▼クラナド 野球関連説明

CLANNAD-クラナド-』では野球ネタがチラホラ出てきます。
でも
「野球のことなんてちっとも分からないから、意味が分からない、何が面白いのか分からない」
って人の為に補足解説。
ネタの意味を知ることにより、クラナドの楽しさが増すかも知れません。
我ながら文字多くて読むのめんどいな、と思うけど。

ネタバレもあるので注意
※間違っているところがあったら、ごめんなさい。



春原「昔の江夏を見ろ。日本シリーズでの連投…あれこそ僕の戦い方だねっ」

春原「おまえ、ここでフォアボール出したら、一生、石毛と呼んでやるぞ!」

朋也「おおっ。南海や、阪急のチームプレートがっ」
春原「僕は…大洋ホエールズでいかせてもらうよ」


春原「先発、遠藤

春原「そうか。野球においてスピードは重要だ。スーパーカートリオ然りね」

春原「おまえは河合かよっ!」

春原「でも、おまえには、大森でいてほしいんだよっ!」

秋生「思いきりこいよな。この界隈じゃ、パンを焼くソーサと呼ばれた男だぜ」

秋生「ふん、この界隈じゃ、パンを焼く野茂と呼ばれた男だぜ」

朋也「代打福王

汐「こまだ



(1)江夏
文章 春原「登板間隔が空きすぎるとな…」
春原「いいピッチャーだって、打たれちまうんだよっ!」
春原、とても格好悪いたとえだ、それは。
春原「昔の江夏を見ろ。日本シリーズでの連投…あれこそ僕の戦い方だねっ」
場面 智代ルート前半
説明 江夏豊
有名な方なんで野球知らない人にもそれなりには認知度はあるはず。

1967年にドラフト1位で阪神に入団。1年目に奪三振王、2年目には401奪三振の世界記録を樹立。その後も数々のタイトルを獲得。阪神→南海→広島→日本ハム→西武→メジャー挑戦(失敗)と多くの球団を渡り歩いた。

江夏は「1シーズン401奪三振」や「延長11回、自らサヨナラHRでノーヒットノーラン達成」、「球宴で9連続奪三振」する等と数々の伝説を残している。
特に1971年オールスター戦での全パ相手に9者連続奪三振は、球宴では規定で投手は3回までを上限とされているので、これを破ることは実現できない。これに次ぐ記録は1984年に江川(巨人)の8連続奪三振。メジャーでは5連続奪三振が最高。あとは漫画『あぶさん』にて景浦影虎(近鉄)が全セを相手に9連続奪三振してやったりしましたが

CLANNADで語られる江夏の日本シリーズといえば「江夏の21球」があまりにも有名なので、春原が言っていたのはこれのことだろうか?
当時広島に在籍してた江夏。1979年、近鉄×広島の日本シリーズ第7戦。広島が1点リードのまま、9回裏の近鉄の攻撃。7回裏からマウンドに上がっていた江夏は、その9回裏にヒット→盗塁→エラーで無死三塁ピンチ。そこから四球と敬遠で無死満塁で一打逆転サヨナラ日本一の大ピンチ。ここから江夏は1人目を三振に取る。次の打者ではスクイズを見抜き、失敗させ3塁走者をアウト。最後には三振で試合終了。広島が逃げ切り、日本一になる。江夏は9回だけで21球を投げた。ぶっちゃけ、自分で作ったピンチを自分で抑えたことなんだが、場面が場面だけに印象度が強く、球史に残る名勝負とされている。

(2)石毛
文章 春原「おまえ、ここでフォアボール出したら、一生、石毛と呼んでやるぞ!」
智代「誰だかわからないぞ…」
春原「ノミの心臓だぞ!」
智代「それはなんか嫌だ…」
場面 智代ルート中盤
説明 石毛博史

1989年にドラフト外で巨人に入団。高卒4年目で抑えに定着。150キロ近いストレートとスライダーを武器に活躍。93年には30セーブをあげ、最優秀救援のタイトルを獲得。

