<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

■高橋正二先生講演録■


(本講演録のテープ起こしは、「正気煥発掲示板」に集う、
松五郎さん、トモケンさん、UNOさんからご協力いただきました。)

「想い起す十二月八日―語り伝えておきたいこと」
平成13年12月8日 山形県民会館
● 高橋 正二(たかはし しょうじ)先生略歴 

 大正2年山形県川西町大塚に生まれる。長井中学を経て陸軍士官学校・陸軍大学・明治薬専(現明治薬大)卒。薬剤師。歩兵聯隊中隊長・南方総軍参媒・大本営参謀等歴任。
 学校法人明治薬科大学元理事長。元(社)日本私立薬科大学協会常務理事。元薬剤師養成問題検討委員会委員(厚生省)。
元東京世田谷ロータリークラブ会長。(財)青少年交流振興協会理事。日韓・ソ・アジア・友交協力会会長。世田谷偕行会・世田谷新郷友会名誉会長。世田谷郷土大学学長。
 世田谷山形県人会会長・山形県人東京連合会副会長。
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 南方総軍情報参謀としてレイテ入り、乗った魚雷艇が撃沈されて十数時間泳ぎ、辛くも生還した体験は、大岡昇平の代表作『レイテ戦記』の中で印象的に取り上げられている。(第十七章「脊梁山脈」)
 終戦時、原爆投下直後の広島を視察。また有末機関の一員としてマッカーサーを厚木飛行場に出迎えられたほか、ミズーリ艦上降伏文書調印式の事務方を務められた。
 三笠宮殿下とは陸軍士官学校で御同期(48期)。
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ご講演の様子  高橋でございます。 私は山形県東置賜郡川西町大字大塚出身でございます。大塚尋常高等小学校から長井中学を昭和7年に卒業致しました。昭和7年といいますと、五・一五事件のあった年でございます。五・一五事件の年に陸軍士官学校に入学しまして、二・二六事件で卒業致しました。私の波乱の人生の第一歩がその辺からあったと思います(笑)。
冗談はさておきまして、まずもって、このたびの敬宮愛子内親王殿下のご誕生を心からお慶び申し上げ、皇室のご繁栄、同時に我が国家の繁栄を皆様と一緒にお慶び申し上げたいと思います。

今日は、前川西町長の横澤先生はじめ委員の皆様方の大変なご尽力によりまして、私が久方ぶりでこの郷里を訪問させて頂き、そして、お話を申し上げる機会を与えて頂きました事について大変光栄に思っております。何しろ旧い話に触れますけれども、私が只今から申し上げます事は、日本の近現代史の一端でございまして、嘘偽りのない事を私は語り部として申し上げたいと思います。したがいまして、なぜそんなバカな事を、なぜそんな様な事をとお気づきの点もたくさんおありと思いますけれども、当時としての出来るだけの事実を申し上げますので、そういったご批判等はどうぞ皆様方の方で充分やって下さい。私からは、なるべく史実に忠実にお話を申し上げるつもりでございます。

●なぜ大東亜戦争は起こったか

今日は十二月八日、六十年前の大東亜戦争勃発の日でございますから、まず最初に、なぜ大東亜戦争が起こったのかという事を一通りお話を申し上げたいと思います。大東亜戦争は、真珠湾の奇襲から始まったかの如くお考えの方もおありでしょうけれども、その辺からお話を申し上げたいんです。大東亜戦争の始まりは、決して真珠湾の、いわゆる騙し討ちじゃないんです。もうそれからずーーっと昔から、この宿命が仕組まれておりました。端的に言いますと、アメリカの謀略です。アメリカの謀略によって大東亜戦争が起こったのだと、いう結論から先に申し上げておきましょう。

◇アメリカの謀略

アメリカの建国
それにはまず、アメリカという国がどうやって興ったのかということから始めます。
アメリカの国は、今からたった二百数年前に出来たのです。日本は二千六百六十二年になりますが、アメリカができたのは二百年余り前です。イギリスのピルグリムファーザーズという宗教団体のいわゆる清教徒が、アメリカの国をつくったんです。どうやってつくったかといいますとまずひとつは、インディアンを一万名以上も殺した上、残ったインディアンは荒廃した土地に追っ払っちゃった。第二番目は、アフリカから約一万名以上の奴隷をね、お金で買ってきてその労務に服させた。これで出来たのがアメリカの国なんです。それが歴代の大統領は聖書の上に手を置いてね、「我がアメリカは神の創り賜うた国である」、こう言うとるんですよ(笑)。これが神様が創った国ですか?

アメリカの西進政策
 昔、セオドア・ルーズベルトという大統領がいました。大東亜戦争の時にはフランクリン・ルーズベルト。ルーズベルトが二人おりますから、ごっちゃにならないように。このセオドア・ルーズベルトが海軍次官補の時代に、アメリカの海軍大学にアルフレッド・マハンという教授がいました。このマハンという教授は後に海軍大学の学長になる男なんですが、彼がアメリカの政策戦略の大綱についての本を書いています。それによりますと、アメリカは大海軍国をつくらねばならないということで、次の三つの事を、彼は提唱しています。
その第一は、世界各国に植民地をつくれ。第二番目はその植民地に海軍基地をつくれ。そうして貿易によって繁栄を願いながら、結局は中国が目標だよと、こういう事です。このマハンの考えに、後の大統領である当時の海軍次官補セオドア・ルーズベルトは非常に共鳴をして支援をしたわけです。アメリカの国家政略というのは、だいたいこの方針で今もずーっと続いてます。狙いは中国です。現在もいかに中国を彼らが狙っているかということをまず頭においていただきたい。

対メキシコ謀略
そしてまた、建国の時にインディアンを殺し、奴隷を買ってきて労務に服させて出来たアメリカには、その同じ魂胆がいたるところに引き継がれています。欺瞞と謀略によって次々と、土地を拡げていったその二、三の例を申しますと、まず、メキシコ。
メキシコの州にテキサスというのがありました。入植者であるテキサス人は独立を求めてアラモの砦に拠って叛乱を興したわけですが、テキサス共和国を宣言しようとする寸前にメキシコ軍にやられてしまいました。それを狙ったアメリカは、メキシコ軍は不埒な行動をとってアラモの砦をやったんだというような事にかこつけて、兵隊を出してメキシコ軍を追っ払ってしまった。そしてテキサス州を自分のものにしまいました。これが彼らの手です。同時にカリフォルニア州もこの手で取ってしまいました。

対ハワイ謀略―編入
次は日本と馴染みの深いハワイです。ハワイも彼らの謀略で取ってしまったのです。ちょっと内容を簡単に申しますと、カラカウアという国王がおりました。ハワイはもう独立国だったのです。ところがアメリカのいろんな手が延びてくるので、なんとかしなければというので、この国王がヨーロッパ旅行の途中に日本に立ち寄った。ハワイの将来を救ってくれるのは日本以外には無いというので、当時の明治天皇陛下にお願いをして、日本の皇族、宮様をどなたか将来女王になるべき私の娘のお婿さんに頂戴したいと(笑)こういうこと言ってきたのです。あっちの王家からお婿さんを取ったりお嫁さんを貰ったりするという事は、ヨーロッパではもう日常茶飯の事です。そこでハワイの王様が、アメリカがだんだん自分のところに押し寄せて来るという心配の末、日本に助けてもらう以外には無いと明治天皇陛下にお願いをしたわけです。日本の宮家からお婿さんを貰ってそのお婿さんに将来ハワイ王様になって欲しいという、もうほんとうに切実なる願いです。しかしながら日本としては、そう簡単には行きません。明治天皇陛下は、もの静かにお断りをなされた。これは当然です。
一方アメリカはなかなか手を緩めない。とうとうハワイに来て、なんだかんだ言って、アメリカの駐ハワイ大使が権力でもって憲法改正をしてしまった。ハワイの憲法改正は、今考えてみると、日本の現在の憲法とよく似ている点があります。どういうことかといいますと、ハワイの国王は象徴として国政に携わる。それ以上の権限は与えられない。大臣のすげ替えは、議会の承認を受けなければ国王はやってはいけない。そして最後に、ハワイの選挙は、お金持ちと、アジア系の者を除いた者で選挙をする。こういうことなんです。そうしますと、当時のハワイなんていうのは貧乏人ばかりですから、ハワイの民衆は国会議員にはなれない。アジア系の者を排除するという事は、当時40パーセントもいた日本からの移民日本人も議員にはなれないということです。そうしたら(笑)、国会議員は結局アメリカ人だけじゃないですか。アメリカ人が勝手にやった事に国王はサインだけして拒否権はない。国王は勝手に大臣をすげ替えちゃいけない。今の小泉総理が、田中外務大臣をすげ替えるかどうかなんちゅうどころじゃないんですよね。そういう憲法を押し付けた。そしてひどいことに、次の王女が即位に就いた後はとうとうこれを追っ払って、それでハワイを自分の州に編入してしまったのです。これがアメリカのやりかたです。

