| 永山竜叶 年譜資料 |
| TATSUTO NAGAYAMA's biographical sketch |
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当アーカイブでは新情報を募集し、この年譜を随時充実させていきたいと思います。
アレが抜けてる、これを載せて、というご要望は、トップページのメールアドレス、
またはゲストブックまでお寄せください。
よろしくお願いします。
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| 永山 竜叶(ながやま たつと) |
| 西暦 |
元号 |
月日 |
内容 |
| '60 |
昭和35 |
6月3日 |
山口県生まれ。 |
| '65 |
昭和40 |
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さゆり幼稚園(ミッション系)にて、当時「color=天然色」といっていた頃、担任のシスターに「僕のハンカチ、天然色だよ」などこましゃくれたことばかり話していた。 |
| '67 |
昭和42 |
4月 |
宇部市新川小学校入学。 |
| '67 |
昭和42 |
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入学直後、校長室の置物「ハブとマングース」を見て、天敵について校長先生とディスカッション。 |
| '67 |
昭和42 |
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壁に貼ってある小学生新聞ではもの足りないので中学生新聞にして欲しいと教師に要請。 |
| '67 |
昭和42 |
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クラスで遠足など大きなイベントがある度に写真を撮り記事を書いて、壁新聞を貼り出していたらしい。 |
| '68 |
昭和43 |
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小学2年、宇部市スイミングサークル入会。小学3年生の夏休みにいっきに太り始め、それまでのひ弱な身体がうそのようになったのは、水泳のせい? |
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TVの刑事ドラマに憧れる。鏡の前で父親のネクタイとジャケットを着て、天地茂ごっこをしていたらしい。 |
| '70 |
昭和45 |
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小学5年生の時、商店街の歳末セールのイベントで飛び入りアナウンサーに。 |
| '71 |
昭和46 |
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小学6年生の頃、山口宇部空港開設。空港管制塔に入りびたる。その結果、家族への応答はすべて「ラジャー」。 |
| '72 |
昭和47 |
4月 |
山口県宇部市立桃山中学入学。 |
| '72 |
昭和47 |
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ボランティアジュニアリーダー構成員。ジュニアリーダーとは宇部市の教育委員会関連組織で子供会の上位組織。キャンプやオリエンテーリング、ボランティア活動などに関して学び、小学生を指導する。 |
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TVドラマ「傷だらけの天使」のオープニングシーンに憧れて、コンビーフを食いまくる。 |
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中学生の頃より大薮晴彦の小説を読みふけるようになり、モデルガンに手を出す。 |
| '74 |
昭和49 |
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「航空ジャーナル」に投稿を始め、原稿料を手にする。 |
| '76 |
昭和51 |
4月 |
山口県立宇部商業高校入学。 |
| '76 |
昭和51 |
4月 |
シニアリーダー(ジュニアリーダーのさらに上位組織)構成員。このため市の社会福祉協議会と交流があり、福祉関係の仕事に就きたいという発言もあった。大学進学の際の進路決定にも影響。 |
| '76 |
昭和51 |
6月 |
このころ庵野秀明氏達と知り合う。庵野氏達の放課後の本屋のはしごの終点近くに実家があったことから溜り場となる。 |
| '76 |
昭和51 |
6月 |
宇部市内の高校の天文ファンのネットワーク
が市内の開(ひらき)の市営墓地(周囲に街灯がなく天体観測には好都合だった)で主催していた観測観望会通称「闇観」(学校非公認であることからこう呼ばれ、ばれたら全員無期停学ものだった?)に初参加。 |
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永山氏は真っ暗な中に真っ白な宇宙戦艦ヤマトの戦闘班のコスプレで現れ「私、永山と言います。」と名刺を切る。このときの名刺には既に5つくらいの肩書きが...。この日は眠気に負けて貫徹をはたせずに脱落。以後常連となる。 |
| '76 |
昭和51 |
7月 |
闇観の途中で曇天になる。墓場の中で肝試しを始める。このころは幽霊騒ぎは起こさなかった。 |
| '76 |
昭和51 |
7月 |
闇観の途中で再び曇天になる。観測を切り上げ K
氏宅にみんなで転がり込みトランプ大会。またもや眠気に負けて寝込んでしまう。何をされても起きないのをいいことに赤チンで髭を描かれる。次の日はマスクをして学校に行ったらしい。 |
| '76 |
昭和51 |
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このころ市内の造成地で二手に別れてロケット花火を打ち合うと言うチョット危険な遊びに興ずる。敵陣に花火を打ち込んでストックの花火を誘爆させ一発で雌雄を決する華々しい戦果をあげる。 |
| '77 |
昭和52 |
7月 |
闇観の途中でまたまた曇天になる。墓場の中で今度は円座を組んで怪談話を始める。ところが胡座の下から御骨が見つかり大騒ぎになる。闇観は一転して真夜中の御骨捜索会となる。御骨は相当数見つかる。見つかった御骨は付近のお寺に渡して供養してもらった。 |
| '77 |
昭和52 |
8月 |
ペルセウス座の流星群(8/13)の闇観に参加。あまりの流星の多さにみんな大騒ぎ。付近の住民が警察に通報。ピンチに陥るものの、社交性を発揮。お巡りさんに巧みに取り入り、ついには観測に引き込んでしまう。 |
| '77 |
昭和52 |
夏 |
映画「宇宙戦艦ヤマト」がついに山口県でも上映された。
東京では徹夜組が多数出たので、これはヤバイと前日の夕方に仲間と共に下関へ自転車で出発(距離42km)。夜に到着したが誰も並んでいなかった。 |
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映画館の人と交渉して館内に泊めてもらうが、多数の蚊の攻撃に悩まされる。当日はヤマト服を着て、他のお客さんにウケる。昔からコスプレが大好きだった。 |
| '77 |
昭和52 |
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同じ宇部市内の山口県立宇部高校在学中の同級生、庵野秀明氏たちとアマチュアアニメ制作グループ「SHADO」結成。 |
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SHADO内では、自らは実制作ではなく、もっぱら制作場所の提供・コーディネート・出品手続き・他団体との交渉などプロデューサー的役割を担う。(このため呼び名が「N氏」に) |
| '77 |
昭和52 |
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SONY所有の自家用機FALCON10を見に、友人と宇部空港に行く。顔パスで滑走路内に入り駐機中の機体に触って遊ぶ。友人のひとり藤田康英氏は永山氏のことををなんとすごい奴だと感心する。 |
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この頃、宇部空港職員に代り、マスコミ関係者を案内することもあった。石坂浩二をガイドしたこともあるらしい。 |
| '77 |
昭和52 |
