<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>


天皇について考える −2−

■西光万吉と「神の国」■


    ――部落解放と尊皇という二者統一の道

● 新田 均(にった ひとし)皇學館大學助教授 
 昭和三十三年(一九五八年)長野県生まれ。早稲 田大学大学院政治学研究科博士後期課程に学ぶ。博士(神道学)。 近代日本の政教関係を中心に学際的な立場から実証研究を行って いる。平成十年「比較憲法学会・田上穣治賞」受賞。著書に『近代政 教関係の基礎的研究』(大明堂)。

天皇と部落問題――自らの心を見つめて

 「貴族あれば賎族あり」、つまり「天皇がいるから差別がある」。部落問題にかかわるこの言葉はど、皇室を敬愛する国民の心に重苦しくのしかかってきたものは他にあるまい。私の心の底にもずっとそれはわだかまっていた。大事な問題だとは思うが、なんとなく直面することを避けてきた。その問題に「しっかりと向き合ってみよう」と考えるようになったのには、一つのきっかけがあった。
「新田、松浦両先生の神道観、天皇観、歴史観をお伺いしたい」と、部落解放同盟三重県連合会の西野紳一氏から私の研究室に電話がかかってきたのは昨年(平成十二年)四月八日のことだった。三重県では、一昨年十二月十五日に県立松阪商業高等学校の校長が自殺し、それが「週刊新潮」(二月十七日号) で取り上げられ、校長自殺の背景に部落差別事件があるらしいことが報じられた。それが三重県議会教育警察常任委員会で問題として取り上げられる中で、″同和問題解決に向けての政府の基本方針が教育現場に徹底されていない″という事実が明らかになった(本誌平成十二年四月号「校長が自殺し、教授が解任される!」に詳報)。
 三重県の教育改革運動に関わっていた関係で、たまたまこの委員会を傍聴していた私と松浦光修氏(皇学館大学文学部助教授)は、同和問題の解決が国民的課題とされているにも拘わらず、その解決方法についての政府の方針が県民に周知徹底されずにいるのはおかしい、と感じた。それで、県議会でこの問題を取り上げられた浜田耕司県会議員を交えた座談会で話題にした(「広島の二の舞いを許すな、三重教育界で何が起きているか」『諸君!』平成十二年五月号)。
 西野氏が電話をかけてこられたのは、その記事を読んでのことだったが、おそらく、同和問題について発言した私たちの真意を知りたいと思われたからだろう。私たちの発言は“国民的課題である以上、政府の方針を多くの人々が知るべきだし、タブー視されるべきではない”との単純な思いからだったが、西野氏からの電話は、「自分はどのような方向で同和問題が解決されることを望んでいるのだろうか」との問いを自らに投げかける切っかけとなった。自分自身の基本的な立場を明確にしないままでは、何を話しても実りあるものにはならないように思え、まず、自らの心を見つめ、本心を明らかにすることから準備を始めることにした。


水平社宣言を起草した西光万吉

 もし本当に、「天皇がいるから差別がある」というテーゼが真理であるとするならば、それは日本国民にとって悲劇以外の何ものでもない。日本国憲法は「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」、であると、その第一条で明記している。だから、このテーゼが真理なら、日本国民は「差別の根源を統合の象徴としている国民」ということにならざるを得ない。当然に、第一条は、第一四条が規定する「法の下の平等」とも矛盾することになる。
 この矛盾を突き詰めれば、日本国民は、皇室を廃止するのか、それとも部落差別を容認するのかの二者択一を迫られることになる。そうなれば、部落差別の撤廃を目指す人々は日本国憲法第一条の破棄を唱えて改憲運動を展開し、皇室を尊崇する人々は皇室の存続のためには部落差別もやむなしと主張して、解放を目指す人々と対決しなければならないことになる。こういう事態を双方ともに、さらには多くの国民が望んでいるであろうか。
 私は皇室を尊崇し、その弥栄を願っている者の一人であるが、だからと言って「部落差別もやむなし」とは思っていない。それどころか、等しく国民の上を思われる天皇陛下を戴きながら、国民同胞の間に部落差別などというものが存在することを実に悲しく残念に思っている。このような思いは私のみでなく、実は尊皇の念の厚い人々の間に広く共有されているものなのではないか、と思う。
 そうであるならば、「天皇か、部落解放か」という二者択一の発想から抜け出す道を摸索することが、自分の思いに最も忠実な生き方だと思った。第三の道を探るにはどんな方法があるだろうか。いろいろと考えてみたが、まずは、これまでの部落解放運動の歴史の中で、天皇の存在と両立する解放理論を唱えた人物はいなかったのか、それを調べるところから私は始めた。