対キューバ謀略
もともとキューバはスペインの領地でした。キューバがスペインから独立したての時に、ちょうどアメリカで新しく作った軍艦メイン号がハバナの港で爆発、沈没した。それをアメリカは、これはお前たちがやったんだという口実で、兵隊を送って、結局キューバを自分のものにしてしまった。しかもその軍艦の爆破・炎上というのは、明らかにアメリカの仕業であったということになっております。軍艦一隻を犠牲にしてキューバを自分のものにした。パールハーバーを犠牲にして、アメリカの国家の世論をあげて大東亜戦争を始めたと似てるでしょう?そんなこと平気なんですよ。

パナマ運河の利権獲得
パナマ運河。アメリカは、大西洋と太平洋を繋ぐあのパナマ運河が計画されたという事を知ると、なんのかんの言いがかりをつけ、パナマの反政府の民衆を焚きつけて反乱を起こさせようとごちゃごちゃさせる。そこへ体よく、これを仲裁をするのだと言って、兵隊を送って、結局パナマという共和国をつくったその代償に、パナマ運河のあの領域の土地の権利を取った。これは大変ですよ。あのパナマ運河の土地を取るんです。うまい事考えるでしょ?これもアメリカの手口なんです。

対フィリッピン謀略―併合
さあ今度は、西の方に、中国に向かっていくためにじゃまになるのは日本です。日本をどうするか。まだ日本はちょっと手強い。そこでフィリッピンに目をつけた。当時フィリッピンは、アギナルド将軍がスペインと戦争をしていました。アメリカはこれ幸いとフィリッピンに口出しをして、そのアギナルド将軍を応援した。それでスペインを負かしてしまった。そこまではまあまあとしても、それから先がいけない。スペインを撃退した途端にくるりと手を返して、今まで支援、応援していたアギナルド将軍を罵詈讒謗(ばりざんぼう)、そのあら捜しをしてとうとうこれを追っ払ってフィリッピンを取ってしまったのです。これがアメリカの手口なんです。
まあそのほか申し上げる事もたくさんございますけれども、だいたいそんなことで、アメリカが過去からどういう手口でどんどん自分の勢力を西へ西へと拡張して来たかという一端がお解りと思います。

◇対日戦略は何か

ペリーの砲艦外交
さて今度は日本に対してはどうしようか、ということです。問題はこれからです。
 まず四杯の軍艦をつれてペリーが浦賀に来ました。これは武力外交です。この時の大統領はバルチモア大統領です。ペリーはバルチモア大統領の親書を持って日本の幕府に迫ってきたのです。もし言うことを聞かなければ、今回はたった四杯の軍艦だけれども、来年は五十隻の持ってくるよ。戦争も辞さないぞという脅し文句で日本の幕府に迫りました。日本の幕府としてはびっくり仰天しましたが、これにどうしても従わざるをえない状況がありました。その結果鎖国から開国になったわけで、よかったかも知れませんけれど、とにかく日本に対する出方はまずペリーの四隻による砲艦外交、武力外交です。

当時アメリカは二十隻ぐらいしか軍艦を持ってはいませんでした。それなのに、来年は五十隻持ってくるぞと脅かしたのです。そしてその時にペリーは“白旗”をお土産に持って来て幕府に渡した。われわれと戦ったら勝つわけがない、この白旗を持って降参して来いというようなことを言ったということですが、これに対して今、歴史家が「そんなことは無かったんだ」というような反論をしている人も居るようですけれども、とにかくそういう情勢であったのです。

対日忌避政策への変貌
 アメリカは日露戦争までは非常に親日的でした。それはなぜかと言いますと、非常に癪に触るロシアと対峙していたアメリカにとって、幸いなるかな、小国日本がロシアに対して宣戦布告をしてくれた。「これはもっけの幸い」といって日本を応援してくれたわけです。幸いにして日本は日露戦争には勝った。そのポーツマスの講和条件をセオドア・ルーズベルト大統領が日本に有利に仲介してくれた。このポーツマス条約で、それまではロシアにあった満州における権益を日本側がとったわけです。ところが、それからが大変なんです。タフト大統領に代わった。非常に親日的な態度を取りながら応援してくれたセオドア・ルーズベルトからタフト大統領になった途端に手の平を返すようになった。なぜかと言いますと、日本は満州の権益を手に入れたということはアメリカにとっては大変困る。ひとつは中国がよろしくない。今考えますと、大東亜戦争はもちろんですけれども、日清戦争以後いろんな点で中国が種を蒔いているのです。なぜかと言いますと、せっかく満州におけるロシアの勢力を日本が追っ払ってくれたのですから、中国、当時の清国は日本に感謝をしてしかるべきなのです。ところが中国の後ろにはアメリカとイギリスがあって、これをけしかけて、反対にこのタフト大統領は日本に対して中国に謀反を起こさせた。それで満州における鉄道の利権をアメリカは金で買おうと日本政府に持ち込んだ。日露戦争でトコトン貧乏、借金だらけの日本国としては満州国の利権中の鉄道をアメリカが買ってくれるなら、こんないいことはない、という訳で政府は朝議一決、これを売ることに決めた。その途端にアメリカで講和条約を結びに行って、やっと任務を終えた小村寿太郎が帰って来た。そのことを聞いて幾百万という日本の同胞が血を流して購った満州国の権益を金で売るとは何事ぞと言うので、カッカと怒りましてとうとうこの小村寿太郎の意見に日本政府も負けまして、せっかくアメリカと満州の鉄道の権利を売買しようとして、もう、仕掛けてもう一歩というところで小村寿太郎のためにこれをキャンセルさせられてしまった。面白くないのはアメリカです。その恨みが残っているわけです。

 それからというものは、アメリカは手を変え品を変え日本に対してあらゆる妨害を始めました。
そのひとつの例は、サフランシスコの教育委員会が、当時その地にあった公立学校から日本の子供たちをしめ出したことです。やがて日本からの移民を禁止しました。移民禁止法を作って日本人はアメリカにも移民させない。さらに関税をベラボウに高くもしました。それやこれやでそれからなお、ペリーが浦賀に来た時はたった四杯の軍艦でしたが、これは黒船でした。見たところ黒いから黒船です。今度はこの時代になると、アメリカの大西洋艦隊が十六隻の軍艦をもって、日本の近海に来て威嚇行動をやった。これはペリーの黒船事件に対して「白船事件」と称しております。黒船は四杯でしたが、十六杯の軍艦で日本の近海に来て、アメリカの大西洋艦隊が射撃こそしませんでしたが、威嚇する行動をとったのです。

国際連盟の脱退
 つぎに、ウィルソンという大統領の代になりますと国際連盟というものをつくりました。今の国連とは違います。国際連盟をつくっておきながら、アメリカはこれに正式に加入はしていない。ただ、つくって偉そうに諸国に威張っていたのです。
第一次大戦後の1919年、国際連盟が提案されたパリ講和会議で、日本は人種差別をなくそうという提案をしました。その背景には、先に申しました日本人へのアメリカの人種差別があるわけです。この提案には大多数の国は賛成したのです。それで決まったかと思ったらそうじゃなかった。ウィルソン大統領は議長の権限をもってこれを否決してしまいました。こんなことってありますか。出だしがこうでしたので、アメリカは国際連盟には加盟しなかったのです。1933年には日本も満州国否認決議に抗議して国際連盟を脱退します。日本の孤立化がこの辺りから顕著になってまいります。