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山口県立宇部高校文化祭にて美術部が上映した8mmフィルム作品の音響制作担当。 |
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制作に当たっては顔の広さを利用して作業場所の提供などを行う。作業が深夜におよび眠気がさしてくると奇声をあげ周囲にの人間に抱きつく変な行動に出るのにはみんな閉口する。 |
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友人たちのアニメーションの制作を全面的にバックアップ。そのため市内のあちこちの高校に出没するようになる。放課後や休日だけではなく平日の日中にも目撃例相次ぐ。とくに宇部高校では国語の教師Gから挨拶をよくする殊勝な生徒としての評判を得る。 |
| '78 |
昭和53 |
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この頃より毎年、宇部市常盤海岸にてSHADOを含む仲間たちでキャンプファイヤーを囲み夜を明かし、初日の出を拝むようになる。永山氏は初日の出に向かってインファント島民のような祈りを上げて、万歳の音頭をとる。 |
| '78 |
昭和53 |
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宇部商業高では放送部に在籍。卒業式のBGMに東宝特撮映画のサントラ、富田勲の「ノストラダムスの大予言/愛のテーマ」を流して好評を得る。 |
| '78 |
昭和53 |
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自主制作8mm「宇部沈没」制作/主演(小野寺 役) |
| '78 |
昭和53 |
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撮影中、誤って火災報知器を鳴らし、大騒ぎとなる。 |
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日中、バーのシーンを撮影中に店に出入りするところを補導委員に目撃される。後日、学校で呼び出しを食らうが。日頃の行いが幸いしてか事情を説明するだけで納得してもらい無罪放免となる。 |
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このころから着物に異常なまでの執着をみせていた。成人の日は心持ちにしていたらしい。衣装のことで「宇部沈没」スタッフとの対立をおこしたことも。 |
| '78 |
昭和53 |
10月 |
日本アマチュア天文研究発表大会(山口市)に出席。このときから中古で買い揃えた一眼レフカメラ&レンズ類を持ち歩くようになった(Minolta
SR101?)。研究発表よりはカメラを磨くのが忙しかったようだ。以後長期に渡ってMinolta派。 |
| '78 |
昭和53 |
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この頃、月刊OUTの関係で、徳山市で「宇宙戦艦ヤマト」の展示会を手伝う。 |
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波動砲ごっこ火傷事件(自らの臍を波動砲に見立てたて、臍の内側にアルミホイルを敷き、マッチの頭を詰めて着火。火傷したらしい。) |
| '78 |
昭和53 |
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飛行機に乗せてくれるというので友人の田村達夫氏と共に海上自衛隊小月基地に体験入隊。飛行機(KM-2)には乗れたが規則正しい生活が合わなかったようだ。 |
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高校在学中、小月、岩国、築城などの基地祭に行き、写真撮影。 |
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この頃の瞬間芸 おもむろに取り出した10円玉を鼻の穴に入れてみせる。 |
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航空自衛隊地上作業員の官給品と同じオレンジ色のつなぎ、安全靴など揃える。さらにレイバンのサングラスをかけて各地に出没。このため「オレンジ狸」の呼び名が? |
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「オレンジ狸」はけっこう有名だったらしい。「宇部市松島町オレンジ狸様」という宛名で葉書が配達されショックを受ける。この葉書はジュニアリーダーで世話をした小学生からの物だった。 |
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高校時代の移動手段はもっぱら自転車であった。友人達と銀輪部隊を組み市内狭しと走りまわる。とくに闇観の帰りには明け方の大きな通りいっぱいに展開し、ブルーインパルスよろしく編隊走行を行う。つねに隊長機となって編隊の指揮をとっていた。 |
| '80 |
昭和55 |
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アニメ・特撮専門紙「アニメック」へ「緊急司令10-4・10-10」の評論文を投稿。編集部絶賛。 |
| '79 |
昭和54 |
4月1日 |
花園大学 社会福祉学科入学。 |
| '79 |
昭和54 |
5月 |
ゴールデンウィークで帰省。宇部在住の友人を集めて実家の2階で宴会を催す。お酒が入ると普段の破天荒な行動からは考えられないような正論を吐き、お説教を始める。「永山は酔うと素面になる。」とまで言われる。 |
| '79 |
昭和54 |
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原付免許取得、原付バイク ホンダR&P購入。 |
| '79 |
昭和54 |
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京都SF喫茶「ソラリス」ウエイターのアルバイト。日本SF大会実行委員メンバー達と親しくなるきっかけとなる。 |
| '79 |
昭和54 |
8月 |
SHADO、作品集を制作。これがSHADOの実質的な第1作になる。このとき撮影現場に実家のお店の2階を提供する。真夏にエアコン最大にし、500Wの白熱灯を2灯使用したために、準備中だったお店のブレーカが落ちてしまう。 |
| '79 |
昭和54 |
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京都にて大塚製薬がスポンサーとなりチャーターした飛行船が不時着。修理中に写真を撮りに行き、オモリの役目もしたらしい。 |
| ? |
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宮崎「ハンググライダー選手権」スタッフ参加 |
| '79 |
昭和54 |
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まだ一般的ではなかったダウンジャケットを購入、愛用していた。しかし当時はクリーニング方法が確立しておらず、もともとはきれいな青色だったに違いないけど...という状態で着用し続けた。 |
| '80 |
昭和55 |
正月 |
実家のお店の別館に友人を招き新年会を催す。これは毎年恒例の行事となり「永山宴会」と呼ばれ、山口県在住の友人達にとっては特別な宴会となった。 |
| '80 |
昭和55 |
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SHADO、作品集を「PAF 6」に出品。 |
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PAFとはPrivate Animation
Festivalの略。全国の8mm、16mmの自主アニメーション作品を集めて東京、静岡、名古屋、大阪、北九州、仙台、函館などで上映するもので、まだそれほど盛んになっていなかった自主制作を奨励するためにアニドウが主催。第10回まで毎年開催された。 |
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主催のアニドウは、もともとはプロのアニメーション関係者が製作会社を超えて横に繋がり、アニメの研究と交流を行うために'67年に設立された団体。世界中のアニメーションの研究・交流に幅広く取り組んでいる。 |
