クラスの井戸をカンボジアへ贈ろう!



ようこそ![現役教師S]のHPへ。 あなたは人目の訪問者です。


 これは信州のある小学校のある学級の3年間の「物語」です。動物園のような学級が色々な物を見たり、聞いたり、考え たりする事を通して、だんだんと自分達以外のモノにも目を向けられる気持ちが持てるようになってゆきました。
卒業までの3年間の主な活動を取り上げ、彼らの成長の様子(大奮闘ぶり)をご覧頂ければ・・・と共に歩んできた元担任は思います。
元担任より愛を込めて(笑)From S with Love

1997年から2000年までの3年間の活動内容

1997年 4年松組 波乱のスタート!担任は種を蒔く人に


ここは動物園?それともハチの巣?・・・4月、二日目に「大爆発」!


初めて担任が自己紹介をクラスでした日の事。モノの2、3分も話を聞くことが出来なかった動物園状態の学級!それが4年松組だった!。翌日、転勤して2日目にして「大爆発!!」これからの学校 生活が思いやられる・・・・ため息ばかりだった当時(笑)。
    担任として面白くわかる授業をして、こっちを振り向かせるぞという「野望」が私の中にメラメラ?と燃え上がったのだった・・・。しかし、敵も手ごわい!果たしてその「野望」はどうなったのか??

1997年秋 「地雷ではなく花を下さい」との最初の出会い


これこそが4松(担任も)にとっての運命の出会い!まあ、このころになって担任の苦労のかいあってか、動物園状態から少しずつではあったけど進歩してきた4松。
 人の話も聞けるようになりつつあり、そろそろしっとりとした空気が欲しかったのと、もっと世間というか社会に目を向けて欲しいという願いから、この絵本を紹介。おりしも学校は「読書旬間」と いうこともあった。子どもたちは、静かにこの話を聞いていた。・・・初めて知る「地雷」の存在だった。

地雷ではなく花を下さい」の紹介

 
自由国民社、英語タイトル: Not Mines,But Flowers
東京にあるNGO団体「難民を助ける会」の事務局長 柳瀬房子(やなせふさこ)さんが、 文章を書き、画家 葉祥明(ようしょうめい)さんが絵を書いたチャリティー本。 これ1冊の純利益は600円で、1冊につきテニスコート1面分の「地雷原」の地雷が  撤去する事ができる。 

    

ダイオキシンの恐ろしさを知る・・・社会のゴミ学習

ちょうどこの頃、町ではゴミの分別方法を変えるので学校へも協力するように要請が来た。今まで と違い、燃える物とビニール類と・・・というように細かく分けなくてならない。それを徹底するた めには、「なぜそうする必要があるのか?」そのわけを理解する必要があるだろうと考えた。  1学期の社会の学習を再度持ち出して、人体に非常に悪影響のある「ダイオキシン」の存在が、そ の背景にある事を学んだ。そして、その中で「ダイオキシン」は元々はベトナム戦争でアメリカ軍が 使用した「枯葉剤」がその始まりだと言う事がわかってきた。   話は「ダイオキシン」から「ベトナム戦争」へと向かっていった。ちょうどその頃、ベトナムのべ トちゃん、ドクちゃんの絵本も入手できたのでクラスで紹介したが、彼らのことを知っている子は結 構いた。また、早乙女勝元氏の「ベトナムのダーちゃん」をビデオで見て「枯葉剤」の恐ろしさだけ ではなく、戦争の恐ろしさや悲惨さも知る事ができたように思う。  ゴミの分別について家でお母さんに注意する子も出て来たり、図書館で「ベトナムのダーちゃん」 の絵本を借りてきて読む子も出てきた。
 

1998年2月 担任がベトナムへ飛ぶ!!!

