<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

新教科書読み比べ

日中戦争編


東京書籍

日中全面戦争
日中戦争の勃発

満州を支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入し、1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。
戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領しました。その過程で、女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件*注)。このような状況下で、蒋介石は、政府を漢口、ついで重慶に移して、日本軍に対抗し続けました。

*注:この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした。

抗日民族統一戦線

 中国では、国民党と共産党の内戦が続いていましたが、協力して日本に対抗しようとする共産党のよびかけにより、1937年9月に提携が実現し、抗日民族統一戦線が結成されました。
 日本は、国民政府にかわる親日政権の出現を期待し、これと和平を結ぼうとする声明を発表しましたが、中国民衆の抗日意識はいっそう高まり、日本の短期決戦の見こみに反して、両国が総力をあげて戦う全面戦争に発展していきました。


大阪書籍

日中戦争の拡大と国民生活
長期化する中国との全面戦争

 中国では、国民政府の蒋介石が共産党をおさえて統一を進めようとしました。そのため、共産党は、長征を行って華北の延安に根拠地を移し、毛沢東が指導者となって、日本の侵略と戦うことを中国国民に呼びかけました。このころ日本は、華北を中国から分離させようとはかり、北京郊外の日本軍を増強するなど、中国軍との対立を強めていました。
 1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針がまとまらないこともあって戦火は上海にも広がり、宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。国民政府も、共産党との争いをやめて抗日民族統一戦線を組織し、ともに日本と戦うことを決めました。
 日本軍は、各地ではげしい抵抗にあいながらも戦線を広げ、首都の南京占領にあたっては、婦女子をふくむ多数の中国人を殺害し、諸外国に報じられて非難されました(南京事件*注)。
 国民政府は首都を重慶に移して抗戦を続け、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連などの中国援助も活発になりました。共産党も華北の農村地域に勢力を拡大して日本軍に抵抗したので、日中戦争は長期化していきました。

  *注:南京事件は当時国際世論のはげしい批判をあびましたが、日本国民には知らされませんでした。そして戦後の極東国際軍事裁判で、その規模や犠牲者の実態がはじめて明らかにされました。

◇盧溝橋の事件について、日本と中国の考えのちがいは?
〈中国の考え〉
「このたびの事件の経過から見ても、日本が長いあいだよく考えた上での謀略の結果であって、平和はもはや容易には得られなくなった。」(1937年7月17日 蒋介石の談話)
〈日本の考え〉
「わが軍は、交通線の確保およびわが居留民の保護のため、真にやむを得ざる自衛行動に出たるにすぎず、もとより、少しも領土的意図を有するにあらず。」(1937年7月27日 内閣書記官長の談話)


教育出版

宣戦布告なき戦争――日中戦争と戦時体制
中国全土に広がる戦争

 中国では、国民政府と中国共産党との内戦が続いていた。共産党は、毛沢東の指導のもとに1万2000kmの大移動を行い、根拠地をイエンアンに移し、国民政府に対し、内戦をやめ、協力して日本に対抗することをよびかけた。これは中国国民の支持も受け、1936年、内戦は停止され、抗日運動が高まった。
 そのころ日本は、華北にも手をのばそうとしていた。1937年7月7日、ペキン郊外での日中両軍による衝突事件をきっかけに、宣戦布告のないまま日中戦争が始まった。
 日本軍は、戦線を南に広げ、シャンハイや首都ナンキンを占領して、多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領の際、日本軍は、捕虜や、子ども、女性などをふくむ多くの住民を殺害し、暴行を行った(ナンキン虐殺事件)。

抗日民族統一戦線  国民政府と中国共産党は、抗日民族統一戦線をつくって、日本の侵略に対抗した。国民政府はチョンチンに移り、アメリカ・イギリス・ソ連などの援助を受け、戦いを続けた。また、共産党の軍隊は農民の支持を得てゲリラ戦を展開した。日本軍の占領は都市とその間を結ぶ鉄道・道路をおさえたにすぎなかった。戦争は長期戦に入り、中国民衆の日本への抵抗はますます強まっていった。


日本書籍

日中全面戦争へ
宣戦布告なき戦争

 中国では、国民政府と、毛沢東がひきいる共産党との間で内戦が戦われていた。根拠地を延安に移した共産党は、一致して日本の侵略と戦うことを国民政府によびかけた。日本は、新たな資源と市場を求めて、満州から華北に手をのばそうとしたため、中国では抗日運動が急速に高まった。
 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際非難をあびた(南京事件 *注1)。中国の側では、国民政府と共産党との協力が実現し、両党は抗日民族統一戦線を結成して日本の侵略に強く抵抗した。日本軍は各地の重要都市を占領したが、国民政府は首都を奥地の重慶に移して抗戦をつづけ、占領地域でも共産党が農民の支持をえながら、はげしいゲリラ戦を展開した。 *注2。こうして、すぐに戦争に勝てるという日本側の見とおしははずれ、戦争は長期化していった。

