張飛 〜もしかしたら美形の知将〜

 張飛伝には『若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。』と書かれている。
 三国志演義と同じく、劉備や関羽を兄として慕っていたのだろう。
 ただ、『若いとき』とあるので、まだ10代の不良少年だったのかもしれない。

 張飛の活躍といえば、長阪での一喝が有名だ。
『劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向かった。曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせて矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはぜず、そのため先主は助かった。』
 このときの追手は精鋭の騎兵5千騎だった。
 それを20騎で防がせようというのだから、ムチャな注文だ。
 ただ先主伝(劉備伝)には『先主が妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走したため、』とあるように二十騎でも全兵力の半数だったかもしれない。情けないことだが。

 あちこちの伝で『妻子を棄て』と書かれなくてはいけないほど、このときの劉備は追い詰められていた。
 それを救ったのが張飛だった。
 戦いの勝敗を決するターニングポイントと言うものは、個人に収束するときがある。
 どんな軍勢を率いていても、個人の意思と実行力がなくては、それはただの集団にすぎない。
 小人数を率いる張飛は気迫と戦術で五千人を圧倒したのだ。

 ただ、この活躍はどう言うものなのかわかりにくい部分がある。
『飛據水斷橋(張飛は川をたてにして橋を切り落とし)』たのだから、橋を破壊する工作が張飛に与えられた任務だったのだろうか。
 橋を壊す間、張飛は川を盾にして曹操の騎兵隊を押し止めたのだろう。
『據』は略字にすると『拠』であり、漢語林によれば「よる。すがる、たよる、たのむ。たてこもる。」などの意味がある。
 この場合は「水をたよりに(利用し)橋を断った」と言うことなのだろう。
 小説のように橋の上で吠えるというのは現実味がない。そんなことをすれば、誰も近づかないで5千人が弓矢で1回ずつ撃ってハリネズミだ。
 だから、支流などの小さな川にかかる橋を先に破壊し盾として、その後ろにある大きな川の橋を破壊するまでの時間を稼いでいたのだろう。
 流れの穏やかな川なら橋がなくても渡ることはできる。ただし、渡河中の軍は非常に弱い。
 曹操軍はその弱点をさらしてまで、思いきって川を渡ろうとしなかったのだろう。
 演義では猪突猛進のイメージがある張飛だが、正史ではこう言う地形を利用した戦いを得意としている。

 漢中における戦いでも、張飛は見事な戦術をみせている。
『張コウは、別に諸軍を指揮して巴西をくだし、そこの住人を漢中に移住させようとして、宕渠・蒙頭・盪石に軍を進め、張飛と相い対峙すること五十日以上に及んだ。張飛は精鋭一万余人を率いて、別の街道から張コウの軍を迎えて交戦したが、〔張コウの軍は〕山道が狭いため、前と後ろが助け合うことができなかった。張飛はかくて張コウを撃破した。』
 孫子の兵法で言う『正を以って合い、奇を以って勝つ』を地で行くような戦いっぷりだ。
 正史の張飛は大軍を前にしても動揺しない胆力と、敵の弱点を見極める判断力をもっていたようだ。

 正史には『そのむかし、張飛の勇猛ぶりが関羽に次ぐものであったので、魏の謀臣程cたちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞賛していた。』と書かれている。


 演義での張飛は『燕人・張飛』と号しているが、それは彼の出身が幽州タク郡であり、この辺はかつての燕国なので、そう言っているのだろう。
 なお、幽州は騎馬民族との国境に近く強兵が多い。烏丸伝注の「魏書」にも烏丸の率衆王の『無可たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡・上谷・タク郡・五原で略奪を働いた。』とある。
 日本の感覚で言えば「薩摩隼人」と言う感じだろうか。京都出身と言うより強そうだ。


 張飛の外見について史書に記述はない。もっとも三国志では外見が書かれている人のほうが珍しいのだが。
 張飛の長女は劉禅の妃となり、皇后に立てられ(223年)、敬哀皇后となった。
 敬哀皇后が亡くなる(237年)と、その妹を宮中に呼び、翌年の正月に皇后となった。彼女、張皇后は蜀の滅亡後も劉禅のお供をして洛陽に移っている。
 張飛の一族が重役になっている訳ではないので、2人の娘がそろって皇后になっているのは純粋に彼女たちが美人だった可能性が高い。
 つまり、父親の張飛も実はハンサムだったのかもしれない。

 なお、張飛には2人の男子がいた。
『長男の張苞は若死にしたので、次男の張紹があとを継ぎ、官位は侍中・尚書僕射にまで昇った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に随行して、緜竹においてケ艾と戦って戦死した。』
 演技では活躍する張苞は、張飛よりも早く亡くなったようだ。
 諸葛亮の子の諸葛瞻と、張飛の孫の張遵は共に親たちが作り育てた蜀と言う国に殉じている。さり気ない1文だが静かな思い入れを感じる。
 なお、侍中は三品秩の役職で、天子の側近にあり、下問に備え、落度を補う。
 尚書僕射は三品秩の役職で、文章の開封、銭穀の受納・仮貸を扱い、官吏の考課任免に当たる。
 尚書は三品秩の役職で、軍事・政治の重要な職務を分担する。
 と言う感じで全部文官で最高責任者ではないが、どれも重要な役職で侍中以外は実務系だ。
 これらは優秀でないとこなせない職務だろう。

