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己れが薄まっている事は感じていた。 だが、いま少し暇があるだろうとも思っていた。 よもや、斯様な時に、それが訪れようとは。 |
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Lost/Last Memorie |
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魂魄妖忌は二刀を佩いて小屋を出た。これが最後の奉公である。 向かうは二百由旬の庭が最奥。異変の源。 春も酣(たけなわ)の時分である。白玉楼の庭を埋める桜花は、狂い咲きに咲き乱れている。 否、咲き乱れていた。 それが散っている。はらはらと。蒼い蒼い黄泉路の空を、桜色のうねりに染め上げて。 小屋を出たところで、半分幽霊の娘が一人、魂を抜かれたような様子で、ぼんやりと空を見上げていた。 冗談にもならない。 「妖夢」 「あ……お師様! これは」 「ちと、桜が騒いでおる。……出かけてくるわい。留守を頼む」 「……お師様?」 目の内に宿った、逡巡の色を見られたか。妖夢が不安げな声をあげた。 「そのような声を出すものではない。わしらのようなものは、泰然としておらねばならん。 ……これ、飾り紐が解けておるぞ。今日は、お嬢様と逢うのであろう。それではいかん」 首もとのタイを結びなおそうとする。 三百年を剣に捧げ、精妙極まる太刀捌きを揮う老剣客の指は、しかし如何にも不器用だった。 妙な角度に曲がってしまう。 「……いかんのう。どうもいかん。洋装の事はよう判らんわい。 仕方ないの。そう時間はかからん。戻るまでには、きちんと正しておくんじゃぞ」 頭を振って、それだけ言って、老剣客は小屋に背を向けた。 「はい、行ってらっしゃいませ、お師様!」 孫のような弟子の、元気の好い声に背を推される。 これで、生きて還る理由も負った。まだ幾つも、教えておらぬことがある。 白玉楼の庭師としてやるべきことを、ひとつ。 それに、この二刀を、この手で伝えてやりたい。やらねばならぬ。 ついでに、きっちりとした身形も、確かめておかねば。 半ば亡霊の身である。嬢とは違う。 よく言えば絆。悪く言えば未練、あるいは妄執。切れれば最早、この世には留まれぬ。 半ば人の身である。この世に在るには限界がある。 あと一日、それだけ持てば上々。 半ば亡霊の身である。死ぬことはない。 半ば人の身である。故に、死すればこの世に散る。悟入と呼べば、そうであろう。 だが、未だ、悟る訳には行かぬ所以がある。 人として、亡霊として、なしておかねばならぬ事がある。 二刀を腰に、翁は黄泉路を行く。通い慣れた。恐らくは最期の。 二刀を腰に、翁は黄泉路を行く。あと一たび、戻るために。 蒼褪めた、薄暗い空。視界を埋め尽くす桜色の霞。 踏みしめる、冷えた石の路だけが確かなものである。 老いた外見に不釣合いな、矍鑠たる足取りで。それでも翁は歩み行く。 程なく、視界が開けた。 |
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一際巨大な、一際異色の、墨染めの桜が、ひとつ、ふたつと、花を付けている。 まだ、精々が二分咲きで停まっている。 「……嬢の屍だけでは飽き足らぬかよ。生臭坊主が」 西行妖。 封じられた身でなお、二百由旬の春を喰らい、身じろぎをする妖怪桜。 完全なる墨染めの桜。 翁は二刀を抜き、構える。 応じるように、黒い花弁の幻影が、ひらりひらりと舞う。 舞う中に、無数の人影が浮かび上がる。 僧形とも見える。少女とも見える。輪郭の知れぬ朧げな影が、幾つも、幾つも。 亡霊にもなれず。妖怪にもなれず。無論人では決してなく。 気の遠くなる時を経た、妖怪桜に纏いつく、それは無数の妄執だ。 在るもの全てへの怨嗟を叫び、次々と溢れ出てくる。 欠片たりとも、徹すわけには行かぬ。 風の如く。影の如く。 踏み込み乍ら、先ずは右の長刀――楼観剣で一撃する。 轟、と風が鳴る。幽霊ならばひと時に十を撃ち据える剣。そこに老剣客の剣気が乗る。 魍魎どもの動きが止まる。 時までもが停まる。 続いて撃つは左の小太刀。これこそは人の迷い妄執、亡霊の在る術を断つ白楼剣。 続いて右、左。交差させて一撃し、虚空を断ち、さらに断つ。 溢れ出る剣閃が、迸る剣閃が、茫漠たる魍魎どもをひとつ、ひとつと切り抜いてゆく。 時を停めたる 斬音は一つ。 姿定まらぬ影の影どもが、花びらの幻影へと戻り、さらに散る。後には何も残らない。 焼け付く痛みの如きモノが身を走る。妖忌は、かは、と息を吐いた。 それはあくまで如きモノでしかあらず、もはや、血を流すことすら叶わない事が知れた。 「……無理は効かんか」 人として緩々と死んでいる。