長野オリンピックの頃、担任はベトナムへ飛んだ。個人的に行きたい国(かつて自分はフランスの 港町、マルセイユでパリから来たと言う紳士に「ベトナム人?」って聞かれた経験もあり、ベトナム はなんとなく親しみの持てる国であった)また、自分はその15年に及んだベトナム戦争の最中に、 産声をあげたと言う事もあり、前々から興味があった。  勿論、教材にできそうなものはすべて教材にするつもりで行った。クラスで勉強してきたベトナム 戦争の跡地である「クチ・トンネル」そして、今でもダイオキシンの悲劇を伝える「二重胎児のホル マリン漬け」を数点ホー・チ・ミンの戦争犯罪博物館で見た。  帰国後、「ここまで見せていいのだろうか?」と思いながらも「二重胎児」の写真をクラスで見せ た。予想通り、子ども達は非常にショックを受けていた。何人かの子がその写真を焼き増しして売っ て欲しいと言ってきた。  ベトナム女性の民族衣装・「アオザイ」も着て見せた。これは身体のラインがくっきりと出てしま う体に自信のない者にとっては「恐ろしい?衣装」ではあるが、着た方が面白いと思ったので着て見 せた。身体のつくりが華奢なベトナムの人々があの長かった戦争に耐えぬいたのは、なんとすごいこ とか!!しかも、相手はアメリカ。ジャパニーズの中では「華奢?」ぎみな私がベトナムではLサイズ だった。本当に、細い国民だ。あと、「地球の歩き方」によるとベトナムは世界でも美女が多い国と して名高いのだそうだ。  

1998年度の終わりに・・・「4年学習発表会 マモルの大冒険」

4年最後の参観日は「学習発表会」。「どんなことをしたい?」という担任の問いかけに子ども達 は「劇をやってみたい」「社会の勉強でしてきたことはとても大事な事なので、それを家の人達にも 知ってもらいたい」と答えた。それらをまとめて、社会で勉強した事を物語にして劇として発表しよ うと言う事になった。 主人公のマモルは、北は世界遺産、白神山地から南は沖縄まで環境を守る?ための旅に出る。  旅の中で色々な環境問題に遭遇するわけだが、それを自らの強い意志を持って解決していこうとす る・・・長野県の某場所では「産業廃棄物(ダイオキシン)」問題に、福井県の三国町ではタンカ− (重油)事故の後を見て、鎌倉では「酸性雨」で溶け始めている「鎌倉の大仏」に心を痛め、屋久島 では人間の捨てたビニルを間違って飲みこみ死んでゆく「海がめ」と出会い、最終地点?(いや、旅 単なる途中)沖縄では海を開発してゆく会社と戦い・・・・と日本を縦断するストーリーで、子ども の考えを取り入れながら担任も手伝って本当に苦労し作り上げたオリジナルの「創作劇」だった。 担任がベトナムへ行っている間の寒中休業中、子ども達は「セリフ覚え」という宿題が課せられ、 休み明けは大道具作り、小道具作り、通し練習等、大変忙しくなった。しかし、自分たちで考えたオ リジナルの劇だという点もあり、子ども達は大変意欲的に取り組むことが出来た。  その姿は、春に出会った時の「あの姿」とは程遠い物であった。何かに「興味を持つこと」そして、 「思いをよせる」更に、「目標を持つ」・・・といった事が出来たからだろうか。  劇は大変好評だった。全員が役をやった子ども達は「初めての劇」体験、満足できた様子だった。  

5年へ! いよいよ行動し始める! 

1学期・・・体験を通して学習しようと始めた特産物、巨峰作り(社会)

意に反してまたもやこの年も社会の研究授業の授業者となってしまった。今年の研究会の方向で は「体験」的な活動を重視していこうということだった。特に5松のような活動的な学級には最適だ と言うことになり、この町の特産物である巨峰を実際に栽培活動させて頂ける事になった。  実際に「農業」の学習が始まった頃、「実際に作らせてはもらえないかって話があるんだよ」と話 したところ、子ども達は「やってみたい」と即座に反応。家でも栽培をしているという子も数人いて、 そういう子を中心にこの学習活動は以後、大変意欲的に進んでいった。  
 

