ドラえもんの大紹介

ここには、ドラえもんの基本的な紹介を載せています。
ここで再復習したり、知らなかったことを覚えていって下さい。


登場人物紹介

☆ドラえもん
   西暦2112年、9月3日生まれ。言わずと知れたこのマンガの主人公。
 身長129.3センチ、体重129.3キログラム、胸囲129.3センチ、座高100センチ。マツシバロボット工場で「子守用ロボット」として作られる量産型の商品ロボットだったが、一体(つまり本人)だけ、製作過程で一本ネジがはずれてしまい、そのため不良品と診断されてしまい、格安の中古品でセワシという少年の下に買われていく。
 元々体色は黄色で、「ネコ型ロボット」の肩書き通り立派な耳もあったのだが、ある日セワシの持つ工作用ロボットネズミが間違えてドラえもんの耳をかじってしまい、ドラえもんは耳を失う羽目になってしまった。さらに元気を出そうと飲んだ「元気の素」が実は「悲劇の素」で、そのために三日三晩泣き続け、その際の振動で黄色のメッキが剥がれて地の青色が露出してしまい、声も枯れて今のようなガラガラ声になってしまったのである。
 それでも気を取り直して日々の生活を送っていたが、セワシの家は慢性的に貧乏だった。セワシが原因を調べた結果、20世紀にすんでいる先祖・野比のび太にあると判明した。何をやってもうまくいかないのび太が残した多額の借金のため、22世紀になっても全額返済し切れていないのだという。ドラえもんは、彼の絶望的な未来を帰るべく、20世紀へと出発する。
 原作が始まった当初はトラブルメーカーとなる役どころが多かったためか、お世辞にも「のび太の未来を変える保護者」には見えないくらいの無茶苦茶な性格だったが、次第に落ち着いた、常識ある性格へと変貌していく。お腹の四次元ポケットには22世紀の超科学で開発された機械、通称「秘密道具」がしまわれており、これでのび太の願いを叶えたりする。
 大好物はドラやきで、三日も食べないと禁断症状を起こしてしまうほど。人間と全く同じ思考回路を持ち、綺麗なメスネコに恋することもしばしば。のび太とは揺るぎない信頼関係を築いているものの、一時、事情により未来の世界へ変えるため、のび太と涙の別れをしたこともあった。

☆野比のび太
 8月7日生まれの小学生。勉強もダメ、スポーツもダメ、その他ほとんどのものがダメという、自称「世界一不幸な少年」。
 その不幸ぶりは大人になってからも消えることはなく、大人になってから作ってしまった借金のため、子々孫々にまで迷惑を与えてしまうことになってしまうので、22世紀からドラえもんがやってきたのである。
 何かあるたびにドラえもんにすがって道具を出してくれと頼む姿が印象的だが、明るく素直で優しい子。動植物を愛する優しい心と、いざという時に困難に立ち向かう強い心を兼ね備えている。
 特技も一応あるのだが、その特技は「昼寝」。いつでもどこでもどんな時でも眠ることが可能。熟睡到達速度は0.93秒である。他にはあやとりと射撃があり、あやとりは自作のオリジナルを研究することにも余念がなく、射撃はシ○ィーハ○ターも真っ青の命中率を誇る。
 また、22世紀の人間ですら思いつかない道具の使用法を編み出すこともあり、それが役立つケースもあれば、失敗する場合もある。
 家族はパパののび助とママの玉子。当初はジャイアンの妹であるジャイ子と結婚する運命だったが、その後の努力により、あこがれの少女・しずかと結婚する未来が決定した。

☆源静香
 みんなに呼ばれる時はマンガでは「しずちゃん」、アニメでは「しずかちゃん」である。5月生まれ。のび太の友人であり、のび太の憧れの少女である。
 成績優秀で運動もでき、おまけに品行方正と、本来ならのび太など相手にもされないと思うのだが、誰に対しても分け隔てなく優しく接するという、まさに女性としても人間としても理想的な性格の持ち主である。かと思えば、大人気のスターを見て我を忘れてしまったり、カラオケで熱唱したりと普通の女の子らしさも持っている。
 趣味はお風呂。具体的な理由は不明だが、一日一回は風呂に入らないと気持ち悪いらしい。入る時間は限定されておらず、昼間でも夜でも入っている。良くのび太がどこでもドアでしずかの家を訪ねると、入浴中の風呂場に出ることが多い。
 ドラえもんが来たおかげで、将来のび太と結婚する運命になるが、当人にはそんな意識は全然なく、理想の相手を探している最中らしい。

☆ジャイアン
 「ジャイアン」はもちろんあだ名で、本名は剛田武。6月15日生まれ。
 のび太の町のガキ大将で、町の子供たちの中で、暴力と恐怖で君臨している。「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」を信条としており、自分が欲しいものは例えた人のものであっても構わず自分のものとしてしまう。さらにわがままなところもあり、自分の機嫌が悪いと誰彼構わず殴り倒してしまう。
 だが決して粗暴なだけではなく、何か事件が起きた時は率先して行動し、みんなをリードする。さらに責任感も人一倍強く、決して友を見捨てることはしないという男気溢れる一面もある。
 スポーツ全般が得意だが、特に好きなのは野球で、「ジャイアンズ」と言う野球チームを率い、エースで四番という理想的なポジションについている。さらに歌も大好きで、みんなを集めてリサイタルを開く時もあるが、実はとんでもない音痴であり、これをテレビで流そうものなら、放送したテレビを壊し、聞いた人間を卒倒させてしまうくらいの絶大な効力を発揮する。だが本人は上手と思っており、のび太を会長としたファンクラブまで設立させてしまうほどである。

