立田山 (熊本市)


南側からの立田山遠望。

 このページでは、熊本市の立田山ならびに乗越ヶ丘の各種登山道、立田山憩いの森についての紹介を行っています。


 立田山(たつだやま、たつたやま、151.7m) は、熊本市のおおむね真ん中あたりにそびえる山で、「山 mountainというよりも、むしろ丘 hillでは」と言われそうな標高差ではあるが、意外なことに、孤立的な火山である。市内の各所から仰ぐことができ、市民に親しまれている。阿蘇山と同じくカルデラ式火山である金峰山の外輪山(熊ノ岳など)の生成と同時期に形成されており、安山岩質の集塊岩からなる。 立田山断層は,立田山北麓から熊本市市街の中心を北東から南西方向に斜断し,高橋町方面に延びる活断層である。

 古くから人間が居住していた場所で、縄文・弥生時代の遺跡や遺物が出土している。立田山の周辺とくに南・西の山裾には,考古学的遺跡が多い。熊本市立田口陣内,黒髪町字留毛,下立田地区などにある円形古墳群,横穴式古墳群,縄文期,弥生期の土器・石器などがそれである。字留毛神社古墳群から東に,字留毛小磧橋際横穴群つつじが丘横穴群浦山第1,第2横穴群など立田山南麓の大横穴群がある。6世紀後半にわたる古墳時代後・晩期に属するものである。とくに浦山第1横穴群は出土遺物および横穴の構築様式から7世紀後半のものと推定されている。小円墳は,立田山山麓台地上に集中し,横穴鮮は浦山を中心に山麓の斜面に集中している。古墳時代から後の古代社会で多く使用された須恵器の出土遺跡は,立田山山麓の水田直上台地に点在している。

 立田山は、かつては黒髪山と呼ばれていたが、平安時代の寛和2年(986年)に、『枕草子』の著者の清少納言の父親である清原元輔が肥後守として赴任してきた際に奈良の龍田を偲んで命名したという。元輔は永祚2年(990年)に83歳で任地で没したが、その後、熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。

 江戸時代は禁制の山として伐採が許されず、うっそうとした森だった。立田山の北、乗越ヶ丘には、細川さんのお茶屋跡が残されているが、創建は寛永九年(1632年)以後で、九曜紋入り軒丸瓦(土山瓦)が発見され、十七世紀中頃のようである。代々藩主の放鷹や泰勝寺参詣帰りの休息所であったらしい。また、「記念誌黒髪」の黒髪年表によると、「寛永13年(1636年)立田山入山厳禁の制札立つ。寛永9年・立田山猪狩り,元禄3年・立田山猪多く作物を荒す。享保11年・立田山猪狩り,寛政元年・字留毛村立田山山潮,享和元年・山神明王の碑たつ(字留毛),文化7年12月・山神碑たつ,嘉永元年・立田山で猪狩り,明治元年(1868年)・明治維新」とある。なお、慶長年間に加藤清正が主君豊臣秀吉の徳をしたって,京都の方向に当る立田山の中腹に豊国廟を設け, 朝な夕な遙拝したという(現在の豊国台公園)。また、山麓の泰勝寺は寛永14年(1637年)に細川忠利によって建立され、細川氏の菩提寺として栄えた。

 明治期には、1891(明治24)年に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、Patrick Lafcadio Hearn)が立田山麓の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。五高の裏の、立田山の入り口にある小峯墓地の「鼻かけ地蔵」を、彼はとても気に入っていたという。その辺りの様子は「石仏」という作品に残されている。
 夏目漱石も、1896(明治29)年、29歳の時から4年3ヶ月間、五高で教鞭を執った。その折によく散策したということで、漱石の言葉の中に「立田の山は小さいが森はどこまでも深い」といった言葉も残されているらしい。『三四郎』には、以下のように顔を出している。

熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな竜田山に上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。