だが、ここぞと言う場面に非常に弱く、四球を連発しまくる。四球→四球→四球で塁を埋め、とどめに本塁打。または満塁からの押し出し四球。相手と勝負することを恐れて、ストライクが投げる度胸がないことにより「ノミの心臓」と呼ばれるようになった。
その制球力は向上せず、30→19→11と年々セーブが減少。登板すれば味方ファンからはブーイングされ、相手ファンからは拍手喝采される男だった。95年途中から抑えの地位を西山(ちなみにこの西山もすぐ駄目になる)に追われ、翌年にトレードで近鉄に放出される。その後02年には近鉄もクビになり、阪神へテスト入団。03年にはそれなりに中継ぎで活躍した。2004年現在ではまだ現役。

しかし、巨人、近鉄、阪神と渡り歩いた球団全部で優勝を経験をしている。優勝を経験しないまま引退する選手が多い中、そういう意味ではラッキーな人

(3)南海・阪急・大洋
文章 床に置いてあった平たい箱をコタツの上に置き直す。
朋也「こ、これは…」
春原「そう…」
春原が蓋を持ち上げる。その下から、レトロな球場が姿を現した。
春原「野球盤さ…」
朋也「おおっ。南海や、阪急のチームプレートがっ」
春原「僕は…大洋ホエールズでいかせてもらうよ」
場面 智代ルート後半
説明 昔、存在した球団。
今は売却されてたりして名称は変わっている。

南海ホークス
日本プロ野球発足2年後の1938年に『南海軍』として誕生する。
1947年に『南海ホークス』に改名。
戦後初の三冠王になり、監督、4番、捕手を兼務した野村克也、円月打法の杉山、俊足の広瀬、血染めの4連投の杉浦など数々の名選手が生まれた。
上記選手による黄金期を迎えた時期もあったが、野村らが抜けた後に低迷化。長くBクラス時代が続く。それによる人気の低下、球場はいつも閑古鳥が鳴いた。
球団創設50周年の記念年であった1988年に球団を愛したオーナーが死去。球団はダイエーに譲渡され、本拠地は大阪から福岡に移し、名称は『福岡ダイエーホークス』。
本拠地九州での野球人気は強く、リーグ最高の観客動員数を誇る。

阪急ブレーブス
第1回日本職業野球が開催された1936年に球団名『阪急』として結成。
47年に『阪急ブレーブス』に改名。
67年には西本幸雄監督の下でリーグ初優勝。75年には山口高志・山田久志両投手、年間100盗塁以上通産1000盗塁以上を決めた福本豊らの活躍により初の日本一を獲得、78年までV4を達成する。
89年にオリックスに球団譲渡がなされ、黄金期を支えた福本、山田もチーム譲渡とともに引退する。チーム名は『オリックスブレーブス』に改名。
91年に西宮球場から神戸にフランチャイズを移転し、チーム名も『オリックスブルーウェーブ』に改名。
阪神淡路大震災が発生した95年「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ制覇。翌年には日本一となった。

大洋ホエールズ
1950年にセ・パ2リーグ制開始と同時に『大洋ホエールズ』が結成。1リーグ時代の41年〜42年に存在した球団『大洋』とは全くの無関係。
1953年に『松竹ロビンス』と合併し、『大洋松竹ロビンス』に改名する。が、その2年後にに松竹が撤退すると名称も『大洋ホエールズ』に戻る。59年は最下位だったが、60年にはチームは日本一に輝く。しかし、その後は優勝から遠ざかり、長く低迷の年が続く。
78年川崎市から横浜市に移転。名称も『横浜大洋ホエールズ』に改名する。相手にチームに負けてばかりで貯金を稼がせてしまうことにより「横浜大洋銀行」なんて呼ばれたりもした。
93年に『横浜ベイスターズ』に改名。
98年に当時チームシーズン打率日本記録を誇ったマシンガン打線、絶対的な守護神である大魔神・佐々木主浩の活躍で日本一に輝く。
03年にTBSへ売却されるが、チーム名は変わらない。