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出品作品の実際の制作までに企画が二転三転したが、結局作画スタッフが各自に作った短編を作品集の形にまとめることになる。作画スタッフが制作に入ると永山氏は手持ちぶさたになり、作画が追い込みに入って時間のない作画陣を気分転換と称してサイクリングに連れ出す。 |
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サイクリングの目的はどうやら温泉だったらしい。ところが、途中でタイヤがパンク。サイクリングは中止となる。自転車をその場に放置し、二人のりで何とか帰り着く。このサイクリングで作画スケジュールに影響の出たスタッフもいた。 |
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大学生の夏休みいつでもどこでもページワンをしていた。以降日没とともに現れる永山におびえる人々が増える。 |
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着物の着付けの専門学校で着付けの資格を取ったらしい。この頃は着物マニアで、初詣など着物女性の現れるところにカメラを持って駆け付けていた。 |
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みすず書房より薦められ詩集を出版? |
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バルカンサインができなかった。バルカンサインとはSFシリーズ「スタートレック」で異星人バルカン人の挨拶の仕方。右手の指を伸ばして手のひらを相手に向け、人差し指と中指をくっつけ、中指と薬指はVの字型に離して開き、薬指と小指はくっつける。この中指と薬指を開くことが永山氏はできなかった。SFファンの集いの記念撮影などで、みなでバルカンサインをする時などは、左手の指を右手の中指と薬指の間に突っ込んで、無理矢理開いていた。 |
| '81 |
昭和56 |
8月21-22日 |
第20回日本SF大会「DAICON
III」(大阪森ノ宮ピロティホール)実行委員。大阪芸大の庵野秀明、山賀博之、赤井孝美の三氏をスタッフに引き合わせる。この3人はアマチュアアニメーションとして伝説的になった大会オープニングアニメーションのメインスタッフとなった。 |
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日本SF大会とは年に一度開催されるSFファンのコンベンション。主催団体は有志グループでの持ち回りで、1981年には関西の大学SF研連合を主体としたアマチュアグループが主催。大阪での3回目のコンベンションなので「DAICON
3」と呼ばれた。 |
| '81 |
昭和56 |
10月10-11日 |
第12回全国アニメーション総会(神戸タワーサイドホテル)に庵野氏達とともに参加。 |
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アニメーション総会は主に合宿形式で、作品上映や講演会、参加者同士の交流を楽しむことができる。毎年、名古屋、静岡、東京、大阪で持ち回りで開催。第1回目は'70年に名古屋でアニドウによって開催された。 |
| '81 |
昭和56 |
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この頃の捨て身の瞬間芸に「イデオンソード」がある。 |
| '82 |
昭和57 |
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KBS京都スチールカメラマン、主に資料映像を撮影していた模様。ジュラルミンカメラケースを担ぎ、原付R&Pで髪の毛を逆立てて走り回っていた。この頃は既に「アビアプレス」を名乗っていた。 |
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KBS京都「ファンタスレディースゴルフ」取材? |
| '82 |
昭和57 |
8月20-21日 |
第21回日本SF大会TOKON VIIIで上映されたDAICON
FILM「快傑のーてんき」出演(ヤクザ役)。DAICON FILMとはDAICON III終了後の実行委員会が、次々回大会(DAICON
IV)の宣伝活動とスタッフ育成 のために映画製作をはじめたアマチュアの映像制作団体。 |
| '82 |
昭和57 |
8月 |
DAICON FILM「愛国戦隊大日本」記録スタッフ |
| '82 |
昭和57 |
8月20-21日 |
第21回日本SF大会TOKON
VIIIコスプレ大会にて「怪人アッカーマン」(新田たつお氏作のSFギャグマンガ)に扮する。そっくり。あまりのばかばかしさにSFマガジン誌上で野田昌弘氏が言及。 |
| '82 |
昭和57 |
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SHADO、作品集を「PAF 8」に出品。 |
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この頃より友人の結婚式のプランニング、司会を多数引き受ける。 |
| '82 |
昭和57 |
'82秋-'83春 |
この頃、DAICONスタッフの溜まり場、十三のマンションに入り浸る。 |
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臍瞬着事件(腹の肉に瞬間接着剤アロンアルファの容器をうずめて見せびらかしていたところ、瞬着が流れ出し大騒ぎ) |
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鼻電球事件(鼻の穴に豆電球を突っ込み点灯させて見せびらかしていたところ、取れなくなって大騒ぎ) |
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桃谷駅で電車とホームの間に足を突っ込み、電車を止める。 |
| '82 |
昭和57 |
10月10-11日 |
第13回全国アニメーション総会(愛知県南知多 杉本屋本館)に参加。 |
| '83 |
昭和58 |
1月 |
4輪免許を取りたいといいながら結局取らなかった。以降しきりにドライバーの邪魔をしたがる。 |
| '83 |
昭和58 |
3月 |
DAICON FILM「帰ってきたウルトラマン」記録スタッフ |
| '83 |
昭和58 |
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SF専門店・ゼネラルプロダクツ「ジェットビートル」「ウルトラホーク」「ウルトラガン」「シービュー」等のキットの架空設定を創作。 |
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“ビートル”を“VTOL”と読み替えたのは永山氏のアイデア。のちに続出する特撮・アニメーションSFの設定考証のスタイルに少なからず影響を及ぼした。 |
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ゼネラルプロダクツとはDAICON
IIIを成功させた岡田斗司夫氏らが、SFビジネスのために'82年2月設立した店。'92年 ガイナックスと合併。SF関係のオリジナル商品を企画制作販売した。永山氏も製品の解説文執筆やイベント時のスタッフなど、いろいろなかたちで協力。 |
| '83 |
昭和58 |
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SHADO、作品集を「PAF 9」に出品。 |
| '83 |
昭和58 |
7月23日 |
「SHADO FILM TAKE 2」(宇部市青少年会館)アニメーション上映会プロデュース。 |
| '83 |
昭和58 |
8月20-21日 |
第22回日本SF大会「DAICON IV」実行委員 |
| '83 |
昭和58 |
10月9-10日 |
第14回全国アニメーション総会(静岡県寸又峡 旅荘すまた)に参加。 |
| '83 |
昭和58 |
10月29-11月6日 |
岐阜「'83国際航空宇宙ショー」取材。岐阜で開催。 |
| '83 |
昭和58 |
冬 |
「SHADO ANIMATION FILM」SHADO作品集上映会(宇部市青少年会館)をプロデュース。DAICON FILM作品も上映。大好評であった。 |
