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〜『瑞獣』の巻〜 一月一日の朝となれば、街は静まりかえっていて、誰の姿もなかった。 そんな中を、男――加藤弘純は歩いている。 冷えた歩道のアスファルトに、たったひとつの靴音が染みこんでいく。他の音はない。せいぜいが加藤の吐息と、スーツのポケットの中でもてあそんでいる携帯ストラップの金具の音くらいのものだ。 時折思い出したかのように車道を車が通っていくが、例年の冷え込みで凍結しかけている道を好んで走りたがる者もいないらしく、たいていは配達の車か県外ナンバーのトラックだった。 無人の街を、たった独りで歩いているような錯覚を感じる。 もっとも孤独感はあまりない。冷たい息を吸い込んで、顔を上向けて吐き出す。日付が変わってからも呑み続けた酒の熱が、痛いほど冷たい朝の空気と入れ替わりに細い筋となって吹き流れていく。 十二月三十一日は、人に囲まれた一日だった。 まず仕事納めが、その日の午後にまでずれ込んだ。加藤の所属する部署でやっていた納品に、一部深刻な発送、連絡ミスがあったためである。 「年始には間に合わせてくれ」との客先の半ば脅迫、半ば哀願調な連絡を受けたのが三十日の深夜。加藤たちの部署全員が連絡を受け、それから十時間近く死に物狂いで動き回った。 三十一日の正午、客先は満足した口調で、彼らの非常時の手際の良さを褒め称えた。それから十分後には、加藤たちチーム全員がその口調を攻撃的なネタに変えてビールのプルトップを引き開けて乾杯した。 常日頃身内の幹事役をたまわる加藤の脳内には、この時すでに会社近くのチェーン系居酒屋の候補がみっつ、個人営業の飲み屋の候補がふたつほど上がっていた。 うち二件で、夕方近くまで飲んだ。開放感も手伝って、いつもより楽しめたと思う。 電車に揺られて自宅近くの駅まで来たとき、ちょうど携帯が鳴った。 腐れ縁の友人たちから、戻ってきたから会おうとのことだった。無論断るはずもない。 駅前のゲームセンターで待ち合わせて、また飲んだ。幸運だったのは加藤が猛烈に酒臭かったことだ。「わかってるさ」とばかりに手加減してくれたのはさすが古なじみというところか、それ以降はほどよいペースで、代わりにゆっくりと酒を楽しんだ。 日付がかわって、カラオケに移行。三次会は特に仲の良かった友人たち数人と、しゃれたカクテルバーで近況をつまみに軽く流し――。 ふと気付くと、朝方になっていた。 その場で解散して、加藤も少し離れた家まで歩くことに決めた。そして今に至っている。 騒がしく楽しかった一日を終えて、アルコールの余韻を覚ましながら独りで歩く。すこし寂しく感じはしたが、二十時間ぶりに感じるその感覚も「なかなかオツなモノだ」と思えた。 ――帰ったらまずは横になって。それから――。 ぼんやりと考えるが、それ以降が浮かばない。眠気はないように感じたし、頭もだいぶはっきりしてきたような気もするが。 そんな中、ふと前に目を向けた。今まで足元しか見ていなかったのを、この時やっと自覚する。 加藤の歩いている、十メートルほど先のガードレール。 そこに、ちょこんとひとりの女が腰掛けていた。 ナイロン地のハーフコートと、膝丈のスカート、エナメルのハイヒール。両手をガードレールにかけて、背を気持ち逸らすような格好で空を見上げている。 ――寒そうだな。 一目見て、そう感じた。手袋もマフラーもしていない薄手の装いは、春先の午後あたりならばともかく、正月の早朝にはとても場違いに見える。 もっとも女を見る限りでは、まったく寒そうにしていない。金属製のガードレールはおそろしく冷たくなっているに違いないのに、細い小さな手を平然と置いて動かしもしていなかった。 ただ、空を見上げていた。 加藤も、歩をゆるめて上に視線だけを向けてみる。 よく晴れた空。それだけしかない。