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タイを語る

タイに関する掲示板への私の投稿集です。
1999 , 2000 , 2001 , 2002 , 2003 , 2004 , 2005 , 2006 , 2007 , 2008


(no title) / 7.23 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

今回の世界遺産登録がらみの紛争で、いくつか目新しい資料が手に入りましたので、ちょっと図を描いてみました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th5/kpv-dispute/index.html

【図1】
タイが原則として分水嶺に沿った国境線(黄線)を主張しているのに対して、カンボジアはフランスが1907年に作成した地図の示す国境線(紫線)を主張しています。今回問題となっているのは図のエリアBなんですが、なぜこれまでタイ政府がこのエリアをカンボジア政府の自由にさせていたのか不思議です(例:カンボジア側からのアクセス道路の建設、2003年)。報道されず一般には認知されていない政府高官同士の裏取引がいろいろとあったのだろうと考えざるを得ません。

ちなみにエリアBの両隣には、両国共に領有を主張しない(立場上主張できない)「空白のエリア」AとCがあります。ここを例えば第三国あるいは第三国人が陣取ったとしたら、タイ政府もカンボジア政府も関与できない事になります。実際にはタイやカンボジアの領土を経由してこのエリアに入ると両国の出入国法に抵触するので、合法的には領空権の及ばない大気圏外(宇宙空間)から垂直に降りてくる必要がありますが、そういう芸当はNASAやアメリカ空軍にもできないと思います。

【図2】
カンボジアが固執している1907年の地図ですが、等高線(赤線)を比べるだけでも実際の地形とはかけ離れている事がわかります。とても国境線の画定に使えるような代物ではありません。そもそもこの地図は一般的用途のために作られたのをカンボジアが50年後に国際司法裁判所に状況証拠(の一つ)として提出し、そのまま条約付随地図として格上げ認定されてしまったものです。測量も不十分だし、緯度・経度も不正確です。カンボジアはこの地図をカオプラヴィハーン高台の先端部分でマッチングして地図上の国境線を当てはめているわけなんですが、両隣の高台が既にズレています。地図をグニュグニュと非線形に変形する事によって広範囲でマッチング制度を高める事は可能ですが、そうして得られた国境線にどれほどの意味があるのか、考えるだけでも鬱陶しいです。

【図3】
で、これが問題の地図です。国際司法裁判所がカオプラヴィハーン寺院の領有にのみ判断を下し、国境線の画定については(カンボジアの要請にも関わらず)言及しなかったというのは、技術的に無理からぬ事でした。それにしても整合性や長期的展望を考えずに安易にカオプラヴィハーンをカンボジアに渡してしまって永劫にわたる紛争の種を蒔いた国際司法裁判所の判断は、もっと批判されてしかるべしだと思います。



(no title) / 4.01 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

本文の地名に原文の表記と現在の表記を対応させますと、
1.ノパブリー = Nophabury = Lopburi
2.カオ・コク = Khao Khoc = Khao Khok
3.サク山 = mont Sake = ?
4.ボアティウム = Boatioume = (Ban) Bua Chum
となります。#2は鉄道駅の名前にもなっています。#4は Chai Badan の上流9kmほどの位置にあります。

ムオがどの程度 Pasak 川を遡ったのかはわかりません。「ボアティウムの付近にはトラが多い」という記述がありますが、文脈からすると Bua Chum にも Chai Badan にも到達しなかったように思えます。

例の本では話が飛んでいますが、ムオは Khao Khok の麓の村に何ヶ月か滞在して付近を調査した後、当時のメインルートで山越えをしてコラートに行き(1861/01/23着)、そこからチャイヤプームに行きました(1861/02/28着)。チャイヤプームの知事にフランスのパスポートとバンコクの大臣の紹介状と「コラートの知事の紹介状」を見せたが支援を断られた、という一節があります。

バンコクに一旦戻った後の旅程は次のとおりです。
04/12発 Bangkok
05/16着 Loei
06/24着 Pak Lay
07/25着 Luang Prabang



(no title) / 3.28 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

アンリ・ムオの行程図に色をつけてみました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/mouhot/index.html