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映画「魔女卵」スチールスタッフとして参加。 |
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「週刊宝石」の取材もしたことがあるらしい。 |
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ゲームセンターで「唯一、俺のできるゲーム」と言っていたのが「ウルトラクイズ」。雑学ぶりを発揮して、100円で1時間遊べ、ゲームクリアしてしまうほどの実力だった。 |
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宇部の友人でギャラガの達人、宮崎氏がゲームをしていると必ず画面を隠す等の妨害工作を行う。 |
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日興堂LDカラオケ「なにわの女」台本・主演。撮影当日、俳優が現場に現れず、急遽出演した。 |
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「ザ・ベストテン」で浅香唯のセットで一瞬写るなんてこともあった。(浅香唯が「シーガール」を歌う中、大阪のタコ焼き屋で早食いコンテストが開催される。見事に優勝。) |
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バンダイの組立済プラモデル「ハイコンプリートモデル」(バイファム等)マニュアルのメカ解説文執筆。 |
| '84 |
昭和59 |
2月20日 |
「SHADO ANIMATION FILM 」(大阪府立文化情報センター)上映会プロデュース |
| '84 |
昭和59 |
3月 |
DAICON FILM作品「快傑のーてんき2・純愛港町編」絵コンテ |
| '84 |
昭和59 |
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「マクロスジャーナルスペシャル/VF-1 VALKYRIE」(Multi-configulation
Analysis Team発行)、SF考証執筆。制作は'83暮-'84春。 |
| '84 |
昭和59 |
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「SFイズム」の姉妹誌「ソフトマシーン」Vol.1(発行(株)シャピオ/販売(株)みき書房)に「メカニック七転八倒」執筆。連載となる予定だったが、掲載誌が1号で休刊してしまった。 |
| '84 |
昭和59 |
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「さよならジュピター特撮フォト大全集」(秋田書店発行)取材・撮影・執筆。東宝特撮映画「さよならジュピター」のメイキング解説ムック。竹内義和氏編集だが、事実上永山氏が取材・構成・執筆を担当。初めて1冊すべて単独執筆、撮影本となる。 |
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カメラバック盗難事件 「さよならジュピター特撮フォト大全集」取材のため上京のおり新宿の電話ボックスにカメラバックを置き忘れて盗難にあう。 |
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この頃はまだ自称「体重88kg、ウエスト88cm」ぐらいだった? |
| '84 |
昭和59 |
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83-'84年にかけて制作された「怪傑のーてんき2」絵コンテ担当 |
| '84 |
昭和59 |
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田村達夫氏(現全日空パイロット)と共にセスナ172に乗る。途中少し永山氏が操縦を行ったが、あのまま彼の操縦で着陸していたら...。 |
| '84 |
昭和59 |
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84年頃 北根 秀也 名義の執筆活動があったハズだが、詳細は不明。
いくつか週刊誌等のコラムが見かけられたが... (ペンネームの由来は「汚ねーや、ひでーや」)。 |
| '84 |
昭和59 |
9月22-24日 |
第15回全国アニメーション総会(東京
日仏会館)に藤田・水上・森・能登・樋口各氏とともに参加。この会の総会は宿泊企画はなしだった。舞台上でなみきたかし氏と対談する場面もあったらしい。 |
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総会終了後の帰阪は夜間の鈍行。座席の争奪戦で酔っ払いともめ、「ニュースカメラマンだ!」と追っ払い、嬉しそうにホームまで追いかける。 |
| '85 |
昭和60 |
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SHADO新年会にてワークショップ形式でのアニメーション「ミーチャン宇宙へ行く」制作をプロデュース。 |
| '85 |
昭和60 |
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大阪へ事務所を移転。 |
| '85 |
昭和60 |
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DAICON
FILM「八岐之大蛇の逆襲」主演。'84-'85にかけて制作された。演じた考古学者は、赤井孝美監督が永山氏自身をモデルにつくったキャラクター。LDも製作され、バンダイグループよりビデオが発売された。2001年にはガイナックスよりDVD化され発売。特撮監督が樋口真嗣氏であることから、2005年2月にはCS 日本映画専門チャンネルでも放送された。 |
| '85 |
昭和60 |
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(株)オフィスアークにてイベント制作業務に携わる。 |
| '85 |
昭和60 |
9月 |
DAICON FILMスタッフの指宿明氏よりHONDA
DAXを譲り受ける。が、結局投棄するまで名義変更しないままだった。 |
| '85 |
昭和60 |
9月15-16日 |
第16回全国アニメーション総会(神戸元町 清月荘)に参加。 |
| '86 |
昭和61 |
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イベント会社(有)ブレインズにアビアプレスのデスクを置くようになる。 |
| '86 |
昭和61 |
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関西TV深夜番組「エンドレスナイト」スタッフ、「エンドレスナイトマガジン」取材・撮影・執筆 |
| '87 |
昭和62 |
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「夢工場'87」運営本部大阪事務局スタッフ(インデックス大阪) |
| '87 |
昭和62 |
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オフロードバイク誌「月刊バックオフ」スタッフとなる。創刊2号(9月3日発売)に掲載された「カスタムプロショップ情報
関西編」がバックオフでの初めての記事。 |
| '87 |
昭和62 |
10月10-11日 |
第17回全国アニメーション総会(静岡県伊豆高原研修センター)に参加。総会終了後、竹内昭氏のジムニーの小さな後部座席に無理矢理納まって東京まで便乗。 |
| '88 |
昭和63 |
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バックオフ2月号(1月3日発売第4号、月刊化1号目)「林道ネットワーク」連載スタート(取材車輌はなんと原付YAMAHA
DT-50) |
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「林道ネットワーク」は「月刊バックオフ」でオフロードツーリングライダーに人気のコーナー。各地のスタッフが林道や未舗装道をオフロードバイクで実走調査・取材し、紹介する。オフロード情報源としてライダーのみならず4輪やマウンテンバイカーにも読者がいる。 |