(4)遠藤
文章 春原「僕は…大洋ホエールズでいかせてもらうよ」
春原「先発、遠藤
朋也「それ抑えだろ」
春原「監督は僕なんだから、いいんだよ!」
春原「ちなみにこの盤は…引き金式だからな」
朋也「それは、つまり…」
春原「ああ、指で弾けば、剛速球が投げられるというわけさ!」
朋也「打ってやるよ、きやがれ!」
春原「いくぜっ」
ばちんっ!
春原「うわはははっ!見たか、遠藤の剛速球!」
朋也「そんなの遠藤じゃねぇ!」
場面 智代ルート後半
説明 遠藤一彦

1978年にドラフト3位で大洋に入団。
1年目に2軍で46回2/3連続無失点という驚異的な記録を達成して1軍に昇格。しかし監督の方針により2年目に新人王を狙うため、登板を制限され1勝でシーズンを終える。翌年は開幕当初からローテの一角に食い込み、勝ち星を重ねて期待通りの活躍を見せる。しかし、チームが低迷により夏場から抑えを任されることになる。結果、12勝12敗8セーブ防御率3.81と好成績。だが、中日の藤沢公也投手がそれを勝る成績を残し、新人王に選ばれ、遠藤の新人王は実現しなかった。
80年も抑えで活躍し、翌年には先発に復帰。弱小チームのエースとして活躍し、最多勝利2回、最多奪三振3回、最優秀投手、ベストナイン、沢村賞を各1回獲得する。

エースとして活躍した遠藤だが、87年終盤に走塁中アキレス腱を痛める。翌年の開幕にはほぼ完治するが、その故障が元で往年の速球を失ってしまい、低迷する。
90年、抑えの中山裕章を先発転向させることにより、空いた守護神の座をかつて抑えの経験がある遠藤が抜擢される。そして見事に期待に応え、6勝6敗21セーブ27SP防御率2.17と活躍。その年のカムバック賞に選ばれる。
だが、翌年は不調と故障から守護神の座を佐々木主浩に譲る。
92年に現役を引退。

(5)スーパーカートリオ
文章 春原「ああ…ちっこいのが一生懸命に何かしてるよ」
春原「って、あいつ!?」
朋也「ああ」
春原「マジ、使えんのかよ…」
朋也「動きは素早い…と思う」
春原「そうか。野球においてスピードは重要だ。スーパーカートリオ然りね」
朋也「おまえ、古すぎだからな」
場面 草野球編
説明 1985年、大洋(上記参照)の加藤博一、屋鋪要、高木豊による俊足1〜3番トリオのこと。スカイビルにカウンタックなどのスーパーカーブーム時代に名付けられた。

3人揃って足が速く、この年の大洋はシーズン合計で188盗塁と、12球団1位の盗塁数を記録した。しかし、無駄に盗塁することも多く、盗塁死84も12球団一だったり。
翌年には屋鋪要の絶不調、そして加藤博一の怪我でスーパーカートリオはあっさりと崩壊。1年の寿命だった

ちなみにスポーツカートリオとも呼ばれたりする。

近年では2003年ダイエーの村松(盗塁2位)、川崎(盗塁3位)、井口(盗塁王)による1〜3番トリオが近い。でも「03年版スーパーカートリオ」なんて誰も言わなかったけどな

ネタにするなら2001年野村阪神のF1セブン(赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎、平下晃司、高波文一、松田匡司)と言うのもアリ。…いや、マイナー過ぎるか。

(6)川相
文章 バットを受け取り、打席へ。
朋也(芳野祐介もあんな状態だしな…)
コン。
送りバント。
春原「おまえは河合かよっ!」
春原は、アウトになって戻ってきた俺に罵声を浴びせる。
朋也「いいじゃん、河合
春原「いや…そりゃ、河合もいいけどさ…」
場面 草野球編
説明 川相昌弘
CLANNADでは「河合」になっていますが、犠打で「カワイ」と言ったら「川相」しかないです。これは現役選手の為にワザと名前を微妙に変えたのか、本当に誤植なのかは不明。