赤線が行程ルート、黄線が(現在の)国境とイサーンの境界、青線がメコンと Hueng です。19世紀後半に多くの西洋人探検隊が訪れる前の先駆的な探検なので、イサーンの河川網に誤認が見られるのは愛嬌です。

博物学者のムオはフランス人でしたが、フランスでは調査旅行のスポンサーが見つからず、結局イギリスの地理学会の援助を受けて1858年4月にロンドンを出航しました。同年9月にバンコクに到着し、以後ここをベースとして意欲的な調査旅行を繰り返しましたが、1861年11月にルアンプラバーン近郊でマラリアに倒れました(享年35才)。

その後、彼の残した日誌や記録を元にして、フランス語版(1863年)と英語版(1864年)の旅行記が出版されました。フランス語版は原文の強みはありますが、内容はかなり端折ってあります。英語版はムオのスポンサーだったイギリス地理学会が独自に編集して出版したもので、こちらの方が記述が詳細です。ちなみに日本語版(1942年)はフランス語版に沿っているようです。

行程を見ると、 M.Leuye (=Loei)から北西に向かい、Kenne Thao (=Kaen Thao)付近で Mm.Ouan (=Hueng) を渡っています。これは例のタイ・ラオス第二友好橋の近くです。おそらくこのルートは歴史的な交易路だったのでしょう。1965年の地図(添付画像)ではR204と記され(ラオス側はR1)、ルーイから西南に伸びるR203と同格な戦略道路だった事が伺えます。まだルアンプラバーンに国王が住んでいた時代です。その後、アメリカの撤退とラオスの共産化という流れの中でR204はR2115に格下げされ、しばらくは細々とした地元の交易と密輸ルートとしての役割を担っていました。

あの橋が開通して国境ゲートがオープンした事で再びこのルートが脚光を浴びそうな気配ですが、辺鄙でエキゾチックだった Hueng 沿いの情景が失われるというのは、個人的には残念な思いです。



(no title) / 3.11 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

イサーンの5回目です。画像を追加しました(ページ中頃、History の項)↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/isan/index.html

イサーンが開拓されて広大な農作地帯となったのはここ数十年の話で、100年前には見渡す限りの森林地帯だったという話です。


【1840s】
白い部分が耕作エリアです。手付かずの大森林に比べてほんのわずかです。これは要するに人口がまだ少なかったので、積極的に森を開拓する必要が無かったわけです。ちなみに、農作物の出来・不出来によって移転を繰り返すような小集落は森の中に点在していました。

1840sの拡大地図を見ると、当時の人口集中地区として Nong Khai、Sakhon Nakhon、Nakhon Phanom、Ubon、Si Saket...等が目に付きます。これらはイサーンの中でも「由緒ある」地域といえます。

政治史的には1827年に Vientiane の Chao Anu の反乱が Rama III によって鎮圧されて以来、ラオスは事実上タイに吸収され、イサーンは全域にわたってタイの支配下に置かれていました。が、バンコクから直接支配をするだけのインフラが整っていなかったので、各地の有力者に統治を委ねる間接支配(huamuang)が行われていました。支配といってもその程度はゆるやかで、農民(主にラオ系)は自立的・自給自足的な生活をし、社会構造は比較的平等でした。


【1950s】
アッという間に100年後です。この100年間の主な出来事としては、
1.フランスにラオスを持っていかれて、国境(イサーンの境界)が画定した。
2.バンコクから送られた役人がイサーンを直接支配するようになり、地元の利益よりもバンコクの利益が優先されるようになった。
3.鉄道や道路(物流インフラ)が整備され、バンコクによる徴税と中華系商人による中間搾取が本格化。
4.タイ(バンコク)語による学校教育、タイ(バンコク)式仏教の布教、国王の宣伝などを通じて、イサーンを文化的に同化しようとした。

この頃から政府の主導で農村開発・農地拡大ブームが始まりました。といっても長期的な展望があったわけではなく、乱開発時代の幕開けといえます。農民に開発意欲を持たせるためには、阻害要因となっていた宗教感の変革を必要としました。
1.物欲を持たず、現状に満足する → 勤労は美徳、収入アップでハッピーに
2.森(に住む精霊)に対する畏敬の念 → (精霊を否定する)タマユット派の布教
役人は既に敵対視されていて何を言っても説得力が無かったので、サンガに要請して僧(いわゆる開発僧)を動員しました。