「水平社宣言」以降の生涯

 そんな折、同和問題に詳しい人たちから、「水平社宣言」を起草した西光万言は、実は「尊皇家だっ たらしい」という話を聞かされた。早速、西光万吉の著作を調べはじめたところ、偶然にも『西光万吉 著作集』全四巻(涛書房、昭和四六〜七年)が手に入った。そこには、私が予感もしなかった言葉が 書き連ねられていた。
 西光万言(本名・清原一隆)の名は、彼が起草した「水平社宣言」の最後の言葉、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とともに、部落解放史上に燦然と輝いているりしかし、「水平社宣言」以降の彼の生き方については意外なほど知られていない。ここで西光の思想を語る前に、「水平社宣言」以降の彼の生涯を簡単に記しておきたい。以下は、『西光万吉著作集』所収の史料に基づく。
 水平社設立後、西光は農民運動に参加する。「封建的な農民の生活と観念が変わらぬかぎり、われらに対する賎視差別も消えないから」(「略歴と感想」)というのがその理由だった。彼は日本農民組合に参加し、さらに農民労働党、労働農民党の結成に加わる過程で、共産党に入党した。彼が共産党に入党したのは「純粋なマルクス主義者としてではなく、当時の不正横暴な政府や政党に対する反抗と、組合や無産政党員のふまじめさに対する不満からであった」(同)という。
 しかし、彼は当初から「小さな小作争議にまで天皇制打倒を持ち出そうとする共産党の方針に反対した」(同)。「いたずらに争議を悪化させるのみならず、組合大衆まで離反させるおそれがある」のと、「純然たるマルキストになりきれぬものがあった」(同)からだ。そこで彼は「党の上級機関へ日本の国体問題について再検討を要求した」(同)。 昭和三年、普通選挙による第一回衆議院議員選挙に、西光は労働農民党公認で奈良県から立候補したが、次点で落選した。そして、同年三月十五日の治安維持法違反による共産党員検挙事件(「三・一五事件」)で検挙され、懲役五年の判決を受けて、奈良刑務所に服役した。
 服役中の昭和七年、「日本の国情に即した社会運動のあり方について、しんけんに考えた」(木村京太郎「西光さん−その人と作品−」)結果、「国情に即さない直訳的な無産運動の謬りを認めて『マツリゴトについての粗雑なる一考察』と題する思想転向を表明した」(阪本清一郎「七十年の友、故西光万吉について」)。
 昭和八年に仮釈放されると、盟友の阪本清一郎と『街頭新聞』を発刊して、日本的な「高次的な高天原の展開」としての天皇を中心とした社会主義国家の実現を目指して言論活動を開始し、石川準十郎の日本国家社会党に入党した。また、吉田賢一、大橋治房らの皇国農民同盟にも入り、橋本欣五郎らの軍人とも交わった。西光自身は、この時期に知り合った人々の中で、後々まで影響を受けた人物として東京の至軒寮の穂積五一を挙げている。
 さらに、支那事変が大東亜戦争へと拡大する中で、西光は「欧米資本の侵略と搾圧からアジア民族を解放する聖戦を貫徹するために、国内維新を断行すべしと主張し、近衛内閣の新体制運動にも協力した」(「七十年の友」)。
 しかし、国内維新はならず、日本は戦争に敗れた。「日本がその悪業のために敗れ、自分がその悪業を浄化するための真の智恵と気力を欠いて、その悪業に引きずられていた」「日本の悪業は、分に相応した私の悪業にはかならぬ」(「略歴と感想」)との自責の念にかられた彼は、ピストル自殺をはかったが、弾丸が出ずに未遂におわる。
 その後、「皇国今日の事態は、まさしく我らの心情と制度の気枯れによる。心からみそぎはろうて浄らかに更正維新せねばならない」と思い直した西光は、「我が『気枯れ』に対する責任を思い、むしろ悦んで『みそぎ』の道を行かん」(「偶感雑記」)として、原水爆禁止の運動に挺身し、破壊的な武力で国を守るよりも、科学的な技術を持つ国際的な協力隊をつくり、世界の平和と人類の幸福に貢献すべきだとして、「国際和栄隊」の創設を提唱した。そして、和栄隊の必要性を説き続けて、昭和四十五年、和歌山市日赤病院において胃癌のために七十五年の生涯を閉じた。


