どもたちが考えたのでしょうか。『仲よし』学級をめざした『憲法』なんて、なかなか子どもらしい自負心のあらわれた「めあて」だと思います。
 そして、また別の学校のある学級には次のような「めあて」が掲示されています。
             【私たちの学級(5年生)】
            1 何にでも全力投球する
            2 みんなの心が一つになる
            3 学級のわを作ろう
            4 みんなのことが考えられる
            5 全員が発表できるクラス
            6 なかの良いクラス
            7 協力し合い,集中力がある

 先生方は、どちらの「めあて」が子どもに開かれ,支持的であるとお思いになるでしょうか。また、どちらが子どもにとって『よーし、そうしてみよう』とか『そうなれるようにがんばろう』と思えるものになっているとお考えになりますか?
 一見したところ、「けんかをしない」ことと「仲よくしよう」ということは,内容的には同じことかも知れません。
しかし,前者が「〜しない」と禁止的・抑圧的で閉ざされた方向性を持つのに対して、後者は「〜しよう」と支援・後押し・開かれた方向を持っていることは明らかです。
 学級の子どもが、自分の持つ『育つ力』を発揮してよりよく成長していけるには、何よりも支持的な環境をつくっていくことが肝要であると考えていますが、それは子どもの行動を支える土壌としての学級風土・学級文化を支持的なものにしていく、という意味から支持的風土と言われていることはご承知の通りです。
 学級風土・学級文化については、次の2つのタイプがあると言われています。
    ア.支持的風土・・・・・・共有する問題を協同して解決しようとする態度受容の感情,
                   ほかの集団のメンバーに対する共感,他人の意見を傾聴する
                   といった行動様式
    イ.防衛的風土・・・・・・教師が子どもに忠告を与え,子どもの活動を統制し,集団の
                   歩調をそろえるために罰,評価,検閲を使用し,競争と緊張
                  を促進する行動様式 
 従来、学校では「学習訓練」と称して、先生が子どもたちを指揮し、コントロールしてその指示に素直に従えるような学習への取り組みの姿勢をまず育てることが大切だと思われてきた傾向があります。つまり後者の防衛的風土に片寄る傾向が強かったと言えます。
 端的に言えば、『(先生の)言うことをよくきける子』が望ましいし、そうなってはじめて学級集団としてのまとまりが保て、学習効果がもたらされると考えられてきたのです。 波多野完治先生の言葉を借りれば、
 〜略〜「子ども自身による」とあえていうのは、「教師や外部の誰かによって用意さ れた意味への囲い込み」と区別するためである。
  従来の教室においては「社会的」に価値ありとされた知識、技術、行動様式を子ども が獲得することが「意味ある」学習であった。子どもの思考は訓練という直接的なかた ちであれ、誘導という間接的なかたちであれ、子どもの外部にある「意味」に子どもを 「囲い込む」ことを学習と考えてきたのである。
という学習観が支配的でそのために「言うことをよくきく」ことが強調されたのでしょう。
 しかし、そのような学習観が支配的だったのは日本の長い教育の歴史の中では、ほんの最近数十年のことでしかありません。すなわち、第二次世界大戦からこちらのことでしかなく、決して日本の伝統的な学校の姿ではないのです。 
 江戸時代はおろか明治・大正時代の教育も、エレン・ケイが1900年に出版したその著『児童の世紀』の中で日本の伝統的な教育の姿を
  たとえば、日本のように穏やかな方法だけで教育が行われている国民は、男子が打擲 や殴り合いで鍛えられなくても、剛健さが損なわれない。また、このような穏やかな教 育方法は、自制心と思慮を喚起する点についても、同様に効果がないわけではない。
  むしろ反対に、日本ではこの美徳が幼い子どものころから、強く心に焼きつけられて いるので、親切心がいかなる快さを人生に与えるかという経験が、日本で初めて示され たほどだ。
と紹介したほど『抑圧的・管理的』な学習観・学校観から隔たったものだったのです。
 おそらく軍隊主義的なまとまりと師に対する従順さこそが学生の在り方として望ましいという踏み違えた教育観が戦後生き残ってしまったのかも知れないと私は考えていますが、それは日本が古くからめざした学校あるいは教育の本来の在り方とは無縁のものですし、対極にあるものなのです。つまり、もともと日本の教育の姿は『穏やか』で『支持的』なものだったはずなのです。
防衛的風土の中では、本当の自制心や情操(よさに向かおうとする心)は育っていかないし、ましてや自分自身をよりよく育てることで社会に貢献できる存在になろうなどという『志』の育ちは期待できません。防衛的風土においては,教師の力が強く,指示・命令によって学級が動かされ,子どもは指示なしには自分を発揮できないし、子どもの個性や主体性というものが抑圧され、さらには,子どもの心を閉ざし,他方では他の学級にも閉ざして排他的になってしまうことが予想されるからです。
もともと日本が持っていた『穏やかな風土』『支持的風土』に立ち返ること、それも学校の再生につながる最善の道だと私は考えています。