また、世界の趨勢にならって「緑の革命」(高収穫品種、モノカルチャー、農薬、化学肥料、機械化)がタイでも導入されましたが、狡猾な税体系のために増収分はほとんど政府や中華系商人に持っていかれ、農民に残ったのは借金と疲弊した土地だけでした。「百姓は生かさず殺さず」という言葉がタイでも使われました。森林の消失は自給自足的な生活様態を困難にし、資本主義経済が農村を呑み込んでいきました。多くの農民が借金のために土地を手放し、低賃金労働者として都市に流出していきました。「タイでは生活できないからラオスへ逃げようか」という冗談のような話がイサーンの農民の間で交わされました。


【1980】
「持続可能な開発」という観点からするとイサーンの森林開拓は既に限界に達していて、森林局などは開拓にストップをかけるように提言し始めたんですが、軍はさらに森林開拓を推し進めました。「コミュニストの隠れ場所を根絶やしにする」というのが表向きの理由ですが、高騰しはじめていた木材の入手という実益もありました。「開拓した土地は開拓者が取得してよろしい」という軍の口約束を信じた多くの農民が、残り少ない森林を切り開いていきました。開拓はしばしば森林局の定める森林保護区域(National Forest Reserve)内にまで及んだのですが、この保護区域というのが曲者で、森林局は一方的に指定して地図に記すだけでろくに管理や周知もせず、保護区域内の農民に耕作権を認めるという事も行われていたので、「開拓して税金を払っていれば土地は自分のものになる」と農民が思ったのも無理はありません。

80年代後半には「コミュニストの脅威」もほぼ消滅し、森林保護派の政治的発言力が増してきました。R1117(ウンパンへの山越えルート)の工事は1987年に中止され、Nam Choan Dam (Sri Nakharin Dam の上流)は棚上げされました。過度の森林伐採の付けが各地で水害(洪水、鉄砲水、土砂崩れ)という形で表面化しました。1988年11月、南タイの土砂崩れで350人(公称)が犠牲となり、翌年政府は森林伐採を全面禁止、開拓の時代は終わりを告げました。


【1990】
森林とそこに生息する動植物の希少価値が高まり、政府は国立公園や自然保護区などの制度を拡大・厳正化して森林の保護にあたりました。もうすこし正確には、森林を独占する事によって生じる利益の保護ということになります。森林局のパトロールでは「密猟者」との衝突が頻繁に起こり、陸軍管轄のレインジャー部隊がパトロールを補佐するようになりました。

森林保護区域内に居住するとされた農民に対しては、代替地(荒地)を用意して強制移住させ、跡地を植林(アグロビジネスにリース)するという構想が森林局と軍の間で合意されました。80年代には農民に森の開拓を奨励していた軍が一転してその開拓地から農民を強制排除するというというのは滑稽な構図ですが、軍にとっては80年代の混沌と出任せを清算して、新しい時代の森林ビジネスに食い込むチャンスだったわけです。強制移住対象人数が600万人(北タイの山岳民族を含む)というこの超大型プロジェクト(名付けて Kho Jo Ko)は、91年のクーデタで軍事政権が樹立すると実行に移されました。住民の反対を圧しやすいイサーンから着手されたんですが、その様子は涙なくしては語れないものがあります。英語が読めれば
http://www.ilo.org/public/english/bureau/inst/download/r107.pdf
の第三章に詳しく書いてあります。Kho Jo Ko は、農民が必死に抵抗したのと、軍事政権が倒された事もあって92年に破棄されました。
が、同時期にイサーンで反対されていた Rasi Salai、Hua Na、Pak Mun のダム工事は強行されました。


以上、森をテーマにしてイサーンの歴史を振り返ってみました。まとめますと、
1.イサーンの歴史はバンコク政府による植民地化の歴史だった(internal colonialism)
2.過去100年にわたる人的・物的リソースの搾取がバンコクの発展を支え、イサーンの貧困を招いた
という事になります。