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「林道ネットワーク」には永山氏は最初のフォーマット作りから参加。編集部から相談を受け、FAXで送った企画書がそのまま採用されたらしい。永山氏は主に関西・四国を7年以上にわたって取材してきた。 |
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また、「林道ネットワーク」には「ここはどーこだ!?(通称“ここどこ”)」という林道の写真から現地を当てるクイズ形式の読者参加コーナーがあり、根強い人気を博しているが、これも企画の発案は永山氏だった。 |
| '88 |
昭和63 |
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映画、「ブラックレイン」(89年米、リドリースコット監督)の大阪ロケのため、アシスタントを公募。松田優作ファンの永山氏は応募し最終選考の2名に残るが、惜しくも落とされる。理由は「英会話」ができないため。当人はその後数年間悔やんでいたようだ。 |
| '88 |
昭和63 |
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関西TV「素敵KEI-SHU 5」(月〜金・夕方5時放送)構成ブレーン |
| '88 |
昭和63 |
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「週刊ルームガイド」スタッフ |
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(株)プレスカンポウ「旅行業界専門情報誌トラベルビジネス」スタッフ |
| '88 |
昭和63 |
11月13日 |
「'88 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
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スーパークロスとはアメリカで開催されるようになった二輪レース。スタジアムに土を搬入、モトクロスコースを造設して行われる。3連ジャンプなどトリッキーなコースレイアウトが特徴。日本でも毎年企画・開催されている。 |
| '88 |
昭和63 |
12月末 |
酒が入ると公にできない替え歌を歌い、周囲のひんしゅくをかう。 |
| '89 |
平成01 |
1月 |
ブランコ系の遊具に対する恐怖心を克服するため、山口県阿知須の遊園地「子供の国」でトップスインガーに挑戦。昇降口の床を染める鼻血の染みにびびりながら乗り込むが、数回揺らした所で大絶叫、機械を止めて逃走する。 |
| '89 |
平成01 |
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月刊バックオフ2月号より「関西情報局」企画構成連載開始。 |
| '89 |
平成01 |
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月刊バックオフ2月号より「吉村太一のRide & Mind」企画構成。 |
| '89 |
平成01 |
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「林道ネットワーク」和歌山県の林道を
DT-50で取材中、チェーン切れ事件、タイヤバースト事件のトラブル続出。 |
| ? |
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よく近所の犬に「花子」とか勝手に名前をつけてかわいがっていた。 |
| '89 |
平成01 |
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「田舎暮しの本」取材・撮影・執筆 |
| '89 |
平成01 |
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「鈴鹿8H耐久レース'89」取材・撮影 |
| '89 |
平成01 |
7月 |
カラオケボックスでリストにないアニメソングを友人の人間カラオケで熱唱。二人の声があまりにでかく、ボックスの外に人だかりができる。 |
| '90 |
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「国際花と緑の博覧会」政府苑PRイベント企画制作 |
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「FROM A」スタッフ。読み物ページの企画・取材・撮影・執筆 |
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「FROM A」読み物ページで「暑苦しい顔コンテスト」グランプリとなる。 |
| ? |
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(株)情報センター求人誌「Sagas」スタッフ |
| '89 |
平成01 |
9月22日 |
第5回SSER取材、撮影。BACK OFF12月号掲載。このため、初めてSSER事務所のドアを叩く。 |
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「SSER」は四国で開催される二輪ラリー。企画・運営はSSERオーガニゼーションがあたる。SSERオーガニゼーションは当初任意団体であったが、初めて海外でのラリー「第1回ラリーレイドモンゴル」'95年の実施にあたり、モンゴル共和国との交渉等のため'94年に法人化された。 |
| '89 |
平成01 |
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中型自動2輪免許取得の為、愛媛県宇和町で合宿。卒業式に感動し、泣いてしまう。SSERの事務所に立ち寄って自慢する。 |
| '89 |
平成01 |
11月1日 |
中型自動2輪免許取得。しばらく友人佐藤氏のSERROWを借りて乗り回す。 |
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オフロードブーツ、ベルクロが締まらないのはなぜ? |
| '89 |
平成01 |
11月11日 |
「'89 JAPAN SUPER CROSS大阪」取材(大阪球場) |
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プルトップ事件(缶ジュースへ入れたプルトップタブを飲み込んでしまい大騒ぎ。プルトップ永山、プルちゃん、と呼ばれる。) |
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神戸ヤクザカー事件
(バイク3台で移動中ヤクザ3人にからまれる。「俺がおとりになる!逃げろ」しかしヤクザの車は他の2台を追跡...) |
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上記ヤクザと神戸の路上で偶然再会する。尾行して組事務所をつきとめたらしい。 |
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大阪駅前でタクシー運転手と運転をめぐり口論になるが非番の警察官を演じ切り撃退する。 |
| '90 |
平成02 |
2月より |
ゼネラルプロダクツ・ガイナックスの顧客向け会報「G-PRESS」にコラム「アザラシに訊け」を連載。(何度か休載はありましたが、掲載中だった) |
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ガイナックスはDAICON
IVオープニングアニメの制作スタッフを中核に'84年12月設立した映像製作会社。映画「王立宇宙軍・オネアミスの翼」が第一作。'89年パソコンソフトの制作にも進出。'95年から'96年にかけてTV東京系で放映されたアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」を制作、大ヒットさせた。 |
| '90 |
平成02 |
3月より |
取材車輌がHONDA XLR-250Rへ(6月号掲載の林道ネットワークから)。 |
| '90 |
平成02 |
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第2回ツール・ド・ブルーアイランド取材→BACK OFF7月号掲載 |
| '90 |
平成02 |