1983年、巨人にドラフト4位で入団。
バントの名手と呼ばれようになる川相だが、1984年から1988年まではたったの39安打と16犠打しかなかった。当初は守備のスペシャリストという位置付け。
しかし、1989年に藤田元司監督が就任し、川相の潜在能力を引き出される。その年に32犠打を決める。
翌年にはシーズンを通してレギュラーとして活躍し、シーズン58犠打を記録した。これは当時の日本新記録。さらに翌年にはシーズン66犠打を記録し、自らが前年に作った日本記録をさらに更新した(現日本記録は2001年にヤクルト・宮本慎也の67犠打)。

1995年、シーズンに試みた犠打(47回)をなんと全て成功させた

2002年に通算500犠打達成。
それまでの平野謙の通算451犠打を大きく抜いて日本記録を更新し続け、日本で初めて500犠打を達成した選手となった。
そして2003年に大リーグのエディ・コリンズが達成した通算511犠打(犠飛含む)を超え、世界新となる512犠打(犠飛含まず)達成

2003年に引退を決意するが、不可解な原監督退任劇により巨人とモメ、現役続行を決断。長くいた巨人を決別し、中日に入団。まだ現役(04年現在)。

(7)大森
文章 春原「いや…そりゃ、河合もいいけどさ…」
春原「でも、おまえには、大森でいてほしいんだよっ!」
誰それ?という声が至るところであがる。
春原「え?え?知らない?巨人ドラフト一位のさっ」
春原「イースタンでホームラン記録まで作ってんだぜ。すげぇホームランバッターなんだ」
春原「な、大森でいてくれよ」
朋也「嫌だ」
場面 草野球編
説明 大森剛

慶應大学3年時に六大学で三冠王達成した実績の持ち主(でも4年時はちっとも活躍できなかった)。
野茂ドラフトと呼ばれた1989年に巨人は相思相愛でドラ1位候補だった元木を指名せずに、同じく相思相愛だった大森をドラフト1位で指名。これは大森が「高校生(元木)の下で指名されるのは嫌だ。巨人の1位指名じゃないとプロへは行かない」なんてワガママを言った為で、巨人は大森を1位指名をせざる得なくなる。おかげで大森が指摘したそのドラ1位予定だった元木は野茂の外れ1位でダイエーに指名された。その元木も巨人以外は嫌がったので、ダイエーを蹴り、ハワイへ野球留学。1年後にはぶくぶく太って帰国した元木を巨人は指名するハメになる。この時点で大森のおかげで2球団に迷惑かけた。
大森は無事(?)に念願の巨人入団を果たし、中畑清の背番号「24」を禅譲された。
ちなみにこの年は野茂以外にも佐々木、佐々岡、与田、小宮山、潮崎、西村といった豪華投手がドラフト1位で勢揃い。この年のドラフト1位で、のちに活躍できなかったのはパンチ佐藤と大森だけ

90年、大森はオープン戦でそこそこ打ち、ルーキーながらも開幕1軍を手にした。しかし結果、1年目打率1割台で終えると、その後は2軍暮らしが続く。
当時、大森のポジションの一塁には同じ左打ちの駒田(下記参照)がいた為、守る場所はなかった。92年には原が一塁へ転向。94年には落合が入団。左の代打も吉村などと、ことごとく大森の場所はなかった。
そんな1軍での居場所がなかった大森は2軍で大活躍。94年にはイースタン記録26本塁打という大記録を達成。それでも1軍にはお呼びが無い。ついには96年にファーム(2軍)で通算100号ホームランも達成してしまった。落合が怪我で離脱した為、そこでようやく1軍に呼び出される。でも1軍では大して活躍できず。

そんな大森でも1軍で脚光を浴びたときはあった。96年の日本シリーズ第一戦で九回に起死回生の代打同点2ラン、先発で起用された第四戦では駄目押しのHRを放ったこともあった。
シリーズでそこそこ活躍した大森は、翌年の97年に開幕スタメンに名を連ねる。が、打てなかったのであっさり2軍落ち。
結局、大森は1軍では10年間の選手生命の中で138試合しか出場できなく、2軍で飼い殺しされ、30過ぎて旬も過ぎたところで98年途中に近鉄にトレードされる。