ちなみに国立公園における法外な外国人料金は、タイ人料金vs外国人料金という構図にカモフラージュされていてその本質が見えにくいんですが、これもやはり(バンコク)政府による(地方の)森の私物化の意識の表れであるといえます。



(no title) / 2.21 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

イサーンの4回目です。画像を追加しました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/isan/index.html

MapMagic Thailand というのはなかなか面白い地図でして、ダムや貯水池のデータが充実しています。地域別に検索してみると、
北部:338個
東北:883個
中央:207個
南部: 27個
という数字が出ました。イサーンにおけるダム・貯水池の数が抜き出ています。内訳としては地元密着型の小規模な貯水池がほとんどで、これは安定した水源に乏しいイサーンにおける有史以前からの生活術を継承しているわけですが、イサーンに20個ほど散在する大型ダムの場合は、ローン会社(世界銀行)と結託した外国のセールスマン(日本、アメリカなど)に入れ知恵されたバンコク政府が地元の迷惑を顧みずに着工の判を押すという図式が見え隠れしていて嫌らしいです。

今回取り上げたのはタイの3大論争ダム、Rasi Salai、Hua Na、Pak Mun です。簡単に紹介しますと、Rasi Salai はメコンから水を引いてきてイサーンを潤そうという壮大な Kong-Chi-Mun Project (42年計画!)の一環ですが、ここに水を貯めると地下の岩塩が溶け出してあたり一帯に塩害をもたらす事が運用開始後に確認され、今やどーしよーもないダムとして槍玉に上がっています。ダムと分類すると環境アセスメントが面倒なので、「ここに小規模な堰(weir)を造る」と、騙まし討ち的に造ったあげくがこれなので、農民の怒り心頭です。Hua Na は Kong-Chi-Mun Project の中枢となるダムなんですが、これ単独では機能しないので、工事完成後も使われずにいます。が、周囲の農民たちは政府の気まぐれでいつ水門が閉じられるかと怯えています。Pak Mun は、建設コストを過小評価(実際には2倍)し、発電量を過大評価(実際には6分の1)して完成したコスト割れダムです。水門を開放して生活環境を取り戻そうとする住民(+NGO)と、少しでも建設費を発電で回収しようとする政府との衝突が国際的に報道されて、今や人権・自然保護運動の象徴的存在です。

まあ、こうして反対運動が盛り上がるというのもタイの民主化の一面なわけで、ちょっと前までは政府はやりたい放題、被害農民は泣き寝入りするしかありませんでした。Pak Mun のちょっと南にある Sirindhorn Dam (68年着工、71年操業、添付図)は、コミュニストが潜んでいそうな地域を一掃して、ついでに Ubon のアメリカ軍基地に送電するために造られたんですが、灌漑面積よりも水没面積が大きいというトンでもないダムです。また、Udon のちょっと西にある Huai Luang Dam (70年着工、79年操業)は、Udon のアメリカ軍基地に給水するために造られたんですが、立ち退きを渋った農民を政府はコミュニストであると宣言し、襲撃をかけたり地雷を仕掛けたりして200人の農民が殺されたそうです。あまりにもこういう事例が多いので、私は「ダムを見たら疑ってかかる」という習慣がついてしまいました。

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参考: シリントンダム
http://www.mekongwatch.org/env/thailand/sirinthorn/index.html



(no title) / 2.06 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

イサーンの3回目です。画像を追加しました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/isan/index.html

数年前にメコン沿いに旅行した時に印象に残った風景を二つ取り上げてみました。

1. Don Khone Let
100年前にタイとフランスとの間で
1.メコンに浮かぶ島(メコン増水期に島となるものを含む)は全てラオス領とする
2.メコンの川筋が変わっても国境線は自動的には変わらない(両国の協議と合意を要する)
という不条理条約が締結されたんですが、その当時には Don Khone Let は確かに島だったのでしょう。今では堆積した土砂の上に草木も生えて、タイと陸続きになっています。島地はかなり耕作されていますが、タイ側の農民が農地拡大したものでしょう。他の島での前例からすると、タイの農民がラオスの然るべき役人に耕作料を払っている可能性もあります。陸続きではありますが、道路は繋がっていません。私は島(との境目)を一目見ようとしつこくうろついたのですが、木々と人家に阻まれて確認できませんでした。まるで部外者が容易に近づけないように、さりげなく隠蔽してあるかのようでした。

