烈風伝 将士書上

豊臣家家臣団

▼豊臣家臣
戸田勝隆
 とだ・かつたか (????〜1594) (「肥後もっこす(仮)」さん)
武蔵守勝成(重政)の兄。秀吉古参の臣。1573(天正元)年、長浜に領地を得る。黄母衣衆に列する。小牧・四国征伐・九州征伐・小田原を歴戦。1587(天正15)年、伊予大洲城主。文禄の役では和睦交渉にも携わったが帰路病死した。
(99/08/03)

戸田重典 
とだ・しげのり (????〜1600)  
勝典とも。武蔵守勝成(重政)の子。文禄の役・関ケ原で父・勝成と行動を共にする。関ケ原において西軍に属し、勝成と共に討死した。
<ひとこと>重典の父・勝成(烈風伝登場済み)は、平塚為広と並んで大谷吉継と親しく、また徳川家康からも気に入られた武将で、関ケ原での死を東軍の緒将も哀悼したといいます。
(99/08/03)

竹中隆重
 たけなか・たかしげ (1562〜1615)  (「肥後もっこす(仮)」さん)
竹中重光の子。竹中半兵衛重治(1544〜1579)の従弟にあたる。1579(天正7)、秀吉に出仕した。関ケ原でははじめ西軍に属し丹後田辺攻城戦に出陣したが、東軍に転じ、戦後、所領を安堵された。
(99/08/03)

有馬則頼 ありま・のりより (1533〜1602)  (「肥後もっこす(仮)」さん)
赤松氏の支流にあたる。有馬豊氏の父。1577(天正5)、秀吉に従い、毛利攻めに出陣。九州征伐・文禄の役に参加。伏見築城に加わる。のち秀吉の御咄衆。秀吉没後は、豊氏と共に徳川家康に仕え、関ケ原に参陣する。摂津三田藩3万石。

<ひとこと>有馬豊氏(利休七哲のひとり)は烈風伝に登場済みでした。
(99/08/03)

菅達長(道長) かん(すが)・みちなが (????〜1614) (「肥後もっこす(仮)さん)
淡路の海賊衆。淡州十人衆の一人。はじめ長宗我部元親に属し、1584(天正12)年の根来・雑賀攻めで和泉岸和田城攻撃に参加する。のち豊臣秀吉に仕え、豊臣水軍として小田原や朝鮮の役に出動した。関ケ原では西軍に属し、九鬼嘉隆と伊勢方面で水軍を展開した。戦後、藤堂高虎に仕え大坂の陣に参じる。しかし、大坂城堀埋め工事の遅延をめぐって高虎と口論になり自害したという。
【参考文献〜『海の戦国史 海賊大将の栄光』別冊歴史読本62(新人物往来社、1996)】
(99/09/01)

朽木宣綱 くつき・のぶつな (1582〜1662) (「右近」さん)
元綱の長子。はじめ豊臣秀吉に仕える。1597(慶長2)年、兵部少輔叙任。のち徳川氏に従う。大坂の陣には父・元綱とともに参陣し、夏の陣では元綱と大和・久良伽利(くらがり)峠を守るが、士率を預け、自ら二、三騎をもって茶臼山陣営に馳せ付けたという。その後は旗本6千4百余石を知行した。
【参考文献〜『新訂 寛政重修諸家譜』第7・143〜4p(続群書類従完成会)】
(99/09/01)

朽木稙綱 (1605〜1660) くつき・たねつな (「右近」さん)
元綱の三子。1618(元和4)年、徳川家光に仕える。1623年、民部少輔に叙任。1631(寛永8)年、御小姓組頭に列した。
【参考文献〜『新訂 寛政重修諸家譜』第7・144、149p(続群書類従完成会)】
<ひとこと>この人は根っからの徳川幕臣ですが、兄・宣綱とセットにしておきました。(^^; 時期的に見ると、ちょうど同じ家光の小姓仲間に柳生十兵衛がいるはずです。(^^;; なお、さかのぼって戦国初期に、同名の稙綱が足利将軍家を助けて活躍しました。
(99/09/01)



▼羽柴家臣

谷衛好 たに・もりよし (1529〜1578)  (「肥後もっこす(仮)」さん)
はじめ斎藤龍興に仕えた。のち羽柴秀吉の臣。1578(天正6)年、別所長治の居城・播磨三木城攻囲戦で賀状坂の付城を固守し、戦死した。しかし子の衛友(もりとも)が、その場で父の仇を討つ功をあげた。
(99/08/03)

神子田(御子田)正治 みこだ・まさはる (????〜1587) (「肥後もっこす(仮)さん)
豊臣秀吉古参の臣。秀吉が長浜城主の時、黄母衣衆に選抜される。秀吉中国出陣に従い、三木城攻撃で軍功をあげる。賤ヶ岳、小牧合戦を歴戦。小牧では尾張二重堀を守備するが、織田信雄軍に敗れ潰走、混乱を招いた責めにより所領を没収の上、追放された。のち秀吉の命により、豊後で自害した。
<ひとこと>この人は「猪武者タイプ」の人でしょうか…?(^^; それにしても秀吉にしては過酷な処罰といえそうです。信雄に敗れたことがよほどくやしかったのでしょうか…。いずれにしても、小牧長久手合戦で徳川家康に完勝できなかったことは、秀吉の征夷大将軍への野望をくじくことになりました。
(99/09/01)


