趙雲 〜郷土の英雄〜

 三国志の武将の中でも特に人気があるのが、趙雲、は子龍である。
 冀州常山郡真定県の出身であることから、三国志演義では常山の趙子龍と呼ばれることが多い。なんとなく地域密着型だ。
 日本の感覚だと、越後の竜とか、甲斐の虎とか、大阪の食いだおれとかそんな感じだろうか。

 正史本文には書かれていないが、注の趙雲別伝には彼の容貌が描写されている。
『趙雲は身長八尺あり、姿や顔つきがきわだってりっぱだった。〔趙雲伝 注・趙雲別伝〕』
 世間でいうところの蜀の五虎将(関羽張飛・馬超・黄忠・趙雲)の中で身長が分かっているのは趙雲だけだ(注のデータですが)。もしかしたら、この中で一番大きい人だったのかもしれない。
 体格というのは強さの基本に関わる。柔道やボクシングだって体重別に分かれている。
 普通の学校では背の順に並ぶとき、先頭は背の低い人間だが、陸上自衛隊では背の高い者が先頭になる。その方が威圧感が出るかららしい。(参考「逃げたいやめたい自衛隊」著:根津進司)
 そんな訳で、趙雲は威圧感のある強そうな人だったのだろう。


 趙雲は『もと公孫サンの配下であったが、公孫サンが先主を派遣して田楷を助けて袁紹を防がせたとき、趙雲は随行することとなり、先主の主騎になった。〔趙雲伝〕』
 主騎とは直属の親衛隊という感じだ。
 そう言うポジションにいたのだから、やっぱり個人の武勇も優れていたのだろう。
 当時の劉備は公孫サンの一部将にすぎない小さな存在だが、やたらと戦争を経験していて妻子を何度も棄てて逃げ出している人なので、彼の護衛をするのは大変だと思われる。
 趙雲は223年に中護軍・征南将軍になっている。中護軍は近衛軍に所属する。やっぱり、親衛隊というポジションが似合うのだろう。


 趙雲といえば長阪での活躍が外せない。
『先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃亡したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘婦人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危機を免れることができた。〔趙雲伝〕』

 三国志演義ではこのシーンは趙雲の一騎駆けとして大活躍させている。
 戦場を単独行動するのは自殺行為なので部下も連れていたのだろうが、それでも小人数だったのは確かだろう。先主伝には『先主が妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走したため、』と書かれている。
 小人数での、命がけの逃亡劇だったようだ。

 曹仁の弟・曹純は長阪で次のような活躍をしている。
『太祖のお供をして荊州征伐に赴き、劉備を長阪に追いつめ、彼の二人の娘をとらえ、輜重を捕獲し、敗残の兵を手中に収めた。〔曹仁伝〕』
 2人の娘を見捨てたぐらいなのだから、劉備の後継者である阿斗(劉禅)を救い出すのも容易ではなかったのだろう。
 ただ、助けた劉禅はなさけない君主だったため後の蜀ファンからは、この時趙雲が助けたりしなければと文句を言われたりもする。


 趙雲の功績は、他の五虎将に比べるとやや地味だ。
 それでも、武官として数少ない諡号をもらっている。趙雲別伝なんて書物まである。普通、こう言う書物を書いてもらえる人は名家の人か、首相クラスの文人だ。
 趙雲はかなり変わっている。

 なんで、こういう書物を書いてもらえたかというと、やっぱり根強いファンがいたからだろう。
 根強いファンと言うのは、劉禅のことだ。
 彼にしてみれば趙雲は命の恩人である。色々やっかいな国ではあるけど、皇帝を名乗っていられるのは趙雲のお陰だ。
 劉禅には劉禅なりの感謝の気持ちがあって、趙雲に諡号を送ったのだろう。
『三年(二六〇)秋九月、もとの将軍の関羽・張飛・馬超・ホウ統・黄忠に諡号を追贈した。
 四年(二六一)春四月、もとの将軍趙雲に諡号を追贈した。〔後主伝〕』