2. Rock-cut channel
これはどんな精巧な地図を見てもわからないし、実際に現地に行っても実感できないんですが、衛星画像をじっくりと見るとメコンの両岸で地形(隆起のパターン)に連続性が見られます。特に画像の上の方、櫛で梳いたような箇所に著しいです。川に突出している多くの岩場も、この隆起パターンの一部である事がわかります。これが何を意味するか、メコンが出来た後に土地が隆起して現在の地形が造られたと考えざるを得ません。私はこっち方面は詳しくないので的を得た解説はできませんが、4500万年前にインド大陸がユーラシア大陸に衝突してヒマラヤが隆起したというようなレベルの話です。壮大なロマンです。ちなみに、このエリアで観察眼を養ってから Si Phan Don の衛星画像を見ると、やはり両岸と島々の隆起のパターンに連続性を認めることができます。

#2と#12の deep pool というのはメコンが局所的に数十メートルの深い窪みになっている所で、魚の(乾季の)避難所や繁殖所として機能しています。メコンの濁度で数十メートルというと、もう日光の届かない暗黒の世界ではないでしょうか。測定された最深部は90メートルだそうです。これもまたロマンです。

#3でメコンの川幅がギューンと狭まります。どのぐらい狭まるかは季節(水量)によって違いますが、私が見たのは6月で、感覚的には20メートルぐらい、石を投げれば向こう岸に届く感じでした。川幅が狭まった分だけ流速は上がるわけで、ドドドドッと滝のように流れる様は圧巻でした。深さについては岸から見ただけではわからないんですが、相当深いんじゃないでしょうか。

#7、この付近には国立公園の名前を冠する Pha Taem 以外にも Pha(崖)の付く展望所が何箇所かあります。Pha Taem はアクセスの便利さ(公園管理者の誘導)で1番人気ですが、2番目にポピュラーなのがこの Pha Chanadai です。乾季なら4WDで到達可能ですが、汗水流してトレッキングの果てに辿り着くのが本道です。Pha Taem に比べて標高が高く(Mekong:100m, Pha Taem:180m, Pha Chanadai:420m)、位置も10kmほど東寄り、タイのほぼ東端にあるので、元日には初日の出を見ようと数百人の観光客が犇めき合うそうです。

#13 の Don Hin Tang ですが、これは私も衛星画像を見るまでは気が付きませんでした。メコンの水位が低い時にはタイと陸続きになります。しかし観光客の多い Kong Chiam でどうやってカモフラージュするんでしょうか。立ち入り禁止の柵でも作るのか。あるいは Phu Chee Fah でのように些細な越境として黙認・放任するのか。



(no title) / 1.31 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

イサーンの2回目です。画像を追加しました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/isan/index.html

イサーンがイサーンである所以は、歴史的に見ると、中央タイ(チャオプラヤ流域)と川でつながっていないために歩いて山越えをしなければならないという点にありました。1900年にバンコク・コラート間が鉄道で結ばれたのは画期的な出来事でしたが、それ以前はというと、象や牛の隊列を組んで山越えにまず一週間かかりました。山中には泊まれるような村は基本的に無かったので、自炊用の米を携帯しての強行軍です。トラは出る、マラリアには罹る、雨が降れば川が増水して渡れない、等々。こういう地理的・物理的な障壁があったために、中央タイとは一線を画したイサーン文化圏が形成されたわけです。

最初に建設されたイサーン入りの道路らしい道路は、ロッブリー(軍事基地)とコラートを結ぶR205(の原型)だったそうで、第二次大戦中の事です。道路の建設年と背景はその時代における社会的な要請を反映しているので歴史の資料として興味深いんですが、残念なことにこのトピックを系統的に取り上げた文献を見たことがありません。1960年頃の地図(L509)を見ると、イサーンとの連絡道路はR205とR2しかありません。1970年頃の地図(S1501)ではR203とR304が追加されています。今ではイサーン入りの道路は20本ほどもあって、選り取り見取りの感があります。それぞれ個性があって雰囲気が違うので、走り比べてみると面白いです。主なイサーン入りルートを並べてみたのが Elevation Chart 4 で、各道路の特徴を良く表しています。