「高天原」の理想

 西光が理想とした「高次的な高天原の展開」とは、簡潔に言えば、日本神話で語られている天照大神を中心とした高天原を、祭政一致の「原始的同胞共産社会」と捉え、この原始社会の伝統を継承した天皇を中心として、資本主義を止揚した社会主義国家(高次的な高天原)を実現しようというものである。
       西光は「私にとって、高天原は単なる神話であるよりも歴史である」(「偶感雑記」)と述べている。彼が「歴史である」というのは、世界には「男性による私産的権力国家」(地上界)が発生する以前に「母権的共産社会」(天上界)が存在した、という意味である。この「母権的共産社会」は、「母と民によって成る親和社会」であり、「祭政一致」の社会でもある。これが即ち日本神話に描かれている天照大神を中心とした高天原であると西光は理解した。
 彼のこのような高天原論の背景には、社会主義思想の影響が顕著であるけれども、どうもそれだけではなさそうだ。この高天原におけるマツリゴトは「どこまでも、天国の栄光、あるいは彼岸の浄土を求めるものではなくして、端的に現実的幸福として地上の豊饒と平和を希望したものであって、自然の生産力と人間の生産力とを調和せしめるために、かれらの育積された経験にもとづいて行われたものであった」(「高次的タカマノハラを展開する皇道経済の基礎問題」)と、西光は書いている。
彼は、浄土真宗西本願寺派の末寺である西光寺の住職の長男として生まれたが、同派が経営していた平安中学で受けた差別によって、僧侶になることを断念せざるを得なかった。後に、部落民の大多数を門徒とする東西本願寺は、部落民の現実的苦痛を浄土への希求に向けさせることによって、現世における解放を妨げたばかりでなく、浄財を搾取して肥え太ってきたとの非難を、水平社から受けることになった(北川鉄夫『西光万吉と部落問題』涛書房、昭和五十年)。
 この事実を踏まえて先の「現実的幸福云々」の文を読むと、西光は自らの宗門では得ることのできなかった現世における理想世界の姿を神話の中に見出したのではないか、と思えてくる。後に彼は戦時体制を機会として自らの理想を実現しようと努めるのだが、その時のことを、こう書いている。
「私はみそぎして神前に拍手し、その祝詞の中で、農業生産の面から地主を清算し、工業生産の面から資本家を解消し、いわゆる労務処理を一元化し、生産必要物資の配給機構から営利性を一掃することなどを当然のこととして祈った」(「偶感雑記」)と。彼の宗門である浄土真宗が「神祓不拝」(神を拝まず)を標樺する一神教的な仏教であることを考慮するならば、その末寺に生まれた彼が、神に拍手して祝詞をあげていたというのは驚くべきことだ。  また、神道はしばしばその世俗性を、宗教としての未熟さとして批判されてきたが、西光はその世俗性にこそ「救い」を見出している。これは、私にとって大きな宗教観の転換を促すものだった。