「地雷ではなく花を下さい」の続編、続々編 

「地雷」についての学習は密かに続いていた。というのは「地雷ではなく花を下さい」の続編、続々 編が数ヶ月のうちに出されていたのだった。「続編」の舞台は「カンボジア」だった。現在、地球上 にある地雷の総数は、日本の人口とほぼ同数の「1億2000万個」と言われる。カンボジアはその 時、400万から600万個の地雷が埋められている「世界一」の国であった。  絵本では、主人公のウサギ、サニーがカンボジアを訪れ、一見すると平和でのどかな感じのする 「農村」が、実は地雷が埋められている「危険地帯」で、大人も、子どもも、そして牛までも被害に あい、足を失ったり、命を落としていることを語り掛ける内容だった。  そして、絵本のしめくくりはサニーの祈りの言葉だった。  「足をなくしても 手をなくしても 心を失うことがないように 希望を捨てることがないように」  子ども達は、静かにこの話を聞き入っていた。「カンボジア」の国の名前は心に刻まれたのではな ないだろうか・・・。何人かの子がこのシリーズを買い始めた。(4年冬)  「続々編」の舞台は、ボスニア・フェルツェゴビナだった。 

  柳瀬房子さんから5松へのメッセージ 1999年8月30日

 2学期の初め。新聞でサニーちゃんの産みの親である柳瀬房子さんが長野県に講演しに来る事を知 った。このことを子ども達に話すと、行きたいけど遠くて行かれそうもないという話に・・・。  「よし、代表して担任が行くぞ!」と宣言。道に迷いながらも会場へ到着! 柳瀬さんにお会いし、「私達5松も地雷の事を勉強しています。柳瀬さんの本も読んでいます。 サニーちゃんの本はみんな大好きです。ぜひとも、子ども達にメッセージをお願いします」と依頼。 (テープに録音させて頂く)会場には、本物の地雷や被害のパネルなどが展示されていた。柳瀬さん の写真も撮らせて頂いた。
  

柳瀬房子さんから5松へのメッセージ

「みなさん、地雷の勉強を続けてきてくれてどうもありがとう。世界では、地雷の為にみなさんと同 じ位の子ども達が被害にあっています。そういう人達がいる事をぜひ忘れないで下さい」
柳瀬房子さんご自身からのメッセージ、生写真は子ども達にとっては大きな喜びとなった。
  

「巨峰の王国祭り」での販売大作戦! 1998年9月26日

 9月を半ば過ぎた頃、そろそろ巨峰の収穫期が近づいてきた。これまで何度か作業をさせて頂いた ので、この時期を私達は大変楽しみにしてきた。そんな中、県下をひどい台風が襲い、りんご農家は 大きな被害を受けたというニュースが報道され、子ども達のには、「巨峰は大丈夫なのか?」とい った心配する声が出てきた。みんなで見に行くと、幸いな事に被害はなかった。長い時間をかけて 精魂かけて育ててきた物が、収穫間際にダメになってしまうというのは非常に残酷な事だ。農業の厳 しさを改めて感じさせられる出来事だった。  それからまもなく、5松の巨峰もそろそろ収穫期だということになった。教室でいよいよ収穫だが、 収穫した巨峰はどうするかといった話し合いを持った。数で言えば70房程度であろう。やはり、真 っ先に出た意見は「食べたい!」だった。そして、次に出たのが「売りたい!」という声。「売る」 という活動は未経験な子ども達だったので、みんなが「売る」ことに興味を示した。一方で、売れる 巨峰になっているのか??という声も上がったが、「売れるものなら売ってみたい」という結論にな った。  9月25日。待望の収穫日。半年に渡って技術指導をしていただいた方から、これなら「一房30 0円で売れる、明日は巨峰の王国祭りなのでそこで売ればいい」と言って頂いた。それをみんなに伝 えると教室中は大喜びだった。結局、売れそうな巨峰は全部で61房。一房300円だとすると、 18000円の収益になるはず。 「では、売上げ金はどうする?」って尋ねると、ある女子が「地雷撤去に寄付する」と発言し、全 員が賛成した。「明日売れるようにチラシを作ろう」「地雷のことも知ってもらえる内容にしよう」 ということになった。 当日、新聞にもこの取り組みが取り上げられた事もあってか、私達の心配をよそに巨峰は21分 間で「完売」。新聞を見た人、子ども達の宣伝活動等で買いに来て下さった方もいた。保護者の方々、 学校の職員も買いに来て下さった。 更に、町長さんまでも買いに来て下さった。それも2房を10000円で。子ども達の募金活動 への励ましの意味もあったのだろう。この日の売上げは、28000円にもなったのだった!
  

