☆大依羅神社 〜 おおよさみじんじゃ (住吉区) 大阪市住吉区庭井2丁目にある神社。延喜式内名神大社。旧府社。 祭神は、建豊波豆羅和気王・底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・表筒之男命(うわつつのおのみこと)。 祭神については古来から異説が多く、 大己貴命(おおなむちのみこと)・月読命(つきよみのみこと)・垂仁天皇・五十猛命(いたけるのみこと)とするものもある。 (設陽郡談・摂津名所図会) 当地は、「和名抄」の住吉郡大羅郷(おおよさみのごう)の地であり、 「続日本紀」天平勝宝2年8月16日条に「摂津国住吉郡人外従五位下依羅我孫忍麻呂」と見え、 「新撰姓氏録」摂津国皇別に「依羅宿禰、日下部宿禰同祖、参坐命之後也」とあるように依羅氏の本貫地と思われ、その祖神を祀ったのが起源であろう。 「日本書紀」神功皇后摂政前紀9月10日条に「和魂服王身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船、即得神教而礼拝之、因以依網吾彦男垂見為祭神主」とあり、 社伝では神功皇后の三韓侵略に際して住吉三神を祀ったのを当社の創祀としているが、矛盾する点もある。 歴代朝廷の崇敬が篤く、「新抄格勅符抄」所収の大同元年牒には、「大依羅神、十八戸<津国八戸、備前十戸、天平神護元年奉充>」とあり、 承和14年7月4日には修造がが加えられ官社と列している。(続日本後紀) さらに貞観元年正月27日従五位下勲八等から従四位下の昇叙し、同年9月8日風雨祈願のために幣帛を奉り、 元慶元年6月14日には石清水・賀茂などとともに幣帛を奉って甘雨祈願がなされ、同3年6月14日には神財を奉られている(三代実録)。 さらに、延喜9年9月13日に正二位が授けられた。(日本紀略)「延喜式」神名帳住吉郡条に「大依羅神社四座<並名神大、月次相嘗薪嘗>」とあり、 延喜式内名神大社となっており、さらに同祈雨神祭条・八十島祭条にもその名が見える。 正暦5年4月27日にも疫癘のために中臣氏人を使いとして伊勢・石清水・住吉などとともに幣帛を奉られており(本朝世紀)、 寛仁元年10月2日には1代1度神宝使ぼ宇佐への発遣に際して紫綾蓋・平文野剣・赤漆御弓・箭・鏡などの神宝が当社に奉られ(左経記)、 さらに永万元年6月日の神祇官諸社年貢注文には「神祇官御年貢進社事、摂津国、大依羅社<米池内地子>」とあり(平遣3358)、 保安元年の摂津国正税帳案にも「当年田租穀頴、雑散、大依羅神戸捌烟、租稲参佰弐拾束」と見える(平遣補45)。 このように当社は石清水・住吉などに順ずる高い地位を有していたことが理解できるが、これはいつのころからか住吉3神を祀り、 住吉神社の摂社となっていたことに由来すると考えられる。その後の沿革は未詳だが、 「日本書紀」に崇神天皇62年に造営されたと伝える依網池が近世になって次第に開拓されるにしたがって依網池を管掌していた依網氏も衰退し社運が衰え、 社務は神宮寺である大聖寺の別当にゆだねられるようになり、祭神も未詳となっている(和漢三才図会)。 社殿は万治2年8月に造営されたと伝えるが、昭和44年に本殿が火災により全焼した。境内末社として道祖神社・稲荷社・菅原神社・神功皇后社がある。 ☆庭井 土地の沿革 江戸期の大和川開削により同川両岸に分断されたが、当時はその右岸に位置する。地名は庭井の清水とも呼ばれた依羅井にちなむ。 (全志3)依羅氏の居たところで、住吉の依羅の原、依羅の里にあたると言う。(同前) 地内に「延喜式」神名帳に「住吉郡廿二座」のうちとして見える「大依羅神社」がある。 ・にわい村 (中世) 戦国時代から見える村名。摂津国住吉郡五ヶ荘のうち。 戦国期の作成と推定される宝徳3年正月11日の河内国鋳物師座法の署判の一つに「にわい村七人代国清(花押)」とある。 (真継文書/名古屋大学文学部研究論集) ・庭井村  (江戸期〜明治22年の村名) 住吉群に属する。 元和元年大坂藩松下氏領、同5年幕府領、万治3年大坂定番板倉氏領。同氏は京都所司代、老中を歴任、 寛文12年移封により下野烏山藩領、天和元年から幕府領。 村高は摂津高改帳によれば天和2年ごろは東成郡のうちに見え305石余、摂津草高帳も同高、「 天保郷帳」は344石余、「旧高旧領」では住吉郡に170石余、和泉国大鳥郡に庭井新田・同流作とも173石余。 なお「依羅郷土史」によれば天正11年の村高は128石余、慶長17年に305石余。 宝永元年の新大和川開削により反別6町3反余、高91石余が同川敷となり、同川により地内は南北に分断された。 河北分は170石余、河南分は42石余と新田・流作分131石余(全志)。 依羅池がある。「五畿内志」によれば、俗に仁右衛門池と呼ばれ新大和川開削によりその3分の2が川敷となり今は広さ660余畝という。 河敷のほか宝永2年には播磨姫路藩主・同明石藩主を普請奉行として池床の新開がなされたという(全志3)。 なお同池を源にして今川に合流する巨麻川がある(五畿内志)。 神社に式内社大依羅神社がある。同社頭が庭井よさみ…な訳はなく、いわゆる依羅森、本殿の西には庭井の清水とも呼ばれた依羅井、 同社西南の小高い地が往古黄金の神興を埋めたという御神興塚にあたる。 寺院に元禄10年創建の浄土真宗大派安楽寺がある。 明治2年大阪府に所属。同9年人口191人。同22年に依羅村の大字となる。 ・庭井   (明治22年〜大正14年の大字名) 地名:大阪府住吉郡依羅村大字庭井 明治24年時点の戸数41、♂109人、♀106人。幅員は東西2町、南北1町。(微発物件一覧表) 大正9年時点での農業戸数は45.大正14年4月1日をもって大阪市に編入される。 ・庭井町  (大正14年〜昭和56年の住吉区の町名)地名:大阪市住吉区庭井町 昭和34年に府立阪南高校創設。現在の部分で言うと、苅田1〜10・庭井1〜2丁目にあたる。 ・庭井   (昭和56年〜  の住吉区の町名)地名:大阪市住吉区庭井(1〜2丁目) 元の場所は同区苅田町1〜11・庭井町・我孫子町の各一部。