明日はバレンタインデー。
「祐一さん、覚えていますか?あの日のことを」

美汐は窓の外を見た。
風が、庭の芝生に風紋を描いていた。

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その日、美汐は珍しく寝坊した。
どうやらここ最近の睡眠不足に加えて、昨日遅くまでチョコレートと格闘していたのが響いてしまったようである。

「大変。あと一時間しかない…」
美汐は眠気を覚ますために顔を洗うと、急いで身支度をはじめた。

結婚式を来月に控え、二人は忙しい日々を送っている。

結婚という言葉の響きの甘さとは裏腹に、その準備は非常に煩雑である。
式場のことや、引き出物や招待状など各種物品の手配、仲人や司会者、式場関係者をはじめ、協力してくれるさまざまな人々との各種調整、親戚筋への挨拶まわり、さらに新婚旅行や新生活の準備など、やらねばならないことは山積しているのだ。
その一方で、二人には仕事があるので、そちらもおろそかにするわけにはいかない。しかも新婚旅行のためにまとまった休みをとらねばならないのだから、今の仕事の整理、引継ぎなどに追われ、普段よりかえって忙しいくらいである。

そんな中、二人は無理やり時間を見つけて、久しぶりのデートをすることになっていた。
バレンタインデーだから、ということも理由のひとつだが、彼らにはもうひとつ、とても大切な目的があった。

「美汐が遅れるなんて、珍しいな」
駅のベンチで待っていた祐一は、苦笑しながらいった。
「ごめんなさい!寝過ごしてしまいました…」
「ま、俺はこのベンチで雪の中2時間待たされたことがあるからな。このくらいは全然平気だ」
「…もしかして名雪さんですか?」
「やっぱりわかるか?」
「ええ、まあ」
二人は顔を見合わせて苦笑する。
「本当にごめんなさい」
「いつも待たせるのは俺のほうなんだから、そんなに気にしないでくれ。それより、そろそろいこうか」
「…はい」


祐一と美汐には、結婚する前にどうしてもしなくてはならないことがあった。

彼らには、ほかの人にはない共通の経験がある。

それはかけがえのないふたつの奇跡。

いまだ忘れ得ぬ、ふたつのぬくもり、ふたつの笑顔。

その奇跡の場所に、二人は立っていた。
二人は、ものみの丘を渡る風に身をさらし、何者かに声なき声で一心に語りかけていた。
互いの手をしっかりと結んで。

ふと、強い風が丘を吹き抜けた。
それにのって飛んできた何かが、不意に美汐の視界を塞いだ。

「きゃっ」

美汐は小さく叫んで、目の前を覆った何かを、あわてて払った。
真っ白なそれは、ふぁさり、と足元に落ちた。

それに、祐一の目が釘付けになっていた。

「…祐一さん?」

祐一はそれを手にとった。

目には涙があふれていた。

ものみの丘を渡る風は、二人の前髪と、その不自然なまでに白いウエディングケープを、いつまでも揺らしていた。

ウエディングドレスの手配は既に済んでいたが、祐一はどうしてもそのウエディングケープを美汐に身につけてほしいといった。
薄いピンクのウエディングドレスに、純白のケープは、ちょっと浮いてしまうのだけれど。

祐一は理由を、言わなかった。
美汐も理由を、聞かなかった。

「わかりました。そのかわり、このチョコレート、受け取ってくださいね」
そう言うと、小さな包みを差し出して、微笑んだ。

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結婚して10年。あの日以来、美汐はバレンタインにはあるものを添えてチョコレートを贈ることにしている。

「祐一さん、わたしは覚えていますよ」

そうして美汐は、今年のチョコレートをそっとなでた。
リボンにつけた小さな鈴が、ちりんと鳴った。

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