柳瀬房子さんへの手紙・・・1998年10月

巨峰の収益金を柳瀬さんの「難民を助ける会」へ寄付しようということだったが、柳瀬さんには メッセージももらったのだから、みんなからもメッセージを柳瀬さんへ送ろうと言う事になった。  担任としては、ここではついでに国語の勉強も兼ねてしまえと、手紙文の書き方も指導。結局は 「ミニ文集」という1冊の本と言う形にしてお送りした。  しばらくの後、難民を助ける会からはお礼状と領収書が届いた。

子ども達の手紙 一部紹介

ある男子:柳瀬さんのメッセージの中に「ありがとう」というところがあってとってもうれしかった です。みんなでわくわくして聞きました。ありがとうございました。実は、僕達は5月か ら巨峰を作ってきました。そして、この前、巨峰の王国祭りで61房売りました。そして そのお金をどうしようか話し合って「難民を助ける会」へ送ろうと言う事になりました。 2万4千円です。柳瀬さん、これからもがんばってください。ぼくは、もっともっと地雷 の事を勉強して地雷で困っている人を助けてあげたいです。そして、世界中の人が地雷に 反対して、世界に一つも地雷がないようになってほしいです。
ある女子:・・・(略)私達は、巨峰を売るちょっと前の日に「集まったお金をどうするか」と言う 事を決める事になりました。私はそのしゅん間「これは難民を助ける会に送るしかない」 と思いました。なぜかというと、この前テープを聞いたときに「車イスを持っていったら とても喜んでくれた。けれども、ぞうてい式が終わったらきれいにかかえこんだ。」と言 う事と5松へのメッセージに入れてくれた「あなた達と同じくらいの年の人が、地雷の被 害にあって苦しんでいます。」という言葉が耳に焼き付いていました・・・。

    

葉 祥明(よう しょうめい)氏も長野県へ・・・担任が会いに行く!

この年は、運がよく、柳瀬さんだけではなく、葉 祥明さんまでもが長野県に来られた。  当然、駆け付けてクラスへサインをしていただいたミーハーな?担任。これは拡大コピーされて教室に飾られたのだった。

 12月になってから5松にはサンタクロースのしたくをしたサニーちゃんのクリスマスカードも届い た。担任は全員分カラーコピーをして配った。「難民を助ける会」の心遣いが嬉しかった。  オリンピック期間中に地雷のことも取り上げられていたということもあって長野県から「難民を助け る会」への募金が多いと言う記事がこの頃、信濃毎日新聞に載った。5松のことがまた取り上げられ、 「柳瀬房子さんが5松のミニ文集を持っている写真」が載せられていた。間違いなく5松の手紙が柳瀬 さんに届いた事がはっきりとわかるもので、ありがたかった。  
  

 自作の詩を群読・・・・5年、学習発表会 1999年2月

5年最後の参観日を控えて、クラスでは何を発表するかを話し合った。今回もすんなりと決まった。 「巨峰」と「地雷」の二本立てでいこうということになった。今回は劇と言う形はとらず、班ごとに分 担をした。全体での発表の時に、5松オリジナルの詩を「群読」という形で発表しようということにな った。子ども達一人ひとりが書いた地雷についての詩をもとに、担任が「群読」できるように加工した。
保護者の方から寄せられた感想より
一年間学習してきた事のまとめが発表できていました。子ども達が一人ひとりがみのり多く、世界 に目が向けられていくことはこれから生きていくのにとてもプラスになるし、人間としてやってよい事 と悪い事を見極められる目が育っていると実感しました。自分の頭でしっかり考えられる力がついてい ったらもっと良い世の中になると思います。・・・(略)
 

いよいよ6年へ・・・柳瀬さんへのビデオレター 1999年3月

 学習発表会で苦労して作ったオリジナルの詩をやはり、柳瀬房子さんに聞いてもらいたいと群読の練習  を再開。更に、一人ひとことメッセージも入れることになった。
「6年になっても地雷の勉強を続けていきたい」「柳瀬さんも頑張って下さい」という内容が多かった。
 

 行動し続けよう!!!・・6年生での実践

 