天皇制度は何故続いたか

 西光によれば、原始高天原は、社会の物資生産力や人口の増加、父系家族制の成長や異民族との交渉などによって経済関係が複雑化し、私有財産制が発生・発展したために、祭政一致の共産制度を維持することが困難となり、祭政分化へと向かい、祭司としての地位と政治的主権者としての地位が分化した。その際、日本においては、祭司の地位にある者が政治的主権者の地位についた。それが現神(天皇)である。したがって、「家長的・祭司的な政治的主権者の所有は、いわゆる現神的所有であって、たんなる個人的所有ではなく、成長しきたれる個人的所有観念にたいする厳格なる社会的制限であり、統制である。すなわち、祭政分化は、私財観念の発達に伴う現象であり、政治における現神の地位は、祭事における、共産思想による私財観念の支配を意味」(「『マツリゴト』についての粗雑なる考察−民族国家の家長的主権および私財奉還思想の断片的説明−」)したという。
 難解な表現だが、要するに、祭司としての天皇は、高天原における同胞愛と共産財という観念の体現者であり、その天皇が政治的主権者の地位につくことによって、私有財産の観念に由来する様々な弊害が抑制されたというのである。
 ところが、私有財産制度のさらなる発展は、この「マツリゴト」の理想を押し流し、遂に王土を失える「マツリゴト」の民の上に封建制度がしかれることになってしまった。
 それでは、何故、このような事態に立ち至ってもなお「天皇」は存続し得たのか。その問いに西光はこう答える。「高天原において、中心母性をめぐつて展開された、素朴な同胞愛と共産財という観念と習俗が、まさしく人間社会の深い本能と高い理想に通ずるものとして、自然にわれらの民族の歴史と理念の中に伝統されて来た」(「偶感雑記」)からだと。さらに言えば、「日本民族は、その永い生成の道程における私産発展の各段階を貫いて、各時代の権力的為政者に対して、つねに天皇制の権威を通じて高天原以来の同胞愛と共産財を主張して来た。(中略)天皇制は、私産的権力政治の分野に共産的(神産的)祭事思想の権威をもって君臨せられるものとして惟神に伝統されたものである」(同)。「それはじ つに民衆の意識以上に強く深く潜在する社会的本能の帰趨の対象であった」(「奉還思想を基礎とする日本的皇産主義」)。
 これまで説明してきた西光の思想の中で、人間社会の出発点に原始共産社会を想定し、それを神話に当てはめるという思考方法は、今日では支持され得ないであろう。けれども、天皇を私的所有を制限する公的所有観念の体現者と捉え、そうであるが故に民衆の権力者に対する抵抗の根拠として、あるいは潜在的な社会本能の帰趨の対象として、存続してきたとの発想は、高森明勅氏の「天皇−公民」制論や、丸山眞男が行き着いた「歴史意識の『古層』」という発想の先駆をなすもののように思える。
 高森氏は、天皇という地位は国家の公的統治の理念を表現するものであったとし、さらに「天皇はほんらい人民への私的・個別的な支配を一切、排除し否定する存在であり、その地位は人民の公民としての立場と対応するものだった」とする。そして、封建領主たちが天皇をみずからの正統性の源泉とすることによって一定の制約を受けただけでなく、「民衆の側でもみずからの『公民』性をテコとして、封建領主層の私的な支配にたちむかった。この方面も軽視できない」と言い、「ここに『天皇−公民』の関係性によつてなりたち、国家の統合と公共機能の基盤をささへる国制上の持続的なわくぐみを想定することができる」と主張している(『歴史から見た日本文明』展転社)。
 他方、丸山眞男は、「近代にいたる歴史意識の展開の諸様相の基底に執拗に流れつづけた、思考の枠組」(「歴史意識の『古層』」『丸山眞男集』第十巻、岩波書店」)の存在を仮定し、これを日本人の意識の「原型」「古層」あるいは「執拗低音」と呼んだ。それは「外来思想を『修正』させる考え方のパタ ーン」として執拗に繰り返されてきた、と丸山は言う(「日本思想における『古層』問題」同第十一巻)。彼はそのパターンのいくつかを、古事記や日本書紀などに記された神話や律令国家以前の国制の中から抽出しているが、その中には、天皇の存続と深く関連する、「つぎつぎ」という範疇や、日本の「政事」における正統性の所在と政策決定の所在との截然たる分離、などが含まれていた。後者のパターンについて説明した文章の中で彼は次のように述べている。
「正統性のレヴエルと決定のレヴエルとの分離という基本パターンから、一方では実権の下降化傾向、他方では実権の身内化傾向が派生的なパターンとして生まれ、それが、律令制の変質過程にも幕府政治の変質過程にも、くりかえし幾重にも再生される、といういわば自然的な傾向があり、それが日本の政治の執拗低音をなしている、という仮説になるわけです。その際に大事なことは、権力が下降しても正統性のローカス[所在]は動かないということです。もちろん正統性自身のレヴエルは、視点によって幾重にも設定できます。日本全体として見れば、いかに実権が空虚化しても最高の正統性は皇室にありました。」(下線引用者、「政事(まつりごと)の構造−政治意識の執拗低音−」同第十二巻)。