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「ツール・ド・ブルーアイランド」は四国全域2000km余りに設定されたコースを1週間にわたって辿る、国内では極めて希な二輪ラリーレイド。コースは移動区間(リエゾン)と所要時間が計測されるダート区間(SS)から成る。SSERオーガニゼーションが企画・運営にあたる。 |
| '90 |
平成02 |
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第6回SSER取材 |
| '90 |
平成02 |
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「鈴鹿8H耐久レース'90」取材・撮影 |
| '90 |
平成02 |
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紀伊半島の林道を取材。走行中ディスカウントテントのフライシートを落として紛失。日没後キャンプ場に着いてから気付く。夜半に雨が降り始めて、カッパをフライシート代わりにして寝る。 |
| '90 |
平成02 |
11月11日 |
「'90 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
| '90 |
平成02 |
11月18日 |
「'90 JAPAN SUPER CROSS東京」(神宮球場)取材 |
| '91 |
平成03 |
正月 |
山口県持世寺温泉の露天風呂で、隣にいた背中に絵がある人が風呂の中で屁をする。隣にいた後輩H.Sの仕業と思い、その場でH.Sに屁がすごく臭いと議論する。背中に絵がある人は沈黙、H.Sは逃げる。 |
| '91 |
平成03 |
2月17日 |
「TOKYO スーパークロス」(東京ドーム)取材 |
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プレスゼッケンの横腹の紐が届かないため肩掛けにして取材。 |
| '91 |
平成03 |
3月3日 |
宇部市在住友人M氏の結婚式のプロデュースおよび司会を担当。本年、結婚式司会50組を達成。 |
| '91 |
平成03 |
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第3回ツール・ド・ブルーアイランド取材→BACK OFF7月号掲載 |
| '91 |
平成03 |
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第3回ツール・ド・ブルーアイランド取材中立ち寄った温泉で、瞬間芸「宇宙戦艦ヤマト発進」を披露。オフィシャルの布袋氏にウケる。山田氏に怒られる。 |
| '91 |
平成03 |
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この頃には体重が常に100kgを越えるようになる。ちょっと高いところから飛び降りただけで足を骨折するのではないか等、心配事が増える。 |
| '91 |
平成03 |
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この頃は「SSER」ロゴ入りの蛍光オレンジのウインドブレーカーがお気に入り。借り物の2ストロークバイクに乗るときはオイルで汚さないように、乗ってる間だけわざわざ着替えていた。 |
| '91 |
平成03 |
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「鈴鹿8H耐久レース'90」取材・撮影 |
| '91 |
平成03 |
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8H耐取材機材をバイクへ荷造中にストレッチコードがはねて金具がメガネを直撃、レンズ破片が目に!鈴鹿サーキット内で病院へ。 |
| '91 |
平成03 |
8月8日 |
第7回Australian
Safari(オーストラリア/シドニー〜ダーウィン)取材→BACK OFF11月号掲載 |
| '91 |
平成03 |
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オーストラリアの広大な砂漠で行われるラリー、Australian
Safari取材では毎日チョコバーばかり食べていて、現地スタッフから「Mr.チョコバー」と呼ばれていたらしい。食べてるか、寝てるか、しゃべってるかだった。 |
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Australian
Safari終了後の現地人メディアドライバーの慰労会にて挨拶。みんなと別れるのがつらくなって泣いてしまう。オージーももらい泣き。 |
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Australian
Safariでは多数のオージーと友達になり、それまでの英語コンプレックスを克服。航空無線英語の知識を駆使して英会話を成立させるようになる。 |
| '91 |
平成03 |
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第2回SSER Group
N出場・取材。バイクはなんとホンダCRM80。サーカスのクマ状態。涙のゴール。 |
| ? |
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取材で新潟に行き、夜、居酒屋からビジネスホテルに帰る途中、追われるじゃぱゆきさんに遭遇。知人の教会にかくまう。 |
| '91 |
平成03 |
11月10日 |
「'91 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
| '91 |
平成03 |
12月1日 |
「'91 JAPAN SUPER CROSS東京」(神宮球場)取材 |
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サービス精神の旺盛な永山氏はレース場のごみ箱?から読者のためにとサイドカバーを入手することもいとわない。(もちろん、そこに選手のサインを書いてもらうのも忘れない。) |
| '91 |
平成03 |
12月 |
ヤンマーの農業生産者向け情報誌「トンボ会誌」創刊スタッフとなり取材開始。'92年一年をかけて、ある時は北海道、ある時は信州、四国、九州と全国の農業の現場を取材することになる。 |
| '91 |
平成03 |
12月 |
「篠山代官まつり」奉納ミニパレードにて七福神の大黒さまに扮する。TV、新聞でとり上げられる。 |
| '92 |
平成04 |
正月 |
「永山宴会」で酒の瓶をルーレット代わりに回し、瓶が向いた人間が一気飲みをするという遊びを始める。これを「ぐるぐる」と称して毎年強行するようになる。 |
| '92 |
平成04 |
正月 |
山口県持世寺温泉の露天風呂に友人H.S、M.Sと入っていると、またもや背中に絵がある人が入ってくる。緊張して永山氏がオナラする。眼鏡を外していたH.Sは絵の人に気付かず、大声で「おっさん屁こきよった」と永山氏を非難。永山氏とM.Sは逃げる。 |
| '92 |
平成04 |
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第4回ツール・ド・ブルーアイランド取材→BACK OFF7月号掲載 |
| '92 |
平成04 |
5月3日 |
第4回ツール・ド・ブルーアイランド取材中、深夜のSSの中で、女性の親子の幽霊に第3種接近遭遇。撮った写真は「真っ赤」しか写っていなかった。オフィシャルに救助された時は失神状態だった。 |
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ツール・ド・ブルーアイランドでは毎日のスタート地点とゴール地点・キャンプ地が移動。取材中に着替えや入浴がほとんど不可能となるのがTBIをはじめとするクロスカントリーレイドの常だが、途中そばを通りかかった街道沿いのラーメン屋から浮浪者と間違われて追い払われる。 |
| '92 |
平成04 |
5月14日 |
第1回ロシアン・ラリー(露、ウラジオストック)取材→BACK OFF7月号/FROM A掲載 |
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ロシアンラリーは愛車XLR250-RFでプレス参加。渡航前に整備に出すが、長年のクランクケースへの高加重で金属疲労によりオイル交換時にドレンボルト孔折損。ドレン穴を溶接してふさぐ。以後ギヤオイルは灯油ポンプで抜くこととなる。 |
| '92 |
平成04 |