 児童会での新たな試み・・・「地雷募金」を全校で! 1999年1学期

   最高学年となり、全校を引っ張っていく立場となった。児童会長、ボランティア委員長の意向もあって クラス単位で始まった「地雷」についての活動を、全校に広めていこうと言う事になった。  まず「地雷」というものは何なのか?を知ってもらわなければ・・・それも、小さな1年生にもわかる 内容にしなければ・・・と試行錯誤を繰り返しながらも準備を進めた。
本や新聞、様々な方法で調べて、6月の末には「全校集会」で発表を行った。その後、数日間「地雷募 金」という名で募金を呼びかけた。カンボジアの地雷原に、「危険!注意」という意味で立てられている 看板の「赤い骸骨」を募金箱に張り、目がひくようにと工夫もした。  同じ頃、古電話帳の回収作業も児童会で行い、そのお金もあわせて、合計で15000円が集まった。 このお金は、児童会からということで「難民を助ける会」へ送金した。  

  担任がカンボジアへ飛ぶ!! 1999年8月    

 
 子ども達が非常に熱心に活動しているのを見て嬉しく思った担任。やはり、ここは自分がカンボジアへ行って来るしかないなあ・・・と思うようになった。もともと歴史遺産が好きなこともあり、アンコール ワットへは1回は行きたいと思っていた、それを今年実現すればいいと決心。アンコールワットはクラスの子ども達の何人かも憧れている「世界遺産」。幾つかの「旅行代理店」をあったたが、実際に地雷原へ 行くとか、地雷被害者の病院へ行くとかと行った事は「個人旅行」では無理だと言われた。それは残念な事ではあったが、行けば「何か見て来れるのでは」と思い直し、1回は行く事をあきらめかけたが行くこ とにした。アンコール・ワットなど多くの遺跡が数十もあるシェムリ・アップは、道が赤色だった。雨が多く所々に水溜りがある。3日間しかこの町にはいなかったが、毎日、アンコール・ワットを訪れた。 長年の私の憧れを裏切らない、壮大で美しい石の寺院だった。あまりの美しさに何度も振り返って最後まで見た。アンコール・ワット内には「地雷被害者」と思われる男性の物乞いがいた。彼は片足が無かった。 町の観光客相手のレストランにも、片足を失った「地雷被害者」の物乞いが何人か来ていた。彼らは足を失ったと同時に、仕事も失ったのだ・・・・。いよいよタイへ向かう2,3時間前激しいスコールの中私 を乗せたバイク・タクシーは、もう1回アンコール・ワットへ向けて走っていた。その最中、私は「アキラ地雷博物館」という日本語の看板を見つけた。ワットへ着くとすぐに私は運転手に英語で「ここへ来る 途中の道で地雷博物館の看板を見つけた。30分でいいから行かせて欲しい」と頼み、最後の最後、念願かなって地雷の関係場所へ行く事ができたのである(この位の英語は使えるべきである)

