花園球場

 東大阪市が1979年ごろに近鉄バファローズの本拠地として計画した野球場。

 当時、近鉄バファローズは本拠地として日本生命球場を使っていた。本来の本拠地は藤井寺球場であるが、1958年に日本生命球場に進出すると、ほとんどの公式戦をこちらで行うようになり、藤井寺球場では年間数試合しか行われなかった。
 近畿日本鉄道は1973年に藤井寺球場に夜間照明を設置して、本拠地として復帰させようとしたが、同球場の周辺住民による「ナイター公害反対運動」により裁判にまでもちこまれて、同年10月にナイター工事禁止の仮処分を受けた。
 その後、近鉄は大阪府公害審査会に調停を申請したが、審議はほとんど進展せず、藤井寺球場のナイター化はとどこおっていた。近鉄バファローズは1974年以降、年間十数試合を藤井寺球場で消化するようになったが、それでも大半は日本生命球場を用いていた。

 この状況に目をつけたのが東大阪市である。
 東大阪市松原南にある大阪外国語大学花園運動場が1979年夏に移転するので、東大阪市は1978年10月にこの跡地を中心にナイター設備のある本格的な野球場を誘致することを決めた。そして
近畿日本鉄道に野球場建設とプロ野球近鉄球団の本拠地移転を申し入れることになった。
 大阪外国語大学花園運動場は近鉄
奈良線東花園駅から北1kmにあり、広さは約3.3ha。ラグビーのメッカとして知られている近鉄所有の花園ラグビー場、同第二ラグビー場、花園ゴルフ場に隣接している。大阪外国語大学が箕面市に移転するに伴い、同運動場も東大阪市に払い下げられることになった。
 東大阪市は跡地利用を検討した結果、払い下げを希望している近鉄に野球場をつくってもらうことが最適という結論になり、誘致することとなった。近鉄側は幹部が相次いで東大阪市長を訪ね、近鉄内部で野球場建設の可能性が検討されていることが伝えられていた。
 近鉄は藤井寺球場の問題が滞っており、本格的な野球場を他に造るべきだという声が出ていたことと、1979年にラグビー場が開設50周年を迎え、これを機会に行われるラグビー場改装計画と連動する形で野球場構想が検討されることになった。
 東大阪市は大阪外国語大学花園運動場が野球場建設に適している理由として、1.公園面積がたっぷりあり住宅地と離れていること、2.50年近い歴史をもつラグビー場に野球場が加われば、スポーツのメッカとしてイメージアップできること、3.大阪市内から電車で約20分の近距離で、周辺の道路も整備されており、近鉄東大阪線も近々開通する予定、などをあげた。

 東大阪市の熱意もあり「花園球場」の実現の可能性は小さくなかった。
 1980年10月15日付「報知新聞」では見出しに大きく「近鉄に新球場」と載せ、花園球場の概要として以下のように記載した。
 東大阪市に近鉄の専用球場が誕生する。これは同市が都市計画の一環として、花園ラグビー場横の大阪外大花園学生寮跡地に建設する花園球場=i仮名、57年完成予定)で収容能力三万人以上、人工芝、ナイター設備など完備した近代的なもの。
 以前は屋根付き球場の建設構想もあがっていたが、財政問題でこれは宙に浮いた状態になった。

 この構想は徐々にかわっていき、野球場を新設するのではなく、既存のラグビー場を衣替えした人工芝の多目的スタジアムとすることになった。観客収容は4万人から5万人で、ラグビーやプロ野球だけでなく、サッカーやアメリカンフットボールもできる。大阪難波にある府立体育会館を移転新築し、テニスコートや温水プールを設け、一帯を総合スポーツゾーンにするという大きな構想となった。

 しかしながら、1983年9月に大阪地方裁判所が1973年の仮処分決定を取り消す逆転判決を言い渡し、近鉄は藤井寺球場でナイター工事が再開できるようになった。藤井寺球場は1984年から近鉄バファローズの本拠地球場として復帰し、4月6日に待望のナイターが行われた。

 一方で花園球場構想、多目的スタジアム構想はどうなってしまったのだろう。近鉄花園ラグビー場が現存するということは立ち消えになったと思うが、いつ消えたかはわからない。現在、ラグビー場の東隣には総合スポーツゾーン計画のあった花園中央公園がある。

参考
朝日新聞,1978年10月26日
報知新聞,1980年10月15日

野球場誌へ戻る