*注1:日本人の多くは、この事件のことを戦争が終わるまでまったく知らされなかった。
*注2:日本軍は、1940年ころから華北の抗日根拠地をつぶすための軍事行動をおこなった。中国側はこれを、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦として非難した。


日本文教出版

日本の中国侵略
中国との全面戦争

 日本は、満州につづいて、そこからさらに南へ勢力を広げようとした。そのため、中国の抗日運動は、いっそう高まってきた。1937(昭和12)年7月、ペキン(北京)郊外の盧溝橋で、華北に駐屯していた日本軍は、中国軍と衝突した。これをきっかけに、日中戦争がはじまった。
 日本の戦線は、上の地図のように、中国の主要都市をはじめ、各地に広がっていった。日本軍はナンキン占領のとき、大ぜいの中国民衆を殺していたが(南京虐殺事件)、日本の国民には知らされなかった。
 中国では、戦争が始まるとまもなく、国民党と共産党が協力し(国共合作)、抗日民族統一戦線が結成された。ナンキンを出た国民党は、本拠地をチョンチン(重慶)に移し、アメリカやイギリス・フランスなどの援助を受けて、抗戦をつづけた。
 日本は、広大な中国の中で、点と線にあたるおもな都市と鉄道を占領したものの、中国軍と民衆のはげしい抵抗を受けていた。日中戦争は、終わりの見通しのつかない、泥沼の戦争と化した。


清水書院

日中戦争と戦時体制
日中戦争

 満州国の実権をにぎった日本の軍部は、さらに華北を侵略した。1937(昭和12)年、北京郊外で日本と中国の軍隊が衝突した。事件後、現地軍や陸軍内部で拡大派と不拡大派が対立していたが、政府の和平交渉も失敗し、全面戦争へと戦火はひろがっていった(日中戦争)。
 当時内戦をつづけていた国民政府と毛沢東の指導する中国共産党は、日中戦争がおこると、抗日統一戦線を結成した。日本軍が華北の要地や南京・広州などを占領すると、国民政府は首都を奥地の重慶に移し、アメリカ・イギリスなどの援助をうけて抗戦した。その後日本軍は、戦線を拡大し、やがていつ果てるともしれない長期戦となった。

日本軍と中国民衆
日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・女性・子どもまでふくめた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせたこのときの死者の数は、多数にのぼると推定されている*注。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。
*注:このときの死者の数については、数万人、十数万人、30万人以上などと推定されている。


帝国書院

日中戦争のはじまり
日中戦争

 国際的に孤立するなか、政府は日本につづいて国際連盟を脱退したドイツに接近し、アメリカ・イギリスとの対立を深めていきました。また、日本軍は満州(中国東北部)の獲得だけでは満足せず、資源のゆたかな中国北部にも軍隊をすすめました。
 1937年(昭和12年)7月、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争がはじまりました。日本軍は中国の南部から侵攻し、上海や、当時首都であった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本の蛮行」と非難されました(南京大虐殺)。しかし、このことは、日本国民には知らされていませんでした。
 このとき中国では、国民党の蒋介石と、中国共産党の毛沢東とが対立し、内戦がつづけられていましたが、日本に対して共同して戦うという抗日民族統一戦線をつくりました。中国政府は、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の援助を受けて抗戦し、戦線は広がり、長期戦になっていきました。日本軍は、中国の大都市と鉄道を占領していきましたが、それは点(都市)と線(鉄道)支配にとどまりました。


扶桑社

日中戦争
盧溝橋における日中衝突

関東軍など、現地の日本軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配の及ばない親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし、蒋介石は重慶に首都を移し、抗戦を続けた。


扶桑社(修正前)

日中戦争と翻弄される日本
盧溝橋における日中衝突

関東軍など、現地の日本軍は、満州国を維持するために、隣接する華北地域に親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件が起こった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。 同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した。ところが、蒋介石は重慶に首都を移し、戦争は長期化していった。


◇日中戦争について考えるためのサイト紹介◇

●高校生のための日本史講座 <十五年戦争期> No.137 日中戦争
http://www.melma.com/mag/65/m00010265/a00000097.html

●帝国電網省
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/

・仕掛けられた「日中戦争」――廬盧溝橋事件の真実溝橋事件の真実
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/no_frame/history/honbun/rokokyo.html
・日本は「中国侵略」等していない!!
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/no_frame/history/honbun/chugoku_shinryaku.html
・「日本軍国主義」の象徴――「南京大虐殺」などありえない!
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/no_frame/history/honbun/nanking.html
・シナ人がさけて通る恥部――通州事件
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/no_frame/history/honbun/tsushu.html

●国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_index_frame.htm
015 先入観を打破する定量的検証を
 南京事件犠牲者数の定量データを分析すれば、中学生でも嘘が見破れる。
028 平気でうそをつく人々
 「百人斬り」の虚像
079 事実と論理の力
 南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。
081 松井石根大将
 南京事件当時の司令官だった松井大将は古くからの日中提携論者だった。
140 汪兆銘〜革命未だ成功せず
 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の幸せのために

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