 寺田寅彦は漱石と同年に19歳で五高に入学し、漱石に英語を、田丸卓郎に数学と物理学を学んでいる。下宿していた柏木家は、立田山の泰勝寺の近くの茅葺きの平屋であった。彼の「夏目漱石先生の追憶」には、以下の一節がある。

その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。

寺田寅彦は明治31年に田丸卓郎のバイオリン演奏を聴いて自分でもやりたくなり、五月九日に八円八十銭でバイオリンを買い求め、竜田山で演奏を試みている。この逸話をモデルにした話を漱石は『吾輩は猫である』に書いている。
 森鴎外の『阿部一族』にも、細川忠利に関する記述に「二男鶴千代は小さいときから立田山の泰勝寺にやってある」と、立田山の記述が登場している。また、徳永直が戦後に発表した『白い道』にも、

町はずれへでて、歩きまわるうち、いつか立田山へきていた。百メートルくらいしかないけれど、樹立がふかくて奥行のある山であった。見はらしのきく頂上へきて、岩の上にひざを抱いてすわると、熊本市街が一とめにみえる。田圃と山にかこまれて、樹木の多い熊本市は、ほこりをあびてうすよごれてみえた。裁判所の赤煉瓦も、避雷針のある県庁や、学校のいらかも、にぶく光っている坪井川の流れも、白い往還をかすかにうごいている馬も人も、そして自分も、母親も、だれもかれも、うすよごれて、このたいくつな味気ない町にしばりつけられてるようにみえた。

という一節が描かれている。

 戦中・戦後は、伐採や開拓によりこの山の豊かな緑が失われ始め、その後植林などで一時期緑が復活したこともあった。立田山は,金峰山県立公園のひとつとして,熊本県立公園条例第3条により,1955(昭和30)年4月1日に指定された。1958(昭和33)年10月21日熊本県条令第45号「熊本県立自然公園条例」が公布され,そのまま金峰山自然公園となった。しかし1965(昭和40)年代の高度成長期の宅地開発により山の緑が深刻な危機に見舞われた。このとき「立田山の緑を守ろう」という県・市民の声に答えて熊本県と熊本市は公有地化して保全することを1974(昭和49)年度に決定し、22年の歳月を経て,1995(平成7)年度に整備完了したのが、「立田山憩の森」(生活環境保全林)である。また、2002(平成14)年に「立田山野外保育センター 雑草の森」が誕生した。

 現在、多くの植物が自生し、市民の憩いの場ともなっている。「立田山ヤエクチナシ自生地」は国の天然記念物となっている。哺乳類もニホンノウサギやニホンアナグマ、ニホンテン、ムササビやキツネなど18種ほど生息し、昆虫も豊富である。山域には、「立田自然公園(泰勝寺跡)」、「立田山豊国台公園」、「立田山実験林」「立田山配水池」などがある。


立田山山頂 /  立田山展望所

西側斜面の登山道

南側斜面の登山道(1) /  南側斜面の登山道(2) /  南側斜面の登山道(3) /  南側斜面の登山道(4)

東側斜面の登山道

北側斜面の登山道(1) /  北側斜面の登山道(2) /  北側斜面の登山道(3) /  北側斜面の登山道(4)

山頂から東へ延びる道

乗越ヶ丘・立田自然公園


南面からの立田山

立田山全図。

1948年の立田山。

1956年の立田山。

1962年の立田山。

立田山山頂

トンボ池

雪の日の湿性植物苑(2016.01.24)


森林総合研究所のホームページより。平成20年4月撮影。




熊本市のホームページより。

森林総合研究所のサイトより。

森林総合研究所でもらえる地図。一番詳しい。

朝焼けの立田山。

立田山と入道雲。


立田山山頂 /  立田山展望所

西側斜面の登山道

南側斜面の登山道(1) /  南側斜面の登山道(2) /  南側斜面の登山道(3) /  南側斜面の登山道(4)

東側斜面の登山道

北側斜面の登山道(1) /  北側斜面の登山道(2) /  北側斜面の登山道(3) /  北側斜面の登山道(4)

山頂から東へ延びる道

乗越ヶ丘・立田自然公園


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