ABCD包囲網の強化
 それから後、みなさんがご存知のABCDの包囲網です。
アメリカは関税をうんと高いことを吹っかけて来たりなんかして、日本に対して経済的に制限をするようになる。石油はだんだん制限される。石油が制限されると、日本の工業、特に軍需関係では大変なダメージを受けます。そこで日本はその代わりにこの南方の油田地帯に頼らざるを得ないということになって、オランダ政府と交渉を始めたけれども、このオランダというのが後ろにアメリカ、イギリスがついているわけですから、これは全然問題にされなかった。そこで南部仏印ですね。仏領インドシナ、これはフランス総督の権限内でございますから、フランスの出先機関といろいろ交渉して、南部仏印の協定を結んだ。これがまたアメリカとしては非常な痛手です。日本を、石油を制限をして困らせてやろうと思ったところに、日本はこの南方仏領インドシナに行って向こうから石油を取ろうとするのだから、アメリカとしてはいろいろ困ること。そこでアメリカは怒っちゃって、とうとう石油を、輸出を、止めちゃった。ABCDというのはもちろんご承知の如く、Aはアメリカ、Bはブリティッシュ・イギリス、Cはチャイナ・中国、Dはダッチ・オランダ、この四カ国が揃いも揃って談合して、日本をギュウギュウ詰めに経済封鎖をしちゃったのです。これはひとつの宣戦布告と同様ですよ。あとで東京裁判の時、インドのパール判事がこのことをはっきり言っております。この経済封鎖は明らかに宣戦布告だということを言ってくれています。

日英同盟の廃止
 もうひとつの悪いこと。日本とイギリスは日英同盟を結んでおりました。それで日露戦争の時はこの日英同盟のためにどれだけイギリスが日本の味方をし、日本のためにやってくれたかということ。これはアメリカにとってもっての外なんですね。それであの手この手でとうとう日英同盟を廃止させちゃったのです。日本としてはまことにこれは残念ことです。しようがないんですね。

ここでアメリカとしては、ふたつの目的を達したわけです。ひとつは、マハンが西進政略のための最終は中国だよ、と言った。この中国はさっき言いましたように、満州の権益を日本が取り返してくれたにも拘わらず米英の尻押しで日本に反逆をしてきた。日本の中国に対する策略をここで中断している。と同時に日本を孤立化する。こういうことです。これがアメリカの狙いだったのです。

 話は余談になりますが、一昨年でしたか、東条大将の孫さんの東条由布子さん、みなさん方もご存知だと思いますが、東条由布子さんが私のところへ電話をよこしまして、市ケ谷台の東京裁判を開いたあの場所はね、まァ、われわれはいろいろやったんですが駄目になって今縮小されて移転しているんです。あの市ケ谷台の中ですけれども。そこにイギリスのBBC放送から取材に来ていると。東条由布子さんは東条大将のお孫さんだから、ぜひあなたにお会いして現場を見せていただいて、またいろいろとお尋ねしたいと、こういうことなのです。東条由布子さんも困っちゃってね。私は昔の陸軍士官学校ですから、私が南方総軍の参謀を拝命した時に、当時、東条さんは陸軍大臣兼参謀総長であったんです。私は参謀になったという申告をするわけです。そして申告にいきましたら、陸軍大臣室と参謀総長の部屋は隣合わせになっていまして、「ただ今、大臣は陸軍大臣室においでになりますから、参謀長室でしばらくお待ち下さい」。やがて大臣室から出て来られた東条さんが、陸軍大臣の服装と参謀総長の服装が違うんですね。参謀総長は参謀肩章を付けておられるのです。それでこちらに戻って参謀肩章の付いた参謀総長の上着に着替えられ、私とお話された。その部屋が現在は無くなっているのですよね。縮小したために。まァ、そういったことについては私が現場を知っているもんですから、東条由布子さんは私に出て、イギリスのBBC放送の記者と会って説明をしてくれというわけです。で、私が行って会って縷縷(るる)説明しました、最後にそのイギリスのBBC放送の記者が私にこういう質問をしたのです。「大東亜戦争中にイギリスの将兵の捕虜を日本軍は非常に虐待したと聞いている。そのことについてお伺いしたい。」とこう来ましたから、私はカッとなりましてね、「アンタ、今ごろ何故そういう質問をするんですか? われわれは昔の日英同盟の時代に、あなたの国とは非常に親密にしかもお世話になった、その日英同盟のことを思い出し、今仲良くやろうといるではないですか。それに対して今ごろアンタ、そういうことを言って来るなら、私の方から逆に日本の将兵がいかにアンタの国の将校から、兵隊から虐待されたか実例を示して言いましょうな」とこう言ったらBBC放送の記者は黙ってしまった。まァ、とんだところで日英同盟を持ち出しましたけれども、それほど日露戦争時代は日英同盟のお陰であったと、その日英同盟をアメリカのために断ち切られちゃったんだ。

ハルノート無理難題
 いよいよ今度はハル・ノートが出て来る番ですね。
昭和天皇陛下は当時の九月六日の御前会議では最後の最後までが外交手段で、アメリカと何とか話し合いで、戦争を避けたいと。しかしこのようにだんだんやられてきたんではね、もうどうしようも無いと。そこで九月六日ですよ。十月の初めまでに外交交渉をやってやってやり抜いて、それで円満な解決が出来ればよろしいが、もしどうしてもと言うなら、十月一日にまた御前会議で平和か戦争かという話をしようということになったんだ。そこで木戸幸一あたりの意見で、東条なら何とか陸軍を押さえて、天皇陛下がこれほどまでに平和を愛しておられると、陛下の言うことなら東条は何でも聞く男だから、東条を総理大臣にしようじゃないか、ということで東条さんが総理大臣になったんですよ。総理大臣になったから戦(いくさ)をしようと言ったわけではけっして無いんです。東条さんはその時に、陛下の思し召しのとおり、何とか平和にこれをやってのけようという気持ちで首相に就任されたわけです。その時の天皇陛下は、九月六日の御前会議でああいう決定をされたけれども、これをご破算で、新たにここで東条内閣でもって和平の道を何とか拓いてくれよ、という陛下の御意志で、彼はなったわけです。御前会議の決議をね、ここまで変更されて昭和天皇は何とか平和の道は無いかということを。それでアメリカの大使の野村吉三郎大将は海軍の軍人ですから外交は皆目の素人です。それで来栖大使をさらに派遣して、野村大使と来栖大使ふたりでもってやってくれということでふたりの使節をアメリカに送られたわけです。その時の近衛総理は、太平洋上でルーズベルト大統領と和平の話し合いをしようということを持ちかけた。野村大使がそれを向こうのハル国務長官に言うたところが、ケンもホロロにこれを拒否された。日本が、先ほど申しました南部仏印に進駐したというところから、こじれにこじれて、それでハル・ノートが最後に出たわけです。ハル・ノートというのはこれは紛れも無くアメリカの宣戦布告です。それまでも、中国に出していた兵隊のみならず、警察も全部引き上げろとか、南部仏印も引き上げろとか、まァ、いろんなとてもじゃないが、日本にとっては我慢のならんことばかりを言って来たわけです。これは一説によりますと、ソ連のスパイがハル長官の後ろに居て、そういう案を書き立てたという。これはウソか本当か分かりませんが、そういう話すらございます。ソ連の謀略にこれも引っかかったと。それでハル長官はこの「ハル・ノート」という言葉は使って欲しくないと、こう言うた。というのもその背後にソ連のスパイがハル長官を牛耳っておったという、まァ、噂もある位です。当時の日本の外務大臣の東郷外務大臣は軍人じゃありませんよ。外交官の外務大臣ですよ、もちろんね。この東郷外務大臣ですら、ここまで日本はやられたらもう戦争する以外には方法無し、とここまで言われている。

