穴熊裁判に見る愛棋家たちの特質


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 興味深い裁判が続いている。柳美里の小説に関するそれも論じてみたいところではあるが、ここでは「居飛車穴熊」の元祖をめぐる裁判の方についてである。なお、筆者は法学の徒でも何でもなく、また裁判に関する詳しい経緯などを知っているわけではない。そのことをあらかじめ述べておくとともに、将棋に対して関心がある者の大多数も、おそらく私と同じように当裁判に対して詳しい知識などないわけであるから、「知識のない者が勝手に語るな」という反論が無意味であることを立証しておいて本題に入る。知識なき大多数がどのように感じたのか、それを書き連ねることにむしろ意義があるはずだ。ついでにこの評論は、読者諸兄が将棋について一定の知識があることを前提として書かれている。
 さて、その裁判というのをかいつまんで説明すると、田中寅彦九段の「私が居飛車穴熊の元祖」という言葉に精神的苦痛(でよかったっけかな?)を受けた「居飛車穴熊の本当の(?)元祖」大木氏が訴えたという内容である。結論としては「両者とも元祖」という判決になり、結果的には原告敗訴という形になったわけだが、まず筆者の周囲の将棋愛好家たち(平たく言うと筆者の所属する将棋サークルのメンバー)数人に意見を聞いてみた。
 ある人(ちなみに法学部)いわく「売名行為でしょ」。
 またある人は「居飛車穴熊の前に(振り飛車の)穴熊だってあったわけだしね」。
 以下は省略するが、おおむね「判決は妥当ではないか」という趣旨の答えが帰ってきた。そして大きな共通点は、


誰もこの裁判が新聞に掲載される前に、大木氏のことを知らなかった


 そして筆者もまたしかり、である。実際問題として結果的には立派な「売名行為」にこの裁判はなったと言えるし、また「居飛車穴熊の前に振り飛車の穴熊があった」という指摘には私も納得がいく。
 「両者とも元祖」という判決に関する私の感想は「アマチュアである者がプロと同等に列せられるのだから名誉なことではないか」というものだった。しかし大木氏はおそらく、自分のみが元祖であるという思いを抱いて訴訟を起こすに至ったはずである。しかも、その際に要求した金額が確か何百万とかいった単位だったと記憶しているが、たかだか「元祖」という尊称をめぐるにしては驚愕に値する金額であると考えるのは私だけであろうか。
 そもそも「田中寅彦九段が、大木氏の存在を知らなかった」または「私が元祖という台詞に、『プロにおける』という言葉が無意識的に省かれていた(省いても支障はないと考えていた)」可能性は多分にあるわけであるし、実際問題筆者は両者とも真実であると思う。
「誰もあんたのことなんか、将棋を少しかじった者やアマチュアの強豪の一部(あるいは多数?)でさえ知らないんだから、そんなお門違いの裁判なんか起こすのはやめろ」と言ってしまえばそれまでだが、それでは評論にならないので、角度を変えて「このような、いささかお門違いとも思える裁判を起こす者の精神構造はどのようになっているのか」について考えてみる。
 それにはアマチュア愛棋家、それもとりわけ「強豪」と呼ばれる者の特質を調べてみるのが近道になるはずだ。
 将棋におけるアマチュア強豪だけでなく、プロ棋士を含めた者たちは概して「自意識が(過剰に)強い」。ゆえに「元祖」であるはずの自分をさしおいて「自らが元祖である」という者が登場すれば、それがたとえプロであろうとも自意識にダメージを受ける。無意識のうちに、半ば自分が侮辱されたというような受け止め方をするのであると思う。このあたり、自意識過剰が転じて、傲慢へとつながっているようにも感じられる。
 なぜ自意識が強くなり、傲慢になるのか。端的に言って「将棋が強く、勝負に勝つから」であるという大胆な仮説を立ててみる。
 将棋の世界というのは、たとえそれがアマチュアであっても、「己が一番」といったような認識を持つ者が多い。逆に言うとそうでなければ勝てない。そしてそれを単なる妄想ではなく、現実に近づける方法は明白である。現実に近づける方法が明確であるがゆえに、「己が一番」と自らを鼓舞するといった表現が成り立つかもしれない。その方法とは、「将棋に勝つ」「勝ち続けて大会などで優勝する」「優勝し、タイトルを取る」。
 これらを自らの手で勝ち得た者は、周囲から「強い」などと認識されるようになり、羨望を集めることになる。というよりも、そのはるか前から「強いと認識される自分」「羨望を集める自分」をイメージしている者も多いはずだ。なにせ「自意識が強い」わけであるから。
 将棋というゲームは1対1で勝敗を競う。競うのは純粋に将棋の力のみであるはずなのだが、はたから見てるとそれに「知力」「人間性」などの要素を混同しているとしか思えない者のなんと多いことか。こうした輩が強豪と目されるになると、将棋面のみならず様々な面において自分は他人より勝っているという態度が言動の節々から見て取れるようになる。先に述べた「傲慢」である。
   将棋というのは言い換えれば、盤上という仮想的空間の中で「明白に」相手を打ちのめすゲームであるのだから、なおのこと人が「傲慢」になる要素が含まれているのかもしれない。
 「自意識」と「傲慢」。この二つが、訴訟を起こすに至ったキーワードであると思う。
 蛇足ながらつけくわえると、三つ上の「競うのは純粋に……」ではじまる一文の「将棋の力」「知力」「人間性」という部分を任意に変えることによって、人間という生き物の本質が現われているような気がする。なにもこれは筆者のみの感想ではあるまい。