亡霊に静々と近づいている。 だが、幻の半分も緩々と消え失せる。つまりそれは、全てが消えるという事だ。 白楼剣を振るう。それだけの事が、老剣客の肉なき身体を、病よりなお蝕んだ。 あと数度。それだけ持てば、良い方だ。 だが。妖怪桜は、そんな事などお構いなしに、さらに幻像を舞い散らす。 再び魍魎の群れが生じる。 「老骨に酷な事だ――」 我が身の一部と成った筈の剣を握る。握りなおさねばならなかった。 剣を使い慣れぬ素人のように。 人の身として積んだ功、人の身として修めた業。全てが消え失せていくのが判る。 「だが、この庭を預る身として、嬢の安らいを護る者として。 未だ成らん弟子を抱えた師として、ここでは未だ終れんのよ」 甲、と。下駄を鳴らし、駆け出す。身を低く、双剣を引き摺るように。 身体もまともに動いてくれぬ。ただ、あと一撃。桜を鎮めるための一撃を見舞わねば。 |
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魍魎どもが壁となる。 「――かァっ!」 ままならぬ身に鞭打ち、長刀の一撃。先ほどの、閃光の如き一刀は、見る影もない。 だが、渾身の剣気は、それでもひと時の停滞を生む。 間隙へ、全速で左の小太刀。 勢いを付けるため、ただそのために、刃毀れも構わず、長刀で裏打ちを叩き付ける。 無数の剣閃が散る。 魍魎を貫き、虚空を裂き飛び散り、明後日の方向へ飛び散り、飛び散り、切り裂き、貫いた。 力任せの一撃は、それでも魍魎を打ち払った。 (妖夢には、とても……見せられぬわなあ) 声を出す余力も惜しい。既に身とは遊離した、薄れ行く意識の中で、そう想う。 未熟、と叱った。打ち据えもした。だが、大分形にはなってきた。ようやっと、先が楽しみになった弟子。 三百年の勤めのうちに、ふと気付けば護るべき嬢以上に、気が懸かる者となっていた弟子の顔。 (弟子の心得を叱れぬな。ロクでもない庭師じゃ。剣士じゃ。 このときには、主君こそを想うべきであろうに、なあ) あと一たび、会わねばならぬ、弟子の顔。 未練が湧いた。 力が湧いた。 さらに舞い散る墨染めの桜。 桜の根元へ姿を見せる、見せようとする素振りを見せる影。 死を厭う影。遠い遠いそれは遠い昔に、人だったものが棄てた影。 (……見おけ、知りおけ。二度とは見れぬ、覚えおけ。 最期の手向けよ、確と感じよ) そこにはおらぬ弟子へと向けて、そこにおらぬと知りながら。 老剣客は、言葉を紡ぐ。 ただ一刀を振り抜くために。 渾身の力を込め、右の一刀を振りぬく。 ひと。ふた。み。よ。いつ。むよ。なな。 七度の斬線が時を繋ぎ止める。 身を捻る。斬線の交わりへ。小太刀を撃つ。 剣で刻まれた陣図。 冥府の悪鬼と修羅どもに抗い、鎮め静める黄泉路の剣。その極み。 ここの、たり。 時に啓いた暇の中に、七条の閃光が生じた。 在りし七つと在らざる三つを断つ、絶無の剣。 魂魄の剣が奥義、三魂七魄。 七条の光が形生さぬ魍魎を撃ち散らし、投げ放たれた小刀が。 妖怪桜に突き立った。 |
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白楼剣を引き抜く。 本物の墨染めの花弁は、散り、消えた。 枯れ木のような巨木だけが、そこにある。 一面の桜は、散ることを止めていた。 |
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「……お師様?」 巨木に凭れたまま、妖忌はそれを見た。 騒ぎを聞きつけて来たのだろう。 何がおきたのか知れぬという顔で、駆け寄ってくる少女。 不出来な弟子。ただ一人の弟子。 洋装のタイは、今もやはり曲がったままで。 ……しようもない。 「……妖夢。わしは、もうすぐ消える。 すまぬな。お前の飾り紐、結いなおしてはやれなんだ」 しかと。目を見据え、老人は言葉を紡いだ。 少女の瞳が見開かれる。言葉を発さぬのは迷いゆえか。 「とまれ。 此れから、この庭は……お前の場所じゃ。 確と、護れ」 二振りの剣を、差し出す。震える手で。 現の身には、最早力が残っていない。心もするすると解けていく。 「それと……この桜。西行妖をな。 これだけは、くれぐれも大事にせよ。変えては、ならぬ」 かちゃり、と鍔が鳴った。少女が。妖夢が、涙ぐんで、此方を視ている。 頷いた。何か言っている……。 様子だ。 もう、何が起きているのかも朧気だが。 「それでよい。 後を、頼んだ」 満足げな笑み、お前を信じる、と伝えられるだけの笑みを浮かべられたろうか。 あの娘に。 それを最後の迷いとして、魂魄妖忌という在り方は散った。 |
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■Comment 妖夢支援。爺馬鹿の話。 ……支援になってるかな? なってるよ、な? ■Bakk |