真珠湾の謀略
 それでいよいよ真珠湾になりますが真珠湾は騙まし討ちであったという悪評を日本は持っております。まァ、そう言われればね、仕方ない点もございますが、真珠湾のあの事件の起こる前を見ますとけっしてそうじゃないんです。ルーズベルト大統領、今度はフランクリン・ルーズベルトですが、ルーズベルトは小児マヒですからね。いつも車椅子に乗っておった。そして二回大統領に当選してくる。二回目の大統領当選の公約はアメリカは戦争はしないと。こういう公約のもとに二回目の大統領になっております。ニューヨーク市内でもアメリカは戦争はきらいだ、戦争はしないんだ、と。ある大学へ行っての講演の中で「君たちや君たちの弟をヨーロッパの戦場に送るようなことはしない」ということも言っているわけです。そんなことを言っているルーズベルトがね、ヨーロッパ戦争でイギリスが盛んにアメリカに応援を頼む、頼むと言って来ている。アメリカはイギリスをどうしても困らせたくない。しかしアメリカ本国では戦争をしないと公約している。そこで何とか、アメリカの国民を戦争に向けて納得させる方法、手段は無いかと、それがいつも頭にある。それで思いついたのがマハンの戦略に添って、アメリカがそうやって、だんだんと西進して来て今、日本とぶつかり合っている。これをいい幸いと思って、真珠湾をオトリにしてアメリカの国論を戦争に引き立てていくのがいいということになった。そこであらゆる軍部との会議などにおきましても、何とか日本を先に一発撃たす方法を考えねばいかん、絶えずそればかりを考えている。そして結局はそういう会議をハワイの艦隊司令長官なんかには絶対秘密にしている。ハワイはだから知らないんです。その間にアメリカは日本の外務省の暗号電報は全部解読している。それでユタというヨーロッパ戦争に使った廃艦、軍艦の、もう廃止するような軍艦をまた塗り替えさせてね、それでハワイの沖にそれを浮かべて、擬装をさせて、これに日本が魚雷攻撃か何かにさらそうと思って、オトリ軍艦まで造って準備おさおさ怠り無しにしておる。そこでいよいよ野村吉三郎駐米大使も、もう日本の政府も東郷外務大臣が言ったように戦争をとる以外には方法無しというところまで来ましたので、野村吉三郎大将もあれこれ最後の外交を試みてみたけれども、ハル国務長官は一向に言うことを聞かない。まァ、その内にとうとうパール・ハーバーの奇襲攻撃が始まったわけです。日本からの宣戦布告は約一時間遅れて、野村吉三郎駐米大使からハル国務長官に届いた。ハル国務長官は暗号解読でみんなそんなことは承知です。「私の五十年間の外交生活で、こんな侮辱を受けたことはない。こんなことはとっくに分かっている。帰りなさい」。もうケンもホロロの挨拶であった。

  駐米大使館の失態
 何故遅れたかというのが問題です。 ここをちゃんとお話しておかねばなりませんが、騙し討ちということを甘んじて受けざるを得なかったのは、これは外務省の大なる過ちであった。駐米日本大使館には刻々と日本から暗号電報が送られている。宣戦布告に関する電報は何通かに分けられた最後の第十三通目に、宣戦布告のいよいよ電報が入ることになっていた。その十三通目の電報が入る時に、日本のアメリカ大使館は寺崎英雄という外交官が他へ転出するという、この送別会をやっていた。ワシントンのどっか市内の料理屋でね。そうしてやってる間に第十三通目の暗号電報が行っている。大使館は留守だと。あの暗号電報はね、入ったからといってすぐ見えるもんじゃないんです。暗号を翻訳して日本語にし、日本文からいったん英語に翻訳して、それをタイプに打って清書して、ハル国務長官に持って行く、こういうことです。相当時間を食うんです。居ないんだ、誰も。それで、送別会を終わって帰ってみたら、さあ、大事な宣戦布告の暗号電報が来ている。それをあわてふためいて翻訳をして、タイプを打って清書して、野村大使に持って行ったから、約一時間ほど遅れちゃった。それを野村大使が持って行く途中には、真珠湾攻撃がもう予定通り始まっちゃった。こういうことです。ですからこれはルーズベルトにすればもっけの幸い。日本は騙まし討ちをしたという、こういう口実が出来ちゃったんだ。そのでかしたのは日本の外務省であり、日本の駐米大使館なんだ。これはね、その後、日本の天皇陛下はじめ日本の国民にも何も知らされずに、口を拭っちゃったわけでしょう。その時の責任者は井口という大使館の参事官、奥村という書記官、これらは戦後、吉田内閣になった時に次々と外務次官になっておるんです。責任をとるどころじゃない。このね、乾坤一擲の大東亜戦争を直接火花をつけた真珠湾攻撃の宣戦布告のその電報を、一時間も遅らせたという責任を取っていない。今の外務省の裏金づくりとか何かという比ではないのです。国家の国益を損じ、国益を害し、この位日本が信用を落としたことはありません。

  「リメンバー・パールハーバー」の真相
 以上で、大体、大東亜戦争がどうやって起こったのであろうかというあらましがお分かりいただいたと思います。今日は大東亜戦争勃発六十周年の日にあたりました。このことだけはみなさん、知っておいていただき、ただし真珠湾攻撃が大東亜戦争の勃発であるということは、間違いでございます。それ以前に遡った、今申し上げましたいろんなことが重なり重なって、ついにこの真珠湾。しかも真珠湾攻撃はルーズベルト以下暗号電報ですっかり解読して承知していながら、ハワイの司令官には何にも言わずに、ハワイの基地を犠牲にしてアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」と言って戦争に駆り立てて欧州戦にイギリスのために参加したと・・・・これが真相でございます。しかもそのその中に中国の問題がからんでおるわけです。大東亜戦争が始まる前にアメリカはいろんな支援を蒋介石にやっておるわけです。ビルマのルートを通じて戦前からいろんな物資、弾薬、兵器を蒋介石に送っておる。シェンノート航空少将を派遣してアメリカの義勇兵と称して航空兵力を向こうに送っておる。技術屋を送って援蒋ルートの補強を努めている。蒋介石の顧問としてアメリカの専門家を送って、日本に対する戦略の指導をしている。それはアメリカが終局の目的である中国をいかにして我が手に入れようかとする魂胆です。これがね、裏に入っているわけです。まァ、大体以上を持ちましてこの大東亜戦争が何故起こったのだろうかということの開戦記念としてのお話を概略説明申し上げました。

●終戦前後の体験から

次は話を変えまして、私の戦地におけるいろいろな体験したことは今日は省略させていただいて、むしろ終戦の前後、実際私が直面し、体験をしたことについてお話を申し上げます。

東京大空襲
私が南方総軍から大本営に転勤しましたのは、終戦の年の三月六日でございました。その日、途中いろいろな目に遭いながら、東京に戻ってきました。その三日後の三月九日、その晩から三月十日の未明にかけて東京の下町付近が大空襲に襲われたわけです。私は南方の戦場でいろんなことを体験してきましたが、何か、その延長線のような気がしてなりませんでした。私は翌朝からすぐ現場に行きましていろいろ調査をし、見たりしましたがまったくこれはね、内地も内地、東京ですよ、その時に亡くなった方は約十万人。負傷した方々が約十五万人。焼けた家は約百万戸。その時焼夷弾を落としに来た敵の飛行機B29は延べ三百五十機、落とした焼夷弾二千トン。これでもって東京一面、火の海どころではない。これは阿鼻叫喚。・・・この状態については詳しくお話を申し上げる時間がございませんが、これを指揮した敵のカーチス・ルメイという当時少将、あとにこれは大将になっている、この男がね、昭和三十九年の秋、日本政府から叙勲の沙汰があって大勲位の勲章をもらってるんです。国際法を犯してまであれだけの日本に被害を与えた敵のルメイ少将、後の大将に対して日本政府が勲一等旭日大大綬章を授けておる。私が衆議院議員会館でお話させていただいた時に、これを国会議員の方々みんなが居並ぶ中で、私は申し上げました。日本政府はなんでこんな男に勲一等を出したのかと。だれがそれに対して栄誉を申し上げなければならないのか。アメリカの言い付けであったでしょうけど、それにしてもね、これほどの国際法違反したことに対してこいうことをやった、これだけをわたしは今日申し上げておきたい。今でもなんか変な人に大勲位がいっておるようですけれども、まァそれどころじゃァないです。まァ日本人同士がやる分には、まァまァ目をつぶってもしようが無いですけれどね。これだけの大犯罪人ですよ。ルメイ少将(は)。

原爆投下直後の広島
 それから八月には広島に原爆が投下されました。私はこの原爆の調査を命じられて、翌日の八月七日から約十日間広島に飛んで、もう、それこそ阿鼻叫喚、朝会った人が昼亡くなる、昼会った人が夕方には死ぬ、夕方に会った人は夜中に亡くなるという、生き残った人にはなるべく多くの方々にお会いしてその体験をお聞きするというなことから始まって、あの原爆ドームを見上げながら、毎日毎日、なんとも名状しがたいあの広島の町を私はうろちょろうろちょろしておりました。