☆骨川スネ夫
 二月生まれののび太の友人。父親は会社の社長で家も金持ちであるため、本人も経済的に不自由のない生活を送ってきた。そのためかケチでイヤミな性格であり、特にのび太をバカにすることが多い。
 見かけによらず自信家で、自分のルックスにも絶対の自信を持っているが、腕力に関してはジャイアンには全く叶わないので、懐柔工作をとってジャイアンには良き子分として接している。裏表も激しく、外面は非常に良く大人達の持っている印象も良いのだが、一転、のび太達友人に対しては、冷酷とも言える行動をとることもある。
 実際は臆病者で、他人に後押しされないと何もできないという優柔不断さを持ち、それは数々の大長編で実証済みである。家の経済力や父親のコネを生かした多数の趣味を持ち、アイドルのファン活動、プラモ作成、切手収集など、その趣味は多岐に渡る。時にはその趣味が役立つことも。
 将来の夢はデザイナーと自分で言っているとおり、美術的センスには優れており、プロの美術評論家にその可能性を指摘されたこともある。

その他の登場人物に関しては、またいずれということで…。


ドラえもんの歴史
 「ドラえもん」とは、1969年(昭和44年)12月より、小学館学年雑誌に連載が開始された、藤子・F・不二雄(当時は「藤子不二雄」)こと故・藤本弘作の子供向けマンガである。
 ここではドラえもんの連載が始まり、作者が没するまでの約30年間を、順に振り返っていこうと思う。
 まず連載当時の児童漫画界の状況を整理してみると、当時は昭和30年代の手塚治虫を代表とする漫画家の影響を受けた子供が、大人になりつつある時期であった。幼少時よりマンガに慣れ親しんできたその世代には大人になってもマンガに抵抗はなく、逆に子供向けマンガとは違う、大人が読むマンガを希求した。その結果売り出されたのが「青年向け雑誌」であり、ジャンル的に言えば「劇画漫画」が台頭してきたのである。
 ドラえもん連載開始当時は、文字通り劇画の絶頂期であり、その反動からか、従来のスタンスであった「子供向けマンガ」というものが読者に好まれていないという状況を呈していた。漫画界を巻き込むその劇的変化は当然藤本も無関係ではなく、師である手塚を始め、トキワ荘での仲間達もみな劇画に移行していき、盟友・安孫子素雄さえも、「魔太郎が来る!」を始め、従来の「子供向け」ではないマンガに移りつつあった。そのような時期にあって、藤本も高年齢層を意識したSF短編を発表し、人気を得てはいたが、やはり自身の活動のホームグラウンドは「子供向けマンガ」と認知していたらしい。
 とは言ったものの、かつての「オバケのQ太郎」のような爆発的ヒット作も生まれず、自分のお気に入りの作品であった「モジャ公」も世間的には高い評価は得られず、藤本本人もかなり苦しんでいた時期であったらしい。そんな時、「ウメ星デンカ」終了に伴い、それに変わる新キャラクターを創造することになった。だが、いくら考えても新キャラのアイデアが浮かばない。悩んでいるうちに新作予告を掲載する時期になってしまった。困り果てた藤本が苦肉の策で書いたのが、今では伝説となっている「主人公のいない予告」であった。
 それから藤本が新たなキャラを生み出すまでの苦悩の物語は、後年のマンガ「ドラえもん誕生」に詳しいが、いろいろなきっかけを下に、藤本は「ドラえもん」というキャラクターを創り出した。ドラえもんは「小学一年生」から「小学四年生」、そして未就学児童雑誌の「よいこ」「幼稚園」に連載されることとなった。
 連載が開始された当初の「ドラえもん」は、現在知られているものとはかなり異なる部分を持っていたことは、今では結構知られていることだと思う。かつての「オバQ」路線を踏襲するつもりだったのか、初期作は文字通りのドタバタギャグマンガとなっており、物語構造も、主人公であるドラえもんが何らかの騒ぎを起こすというようなものであった。ポケットの中から出す未来の道具に関しても、そのドラえもんの暴走に拍車をかける程度にしか使われないことも多く、作者としては、「ドラえもん」というキャラクターをどのように生かしていくべきなのか、試行錯誤をしていた段階だったと思われる。実際、ギャグテイストでありながらも後年の作品のような「ハートフル路線」の作品も確かに存在し、かと思えば、ドラの暴走を助長するキャラクターとなるはずであった「ガチャ子」も創造されている。
 そして連載を続けていく中で、次第に藤本はドラえもんという作品の方向性を決定づけたようである。だが、原作とは違った方向性であったものの73年に一度アニメ化したり、同年、「小五」「小六」にまで連載を拡張したり、74年に小学館が新たに発行した「てんとう虫コミックス」のトップを飾って単行本化したにも関わらず、ドラえもんは新たな問題に突き当たることになる。それは、「連載終了」である。