  クラスの井戸を贈りたい!!!・・・ニュース番組を見て!9月

担任がカンボジアの話をクラスでしてからまもなく、某TV局のニュースで「上田千曲高校」がカンボジアに井戸を贈り、その井戸を見に高校の先生方がこの夏にカンボジアへ行かれたという特集が   放送された。偶然にも担任が行った時期だった。それを運良く録画する事ができた私は、早速教室でその特集をみんなに見せた。私としては千曲高校の活動は1年前から知ってはいて、クラスでもその   ことは話題にしてはいたが、文化祭へも行く事が出来ずにいた。井戸を贈ると言う事は特に頭にはなく、ただ「私が子ども達に語り尽くせなかった部分」をこのビデオを見ることで補えるのではないか   ・・・という思いからだった。話や写真だけではなく、やはり、動きのある「映像」として見せたいとも思っていた。
   ビデオを見て、子ども達は「井戸」にも目をつけていた。出来あがった井戸の周りのセメント部分には贈った学校やクラスの「名前」が入るのだ。ただ地中、深く掘っただけの簡単な井戸の水は茶色    なのに、贈られた井戸の水は透明できれいだった。それを向こうの人たちが使っている様子を見ると、自分たちも井戸を贈りたいと思うのも自然かもしれない。地雷撤去も人のためになるが、井戸も必   要とされているのだ。
      しかし、その映像の後に「井戸一基の費用」が「18万円」と字幕で出た。これには子ども達から「高すぎる」「自分たちには無理だ」という声が上がった。そこで、別のシーンでタオルや鉛筆を贈って   いるのを見て、これなら自分たちにもできそうなのでやってみたいと言う事になった。まさにその日から、千曲高校の文化祭で「カンボジア展」が始まっていた。みんなの気持ちを受けて、担任が文化祭   へ行って聞いてくることになった。
   千曲高校の文化祭に行き、6松のこれまでの取り組みを話し、子ども達の気持ちもお伝えした。カンボジアで井戸を掘る活動をしている東大寺の僧侶である内田弘慈さんにもお会いでき、何かできること   があったら協力したいとお話した。内田さんの話によるとタオルや鉛筆を送ったとしても、現地の子ども達の手元に届くのは二割程度だと言う。届くまでの間に、色々なところで抜かれてしまうのだそうだ。   それほど生活が苦しいと言う事だろう。とすれば、もしこれからクラスで物資を送ったとしても、善意の8割は届かない事になる。確実なのは自分で届けるか、内田さんに託すか、それか、お金にして内田   さんに手渡すか・・・しかなかった。
   月曜日、教室で言われたままの事を話すと、やはり、自分たちのクラスの名前の入った井戸を贈りたいという声があがった。とは言っても金額が金額だけに、気持ちはあっても届かないかもしれない事も   話す。それでも、「やりたい」という事だった。卒業まで残すところあと9,10,11,12,1、2,3の七ヶ月。どうなるかわからない無謀な?挑戦を最後の最後にする事になった。
 この時から6松では「お金になる事はなんでもしよう!」という目標でさまざまな活動を開始。アルミ缶集め、書き損じ葉書集め、古切手集め、テレカ集め、物資集め、フリ−マーケットへの参加、そし   て募金活動・・・と取り組み続けた。

 内田さんに会いに、北長野へ出かける 1999年11月7日

学校の行き帰りや遠足でもアルミ缶を拾い歩いたり、御近所や親戚にも協力を依頼するなどの努力のおかげか、井戸のためのお金は予想以上に集まりつつあった。11月の初めの時点で9万円程度までたま るところまでいった。そんな中、千曲高校の先生から奈良の内田さんが長野県に見えるので都合のよい人は行ってみてはどうか・・・という連絡がきた。日曜日、北長野である。そのことを子ども達に話すと、 3分の2の子(22人)が行くことになった。保護者の方も数人行って下さった。
北長野では6松の子ども達の為にといって特別に1時間内田さんとお話する時間まで設けて下さり、自分たちがずっと知りたかった国、応援したかった国カンボジアの現状を聞かせて頂いた。そして、これまで に10万円程集まったので持参した事を伝えると、9月からの短い期間にこれ程頑張って取り組んでいるから、不足金は3月の卒業までに貯めるとして、今のお金で掘り始めて下さるという話になった。要する に、今から掘り始めないと卒業までに井戸は完成しないから間に合うようにやって下さるという話である。内田さんの特別な取り計らいに6松一同大変喜んだ。「卒業までに自分たちの井戸がカンボジアにでき る!!」・・・無理かもしれないと思っていた事が実現しようとしている・・・夢のような嬉しい話だった。
 
  

井戸完成の知らせを待って卒業した子ども達 2000年3月18日 

北長野以降、6松では更に目標金額までかかげて取り組みを続けた。担任自ら上田市のフリーマーケットに参加し45000円の資金を貯めた。何人かの子ども達や保護者の方々の協力もあり、予想以上 の売上げであった。アルミ缶収集については、クラスだけでは足りないと言う事になり、全校への協力も依頼した。各教室へ朝の会の時間にお願いに行ったり、チラシを配ったりと頑張った。3月になり、内田 さんからいつ「井戸完成」の知らせがくるのかと毎日まいにち、心待ちにしてわずかになった学校生活を送ったわけだが、結局、卒業式当日もその知らせは来なかった。担任としても千曲高校、奈良の事務局と 方々へ連絡をとったりしたが、連絡がつかなかった。「卒業までに」という約束だったが、それはかなわず、子ども達が中学校へ進学して1週間後にその知らせがあった。当初の話では「完成した井戸の写真」 を送って下さるということだったが、内田さん本人が長野県まで来て下さる事になった。この話はすぐさま緊急連絡網を通じて元6松全員に伝えられた。