「天皇社会主義」国家の実現へ

 「なんら史的反省もない民族革命も維新もあるものではない。それがいかに進歩的革命であるにしても、民族性はかならずその前途に過去の史的反省を投影させずにはおかぬ」
「史的反省を反動とするならば、高次的ゲマインベーゼンを希望したエンゲルスもまた反動として排斥されねばならぬ。いちがいに復古性が不可なのではない。それがたんなる尚古主義であるがゆえに不可なのである。民族心理に潜在するかかる高次的復古性を無視するような社会科学があるならば、それは真実の科学ではない」(「明治維新のスローガンと昭和維新のスローガン」)。
「民族の理想と歴史」を投影しない改革は歪んだものだというのが西光の基本的な考えだった。そうした考えの基碇の上に、天皇制を「原始的同胞共産社会を昨日のごとく回顧しうる制度」「尊重すべき民族的形式」と捉え、その結果として、「天皇制の帰結としての国家主義、国体完成としての同胞社会主義、マツリゴトの確立による高次時タカマノハラの展開」(同)を彼は主張した。ちなみに西光は、「国体」という言葉を「天皇を日本民族の首長とする伝統」(「偶感雑記」) と定義している。
 したがって、彼の場合、社会主義の実現は歴史の断絶を意味しない。西光は言う。「われらは理想的同胞社会をタカマノハラに反省し、すでに維新によって再建されたこの統一国家のうえに、その高次的展開を実現せんとするもの」であると(「明治維新のスローガンと昭和維新のスローガン」)。
 つまり、明治維新は、西光が目指す改革の前段階と捉えられ、逆に彼の改革は明治維新の理想の発展として位置づけられているのである。「明治維新を契機として、ドミニウム[私有権]が、フランス革命の人権宣言に若返ったさっそうたる姿をわが国にあらわした当時は、けっしてこんにちのごとく醜悪ではなかった。(中略)それは身分的階級的差別のはなはだしき旧幕的話法制に比して、はるかに公平で一視同仁、庶民平等的であり、旧幕的身分上のシツコクから解放されたる自由であった。その自由、公平とはじつに『新たな正義観念による伝統的法律体系の匡正である』」(「日本的皇産分用権−皇道経済の基本思想について−」)
「ドミニウムをわが国に輸入した明治維新初期の人びとは、もちろんそれがこんにちのごとき借越横暴をなすものとは予想しなかったであろう」(同)。「しかしながらドミニウムはわが国資本主義経済の発達につれて、かつてのローマのパトリキイ[支配者、掠専者]によって生み出された本性をあらわしはじめた。そして独占資本主義の段階において、もはや黙視しえざるほども露骨に皇産を冒涜し、みずからその分用権に代わらんとする勢いを示すにいたった」(同)。
 ここで西光は「皇産」「分用権」なる言葉を用いている。
それは、ローマ法的な絶対的な私有権という観念は日本の伝統にそぐわないものであり、むしろ日本では財産はすべからく公の支配の下にあり(皇産)、各人はそれを広義の公益のために管理使用する義務を負っている(分用権)という意味である。このような考えを彼は自ら「奉還思想」と呼び、この思想の徹底によって、全産業を合理的組織統制の下におくべく、奉還運動を提唱した。
 その「全国民の奉還財の対象は『天皇』であり、その道は『神ながらの道』」(「奉還思想を基礎とする日本的皇産主義」)であり、言い換えれば、天皇は「権力国家発生以前の原始的高天原から権力国家止揚以後の高次的高天原へまで貫き通ずる日本民族の史的理想の大道」(「偶感雑記」)であった。なお、西光は、日本人はことごとく天照大神という中心母性から生まれた同胞、すなわち平等な神の子孫と考え、これを「赤子思想」と呼んでいる。