そのいろんなことについても今日は省略いたしますが、一、二例をちょっと申しますと専門的な大本営に対する報告は省略させていただき、ちょっと思い出だしますのは、テレビなどには出てこないことがひとつあります。それはあの炎天下に、毎日毎日亡くなっていかれる方、亡くなった方の死体を収容する人も来れない状況で死臭がふんぷんとしてくる、あの臭いですね、これが日を重ねるにしたがってひどくなってくる。これはテレビには映りません。

昔の日露戦争の時の広島大本営と言いました所が総軍司令部でありました。畑元帥が総司令官でね。総軍司令部は木造なんです。師団司令部はレンガ造りでございました。レンガ造りの方はペシャンコになって、レンガが累々と積み重なってその中に生き埋めになった人が何十人もおるわけですが、それを救出する方法が無い。総軍司令部の木造の建物は、これはですね、ペシャンコにはならないんです。ギューっと傾いて柱との間には隙間がある。その隙間からそれこそ、何十人も這い上がって助かった方がおられました。分かりますか。日本建築の瓦造りと西洋のレンガ造りの建物とではこんなに違うもんかなァというのがひとつの感想でした。

朝鮮の宮様、これは韓国併合の結果、朝鮮の王家も日本の皇族と同じようにされまして、李金禺(金偏に禺)公殿下という私の先輩にあたる方がおられました。第二方面軍の参謀をしておられましたこの方が、朝八時十五分出勤の途中に原爆に遭って亡くなられました。その李金禺公殿下のお付武官をしておった日本の将校、これは責任を負って自決をされております(文責・松五郎注 吉成 弘大佐陸士37期 大分県出身)。

それから川の中から君が代の歌う声が聞こえました。あとで聞きますところによりますと、その子供はまだ小学生で広島市宇品の船舶司令部の参謀長馬場閣下の息子さんでした。当時は少将だった馬場少将が陸軍大学校の教官の時に私はその教えを受けたひとりでございますが、その馬場閣下のご長男が川の中でね、君が代を歌ってそれが最期でした。

いろんな申し上げたいことがあります。お陰で私は約十日間いろいろ居って、触ったりなんかしておりましたので、あとで白血病であるということを診断をうけました。しかし今は何でもないと思っております。原爆の話は申し上げますと、沢山あるんでございますが今日はこの位にしておきます。

厚木飛行場への占領軍進駐
次に占領軍が厚木飛行場に参ることになりました。何故私が厚木の飛行場に行く破目になったかということをまず申し上げておきます。
私は八月七日に広島に行って、八月十六日、終戦に一日遅れて東京に戻ってまいりました。この日に大事な電報が二通来ておったのです。その一通はアメリカ政府から日本の政府および大本営あての電報でございます。簡単に言いますと、マッカーサー司令官を連合国最高司令官に任命をしたから今後はマッカーサー元帥の言うことに従えという意味の電報がひとつ。もうひとつは、当時マッカーサー元帥はフィリッピンのマニラにおりました。マニラからの電報です。降伏文書受領のために必要な将官、ゼネラルを長とする使者をマニラに至急差し出せ。そのためにはかくかくであるという詳細な指令を書いた電報でございます。負け戦は初めてでございますから、大本営は上へ下への大騒ぎ。誰を派遣するかということです。結局は参謀次長の川辺虎四郎中将を団長として差し出すことに決定をいたしました。その随員としては陸軍から通訳を含めて七名、海軍からは六名、外務省関係は一名、こういう連中で行かれたわけですが、その時に私の課長の仲野好雄大佐が私を呼んで、「君はマニラに居ったことがあるし、ご苦労だが団員として行ってくれんか」と。「行け!」という命令じゃないんです。私は、白血病になって、その時は白血病ということは分かりませんでしたが、とにかく広島からね、ヨタヨタして帰ってきたばっかり。体の調子も悪いし、そんな降伏文書の命令受領なんかに行ってたまるかという気持ちもあったし、それで課長の仲野大佐に「他のことなら何でもいたしますから、これだけは勘弁してください」と言ったんです。「そうか」とそこは納得していただきました。

「厚木飛行場」とは一体どこ?
そうして一行は行って帰られたわけですが、帰って来た命令文の中に「進駐軍は陸軍の厚木飛行場に進駐する。よってかくかく・・・」。かくかくとはやはりここでも将官を長とする大本営・政府から代表を出せとこういう命令なんですが、肝心の「厚木飛行場」というのが地図を広げて天眼鏡で探しても見当たらない。ことは一刻を争う。恥を忍んで問い合わせてもらってはじめて、わが海軍最大級の「大和飛行場」であることが判明した。後日彼等の地図を見たら、確かに「大和飛行場」は「厚木飛行場」と印刷されているのを確かめましたが、こんなお笑いの一幕も、当時としては神経を尖らした一大事でした。

陸軍中将有末精三、厚木委員長に任命
さて、また大本営は、誰を派遣するかということでスッタモンダになりました。あれがいいだろう、これがいいだろう、しかし緊急を要する、結局は有末精三中将ということになったのですが、有末中将は元イタリアの駐在武官でムッソリーニと非常に仲がいい。だからアメリカの進駐軍を迎えるには不適任ではないかというような声もあったそうですが、結局は当時の内閣総理大臣、東久邇宮殿下のお声掛かりで有末中将が厚木の飛行場のいわゆる厚木委員と、これは有末機関とも称しておりましたが、厚木委員に任命されることになりました。そこで私の課長の仲野大佐が私を呼んだ。「君はこの前は他のことは何でもすると言うたな」と言うんです。で、僕はピンときたんです。仲野大佐にそのようなことを言われる前に、「ハイ、分かりました。私が参ります」とこうやったわけです。どうせそう言うに決まっていると思ってね。まァ、それで私が有末機関の一員として厚木の飛行場に進駐軍を迎えることになった動機でございます。

進駐軍受入れ準備
そこで最初の向こうの命令はですね、先遣隊百五十名がまず来るんです。それから本隊と一緒にマッカーサーが来る。それでミズーリ号艦上の降伏文書調印式があるわけです。最初の命令は八月二十三日に先遣隊が行くよと。マッカーサーは二十六日、降伏文書の調印式は二十八日だよという命令が来たんです。とてもじゃないがそんなことが間に合うわけがない。そこで河辺団長からマニラのマッカーサー元帥に電報を打って「十日間猶予が欲しい」と。「十日間なんてとんでもない駄目だ。三日間だけ猶予をやろう」と。先遣隊は二十六日、マッカーサーは二十八日、ミズーリ艦上の降伏文書調印式は三十一日だと、こういうことになったのです。二十六日、先遣隊。ところがわれわれがそういう命令をもらって厚木の飛行場に行くことが出来たのは、二十四日の午後なんです。何故か。厚木の飛行場は海軍の小園安名大佐指揮の下に「絶対降伏はしない、マッカーサーが来たら体当たりしてやるんだ」と気勢盛ん。毎日ブンブンブンブン飛んで宣伝ビラは配る、どうにもしようがない。そんなところへ敵が進駐して来ましたらね、アフガニスタンじゃないですが、立場上困るわけですよ。海軍当局は非常にこれを心配して、日夜鎮撫に努めたけれども、言うことを聞かないんです、小園大佐は。それで海軍の高松宮殿下を煩わせましてやっとこれを鎮圧できたのが、二十三日なんです。最初の命令どおり二十三日だったらとても先遣隊がきて貰ったら困った。二十三日にやっとそれが解放されて、二十四日、翌日の午後われわれは飛行場に行きました。二十八日の先遣隊到着まであと二日しかない。とても間に合うわけがない。飛行場に行きましたら、もう電話線は切られ、窓ガラスは壊され、飛行場内のまだ焼け残りの飛行機が燻っておる、戦場の飛行場さながら。水圧がないから便所がみんな糞詰まりになって四周がこれはふんぷんたる臭気。それを有末中将の同期生の鎌田詮一副委員長が先頭になって便所掃除。われわれももちろん一緒に便所掃除。先遣隊が来るについて、そこに寝泊りするのに寝台はどうするか、敷布をどうする、枕はどうする、食事をどうする、こんなことでテンヤワンヤ。そうしたところが、台風が沖縄方面で発生した。これこそ天佑、台風のためにマニラから彼らは一時停止。四十八時間の延期をするという命令が来た。本当にこれは天佑でございました。ここで結局は先遣隊が二十八日、マッカーサーは三十日、ミズ−リ号の降伏文書調印式は九月二日と決定をしたわけです。このためにわれわれの任務を達成できました。