 この「連載終了」については、今もって不明な点も多く、ファンの活発な論議を呼んでいるが、「連載を終了する」という目的があったことは確かなようである。ドラえもんはそれまで「小四」までしか連載されていなかったため、小四3月号においてとりあえずの最終回が二回書かれていた。後年に藤本は「他のアイデアを考えても、どうしてもドラえもんに帰り着いてしまう」と回想しているが、藤本にとってもドラえもんは特別な作品であったことは間違いないだろう。そのため、一旦は最終回を書いたものの、再びドラを書き続けることに決めたため、「さようなら〜」の原稿を掲載し、そして翌月の小四で「帰ってきたドラえもん」を掲載したと考えられる。ところが、ドラえもんの連載を継続しようという動きが藤本側から起きたのか、出版社側から起きたのかは、未だにはっきりとしていない。
 紆余曲折はあったものの、それ以降もドラえもんの連載は続き、76年の「少年サンデー」への特別編掲載を経て、ドラにとって運命的とも言える雑誌が77年に創刊される。それは「コロコロコミック」である。創刊当初のコロコロコミックは正にドラえもん一色と言うべき内容で、さらに各種の企画ページも充実、特に故・方倉陽二執筆の「ドラえもん百科」では、作品世界の知られざる珍妙な設定が続出し、当時の世代人に多大な影響を与えた作品となっている。「コロコロ」の行ったことで敢えてあげるとすれば、原作では数えるほどしか出演していなかったドラミをクローズアップしたことであろう。73年に初登場しながらもあまり知られていなかったドラミが有名になった要因として、コロコロを抜きにすることは出来まい。
 次第にドラえもんの人気も上昇していき、その熱を受ける形で79年より始まったのが、ご存じシンエイ動画版のアニメである。現在でも大好評放送中のこのアニメが放送されるやいなや、全国に空前のドラえもんブームが巻き起こった。73年版のアニメと違い、あくまで原作を尊重して作品が作られていたのが、大きな要因であろう。そしてこの年にはもう一つ重大な事件があった。「大長編」のスタートである。
 ドラえもん人気に後押しされる形で、「アニメの映画化」の話も早い時期に決まっていた。そこで、76年の少年サンデーに掲載した中編作品「のび太の恐竜」に加筆、後日談を加えた作品を映画とすることになり、その原作マンガはコロコロに連載されることになった。その映画は大ヒットし、現在まで連綿と続く「ドラ映画」の基礎を作り上げた作品である。その人気の余波を受け、81年には春と夏に映画を公開するという前代未聞の事態まで発生した。当時のドラ人気の物凄さを知ることが出来る良い事象である。
 そのままマンガ、アニメ共にドラえもんは順調な道を歩むはずであった。だが、それは思いも寄らない形でやってきた。それは藤本の体調悪化に伴う連載の休止だった。86年では手術をしたために「竜の騎士」の連載が三ヶ月遅れ、翌八七年の春に再び入院、休養するためにその年の大長編は描かれないという異常事態に陥ってしまった。今でも知られているドラえもん最終回のデマが流れたのもこの時期であり、小学館はコロコロを始め、各誌でこの噂を否定していた。
 88年に無事復帰したものの、今までのような連載形式をとることは体力的に難しく、必然、短編新作の数は減っていき、大長編により比重が置かれることとなった。「藤子不二雄」のコンビを解消したのもこの年である。だが、91年に再び入院し、この時の病状が今までよりも重かったため、一時は存命を絶望視されたこともあったという。そして学年雑誌での短編連載は91年四月号を持って終了し、「雲の王国」も連載途中で絵物語に変わるなど、一般読者にまで影響を与え、誰もが病状を心配していた。
 それでも再度復帰し、大長編のみを描き続けてきた藤本は、94年に「小三〜五」誌に、「大中編」ともいうべき作品「ガラパ星から来た男」を執筆した。タイムパラドックスや進化した動物など、ドラ世界の面白さのエッセンスがふんだんに盛り込まれた、藤本のマンガセンスが全開にされた作品である。だが、これ以降藤本は学年誌に戻ってくることはなかった。96年、その時はやって来たのである。
 96年9月23日午前2時10分、肝不全で藤本弘、藤子・F・不二雄は永い眠りについた。最後の大長編となった「ネジ巻き都市冒険記」の執筆中に。藤本の洗礼を受けて育ったすべての人間がその日、悲しみにくれたことも記憶には新しいと思う。そしてその瞬間、「ドラえもん」は藤本の手をはなれ、現在は藤子プロの手によって大長編が制作され、テレビアニメも放送され続けている。
 原作者は遠い星の人となったが、「ドラえもん」の歴史は終わらない。これからドラえもんはどのような道を歩み、どのような作品となっていくのか。それを見届けることはすべてのファンが果たさねばならない、最初で最後の義務であるように思う。

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