国敗れても・・・

 西光は、「赤と言われ神がかりと言われ、ファッショと言われ」(「偶感雑記」)ながら、自らの思想を語り、祈りつづけた。「日本はモトモト『神の国』なのだ。だがこんにちでは、資本家や地主どもはもちろんのこと、われら無産勤労大衆でさえそれを忘れかけているのだ」と嘆き、「神の国」とは、「君民一如、搾取なき国」「赤子思想と奉還思想のうえに建つ国」、(「君民一如搾取なき高次的タカマノハラを展開せよ」)即ち「タカマノハラ」のことだと叫びつづけた。しかし、維新はならず、国は敗れた。
 敗戦後、西光は、戦争を機会として国内改革を断行させるべく奔走していた当時を振り返って次のように書いている。 「私も、かつては『支那から手を引け』という運動もした。従って、満州事変当時は受刑中で、よく知らなかったが、今度の支那事変も好ましい事だとは思わなかった。けれども、支那の背後にある英帝国を見ると、私はいつの間にか戦争に対する自制心を失い、その加担者となった。相手が世界最大の帝国主義国家であり、アジア民族の最大の搾圧者である限り、従って、それとの避け難い一戦を予想した時、私は一応は日本の帝国主義者と共に、それと戦う事も、止むを得ぬと思ったのである。(中略)私は、英帝国との真剣々戦争によつて、当然にわが同胞の心情も浄まり、制度もまたその反省の上に改まるであろうと思った。国際的には、インドをはじめ英帝国に搾取せられつつあるアジアの諸民族を奮起せしめ、当然にわが同胞の心情も浄まり制度もまたその反省の上に改まるであろうと思った。国際的には、インドをはじめ、英帝国に搾取せられつつあるアジアの諸民族を奮起せしめ、国内的には、支那事変とは、自ら性質を異にする戦争によって、人心制度ともに維新せられるであろうと考えたのである。けれども、事実は、まさしく正反対に進み、国内維新は成らず、従って国際戦争にも敗れた。私の考えはあ まりに甘く、また多分に身勝手なところがあった」(「偶感雑記」)。
 このような反省をしたのだから、きっと彼は「天皇社会主義」の理想をも放棄したに違いないと予想するのが、戦後教育を受けてきた私達に共通する思考パターンであろう。ところが、敗戦については自分の無力さを恥じ、自殺まではかった西光だったが、自らの理想に対する確信はいささかも揺る がなかった。むしろ、敗北への反省は、自らの理想の否定へ ではなく、「われらは、この際、何故に『天皇』をかような存在として生かし得なかったのか、という事について深く反省し、慙愧すべきではなかろうか」(同)という方向へと向かった。
そして、「瑞々しき惟神の無我執観たる赤子思想に照りかがやき、清々しい惟神の無所有観たる奉還思想に澄みわたる高天鳳の高次的展開などというと、今なお祝詞癖の抜けぬ神がかりと哂われるであろうが、これも醒める事のない私の一つの夢である」(同)と書き、次の世代に期待をかけた。「われらを超えて行く日本の新しい世代は、必ず再び満州事変を起したり、ファシズムになったりはせないであろう。そして彼らの日本的反省は、惟神の高天原を目指すであろう。もとよりそれは、権力国家発生以前の親和社会への高次的回帰であり、その国際的展開である」(同)。
 ここでは端的に彼の下した結論だけを紹介したが、これを理解するためには、戦争の原因、ファシズム、戦争に対する評価、などについての西光の考えを知る必要がある。
 彼は、大東亜戦争の原因について、次のように自分の考えを語っている。「『天皇』の存在が、今度の戦争を起こした最大の原因であるようにも言われているが、こ戦争の根本原因もまた『帝国主義』である事については、あまり言われていないようだ。もとより私は、今度の如き戦争は、必ずしも『天皇』の存在に由来するものではなく『帝国主義』の存在に由来するものと思うが、その事は、もとより帝国主義に関連した程度において『天皇』の存在が、今後再び、帝国主義的存在として利用し得ざる程度に改められねばならぬ事に反対するものではない」(同)。
 ファシズムについては、「民族の歴史と理想は必ずしもファシズムの形態と思想とによって現れるものでもなく、またそのように簡単に消滅させられるべきものでもない。私も、もとより民族の歴史的理想というものとファシズムとを混同したくない」(同)と述べている。彼が自らの理想とファシズムとを区別するのは彼にとって当然すぎるほど当然のことだった。「私はファッショは嫌いであつた。またナチも余り好きではなかった。殊に国内でも封建的な、賎視差別によって、辛い思いをさせられつつある私にとって、ナチの極端な民族優越感に対しては強い反感を抱いていた」(同)。
 さらに、敗戦についての悲嘆は大きく、慙愧は深かったが、大東亜戦争の評価については、全否定という態度をとっていない。「日本の政戦後、戦勝国によって、インドをはじめアジヤの諸民族が、各自、その独立を承認されつつある事実は、日本に与えられた新しい秩序とともに、私に次のような感想をなさしめている。『日本は、その悪業のゆえに戦うて敗れ、その善業のゆえに目的を達したと(「略歴と感想」)。
 ついでながら、彼が保持しつづけた神道観は次のようなものだった。「私はかつて共産党員であった。それが今日のようになったのは、唯物と唯心を超えた命の世界を思い、高次的な高天原の展開を望む者は、高天原の世界観に生きることは当然であり、日本の天皇制が惟神に原始的高天原から高次的高天原に貫き通ずる道であることを信じたからである。もとより惟神にということは、高い大きないのちに連なり違うて最も自然順調にということである」(「偶感雑記」)。