私の任務
私の任務は、私は通信関係を担当することになりまして、ひとつは大和飛行場の中の有線、無線の設備。マッカーサーは厚木の飛行場から横浜やがて東京に来るわけです。ですから厚木の飛行場と横浜、横浜と東京、この有線、無線の設備をする。最後にもうひとつは、アメリカとの放送無線施設ですね。これをやれというのが私の任務でございまして、これを担当しているアメリカはダンという大佐。ダン大佐。ところが、大本営としては何もこんな機材を持っていない。それで私と一緒に行きました当時の逓信省といいましたが、杉山栄蔵という局長さんにすっかりおんぶに抱っこをして逓信省から機材を出してもらってその設備をなんとかやりました。ただ残った問題はアメリカとの対米交渉施設、これは受信の場合はね、みなさんのご家庭のテレビでも何でも簡単な受信機に出来るんですが、放送設備となると非常に高い高度が必要となる。「とてもこれは出来ません」と私はダン大佐に言いましたら、ダン大佐が「あるじゃないか」。「どこにあるんですか」と言うと、地図を開いて厚木のいわゆる大和飛行場の近くに六会(むつあい)というところがある。あの六会に海軍の対空無線施設が、高い塔が立っています。それを彼らがちゃーんと知っているのですね。私は陸軍のことだけしか知らない。海軍のことはほとんど知らなかった。恥ずかしいながらダン大佐に頭を下げて「わかりました」と。それで六会の海軍の施設を利用することになって、何とか切り抜けた次第でございました。

先遣隊到着クリックすると大きい画像が表示されます
  それでいよいよ二十八日に進駐軍の先遣隊約百五十名がやってまいりました。彼らにしてみれば、占領でも、戦いを覚悟して来るわけですよ。ですから飛行場周辺は伊勢原にあった第三十八軍司令官の赤柴八重蔵中将の指揮する部隊で飛行場の周囲を、憲兵隊、海軍、そういう人たちであの周辺を徹底的に検査をしましてね、一軒一軒の家に銃器やいろんなものを隠してないか、不審な者はいないか、テロ事件の今の捜査と同じようなことを当時徹底的にやりました。いよいよ迎えた。迎える時は対空布板と言いましてね、ご承知の方も多いと思いますが、飛行場に飛行機の進入する方向に十字の印をつけるんです。風向きに向かって着陸をするのが通常です。この方向に布板を設けまして、そして私たちは待っていました。ところがやって来ました。この対空布板と反対方向から着陸をして、風を背中に受けて着陸をした。いかに警戒をしておるか。当然、日本はそうするであろうということはもう分かっているわけですよ。その裏をかいて着陸をしてきた。非常に警戒をしてきた。飛行機が着陸しますと、すぐ中からジープがスゥーッと下りてきましてアンテナを出して、対空、戦車相互無線連絡をとりながらです。先遣隊長は大佐で、チャ−ルス・テンチ大佐です。このテンチ大佐が降りてきた。そこで折衝が始まるわけです。(この時の写真はそこにございます。)

マッカーサー元帥到着
途中いろいろなことがございましたが省略しまして、いよいよ三十日はマッカーサーが到着する日でございます。もうそれまでは、徹頭徹尾、寝食を忘れるどころではないが、いろんな困難を押し通して、マッカーサーの出迎えの準備をいたしました。その前にテンチ大佐がマッカーサーからの電報が来たというので示してくれたのは、マッカーサーが到着した時の出迎えは「ジェネラル・アリスエ・オンリー」、「有末中将ひとりだけだ。あとの者は出迎えに及ばず」。われわれはもう、追っぱらわれちゃった。いよいよ到着の寸前になって、またテンチ大佐が「まことに申し訳ないが、有末中将も。ただ今のマッカーサーの電報によって、会見は新聞記者のみ。だから有末中将以下ほかの方たちはどうぞ横浜に先行してください」と言われることになった。後日、有末中将が日本を代表してマッカーサーを出迎えたというような記事が出ておったようですが、これは間違いでございます。マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降りてくるようなことは、みんな外人の写真でございまして、有末中将はその時はわれわれと同様に断られて横浜に先行しちゃってるんです。ただ、あの劇的な場面を全世界に報道するために、世界各国の報道陣がズラリと集まって準備をしていたところだけは私どもは見て、そのまま横浜に先行しましたから、その後のことについては私は目撃しておりません。

それで横浜に行きました。マッカーサーも後ほど横浜に来ました。神奈川県庁の二階の応接間を、われわれはお借りして事務所を開いて居ったのです。マッカーサーの宿舎を鈴木九萬という公使、あとでこれはあとで大使になられた方ですが、鈴木九萬さんが、ある日本人の偉い人の別荘を借り受けて、ここをマッカーサーの宿舎に決めておったのです。彼らはそんな手には乗らない。何もこっちは悪いことをしようとは思っていないんですけれども。それで横浜のグランドホテルに陣取ったのです。今でもあのグランドホテル、名前はどうか知りませんが、グランドホテルの三階か四階にマッカーサーの個室が今でも残っているはずでございます。それで彼らの総司令部は横浜の税関。やっと夕方落ち着きました。この世紀の行事の進駐軍を迎えた第一日は何らの血を見ることなくして、無事過ごすことが出来ました。

進駐軍兵士による治安撹乱
 ただその翌日から大変だったのです。まァ、ひとつ言いますとね。一番われわれの頭を悩ましたのは、兵隊たちは日本の婦女子をまるでケダモノ扱いのように、引っ張り込んで強姦ですよ、昼日中から。この訴えがわれわれの機関に毎日来るんです。一日に何件も来るんです。言ってこれない人、泣き寝入りの人もいるんです。親子であの黒人兵たちのために被害を受けた人たちも何組もあるんです。これにはホトホト困りました。負け戦というものはこういうものかなと。それで有末中将はアイケル・バーガー中将、第八軍参謀長のバイアス少将なんかにいくら掛け合っても「まァまァ、もうしばらく我慢しろ。彼らはジャングルの中から校庭のキャンパスに出てきたようなものだから、しばらく我慢してくれ。われわれの方でもよく取り締まる」。こう言いながら、あとが断たない。他のことはさることながら、この問題には非常にわれわれは苦労をいたしましたし、残念無念。

無血進駐成功の原因
 それで、何故にあの世紀の進駐が無血のうちに整斉と行われたかということについて一言申し上げたい。これはこのテンチ大佐が無事その任務を終えて、八月三十一日にアメリカのペンタゴンに栄転して帰られました。准将に進級された。その方が後日、有末中将に対して一冊の本を贈ってくれた。その本はアメリカの陸軍で発行している機関紙「インファントリー・レビュー」という雑誌です。この本を私どもは有末中将から見せていただきました。進駐当時のことを詳しく報告を書かれた最後に、こういうことを書いてあります。
「この進駐が血を見ることなく無事かつ整斉と行われたことは、まったく日本天皇陛下のの然らしむるところで、なかなか降伏を潔しとしない日本の陸海軍を一号令のもとに進駐受け入れに持って行けたのは、何よりもまして大元帥の大命が大きな原点であった」と。
もう、本当にね。彼らは最後の決死の覚悟で上陸してきたわけです。進駐してきたわけですよ。それで無事大任を果たして帰ったが、身命を賭して成功に導いた彼の心底からの言葉だったと思います。