普段は早朝になるとうるさいくらいのカラスたちも、今は一匹もいない。 ただ、気持ちいいくらいに晴れていた。 視線を戻した。 女がいつの間にか、こちらを見つめていた。 自分以外に歩いている者もめぼしいものもないのだから、自分を見ているとしか思えない。わずかにどう反応していいのか迷ったとき、 にこ、と女が笑った。 加藤は面食らった。化粧気のない、二十歳ほどに見える女の顔に見覚えはない。 いきなり笑いかけられる覚えもない。頭にネクタイでも巻いたままになっていたか? それはない。 古なじみの友人にアニメキャラのピンズバッジでもつけられたままになっていたか? それもない。 しかしそんな思考は、すぐに吹き飛んでしまった。 女の笑顔は、魅力的だった。 親しげで、あけすけで、優しそうな笑顔だった。男の何かがおかしくて笑っているのではなく、男に会えたのが嬉しくて笑っているようにしか見えなかった。 その女が、まるで二十年来の親友か恋人のように感じてしまう――そんな笑顔。 そんな笑顔を自分に向けてきたということに、面食らった。 加藤はわけもわからず追いつめられたような気分になって、咄嗟に、 「――おはようございます」 軽く会釈してそう言った。なかなか間抜けな顔をしていたに違いない。 女はまったく動じることなく、うなずく程度に会釈を返した。 「はい。おはようございます」 きれいなソプラノの声だった。笑顔と同じく親しげで、穏やかな調子だった。 その調子に引きずられるようにして、足が止まってしまう。ちょうど女の手前。 「しまった」と反射的に思った。 もう遅い。 「さ、寒いですね」 当たり障りのない言葉で、加藤は何とかしのごうとする。これで女が同意してくれたら「それじゃあ」ともう一度会釈してそのまま歩き出 「そうですか?」 何てこった。 「寒く、ありませんか?」 「はい。ぜんぜん」 女はにこにこと笑いながら、首を振る。からかっている様子も、無理をしている様子もなかった。 間が持たず、さりとて「それじゃあ」と言って去るのもためらわれた。普段はティッシュ配りも無視しているというのに。 酔っているせいだろうか。違う。加藤は酔って饒舌になるタイプではない。 当たり障りのない会話、その二。 「ど、どなたかお待ちになっていらっしゃるんですか」 これで同意してくれたら「そうですか。それじゃあ私は」と、 「いえ。そういうわけじゃありません」 またか。 「よ、酔い覚ましとか?」 「いえ。お酒は飲みません」 どうしろと。 「ああ! 家に帰ってみたら鍵がかけられて」もうヤケだ。 「いえ。家はありません」 ――何!? 思い切り顔に出たらしい。女は困ったように笑って、右手をはたはたと振ってみせる。 「いえ。そういう意味ではなく。 此処に旅行に来たんです」 いよいよわけがわからない。 この街に正月にやってきて、何か意味があるのだろうか。そこそこ有名な神社なんかは確かにあるかもしれないが、旅行までして詣るほど有名というわけではない。 「じゃあホテルか何処かに」 そう言ったときには、加藤ももう諦めかかっていた。 「いえ。昨日からずっとこのあたりにいますけど」 やっぱり。 加藤は肩の力を抜いて、ふむ、と息を付いた。両手をポケットに突っ込み直して、ひんやりとした朝の空気を肺一杯に吸い込んでみる。 気が変わったというよりは、やっとその気になれた。それほど眠くない。気分が悪いわけでもない。加藤はそれほど酒が残らない。まだ酔いも残っていて、むしろ心地よい。 女は、にこにこ笑っている。どことなくさっきよりも楽しそうに見える。 ――これも何かの縁さ。 周りを見渡すと、ちょうど自販機が目に付いた。小銭を捜す。ポケットにタバコの釣りの二百五十円。運がいい。 少し迷って、結局ホットの缶コーヒーを二本買った。ジョージアのヘーゼルナッツ。最近よく飲む銘柄だった。変なクセが目新しい。 それを女に差し出すと、きょとんと目を見開いた。 