 なんとなく急いで諡号を追贈したという感じがする。
 なお、蜀が滅んだのは、2年後の263年であった。

 ところで、三国志演義の第九十二回に趙雲をたたえた詩が載っている。
『憶(おも)う昔 常山が趙子竜
 年七十に登りて奇功を建つ』
 以下は略すが、これは第一次北伐(228年)の時の話だ。
 この時70歳だとすると、趙雲は劉備よりも2歳年上になる。
 これは、ちょっとイメージが違う。
 そうなると、長阪(208年)ですでに50歳だ。この歳では、戦場を駆けまわるのはキツイだろう。
 劉備と趙雲が出会った時、劉備は公孫サンの部下の部下であり、趙雲はそのまた部下といった感じだ。
 この時を公孫サンと袁紹の戦いが始まった191年とすると、劉備は31歳である。
 この年代で、年上の趙雲の方が下についたのかと言うと、ちょっと微妙な気がする。
 色々と理屈をこね回しているが、やっぱり趙雲は若い方がイメージに合う。
 私も、趙雲ファンなのかもしれない。
(03/4/6)


「三国志」では、各伝の最後に陳寿が簡単な評をのせている。よく過去の人物に例えたりするのだが、それがなかなか深読みできて面白い。
 趙雲の場合は以下のとおりだ。

『黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、灌嬰・縢侯(夏侯嬰。いずれも漢の高祖の武臣)のともがらであろうか。〔関張馬黄趙伝 評〕』

 夏侯嬰は漢をつくった劉邦の腹心である。ちなみに劉備は『思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった。〔先主伝〕』と評している。
 劉邦と夏侯嬰をもってきたのは、劉備を漢の正統な後継者と印象づける狙いがあるのだろう。陳寿さんもいろいろと考えていらっしゃる。

 話を戻して夏侯嬰なのだが、彼には有名なエピソードがある。史記の「項羽と劉邦」をとり上げる作品ではたいてい採用しているのだが、手元に「中国の大盗賊(著:高島俊男)」があるのでそこから引用する。

『紀元前二〇三年四月、彭城での項羽との合戦に大敗して、車に乗って逃げた時のこと。(中略)高祖は少しでも車を軽くしようと、いっしょに乗っていたむすこと娘を突きおとした。沛県以来の高祖の子分である夏侯嬰があわてて跳びおりて二人の子を拾いあげる。』

「蒼天航路」では劉備が子供を捨てているが、それはこの史記のエピソードを意識してのことだろう。
 とにかく、後に皇帝となる子供を拾い上げた功臣を『灌嬰・縢侯のともがら』と評したのは上手いたとえだ。
 すぐに妻子を捨てて逃げだす劉備に対する皮肉もちょっと入っているのかもしれない。陳寿さんはいろいろと考えていらっしゃったのだ。


 ついでに蜀の根強いファンについてもう少し。
 趙雲に諡号をおくる時の話が趙雲別伝に詳しくのっている。そこには劉禅と姜維が趙雲に諡号を送ろうとしている姿が記載されている。
 劉禅がファンというのは分かりやすい。
 趙雲は姜維と出会って数ヶ月に死んでいる。短い期間ではあったが、姜維は趙雲に武人として共感し尊敬できる部分があったのではないだろうか。
 姜維は趙雲との付き合いは短かったかもしれないが、その息子とは付き合いがあったようだ。

『趙雲の子の趙統があとを継ぎ、官は虎賁中郎・督行領軍まで昇った。次男の趙広は牙門将となり、姜維に随行して沓中に行き、前線で戦死した。〔趙雲伝〕』

 沓中(とうちゅう)は蜀の防衛地として姜維が最後に選んだ場所だ。
 諸葛亮の息子の諸葛瞻や、張飛の孫の張遵も蜀に殉じて戦死しているが、趙雲の次男の趙広も1歩早く殉じていたようだ。
 彼は、諡号をおくられた父に恥じぬよう、最前線で戦うことを選んだのだろうか。
追記(03/4/29)

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