ミズーリ号への使者出迎え
 いよいよミズーリ号の事に入りたいと思います。
ミズーリ号の艦上における降伏文書調印式は九月二日でございます。誰が全権で来るであろうかということは、政府、大本営、又これもね、誰も行きたくないんですよ、そんな所へは。いやあの人がいいでしょう、いやこの人がいいでしょう・・・結局決まりましたのは、全権としては、外務大臣の重光葵、同じく全権参謀総長梅津美冶郎。このお二人に対して陸軍側から三名、海軍側から三名、外務省関係から三名、九名の随員、それに代表が二人、合計十一名が決まったのは、前日の夜でした。しかも当日の朝は、六時に神奈川県庁に到着。しかも秘密裏に来られましたから、同行の新聞記者、カメラマンは一人もいない。我々は玄関でお出迎えをして、それで、我々の事務室となった隣の応接間に全権をご案内してまいりました。ここに全権団のお名前を挙げておきます。

<日本側全権団>
   全権、外務大臣 重光 葵   ( 政 府 代 表 )
      参謀総長 梅津美治郎大将 ( 統 帥 部 代 表 )
   随員 (陸軍側)宮崎 周一中将( 大 本 営 陸 軍 部 )
           永井八津次少将(     〃       )
           杉田 一次大佐(     〃       )
      (海軍側)富岡 定俊少将( 大 本 営 海 軍 部 )
           横山 一郎少将( 外 軍 省 出 仕 )
           柴  勝男大佐( 大 本 営 海 軍 部 )
      (政府側)岡崎 勝男  (終戦連絡中央事務局長)
           加瀬 俊一  (内閣情報局第三部長)
   ″       太田 三郎  (終戦連絡事務局第三部長)

 しばらくしましてからいよいよ、横浜埠頭から横須賀の沖合い十八海里にありましたミズーリ号に全権団が行くわけですが、横浜は海軍基地じゃありませんからね、横須賀なんですよ。横浜にはそういう送り出す船が一隻もないんです(笑)。それで我々としては、どうやって、この全権団を、無事ミズーリ号にお送りする事が出来るかという、またこれが問題なんですね、漁船でやるわけには行かない。相当おりますから。最後にアメリカの厚意によって、あるいは、彼らはそれを承知の上でやったかしれませんが、最終的にアメリカの駆逐艦ランスタウン号というのを一隻出してくれる事になってホッとしたわけです。ランスタウン号は横浜の埠頭に来てくれました。それに代表団が、丸腰ですよ。私は、武装解除で武器を出してからは、軍服を着なかったんです。親父の古い背広を着ておったんですが、日本はね、そういう事がある場合に軍服に軍刀がないのはおかしいでしょ。軍刀を吊らせなかったんですから。梅津参謀総長以下、陸海軍とも全部剣をはずして、ランスタウン号に乗って白波をけって沖に発って行かれる時・・・何という哀れな事であったでしょう。敗戦をしみじみと感じました。しかも重光外務大臣は、ご承知のように足が片一方義足なんです。上海事変の時にやられておる。あの重光大臣、特にミズーリ号のタラップの上がり降りをどうされるのかぐらいの心配もしておった。まあ幸いにして後から聞きましたら、アメリカの水兵さんが皆で担ぎ上げてくれたという事を聞いてホッとしたんですが、そういう状況でございました。九時四分に艦上の降伏文書調印式が行われました。(その文書のコピーを、ご参考にちょっと御覧ください。その訳文もそこに書いてあります。)

調印式終了後の大事件
 ミズーリ号艦上の降伏文書調印式も無事終了しまして一行がお帰りになりました。昼食の用意をしておったけれども、一刻も早く天皇陛下に復奏せねばいかんという事で急遽東京にお帰りになりました。ところが、その後が大変なんです。さっき申しました鈴木九萬公使が横浜終戦連絡事務所長でございましたが、サザーランド参謀長から布告文の写しを貰って帰って来て、あわてて有末中将のもとにやって来られた。明日の十時を期してこの布告文を日本国民に提示をするんだという事で、布告文案を三通持ってきた。その第一番目は、これからの交渉等は英語をもってする、と。これは当然です。第二番目は「ポツダム宣言、今日の降伏文書調印のその内容、これから出されるマッカーサー司令官の出す命令等に違反した者は、軍法会議に処する」と。これもまあしょうがないですよね。第三項が問題なんです。第三項といいますと、「これからの日本の通貨は軍票をもってする」。軍票――ご承知の方も多いと思いますが、軍票というのは日本も南方においては使いました。これは金(きん)の裏付けの無いただお札のような印刷をした紙切れです。これをもって今後日本の通貨とする、日本の国内はその紙切れでやれということです。これは大変です。それでなくとも終戦の混乱、経済混乱に加えて、さらにこの軍票を使われたならば、日本の経済はどうなるんだろう。しかもそれは明日の午前十時を期して、日本国民に布告文を出して、そうすると日本国天皇ならびに日本国政府の頭越しに、マッカーサーの指令がこれから出されるという事なんです。これはポツダム宣言にも違反するんです。ポツダム宣言はね、無条件降伏じゃないんです、日本は。無条件降伏というのは、あのポツダム宣言の第十三項にあります、陸海軍軍人だけなんです、無条件降伏をしたのは。他は皆条件付なんです。ドイツと違うのはこの点です。ドイツは全面的な無条件降伏。日本はそうではないんです。陸海軍軍人だけが無条件降伏で、武装解除をしてこうこうだと。他の十二項その他補足文書はみな条件が付いております。これを打ち破ってマッカーサー司令部から直接日本の天皇、政府を頭越しに出されたのでは、大変ですこれは。それで有末中将と鈴木九萬公使は急遽協議をしてまずこのことを、東京の政府及び大本営に至急連絡を取ると。それで随員の一人だった岡崎勝男、これは後の外務大臣です。岡崎勝男さんにすぐまた横浜に引き返してもらって、マッカーサー司令5狽フサザーランド参謀長と交渉してもらった。なんとかこの案を延期してくれと、こういう交渉したんです。交渉しましたけれども、まあ考えておこうという程度で押し切られた。そこで有末中将としては、重光大臣にもう一度横浜に来てもらおうということになって、翌朝重光葵外務大臣にもう一度横浜に来てもらいました。そしてあのホテルの中のマッカーサー司令部と一時間あまり直接談判。当時はマッカーサー司令官と会える人はこうこうだと、会う時間はこうこうだと、非常な警戒をしていた中で、重光大臣は、単身乗り込んで、談判一時間余にして、この布告文を全部撤回してもらった! その決死の覚悟の交渉、重光大臣だけではありません。岡崎勝男委員(後の外務大臣)、有末中将その他の方々、本当に当時はね、進駐をして来てから間もない厳重な警戒、物騒な状況の中で、命を賭してこの交渉に成功して、日本の危機を防いで下さった。この事をね、どこの新聞も書いておりません。もしあの事がなかったらと思うとゾッといたします。この大事件を思う時、先のテンチ大佐の文章ではありませんが、我々としましても、決死の御覚悟であの終戦処理をなさり、決死の覚悟でマッカーサー司令官に九月二十七日にお会いになられて、マッカーサーに「我が身はどうなってもいいから国民を救ってくれ」と、こう仰られた陛下のお気持ちの万分の一にでもお添いし、報い奉ることができたことを、神仏の前にほんとうに感謝の真心を捧げたい。

全権重光葵外務大臣は、次のように述懐しておられます。
「日本の実権者となった占領軍に対してはあらゆる媚態を呈し、屈辱を恥としない様になった。政治家も実業家も総司令部と直接連絡をつけて自己の進退、自己の仕事に有利に働こうとした。戦犯指名を免るる為に政治家も軍人も競って平和主義者となった。昨日まで軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻す如く占領軍を謳歌し、軍部及過去の指導者を攻撃し始めた。終戦直後の昨今の状況程情けない日本の姿は又とあるまい」

今の日本政府でほんとうに命を投げ出して、国難、国益の為に命を捧げてくれる人が何人おられると思いますか。これを考えますと、私は今の日本政府の為政者達に対して、あの終戦直後、本当に身を挺して国益の為に働いて下さった先輩達の、爪の垢を煎じて飲んで欲しいと、こう思います。

●現代日本を毒しているのは何か


 それでは最後の約十分で、締めくくらせていただきます。
現在の日本の状況を皆さまはおわかりのようにいろいろな問題が出ております。教育の問題、憲法の問題、領土の問題をはじめ、何だかんだたくさんあります。あっちを叩けばこっちが起こり、こっちを叩けばそっち、そっちを叩けば・・・という具合に。ここで私どもが考えなければいけませんのは、個々の問題のみに囚われてはいけないということです。これらは皆、関連があるわけです。日本に今そういう害毒を流しているのは、何であるかという根本を掴まえてみましょう。