7月31日 |
第8回SSER取材→Back Off10月号掲載 |
| ? |
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この頃Tamracのカメラマンベストを購入。いつでもどこでもカメラマンベストを愛用し始める。本人曰く「カメラマンっぽいだろ」。一種のコスプレでは...? |
| '92 |
平成04 |
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東京都杉並区の友人宅の近くで夜半、巨木に消える着物姿の女性の幽霊を目撃。 |
| '92 |
平成04 |
|
Australian
Safari取材出発を目前にして、転んで自重で左足膝の靭帯損傷。医療用サポーターを処方してもらっての海外取材となった。 |
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実は、お腹がじゃまで体育の座り方ができなかった。 |
| '92 |
平成04 |
8月8日 |
第8回Australian
Safari(オーストラリア/シドニー〜ダーウィン)取材→BACK OFF10-11月号掲載 |
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今回のAustralian
Safari取材ではチョコバーに代わり、液体のチョコを発見。やっぱり毎日飲む。 |
| '92 |
平成04 |
10月4日 |
長良川河口堰反対集会に参加。設営5秒の輸入テントを「いくらだと思う?」としきりに自慢するが収納に30分かかりその後使わなくなる。 |
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上記反対集会は友人に誘われて「単なるキャンプ気分」で出かけたのだが、「ちゃんと反対集会だった、だましやがって」と怒る。集会の模様がTVニュースでも報道されたが、「写ってしまったらどうしよう。公安にマークされる」と参加を後悔する。 |
| '92 |
平成04 |
11月8日 |
「'92 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
| '92 |
平成04 |
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関西テレビ「'92 JAPAN SUPER CROSS大阪」番組制作協力 |
| '92 |
平成04 |
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関西テレビ「ジェフ ワード引退記念」番組制作協力 |
| '92 |
平成04 |
11月29日 |
「'92 JAPAN SUPER CROSS東京」(神宮球場)取材 |
| '93 |
平成05 |
正月 |
「永山宴会」で「ぐるぐる」を執拗に強行する。しかし、自分の回した酒瓶がことごとく自分の方を向き、自爆してしまう。 |
| '93 |
平成05 |
1月3日 |
「今の俺にはこの位の親孝行しかできない」と友人に車を出させ、両親を地元宇部市の琴崎八幡宮に連れ出し、記念写真を撮る。 |
| '93 |
平成05 |
1月23日 |
AMAスーパークロス第3戦(米、アナハイム)取材 |
| '93 |
平成05 |
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自室に置いてあった服を着ると激痛が!中にいたゴキブリに噛まれたらしい。 |
| '93 |
平成05 |
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久々に飛行機のプラモデルを作るが、プロペラ4枚×4基分、計16枚すべてを折ってしまい「俺の指は太すぎる」と嘆く。 |
| '93 |
平成05 |
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宇部にて、深夜スナックの帰りに実家近くの屋台で頭痛でうずくまるヤンキー兄ちゃんを発見。家まで頭痛薬セデスを取りに帰り、兄ちゃんを救出。屋台のおばちゃんにほめられる。 |
| '93 |
平成05 |
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方南町路上ズボン脱ぎ事件 |
| '93 |
平成05 |
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友人U氏に向かって「そうかあ。いそがしいかあ。それでええんや。働いて、働いて、働いて、食って、働いて、食って、寝て、食って、食って、働いて、食って、寝て、働いて、食って、寝ておまえもじきに、こうなるんや。」 |
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この頃よくCDジャケットを腹の肉にはさみこんで「ホレホレ〜」と見せびらかしていた。 |
| '93 |
平成05 |
2月6日 |
「月刊BACK
OFF」'93年3月号より「CCRを体験せよ!」企画スタート。永山氏が執拗に編集部に提案した企画。 |
| '93 |
平成05 |
4月28日 |
第5回ツール・ド・ブルーアイランド取材→BACK OFF7月号掲載 |
| '93 |
平成05 |
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第5回ツール・ド・ブルーアイランド取材後、四国から下松経由で実家に帰る際、友人に駅まで迎えに来てくれるよう頼むが、上りと下りのホームを間違えて終電に乗り、午前1過ぎに回収されるはめになり大ひんしゅくをかう。 |
| '93 |
平成05 |
5月15日 |
AMAスーパークロス第14戦(米、パサディナ)取材 |
| ? |
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芦屋のお好み焼き屋で民事介入暴力事件に介入、おばちゃんを助ける。以後3割引となる。 |
| '93 |
平成05 |
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借り出した広報車両(オートバイ)KDX250で東京都内を取材中、イグニッションキーを折る。 |
| '93 |
平成05 |
夏 |
「トンボ会誌」創刊号。以後も「シリーズ最新農業」コーナーを担当。続けて日本中の農家を訪ねて取材する。 |
| '93 |
平成05 |
8月 |
第9回SSER取材。コース上の川で、ゲロを吐く。ウンチもする。 |
| '93 |
平成05 |
8月20日 |
第1回ツーリングTBI取材→Back Off11月号掲載 |
| '93 |
平成05 |
9月6日 |
BACK OFF'93年10月号「林道ネットワークSPECIAL」7周年記念企画 |
| '93 |
平成05 |
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「バイロンエアーショー阿見」(フジインバック主催)茨城県阿見飛行場で行われたラジコン飛行機による本格飛行ショーを取材、撮影。 |
| '93 |
平成05 |
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ずっと好きだったTVドラマ「傷だらけの天使」の屋上の部屋のロケ現場のビルを東京代々木でつきとめて、見に行く。 |
| '93 |
平成05 |
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伊豆の林道取材中、借り出したオートバイKLX250の鍵を折る。 |
| '93 |
平成05 |
10月23日 |
「ゴールデンカップ スーパークロス」(福岡ドーム)取材 |
| '93 |
平成05 |
11月14日 |
「'93 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
| '93 |
平成05 |
11月28日 |
「'93 JAPAN SUPER CROSS東京」(神宮球場)取材 |
| '93 |
平成05 |
12月 |
ウサギのぬいぐるみを購入。「う〜たん」と名付け自宅に。 |
| ? |
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この頃よりぬいぐるみキャッチャーでウサギのぬいぐるみを集めるようになる。「ぶんこ」「椅子うさぎ」など名前を付ける。以後渡米の折りに購入するようにもなり、「あかう〜」「あおう〜」「陶器う〜」など増える。 |
| '94 |