「6松、井戸完成を祝う会!」・・・2000年4月16日

   待ちに待った6松の井戸の完成報告会&完成を祝う会が「公民館」で行われた。内田さんからは北長野に続き、カンボジアの現状をお話して頂いた。そのお話の中に、内田さんがなぜカンボジアで井戸を 掘るようになったのか・・・といった事も明かされていた。その後、6松の井戸がなんと子ども達と担任(元)の「憧れの地」世界遺産アンコール・ワット内に作られた事を報告して頂いた。正確に言うと、本 殿の右側(正面から入って)の南僧房だそうだ。これにはさすがの私も驚いた!まさか、そんな中に井戸が掘られるとは思ってもみなかったから。そして、更に嬉しい知らせが。それは、不足金としてその後集 めたお金で、7月からもう一つ井戸を掘ると言うものだった。合計で22万円まで集まった募金で2つも井戸ができる・・・そうだといいなあと思ってはいたが、実現できるとは・・・。この日は、きっと最高 の一日だっただろう、みんなにとって(私にも)
そして、 最後にある提案が出された。それは、自分達でお金を稼いで子ども達が20歳になる「8年後」にみんなでカンボジア、アンコールワットを目指す というものである。しかし、8年後はどうなっているのか予想も出来ない元担任は、この夏に行くことを宣言!
 
 

元担任と教え子3人がカンボジアへ!・・・2000年8月

   夏休み、8月の初め元担任と教え子3人は、内田さんや上田千曲高校の関係者の方々とカンボジアへ行った。一番の目的は、3月に完成した6松の一つ目の井戸をこの目でしっかりと見る事、それと7月 に出来たはずの二つ目の井戸の完成式(お水取り式)に参加する事であった。私にとっては{一年ぶり}のカンボジア。
今回の旅はこれまで自分がしてきた個人の「お気楽な」旅とは異なるのが、少々、気にはなったが、3年間の学習の成果の一部を見るという{仕事人S}としても重要な意味のある旅であった。
一つ目の井戸の水は透明できれいだった。みんなで交代で水を出し、その水を味わってみた。少々鉄の味がする。日本の水とはちょっと違った・・・。でも、これを多くの人達が使ってくれていると思うと大変 嬉しく思った。
二つ目の井戸の周りのセメント部分に、言葉を入れる事になった。この井戸は、一つ目の井戸からすぐのところにある寺子屋(孤児院)の前の庭先に作られていた。だから、学校にいる子ども達が使ってくれ るだろう井戸だ。子ども達が贈ったのだから、使うのも子ども達がいいかな・・・と嬉しく思った。「さて、何の言葉を刻んでいこうか?」とみんなで悩む。やはり、性格上、元担任が真っ先に決まり、掘り始 めた。大きな釘みたいなもので掘った。
私の掘った言葉は、大好きなJohn Lennonの歌にある「POWER TO THE PEOPLE」(民衆に力を!) だ。まだまだ生活の苦しいこの地の人々に井戸を贈る事で少しの「力」を差し 上げる事が出来た事。それと、日本も含めてこの世の中を作っていくのは民衆であり、民衆こそが何かを成し遂げる{主体者}であるはず・・・という思いも込めた。私も、そして6松のみんなも、この「民衆」 であるから。が、子ども達の方はなかなか決まらず、せっかちな私は世話を焼く事になった(ここでも以前の様に)
結局、「JE T'AIME」 これはフランス語でのI LOVE YOU。「FACE TO FACE」 これは「向き合って」という人と人との姿勢についての内容。 最後の一人は迷いに迷った結果「LOVE & PEACE」愛と平和を!だ。おまけに元担任はかつてよく自らが口にしていたあの名文句!「BESAME MUCHO」 も刻んできた。これには深い?(深くない)訳があるのだ。日本語にすると「いっぱいキスして」となる(笑) この旅にはスペシャル・ゲストがいた!それは、サニーちゃんだ!二匹のミニ・サニーが我々の行 く所へはすべて同行した。画像にも小さく写っているだろう・・・。

 
 
 
 