 遺伝をあまり重視したくはないが、子の事を考えると張飛は、もしかしたら美形の知将だったのかもしれない。
(03/3/23)



張飛がおおいに長坂橋をさわがせた件について

 張飛の活躍でひときわ輝いているのが長阪橋での仁王立ちだろう。
 襲いかかる曹操の大軍を張飛が単騎でくいとめるエピソードだ。

『先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせて矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはぜず、そのため先主は助かった。』蜀書「張飛」)

 ただ、この話は状況がワカりにくい。
 このワカりにくさは誰しも気がついているのだろう。
 作家の酒見賢一も、イロイロ考えてたようだが結論が出ていない。(泣き虫弱虫 諸葛孔明 第弐部
 私も答えがわからないので、ごまかして書いている。
 映画の『レッドクリフ』に、長阪橋のシーンがないのは映像化しにくいからだろうか。

 だが、答えが気がつかないだけで、すぐそばに落ちていた。
 張飛と戦ったのは曹操である。
 その曹操が編纂した『孫子の兵法』に答えが書かれていたのだ。


 まず、張飛の行動が不可解であるという点をおさらいしよう。
(1) 張飛は二十騎を指揮する
(2) 張飛は川をたてにして橋を切り落とす
(3) 目をいからせて矛を小脇にして名乗りをあげた
(4) 誰も思いきって近づこうとはぜず時間をかせいだ

 問題は(2)(3)だ。
 橋を落としたのに、こっちに来いというのはあまりに無体であろう。
 川の中を泳げというのか?
 そりゃ、(4)のとおり誰も近づけまい。
 と、いうワケで小説などでは、(1)→(3)→(4)→(2)という順番にえがかれている。

 さて、孫子の兵法からみると張飛の行動は○か×か?
 答えは×だ。まあ、オマケすれば△にはなるらしい。
 孫先生がおっしゃるには『敵が川を渡って攻撃してきたときには、敵軍がまだ川の中にいる間に迎え撃ったりせず、敵兵の半数を渡らせておいてから攻撃するのが有利な戦法である』だ。(孫子・行軍篇:参考
 私は、この文を見て読んでいたにもかかわらず、意味をまるで理解できていなかった。
 なぜ、「半数を渡らせておいてから」なのだろうか?


 松村劭『戦術と指揮』(AA)では、河川の防御を次のように説明している。
 川岸で敵を迎えうつ場合、敵は渡河せずに川をはさんでの射撃戦になる。
 また、自軍が敵に発見されやすく狙われた場合、命中率も高くなるのだ。
 しかし、半数の敵を渡らせると、敵が態勢をつくれないうちに攻撃を加えることができる。
 『敵戦力が河川によって半分に分断された弱点に乗ずるのだ。』
 だから、川の敵は半分渡らせてから攻撃せよ、ということらしい。

 つまり、張飛は川をはさんだ射撃戦を挑んだことになる。
 地の利をいかさずに五分の勝負を挑んだのだ。
 あえて優位を捨てるとは? まさか、これは孔明のワナか!?
 と、曹操が疑心暗鬼にとらわれたかどうかはともかく、張飛の行動に納得できるようになった。
 20人の部下と川岸に立って「やってこい。(射撃戦で)死を賭して戦おうぞ」と言ったのだろう。
 矛をわきに抱えていたのは、イメージ映像と思っておきましょう。

 これなら、なぜ曹操軍が近づかなかったのかも説明できる。
 曹操軍は劉備軍を追いかけるため、騎兵の部隊を先行させていたのだ。

『曹公は、精鋭の騎兵五千をひき連れ急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を馳(か)けて、当陽の長阪[橋]で追いついた。』蜀書「先主伝」)

 つまり、張飛と対峙したのは軽騎兵だ。
 武装は弓と馬上でもつかえる片手用の弩ぐらいだろう。矢の数もあまり無いと思われる。
 張飛はそれに対して、歩兵が使う両手で弦を引く弩を用意したことだろう。矢もじゅうぶんにありそうだ
 射撃戦をした場合、張飛のほうが圧倒的に有利といえる。

 兵法の基本から外れているが、現場の状況にあわせた見事な戦術だ。
 まさに川を盾として敵軍をくいとめたのだ。
 ただ、二十騎ではいくら何でも数が少ない。
 張飛の背後に見えないだけで、強力な弩兵がいると思われたのだろうか。

 兵法にはうるさい曹操だが、自分の組み立てた理論の上を行く応用を張飛に見せつけられた。
 もしかしたら、何も考えずに川岸へ陣を構えただけかもしれないけど。
 戦術理論で敗北したため、曹操はかなり悔しかっただろう。
 この屈辱を忘れるには、大きな勝利を得るしかない。
 曹操が強引に呉を攻めたのは、この時の無念が原因だったりして。
(08/11/15)

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