平成06 |
1月29日 |
AMAスーパークロス第3戦(米、アナハイム)取材 |
| '94 |
平成06 |
2月5日 |
AMAスーパークロス第4戦(米、サンディエゴ)取材 |
| '94 |
平成06 |
|
Aerospace Museum(米、サンディエゴ)会員 |
| '94 |
平成06 |
2月 |
この頃、住まいを西宮に移転。 |
| '94 |
平成06 |
3月 |
BACK OFF「沖縄ツーリング」取材。大阪南港よりフェリーに揺られて。しかし船中は船酔いで寝たきり。 |
| '94 |
平成06 |
4月 |
BACK OFF誌のために伊丹にて「陸上自衛隊オートバイ偵察部隊」取材。 |
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後日、基地祭のポスターのため、この時撮影したポジを無償提供。のみならず友人のGデザイナーに無償でポスターのラフスケッチを作らせる約束も勝手にしてしまう。さらに自衛隊広報部よりもらったお礼の戦闘食は独り占めしてしまう。 |
| '94 |
平成06 |
5月 |
第6回ツール・ド・ブルーアイランド取材→Back Off7月号掲載 |
| '94 |
平成06 |
8月 |
第10回SSER取材。直前にコースを
試走。山田徹氏が転倒したのを見て喜ぶが、自分も転倒して山田氏に踏まれる。 |
| '94 |
平成06 |
9月 |
タイソン土山氏と二人で「痩せよう」という話になり「アメリカのダイエットフード買ってきたから」と言っていたにも関わらず、翌日マクドナルドで食いまくっている所を目撃されて、忘れた振りをしていた。 |
| '94 |
平成06 |
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東京都杉並区の友人宅の近くので夜半に一杯飲み屋の窓にまたもや幽霊目撃。 |
| '94 |
平成06 |
10月 |
第5回SSER Group N取材 |
| '94 |
平成06 |
10月 |
「バイロンエアーショー阿見」(フジインバック主催)茨城県阿見飛行場で行われたラジコン飛行機による本格飛行ショーを再び取材、撮影、執筆。小学館「サライ」に掲載。 |
| '94 |
平成06 |
10月23日 |
「ゴールデンカップ スーパークロス」(福岡ドーム)取材 |
| '94 |
平成06 |
11月23日 |
「'94 JAPAN SUPER CROSS大阪」(西宮球場)取材 |
| '94 |
平成06 |
11月26日 |
「'94 JAPAN SUPER CROSS東京」(神宮球場)取材 |
| ? |
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北海道のレッキス牧場で見たウサギが飼いたくなり、なぜか自宅から遠く離れた東京の友人宅の庭での飼育を計画。 |
| '94 |
平成06 |
11月 |
第3回ツーリングTBIで再び幽霊騒動を起こす。 |
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ツーリングTBI取材途中四国のペットショップで見たウサギが飼いたくなり、再度友人宅の庭での飼育を画策。 |
| '94 |
平成06 |
12月 |
宇部の行きつけの喫茶店「らいぶ」の前に止めておいた原付を、酔っぱらいに蹴り倒される。注意したところ、いきなり顔を殴られる。病院でもらった診断書を手に「追い込みをかけたる」と息巻いていたが、仕事が忙しく断念。 |
| '95 |
平成07 |
1月17日 |
阪神大震災撮影取材、「FRIDAY」に掲載。地震発生時当人は西宮市の自宅で就寝中。
本棚が倒れ、枕元にあったちゃぶ台を直撃したが、当人は無事。 すぐにカメラを持ってオフロードバイクに飛び乗り、現地の取材を行った。 |
| '95 |
平成07 |
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以前からどうしても缶ビールを完全に飲み干すことができない。その原因にようやく気付いてショックを受ける。(首の後ろが太ってきたせいだった...。) |
| ? |
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宇部の飲み屋で酔った2人組のネエチャンに「ソンシー、尊師」と囁かれる。 |
| ? |
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飲み屋で私立探偵工藤(故 松田優作)になりきり、酔った学生に説教。 |
| '95 |
平成07 |
2月11日 |
USスーパークロス第5戦(米、サンディエゴ)取材 |
| '95 |
平成07 |
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アメリカ ホンダ(米、カルフォルニア)取材 |
| '95 |
平成07 |
4月2日 |
全日本モトクロス選手権 第1戦(多治見)取材 |
| '95 |
平成07 |
4月8日 |
USスーパークロス第10戦(米、ポンティアック)取材 |
| '95 |
平成07 |
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この取材の時ちょうどアメリカではイースターで、ウサギだらけだったため狂喜する。 |
| '95 |
平成07 |
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アメリカでモデルロケット(火薬で約4〜500mも打ち上げられ、パラシュートで回収する)を大量購入。日本モデルロケット協会への入会、神戸の埋立地での打ち上げを計画するがオウム事件、APEC開催に配慮し中止。 |
| '95 |
平成07 |
4月15日 |
全日本モトクロス選手権 第2戦(九州)取材 |
| '95 |
平成07 |
4月28日 |
第7回ツール・ド・ブルーアイランド取材撮影→BACK
OFF7月号掲載。全日本モトクロス選手権の司会・取材のため途中の日程を中断。このTBIの取材を機に、取材車両をYAMAHA TT250 Raidに。 |
| '95 |
平成07 |
4月30日 |
全日本モトクロス選手権 第3戦(名阪)司会・取材→BACK
OFF7月号掲載。終わるとすぐに四国へ。ツール・ド・ブルーアイランド取材を続けた。 |
| '95 |
平成07 |
5月10日 |
BACK OFFビデオ「ジェレミー・マクグラスのスーパーテクニック」コーディネート・写真撮影→BACK
OFF8月号表紙 |
| '95 |
平成07 |
5月13日 |
第1回ラリーレイド・モンゴル 車検取材。車検会場のコーディネートも永山氏だった。 |
| '95 |
平成07 |
5月14日 |
全日本モトクロス選手権 第4戦(鈴鹿)取材 |
| '95 |
平成07 |
|
天王寺駅ビルのペットショップでまたもや数匹のウサギ発見。「今すぐ全部買う」「この金額なら買える」「出張が多くて自宅では無理だけど東京の友人宅で飼ってもらう」など不合理発言多数。 |
| '95 |
平成07 |
5月27日 |
最後の林道ネットワーク関西編(奈良)取材 |
| '95 |
平成07 |
6月1日 |
不慮の事故のため他界。 |
| '95 |
平成07 |
12月22-23日 |
大阪 新梅田スカイビルにて「TAD'S
GALLERY 永山竜叶遺作展」開催。22日には親睦会も開催された。 |
| '96 |
平成08 |
6月15-16日 |
山口県 宇部市文化会館にて「TAD'S GALLERY in UBE 永山竜叶遺作展in宇部」開催。 |
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| 本年譜資料の作成に当たっては次の方々のご協力をいただきました。(順不同・敬称略) |
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(有)ブレインズ
(株)フィールド出版/月刊バックオフ
(株)グローブコンペティション
(株)SSERオーガニゼーション
(株)講談社/フライデー
(株)ガイナックス
(株)創英/トンボ会誌
関西テレビ放送
ウベニチ新聞社
宇部時報社 |
Jeremy McGrath
片野田 斉
千葉 英明
筒井 万里
岩見 淳子
田村 紀雄
米良 健一郎
指宿 明
竹内 昭 |
DAICON OBのみなさん
HAG
SHADO
藤田 裕之
小石川 杏
宇田 俊彦
衣笠 邦彦
岸 かおる
土山 洋 |
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