「6松 二つ目の井戸完成を祝う会&帰国報告会」2000年8月11日 

  帰国して一日休んで「井戸の完成報告会」が公民館で行われた。行ってきた者にとっては非常にしんどい日程  ではあったが、お盆前でないとやる日が無い。今回は、現地で安く写真は現像してきたのでこの点だけはありがたかった。  また、ビデオも持参したのでみんなにはこれまで以上にリアルに報告が出来たのではないかと思う。   旅行報告の後、8年後に向けての「実行委員」が決定!また、8年後も3つ目、4つ目の井戸が贈れるようお互いが少しずつお金を貯めていこうと言う事になった。
子ども達、保護者の方々の感想より:
・井戸の水が飲めてよかったけど、土のような味がした。6松の井戸が使われていて良かった)女子
・8年後にはカンボジアへ行きたいです。地雷のTシャツはお気に入りです(女子)
・6松の井戸が出来ていて安心した。カンボジアの人達がおおいに利用してくれればいいなと思った。8年後にはぜひ行きたいと思う(男子)
・カンボジアの人達は限られた物の中での生活では工夫がたくさんしてありました。戦争の傷跡が生々しくあちこちにあった。「機会」があったらアンコール・ワットやアキラ地雷博物館へ行きたい(女子)
・井戸の水は日本とはちがう味がしました。8年後が楽しみです!(女子)
・井戸とかができてよかったし、それを活用してもらって、やったかいがあったなと思った。それに、地元の家の井戸はただ穴をあけてほっただけで、水も(茶色に)にごっていたので、作ってあげた井戸を使って欲しいと    思った。行ってきた元6松の3人が無事に帰って来れてよかったなと思った。(男子)
・8年後は自分の目で確かめてみたいと思った(男子)
・映像などで私達もその場の雰囲気がとても伝わってきました。2基目の井戸に6松の文字を刻んだ瞬間、きっと    感動したでしょうね。私共親子も「いつかきっと行こうね」といつも言っています。(あるお母さん)

 
2000年の秋に世界保健機関(WHO)と国連児童基金(UNISEF)から発表された「世界の生活水事情」によれば、発展途上国人口の約半分にあたる24億人が「衛生的な水道システム」の恩恵はなく、また、うち11億人は家庭での上下水道の供給を受けていないという。 このため、下痢に苦しむ症例は世界で40億ケースもあるという。
今回、私達が送った井戸の水は、水質検査をパスしたものなので、そういった心配はない。たった二基の井戸である。果たして、何人の人がこれらを使ってくれるのだろう?でも、例え少しでも カンボジアの人達の生活に役立てば私達は嬉しいのだ。
現在、カンボジア国内ではエイズが蔓延していると聞いている。「貧しさ」のあまり、体を売って生活費を稼がざるを得ない少年少女が多いらしい。15歳の時に「日本人観光客」相手に「処女」を売った 少女の話というのを何かの本で読んだ。そういった中で、エイズは広まりつつあるのだそうだ。あまりにも悲惨な実態である。
それに、まだまだ「地雷」の被害は終わってはいない・・・カンボジアの抱える問題はあまりにも大きく深刻である。
「8年後」、元6松の子ども達が20歳になった時、私達は「カンボジアで再会する」約束である。その時までに、これらの問題が少しでも改善されているといいと願わずにはいられない。
   
    はるかなるアンコール・ワット。
        そこには私達が送った井戸がある。
       たった二つだけどかけがいのない、私達の長期にわたった活動の「象徴」。
    SEE YOU AGAIN IN CAMBODIA!


作者あとがき&プロフィール:
ここに3年間の活動の一部が紹介でしたことを大変嬉しく思います。個人で作ったものなので「学校名」等は公表 しません。有名な?方々のお名前は公表させて頂きました。作者Sの名も公表しません。御理解下さい。信州生まれの信州育ち。大学は東京でした。卒業後は、地元で教職へ。影響を受けた人は、手塚治虫(漫画 家)斎藤喜博・林竹二(教育者)、板倉聖宣(仮説実験授業提唱者)ルドルフ・シュタイナー(教育家・哲学者)の方達です。目標を見失った時は、彼らの本が私を救いました。しかし、私は迷い続けています(笑)  御感想・御意見下さい。


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