▼陪臣
<大谷吉継家臣>
湯浅五助 ゆあさ・ごすけ (????〜1600)  (「肥後もっこす(仮)」さん)
大谷吉継の侍臣。常に吉継の側近くにあり、あらゆる場面で吉継を補佐した。関ケ原でも最後まで付き従い、吉継自害の介添えをしたのち、自らも藤堂高虎隊に突入、討死を遂げる。

(99/08/03)

<小西行長家臣>
内藤如安 ないとう・じょあん (????〜1626) (「肥後もっこす(仮)さん)
丹波国衆。丹波・八木城主。1564(永禄7)年、ルイス・フロイスから洗礼を受ける(洗礼名ドン=ジュアン)。1573(天正元)年、織田信長に反旗を翻した足利義昭の救援に入京したため、信長から所領を没収された。1592(文禄元)年、豊臣秀吉に仕え、小西行長に属する。文禄の役では行長とともに渡海し、講和交渉に臨んだ。関ケ原後は加藤清正に仕えたが、高山右近の仲介により、右近とともに加賀前田家客将となる。しかし、1614(慶長19)年のキリスト教禁教令のため、宣教師や右近らとともにマニラへ追放され、同地で死去した。

(99/09/01)

小西行重  こにし・ゆきしげ (????〜????) (「肥後もっこす(仮)さん)
木戸作右衛門とも。キリシタン(洗礼名ヤコボ=サクイマン)。小西行長家臣。美作守。行長の肥後宇土入部と同時に、八代・古麓(やつしろ・ふるふもと)城主。関ケ原敗戦の際、宇土開城の後、薩摩に落ち延びたという。
【参考文献〜歴史群像シリーズ30「豪壮 秀吉軍団」(学習研究社、1992)】

<ひとこと>肥後もっこす(仮)さんより、宇土開城後、薩摩入りの情報をいただき、改訂しました♪
(99/09/01初出・99/09/04改訂)


結城弥平次
 ゆうき・やへいじ (????〜????) (「肥後もっこす(仮)さん)
小西行長家臣。行長の肥後宇土入部と同時に、岩井城主。関ケ原敗戦の際、宇土開城の後、薩摩に落ち延びたという。
【参考文献〜歴史群像シリーズ30「豪壮 秀吉軍団」(学習研究社、1992)】
<ひとこと>肥後もっこす(仮)さんより、宇土開城後、薩摩入りの情報をいただき、改訂しました♪
(99/09/01初出・99/09/04改訂)


<福島正則家臣>
尾関正勝 おぜき・まさかつ (1571〜1620) (「肥後もっこす(仮)さん)
福島正則重臣。石見守。備後三次(みよし)・尾関山城主。小田原の陣のとき、父・吉次とともに韮山攻城に参加、一番乗りの功をあげるが、左眼に銃弾を受け隻眼となった。朝鮮の役・関ケ原で勇名を馳せ、関ケ原後、同じく福島家先鋒を勤めた福島丹波・長尾隼人とともに徳川家康に招かれ労をねぎらわれた。のち安芸・備後を与えられ広島城に入城した正則から、出雲に通ずる三次地方の守備のため家中最高の2万石を安堵される。
【参考文献〜『三百藩家臣人名事典』第6巻(新人物往来社)】
<ひとこと>生没年がわかりました。列伝も追加して書き改めました。なかなかの武辺者です♪ 1619(元和5)年、福島家改易の折り、正勝はいち早く兵站を整え、評定には欠席して日々町人と茶を楽しんでいたといいます。理由を聞かれて正勝は、「評定の必要なし。城の明渡しを拒否して戦うのみ」と答えたそうです。
(99/09/01初出・99/09/21)

長尾一勝 ながお・かずかつ (1550〜1619) (「肥後もっこす(仮)さん、Solomonさん)
福島正則重臣。福島家三傑のひとり。勘兵衛、隼人正と称する。伊勢高岡城主の山路玄蕃允の子。はじめ山路久之丞。織田信孝に仕えのち正則家臣。関ケ原では福島家の先鋒を勤めた。正則の芸備入部後は備後・東城を守った。知行1万3千石。
二男勘兵衛一在は福島家改易後、徳川頼宣(紀州家)に仕え千石。
【参考文献〜『三百藩家臣人名事典』第6巻(新人物往来社)】
<ひとこと>ようやく少しはつかめました。が、諱(いみな)の読みがわかりません(生没年も)。とりあえず空欄にしてあります。もしご存知のかたがいらっしゃいましたら、ご教示ください♪<追記>Solomonさんより、生没年など追加情報をいただきました。列伝も手を加えました。旧姓は、私が調べたところでは「山内」姓でしたが、「山路」姓ということなので、そちらを採っています。(99/09/24)
(99/09/21初出・99/09/24改訂
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<高山右近重友家臣>
加賀山久良(興良) かがやま・ひさよし(おきよし) (1566〜1619) (「肥後もっこす(仮)さん)
隼人正。はじめ高山右近に仕えた。幼時に洗礼を受ける(洗礼名ディエゴ)。のち蒲生氏郷に属し、氏郷死後、細川忠興に仕える。関ケ原後に忠興より一字拝領し、興良と改名。しかし、1611(慶長16)年、豊前小倉藩内における忠興のキリシタン弾圧に屈せず、一族で信仰を捨てなかったため、1619年、職を奪われ追放、小倉城下で斬首された。
<ひとこと>「久良(興良)」の読みが合っているかどうか…。もし誤りであれば訂正いたします。(^^; <追記>肥後もっこす(仮)さんの情報により、細川忠興より一字拝領した旨を改訂しました♪(99/09/04)
(99/09/01初出・99/09/04改訂)

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