特集「秀吉、越中平定」
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加賀藩史探訪シリーズ
秀吉の越中平定

 末森の戦いで、佐々成政に勝利した利家は、羽柴秀吉と織田信雄のあいだで小牧・長久手合戦の講和が結ばれるまでは、防備を強化するだけで積極的な攻撃態勢はとらなかった。だが、天正十二年(1584)十一月と十二月に、秀吉が信雄のみならず徳川家康とも和睦すると、あえて秀吉に越中征伐の出陣を嘆願した。利家は柴田勝家滅亡のあと、越後春日山の城主上杉景勝と同盟し、東西から成政軍を攻略する手はずを終えていたが、越中平定をより確実なものとするためと、今や、僚友から天下人となった秀吉の威光を重んじ出陣を要請したのである。

 一方、孤立した佐々成政は厳冬の立山連峰を越えて(さらさら越え)尾張と三河・遠州に赴き、信雄と家康に再度の決起を促した。しかし、両将にもはや戦意はなかった。やむなく越中に帰って利家と対決の時に備えた。
 利家と成政の戦いは、年が明けた天正十三年二月から始まった。まず前田軍が越中に攻め入り砺波軍郡の蓮沼城(小矢部市蓮沼)を攻めると、三月には佐々軍が前田方の鷹巣城(礪波市鷹巣)を襲撃し、四月には前田軍が鳥越城(石川県津幡町)を攻めて、五月には越中射水郡の阿尾城(氷見市阿尾)を落とした。すると成政は六月に入って阿尾城奪回のため、神保氏張を派遣してきたので、利家はこれを撃退し、阿尾j城主菊池武勝と誓書を交わした。
 
 秀吉が利家の要請を受けて越中平定のため加賀へ出陣してきたのは、天正十三年八月であった。秀吉は八月十九日に諸軍を加賀の津幡に集結させたが、このとき利家は先導役となって松任まで秀吉を出迎えた。甲冑の上の踝の下まで垂れた長い陣羽織を着用して道端にうずくまったが、その「刺繍菊鍾馗陣羽織」は、妻まつの手製だと言われている。この年四月十六日に越前北庄で丹羽長秀が亡くなり、嫡子の長重は若狭に転封されたから、北陸方面軍総司令官の地位は、この利家が担っていたのである。

 佐々成政は家康を介して七月に降伏を申し出ていたが、秀吉はこれを許さなかった。やむなく成政は領内の五十八箇所に砦を構えて討伐軍と戦う気構えを示していたが、八月初めにふたたび信雄を通して秀吉に幸福を嘆願した。秀吉が成政の降伏を許したのは八月二十五日である。成政はこの降伏によって越中一国を没収されたが、新川郡は残されて、大阪に移住するよう命ぜられた。

 かくして宿敵のライバル佐々成政を失脚させて越中を平定した利家は、加能越の太守となって、秀吉から旧姓の羽柴氏と、筑前守の受領名を譲られた。これ以降、利家は「羽柴筑前守利家」と名乗ることになったのである。その領内の内訳は、加賀松任で四万石を領していた嗣子の利長が越中の新川郡を除く三郡(砺波・射水・婦負)を与えられて守山(高岡市東海老坂)の城主となり、利家はこれまで通りの能登一国と加賀北二郡(河北・石川)が安堵されたのである。合わせて加賀・能登・越中三ヶ国にまたがる前田家の領国が形成されることになったわけだ。
しかも、佐々成政に与えられていた越中の新川郡は、天正十五年の九州遠征に従軍した成政が肥後国主に任じられたため、同年六月に還付されて前田家のものとなった。

 天正十四年三月二十日、利家は従四位下・右近衛少将に叙任された。越中が平定されると、越後春日山城主の上杉景勝が上洛して豊臣秀吉に拝謁することになったが、利家は天正十四年五月二十八日に倶利伽羅峠を越えた一行を秀吉の奉行石田三成とともに河北郡の森下(森本)で出迎えた。景勝は信長の滅亡後も柴田勝家と対立していたが、勝家亡き後は利家と同盟して越中の佐々成政を攻略していたのである。だから利家は景勝一行を金沢城に招いて歓待して、鍾愛の二男又若(利政)に、自慢の能を披露させた。

 さて、こうして北陸を平定し、四国の征伐を終えた秀吉が、つぎのターゲットとしたのは九州島津氏の討伐であった。
 
 
 
守山城址から、成政一行が「さらさら越え」した厳冬の立山連峰を望む
越中攻略の拠点、安田城址から秀吉が陣取った呉羽山白鳥城跡を望む
佐々成政の居城「富山城」




引用文献:森本 繁著書「北陸道の戦雲」より
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