部落解放原理の伝承者としての天皇

 西光の思想の根底に、私有財産制度を諸悪の根源とみなす社会主義思想があることは間違いない。彼が水平社運動の枠内に止まり得なかったのも、社会主義国家を実現しなければ、部落差別を根本的に解決することはできないと考えたからだった。このように考える彼が、天皇こそ私有財産制を止揚する原理を内蔵した存在だとの信念に到達した時、建設さるべき社会主義国家の中核に天皇を位置づけたのは当然であった。そうだとすれば、彼の天皇論の中に″部落解放原理の伝承者としての天皇″という側面が含まれていたことは想像に難くない。「天皇制は元来いわゆる権力的なものではない」(「偶感雑記」)と彼が言う時、この言葉は、そのような文脈で理解されるべきものだと思う。
 それでは、要するに、西光は差別の根源を何だと認識していたのだろうか? 断言することは差し控えるが、昭和二十六年十月に、彼がインドのネール首相に宛てた文章に、その答えが端的に表明されているように思う。そこで彼は、古代に高い哲学と輝かしい王国を創りあげたインドが、イギリスの植民地にならざるを得なかった原因は「世界に例のない種姓差別の陋習にあった」とした後で、次のように書いている。
「そして、そのことをインドのために深く悲しむとともに、ことに不幸なハリジャン[被差別民]のために烈しい憤りを禁じえませんでした。これは、私たちが、日本における単なる被差別民であるというだけでなくて、私たちもまた、インド的種姓差別の受難者であるからです。というのは、一般的な奴隷的差別よりも深刻な私たちに対する賎視観念は、多分に、かつての支配階級によって巧みに悪用された仏教思想と関連しているからです。しかも、今なお私たちの大多数は、他の大多数の日本人同様に仏教信者なのです」(「印度解放の父、ネール首相におくる」)。
「反動的似非日本主義者は『日本民族の発展か、無産階級の解放か』と故意に二者択一的に問題を提起する。だがわれらは『日本勤労国民の解放に通ずる日本民族の発展』と二者統一的に規定する」(「明治維新のスローガンと昭和維新のスローガン」)と、西光は言った。彼がたどつた苦難の道を単に想像することしかできない私には、この提起のもつ重さを十分に受けとめることはできそうにもないが、せめて「反動的似非日本主義者」と彼から非難されないように、″同和問題の解決と尊皇の二者統一という願い″を持ち続けて行きたいと思っている。
 最後に西光をよく知る二人の人物の西光評を抜き書きしておこう。
「酒のみであり、思想的には右からは『赤』だと言われ、左からは『ファッショ』だ、『転向者だ』と悪評もされましたが、私が三十年を通じて傍らで見てきた人間西光は、妻馬鹿と笑われるでしょうが、人間の尊厳をひとすじに思い、絶対に人を差別することなく、菩薩修業を積み重ねた人だったと断言させて頂くことができると思います」(清原美寿子「夫・西光の思い出」)。
「その理論の内容はマルクス主義者の理論からすれば批判の余地があろうし、私も共産党員として批判をおしまないが、これが基本になって、もう少しほんとうの日本民族というものを見出し、人類の進化の過程と将来に確信をもって西光さんが夢にもたれたものを生かすようにしなければならないのではないかと考えます」(難波英夫「西光万吉の人と思想 ――私自身とのかかわりの中で―― 」)。


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