そんな大森は巨人が大好きだった為、移籍先の近鉄ではまったくやる気を出さず、99年に引退。これで迷惑かけた球団は3球団目。

こんな選手になれと言ったのか春原は

ちなみにイースタンとは。
2軍の試合は1軍と同じにセントラルリーグ(セ・リーグ)とパシフィックリーグ(パ・リーグ)で分かれて試合をするのでなくて、イースタン(東地区)とウェスタン(西地区)で分かれて試合を行う。

(8)ソーサ
文章 秋生「思いきりこいよな。この界隈じゃ、パンを焼くソーサと呼ばれた男だぜ」
場面 AFTER前半
説明 Sammy・SOSA(サミー・ソーサ)。
メジャーリーガーな方。

1985年にレンジャーズと契約し、1989年途中にメジャーに初昇格。そこから不振などが理由でホワイトソックス→カブスと移籍する。以降は30-30を2度達成や、チーム三冠王などと活躍し実績を重ねる。

1998年、マーク・マグワイアとの1961年にロジャー・マリスが記録したシーズン61本塁打記録を破る対決で、大いにシーズンが盛り上がった。ソーサは6月に月間ホームラン20本というメジャー新記録を作ったが、結果はマグワイアは70HR、ソーサは66HRでシーズンは終了。軍配はマグワイアに挙がった。
翌年もマグワイアとの対決は続く。結果、マグワイア65HR、ソーサ63HRと2年続けてタイトルは譲ることになる。
2000年はマグワイアが怪我で離脱したこともあり、ソーサーが50HRで初の本塁打王のタイトルを獲得。
2001年は再び64HRの大台を突破するが、バリー・ボンズが73HRも放ち、メジャー新記録を更新した為、タイトルには手が届かなかった。
シーズン60HR以上を3度も記録しているのは、メジャーリーグ史上でサミー・ソーサしか存在していない。だが、その大台の60HR以上はいずれも本塁打王のタイトルは獲れなかったりする

2003年には不正バットとされるコルクバットを使用したことにより問題になったりもした。

(9)野茂
文章 秋生「ふん、この界隈じゃ、パンを焼く野茂と呼ばれた男だぜ」
秋生「時速160キロのストレートを受けてよっ!」
場面 AFTER前半
説明 野茂英雄
メジャーリーガーな方。

1989年、ドラフトで当時史上最多の8球団から指名を受け、近鉄に1位入団。
ルーキーイヤーの90年には最多勝、最優秀防御率、最優秀勝率、最多奪三振、ベストナイン、新人王、沢村賞、MVPとタイトルを総ナメ。最多勝と最多奪三振王は4年連続で獲得、当時プロ野球記録の1試合17奪三振、6試合連続2桁奪三振、史上最速で通算1000奪三振を達成するなどとバケモノぶりを発揮。

大きく振りかぶり、左足を上げたまま体全体をセンター方向に捻り、その反動で投げる(簡単に言うと尻を打者に向けて投げる)トルネード投法と呼ばれる野茂独自な投法で150キロの重い速球と2種類のフォークを使い分け、三振の山を築いた。

しかし、94年オフに複数年契約と代理人制度を希望し球団とモメ、近鉄を退団。任意引退選手として放出される。
そしてメジャー挑戦を決意。

1995年、メジャーリーグのドジャースに入団。マイナー契約からメジャーへ這い上がり、13勝6敗で新人王と奪三振王を獲得。日米でシーズン10勝以上、新人王となったのは史上初。
その後、ドジャーズからメッツ→ブルワーズ→タイガース→レッドソックスと各球団を渡り歩き、そして再びドジャーズ(04年現在)で活躍中。
野茂はメジャーリーグで96年と01年に2度のノーヒットノーラン達成するという快挙も成し遂げる。ア・ナ両リーグでノーヒットノーランを達成した投手はメジャーでも通算4人目。

