少年期・父母との死別、屈辱の日々

誕生、そして父母との別れ

 明応6年、西暦にして1497年の3月14日に、吉田郡山城内において(母の実家である福原家とも言われている)元就は誕生した。
図1 毛利家略系図
大江氏から江戸初期の毛利氏まで
父・毛利弘元、母・福原氏(広俊の娘)の間に生まれた3人目の子供、長男の興元に次ぐ次男という立場での誕生だった。幼名は松寿丸である。誕生から3年後の1500年になると、父・弘元は毛利家の家督を長男・興元に譲り、4才の元就を連れて多治比の猿掛城に隠居してしまう。弘元33歳、興元はまだ8才という若さであった。この隠居の理由には諸説あるが、1つの有力な理由としては大勢力同士の板挟みになった、ということがある。当時の日本は、1467〜1477年まで続いた応仁の乱による都市の荒廃が進み、戦乱の火種がまだくすぶっているような状況下にあった。そんな時に、幕府の管領である細川政元が時の将軍・足利義稙を武力で追い落とし、新将軍に足利義澄をつけたのである。そして都を追われた義稙は、当時山口を「西の都」とまで言わしめていた、大内家を頼って落ちてきた。時の大内家当主・大内義興は義稙を保護、細川政元と対立の度を深めていった。そうした両勢力から、安芸国の有力国人であった毛利弘元に工作の手が伸びてきたのである。つまり、両方の陣営から「我に味方せよ」と持ちかけられたのだ。戦国時代まっただ中の当時、武家にとっては武力だけが正義であり権力であった。弱小勢力は大勢力に従順であるか、それとも消されるかのどちらかしかなかったのである。強圧的な両勢力からの勧誘に対し、弘元は自ら隠居し家督をまだ小さい興元に譲ることによって、大内・細川による毛利引き抜き合戦の矢面から逃げたのである。
 元就が父と共に猿掛城に移った翌年、すなわち1503年に生母である福原氏が死亡した。元就はまだわずかに7才である。そしてそれから3年後、今度は父の弘元までもが死去する。つまり元就は、10才にしてすでに両親がいない、みなしごとなってしまったのであった。父・弘元に対しては、隠居後も大内・細川からの誘いの手が伸びていた。隠居して矛先をかわす、という弘元の策の効果はどうも今ひとつだったようである。弘元はそうした二大勢力に挟まれ、苦悩する内についつい酒に溺れてしまい、命を縮めてしまったという見方が一般的となっているが、いずれにせよ弱小勢力の悲哀がひしひしと伝わってくるような話である。
 普通10才と言えば、まだまだ親離れができる歳ではない。当時は戦国時代で現在とは倫理観が全く違うとはいえ、幼少期における親子愛の概念はそう変わってはいまい。しかも10才と言えば親にとってはまだまだ可愛い盛り、子供もまた親にくっつきたがる時期だ。そういう年代に、元就は最も大きな「両親」という拠り所を失ってしまったのである。また、親がいなくなるということは、大なり小なりの「自立」を強要されもしよう。つまり、両親が早世したことによって元就は、小さい時分からより多くの人生経験を積むことができた、と考えることもできる。これが後に「毛利元就」という名将を生み出す、素地の一角であったことは間違いのない事実だろう。10才で両親がいなくなったとはいえ、それで完全に保護者がいなくなったわけではなかった。弘元の側室であった杉の方(元就の書状の中では単に「大方」殿となっている)が、再婚することなく元就の母代わりとなってくれたのである。元就は晩年に書いた書状の中で、「大方殿は若い身で再婚もせずに自分を育ててくれた」と言っている。父母を亡くして打ちひしがれていた元就にとって、大方殿は非常に大きな存在、心の支えとなっていたのである。


猿掛城の横領

 父・弘元の死後、毛利家の家督は長男である興元によって受け継がれていた。その興元も元服後間もなく、烏帽子親である大内義興に従って上洛、京の都で戦いに明け暮れる日々を過ごしていた。つまり、本拠である吉田郡山城は家臣に任せていた、ということになる。当主がいないということで、家中の統制・所領の統治は家臣団の手に委ねられることになるわけだが、そんな中で1つの事件が起こった。それは、本家の重臣・井上元盛による猿掛城の横領である。元盛は元就に後見役として付けられていたのだが、当主・興元の不在をいいことに猿掛城を事実上横領、元就を追い出してしままった。こんな不遇の時にも継母である大方殿はずっと元就に付き添い、ともすれば落胆しがちな元就を励まし続けていたという。7才で母親を亡くした元就にとって、大方殿の存在はあまりにも大きかっただろう。その後の元就の人格形成に、大方殿の存在が多大な影響を与えたことはまず間違いない。後年に発揮される元就の慎重で周到な性格の形成には、この時の経験が大きく関係していると言える。
 その後、井上元盛の病死によって猿掛城は元就の手に帰する。この時の苦い体験が、後の井上党粛正に大きな陰を落としていることは想像に難くない。と言っても、全ての井上が悪質だったわけではなかった。元就が猿掛城に戻ることができた陰には他の井上一族の助力もあってのことだったのである。


幼少期のエピソード

 戦国期の他の名将と違わず、元就にもいくつかのエピソードが伝わっている。その中でも特に、幼少期の元就に関するエピソードを紹介しよう。

●キツネ征伐
 これは1503年、元就が7才の時のこと。ある日、元就が飼っていた鶏がいなくなった。おかしいと思った元就が家臣に命じて行方を探させると、キツネ穴の前にその鶏とおぼしき羽毛が見つかった。そこで元就は「さてはキツネが鶏を捕って食ったな」と思い、穴を煙でいぶして成敗しようとした。それを聞きつけた大方殿は、元々が信心深いタチだったので、元就に無益な殺生をしてはならないと言ったのだが元就は、「家臣同士が喧嘩をして一方を殺した場合、加害者をそのままにしておくことはできない。鶏がキツネに対して危害を加えるはずもなく、それを勝手に殺して食うとは言語道断。鶏が私の家臣なら我が領内に住むキツネもまた家臣同然。これを討つのは自明の理です」と言って、キツネを成敗してしまったという。
●日輪を拝す
 1507年元就11才の時、旅の聖人が吉田に来たので、大方殿に連れられて話を聞きに行った。その時に聖人から念仏は大事であるということを教えられ、日輪を拝むことを教えられた。以来元就は、終生日輪を拝み続けたということである。
●厳島への参拝
 これは1508年、元就が12才の時のことである。厳島神社に参拝に行き祈りを捧げたあとに、元就が家臣達に「お前達はどんなお願いをしたのだ」と問うた。ある家臣が「将来殿が中国の主になられますように、とお祈りいたしました」と答えたのに対し、元就は「なぜ日本国の主になるように祈らなんだか」と応じた。それに対し家臣は「世の中にはものの順序というものがございます。まず中国を征し、しかる後に日本国を征するのが道理かと」と言った。それを受けて元就は「この世は棒ほど願って針ほどしか叶わぬと言う。中国の主を、という願いではせいぜい安芸の領主になれる程度が関の山だ。日本国の主をと願えば、あるいは中国の覇者になれるやも知れぬではないか」と言い、家臣一同その深慮に感服したという。