私はこれを三つの事に要約いたします。その一つは、コミンテルン世界共産党の影響。第二は占領政策すなわち東京裁判史観。もう一つはフリーメーソンという陰謀。この三つ、しかもこの三つはそれぞれ関連を持っているわけですが、だいたいこの三つに絞って、これが日本を今害している根底であると、こう思います。

コミンテルンの洗脳
コミンテルンはご承知のように、世界共産党。大正十一年にソ連でもって世界各国の共産党の連中を集めて会議を開いた。そこで初めて日本の共産党も行って、日本共産党はコミンテルンの東京支部という名前を貰って、その後コミンテルンの指令を受けて、「日本支部、君達は天皇制の打倒、これをやれよ」と言われた。それをいまだにやっている。表面はいろんな体(てい)の良い名前を使っているけれども、日本共産党はその本質においてなんら変わる事はありません。それが証拠には、今日本の政党は、自民党だ、自由党だ、民主党だ何だと、訳の分からないのがたくさん出来ておりますが、共産党だけは名前を変えない。なぜか?コミンテルンに加入する時の第十七条で、名前を変えちゃいけないということになっとるんです。だから共産党、後生大事に、今はもうコミンテルン、コミンフォルム、なくなっておるのに関わらず、レーニンの教えを守り通しておるわけです。

そのレーニンの教えとは何ですか? 欺瞞、虚偽、人を騙したり、嘘をついたり、法律違反をしたり、これを平気でやらなければ革命は出来ないよと。だからソ連の様子を見てごらんなさい、条約を何度結んだってそんな事は知っちゃいないという状況でしょう。それはレーニンの教えですよ。そういうことをやらなければ革命は出来ないよと。それから、青年たちに国家に対する愛国心を失うように仕向けろと、これがレーニンの教えです。だから今でも共産党は、なんぼ規約を体の良い字句に変えたってダメなんです。今、青少年問題で非常にご努力して下さってる方々多いんですが、日教組というものを前衛に使ってね。日本の国会を見て下さい。日本の国会では、国旗国歌の法律が出来たって日本の国会に国旗が出てないんですよ。国会で、君が代は歌わないですよ。開会式に天皇陛下が臨御をされても共産党は、席が空っぽなんです。これがレーニンの教える天皇制打倒。今は君主制の廃止とかいって体の良い事を言ってますが、結局は天皇制の廃止。この表れに他ありません。その他推して知るべし。

占領政策(東京裁判史観)
第二番目の占領政策、すなわち東京裁判史観。これも簡単に申しますと、東京裁判史観というのは東京裁判で決議された事を本当だと思い込んでる思想が、東京裁判史観でございます。その東京裁判で、やられたこと、やり方、みんなこれはデタラメですよ。国際法違反。現在の世界各国の憲法学者は、全てこれに対して反対を唱えております。その最初に東京裁判の反対を唱えて、日本無罪論を呼びかけたのがインドのパール判事です。このあいだ箱根のパール判事の記念館にお参りをして来ました。あの東京裁判の、なぜこの裁判を作ったかという第一条にこういうことが書いてある。「極東に於ける、重要な戦争犯罪人を審理し処罰する為に、この国際裁判が設けられたんだ」という事が書いてあります。「極東に於ける」ですよ。日本人に於けるではないんです。極東に於ける、重要な戦争犯罪人を審理し処罰をする。極東に於けるそういう連中は誰かと。東条大将でもなく誰でもありません。それは先程申しました、原爆というものを、広島、長崎に落とし、東京大空襲をはじめ日本の主要都市に対して、六十数万の無辜の民を殺したアメリカでしょ。その重要な戦争犯罪人はルーズベルトであり、彼の死後大統領になって原爆を落とす指令を出したトルーマンですよ。これを僕は第一号に出すべきだと。第二号は、中立条約を無視して満州、樺太、千島列島に終戦後大軍を擁して、関東軍彼ら六十数万の人を拉致し、六万数千名の命を落とし、樺太だけでも十数万の無辜の民を殺し。あの電話交換手、真岡の九名の女子電話交換手。いわゆる北方領土から千島、これらは未だにね、ああいうザマになっております。それをやったレーニン、フルシチョフ、もう一人スターリン、これらは戦犯の第二号と。こう私は定義づけたいと思います。

フリーメーソンの陰謀
第三番目のフリーメーソン。フリーメーソンというのは聞き慣れない言葉ですが、これは地下組織なんです。ユダヤの地下組織。武力をもってするのではなく、色々な思想戦をもって世界各国を統合しようと、こういう思想です。皆様が今お持ちになっているお札を御覧下さい。一万円札、五千円札、千円札、みな菊の御紋章が無くなっておりますでしょ。五千円札の如きは菊の御紋を真二つにわけて、そこにユダヤのマークが入っている。五千円札の裏、富士山の山中湖に投影している姿、あれは富士山ではないんですよ。ひっくり返して御覧下さい。富士山とは似ても似つかない、シナイ半島のユダヤの神を表しているあの山です。これをやったのが時の総理大臣中曽根康弘。大蔵大臣竹下登。この連中の時にこういうことにしたんです。アメリカのかつての国務長官のキッシンジャー、あれはフリーメーソンの大幹部です。キッシンジャーと中曽根氏は、非常に仲が良かったという、彼にはそういう一連の繋がりがある。その一万円、五千円、千円札の表側、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石、この方々は民間人でありながらヨーロッパ、アメリカに長い事居られて、やっぱりフリーメーソンの教育を受け、中にはフリーメーソンのメンバーになっている人もあるはずです。そういう人達が、今度は二宮尊徳とか色んな者に成り代って、あの札に現れて、しかも菊の御紋章が廃止をされて、ユダヤのマークが入っておると。これは彼らの狙い撃ちの的になっているという事です。それから先程の共産党の天皇制の破壊、天皇制の廃止、こういうことも、この地下組織の狙いの一つであります。どうかこの三つの事、これらをひっくるめた策略、これらのことを根絶するべくやらないと、個々の問題をいくら取り上げてもダメです。

●日本民族にふさわしい憲法を


それを根絶するための手は何か。私は結論を申し上げます。憲法を直さなければいけない。憲法改正ではないですよ。改正というと共産党や社民党は、改正であっても悪い方に悪い方にとやっていくわけですよ。改正ではないんです。私は昔から日本の憲法は、横書きの翻訳憲法でなしに、縦書きの日本古来の伝統と栄光を表した日本民族にふさわしい憲法をつくり直すべきだと、同じ改正でも違います。そして国力をつけなければダメです。自衛隊は軍隊であるかないか、そんなことを今頃言っているでしょ。自衛隊は自衛隊、軍隊ではないんです。早く独立国家にふさわしい国家の軍隊をつくって、防衛庁を国防省に昇格をして国防をやらなければ、北朝鮮でも韓国でも中国でも日本の足元を見計らって、どんどん越境してきているじゃないですか。それに対して一発の弾も撃てないようになっとる。イージス艦という立派なあの性能を持った船。私、今年の六月十八日イージス艦をくまなく、中を見せてもらいました。あんな性能のいい軍艦を四杯も日本は持っている。台湾はこれを一隻でも欲しいとやっておるけれども、中国の妨害でこれが出来ない。アメリカとの同盟国でイージス艦を持っているのは日本だけなんです。四杯も持っているのに一回も今度は出せないんです。何のかんの言うて。私は六月に見学をした後の所感で、宝の持ち腐れですね、と言ってきた。なぜあんなものを、あれは一杯千二百億もするんですよ。四杯も持っている。出そうとしないんです。かくの如き国防の状態では、ますます外国から侮られます。日本の手の内が皆見透かされている訳ですから。ですから憲法を新しく制定をし直して、国防を強化しなければいかん。敵に侮られない程の国防は、どうしても持たなければいかん。独立国にふさわしい国防を。

以上をもちまして私の拙いお話でございましたが、終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
尚、どうぞ皆様方、私も同県人の一人としまして、この郷里の発展と、皆様方の御多幸を心から祈念申し上げまして、長いことありがとうございました。これで終わります。(拍手)


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