ちなみにCLANNAD作中で秋生が言う様に時速160キロのストレート落差1メートルを誇るフォーク七つに分身する魔球も野茂は投げられません。

(10)福王
文章 朋也「渚がバイトを始めるんだけど、いいかな」
秋生『バイトぉぅ!?』
朋也「ああ、バイトだ。しかもウェイトレスだ」
秋生『ウェイトレスぅぅ!?』
朋也「しかも今日の晩ご飯はほっけだった」
秋生『ほっけぇぇ!?』
朋也「代打福王
秋生『福王ぅぅぅっ!?
(中略)
秋生『おい、早苗っ、福王はどうかと思うぞっ、それだけは言っておけ』
場面 AFTER中盤
説明 福王昭仁

1986年にドラフト5位で巨人に入団。この年は清原・桑田のドラフトの年でもあり、福王は全く目立たなくひっそりと入団したことは、後日福王はあくまでも目立たなかった存在として有名となる

プロ入りしても目立たない存在は健在だった。気が付いたらいつの間にか1軍に福王が居たりした。
大して活躍もしてないのになかなかクビにはならなかった福王。その存在感故にフロントがクビをするのを忘れていたのかも知れない。というのは冗談で、その理由は守備は内野ならどこでも守れることからと言われる。でも福王が守備についたことがあるなんて誰の記憶にも無いかも。それくらい印象度は薄い。目立たない福王。

唯一、世間に騒がれたのはプロ入り2年目の時に「福王の名前が福が王に来るというふうに読めるから王巨人優勝の使者」とも呼ばれたことだけ。実績と関係なく名前だけは売れた

CLANNAD作中で語られるのように代打で使われることもあったが、無理に打とうとせず、地道に四球を狙うのが福王の役目

96年に打率.333、ホームラン3本、打点13と福王にしては大活躍。86年に入団以降、過去10年で2割を超えたシーズンですら90年と94年の2シーズンしか無かった福王にしては奇跡。というか福王らしくない。

一応、88年にサヨナラ安打を打ったり、96年に延長10回表に勝ち越しホームランを打ったり、同年に福王らしいサヨナラ押し出し四球を選ぶという、普通に目立ったこともあったりもする。福王らしくないなぁ。

(11)駒田
文章 汐「みてみて」
汐が席を跳び降りて、通路に立つ。
そして、両手を合わせてバットを持つ格好を作る。
独特な構えだった。
汐「こまだ
場面 汐ルート
説明 駒田徳広

1981年にドラフト2位で巨人入団。
1983年の1軍デビュー戦でいきなり初打席満塁本塁打を放った。これは史上初。その後も幾度も満塁本塁打を放ち、「満塁男」の異名をとることとなる。満塁ホームラン通算13本は歴代3位(2004年現在)。
89年、かの有名な「巨人はロッテより弱い」発言があった巨人×近鉄の日本シリーズ。その発言で激怒した巨人の選手は3連敗から4連勝し、日本一に輝く。そのシリーズでのMVPは、打率5割以上を誇って活躍した駒田だった。

93年、FA宣言で巨人から横浜へ移籍。試合の日程も有利に組まれ(ナイター中継の為)、引退後も何かと優遇がある巨人から、FA宣言で国内他球団に移籍したのは駒田のみ。世間的にはそんな駒田は変わり者とも呼ばれる。移籍先の横浜は駒田の獲得資金を調達する為に、当時の主力だった上記でも書かれたスーパーカートリオの高木や屋鋪などを放出してしまう。ファンにとっては大迷惑な存在。
そして00年に戦力外通知を受ける。駒田は現役続行を希望し、自由契約となって契約先を探すが他球団からの誘いがなく、寂しく引退。

活躍してたもののタイトルに縁が無く、無冠。そもそもタイトル争いですらしていないが、長く地道に稼いだ安打が通算2006安打を達成し、名球会入りしている。

CLANNAD作中での駒田のバッティングフォームとは、変に腰が曲げ、体を小さく見せるようなフォーム。独特な構えだった為、実際、駒田のマネをする子供も多かった。汐がこのフォームをマネしているのを想像すると可愛さが倍増します

関係ないが、駒田の娘の名前は駒田真子(こまだまこ)。上から読んでも下から読んでも同じだったり。不憫。
駒田は映画『ミスタールーキー』に役者として出演してたりもします。


■end
BACK     TOP