R3462は90年代中頃の建設ですが、少なくとも相当以前から通り抜け禁止になっています。南側は Pang Sida National Park 内の観光道路としてよく整備されていますが、北側は Thap Lan National Park の管理道路として必要最小限のメンテナンスしかされていません。藪と荒野の中を延々と走るダート路で、道幅は狭くて擦れ違いやUターンもままならず、小川を渡る橋は丸木橋に毛が生えた程度で、所々雨で侵食された路面は通行が困難・危険です。はたして国道として機能していた時期があるのかどうか疑わしいです。

R3308は80年代前半の建設で、国境付近を警備する軍用道路をアップグレードしたものです。やはり通り抜けが(原則)禁止されています。R3462と違って全舗装で快適ですが、やはり自然保護の都合でしょうか。山越え区間(Ta Phraya National Park)では既に国道の指定を取り消され、道路地図からも姿を消しつつあります。

R348から東はお馴染み Dangrek 山脈越えなんですが、中央タイからのアクセスに比べると山越えのスケールが小さい事が見て取れます。これは要するに、イサーンとカンボジアの近接性を表しているといえます。してみると、タイがラオスやカンボジアを差し置いてイサーンを取得したというのは、その政治力と軍事力のなせる業だったわけです。



(no title) / 1.21 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

平らでだだっ広いというイメージが先行しがちでそれ以上の詳細や全体像が見えにくいイサーンを、ちょっと構造化してみようという試みです↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/isan/index.html

まずイサーンの定義ですが、形式的には「タイ東北部にあるメコン流域」というのが定番になっています。もう少し細分すると、メコンの支流 Mun が形成する部分流域と、さらにその支流の Chi が形成する部分流域を区別して、
1.イサーン北部 - Mekong
2.イサーン中部 - Chi
3.イサーン南部 - Mun
となります。ここでは、Mun を Chi の合流の前後で区分して、計4流域に色分けしてみました。歴史的・文化的な地域理解には道路地図を眺めてもピンと来ないので、川を強調した地図も作ってみました。

Mun も Chi も平地ではかなりの蛇行が見られまして、典型的にはこんな感じです↓
http://www.crisp.nus.edu.sg/monthly_scenes/y2001/Dec01scene.html
私が衛星画像を見ながらコツコツとマウスをクリックして長さを計ったところでは Chi が1000km程度、Mun が800km程度と、思ったよりも長かったです。蛇行部分を無視して大まかな線分で川筋を追うと、それぞれ520km、480km程度になります。巷で流通している数値はまちまちで、例えば Chi=765km/Mun=750km というのがよく引用されますが、要するに目安です。実際のところ毎年洪水で川筋が変わるので、長さもそれに応じて変動します。

川の長さというのは、例えば川に沿ってボートで旅をしようとする時には大きな要因になります。作家の Steve van Beek が手漕ぎボートで2ヶ月かけてチェンダオの数キロ上流地点からバンコクまで旅をしたというのは、まあ、手漕ぎボートにこだわったという事もあるんですが、 Mun を安楽に川下りしようとすると、小型エンジン付の軽量ゴムボートを用意して(途中何ヶ所かあるダムを超える時に持ち運ぶ必要がある)、平均時速20キロで航行するとして、4日間あれば可能です。



(no title) / 1.11 / イサーンの大地走行2000キロ 掲示板

ラオス南部の奇景 Si Phan Don の画像をまとめて見ました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th4/spd/index.html

情報収集のためにいろいろと旅行記や写真を漁っているうちに、既に行って見て来たかのように印象が焼き付いてしまいました。しかし、しかるべき団体のお膳立てツアーでならともかく、個人で行くとあちこちでぼったくられそうで鬱陶しいです。

奇景の形成過程を解明しようと思って地質図を眺めてみたんですが、ギブアップです。

この付近のラオス・カンボジアの国境線についてですが、さすが両国を共に統治していたフランスが引いただけあって、大雑把というか投げ遣りというか...。分水嶺に沿いながらも微妙にずれていたり、メコン右岸(西岸)の13キロほどはカンボジアの河岸が国境線(!)だったりします。