まばたきする間待って、もっと腕を差し出す。 「あ」と女が理解したような声を上げたのは、鼻先十センチまで近づけた頃だった。両手を伸ばして大事そうに受け取ると、 「あたたかいですね」 それがすごく嬉しいことであるかのように、コーヒーの缶を持ち直したりしている。 妙に微笑ましくなって、加藤は照れ隠しに渡した手をポケットに戻した。片手で器用にプルトップを持ち上げ、かし、と缶を開ける。 女に目を戻すと、その様子をじっと見られていた。 缶コーヒーを一口飲む。まだ見ている。 冗談めかして言ってみた。 「缶コーヒー、飲んだことありません?」 「はい」 まさか肯定するとは。 「あの、何処の方なんですか?」 加藤の常識内においては、缶ジュースの自動販売機が置いてない場所なんて北海道の山奥くらいしか考えつかない。 そこでピンと来た。 ――なるほど北海道の人か。それならこのくらいの寒さ、何てこともないだろう。 きっと山奥で待ちに出たこともあまりなくて、一念発起して都会に。そう考えれば納得できると思った。 「はい。いつもは大陸にいます」 納得した途端に否定された。 しかも想像の範疇からいきなりコースアウトしている。その言葉が何を意味しているのか加藤が理解するまで、たっぷり一分はかかってしまった。 「日本の方じゃないんですか!?」 驚いた。女の発音は完璧だったし、中国や東南アジアの人間特有の相もなく、服もそこらの量販店で買ったものにしか見えない。 見た目は完全な日本人だ。 「はい。旅行に来ました」 もう一度繰り返す。そういう意味か。 「なんでまた、この街へ」 「好きなんです。この街」 「何度も来てらっしゃるんですか?」 「はい。ここしばらくは、もう十回くらい」 女は笑顔で、よどみなくそう応える。 海外の人間だということを差し引いても、十回はいくらなんでも多すぎだ。この女の歳を考えれば、年一回のペースではきかない。 「何処がいいんですか? 何もないですよ」 聞いてみると、女はひときわ嬉しそうに笑って、 「はい。そこがいいんです」一度缶コーヒーに視線を落とす。「何もいないし、こういうものもいっぱいあるし。落ち着いて、ゆっくりできますし」 それで今が、「落ち着いてゆっくりしている」時なのだろうか? この寒空の下で、ひとりぼっちで? 何か特別な事情でもあるのかと思う。会話がとぎれる。 と、女はよいしょ、と腰を上げた。缶コーヒーをしっかり握って、歩道の上に両足で立つ。 「――ほら。立てます」 加藤に向き直って、両手を広げて笑う。 かつかつとヒールの音を立てて歩き、くるりとターン。加藤を振り返って、また笑う。 「歩けます」 声を上げて、楽しそうに。 「笑えます。誰も、気にしません」 それがとても尊い、大切なことのように加藤に話す。 「嬉しいんです。すごくすごく、嬉しいんです」 加藤には理解できなかった。女が何故そんなにも嬉しそうなのか。 コンクリートとアスファルト、冷えた空気の、カラスもいないような一月一日、明け方の街路。 ひとりぼっちで、缶コーヒーも飲まずに、それでもこんなにも嬉しそうにする理由は何だろう。 わからない。理解できない。 それでも。 「――この街、大好きなんです」 そう言って笑う女に、加藤は見とれていた。 なんて気ままな顔。なんて嬉しそうな。 なんて、幸せそうに笑うんだろう。 「そうですか。……好きですか」 はい、と女は頷く。 「大好きです。また来年も、再来年も来たいです」 加藤も頷いた。すこしつられて笑う。女はそんな加藤を見て、手を後ろに組んでにっこり微笑む。 彼女のことは、まったくもって理解できない。おそらく一生できないのかもしれない、と直感した。 中国に住んでいて、この街に旅行に来る女性。ナイロンの服とエナメルの靴を履いて、カバンひとつ持たずに朝の歩道に佇む女性。 どこまでが嘘で、どこまでが本当なのかわからない。しかし別段知らなくてもいい。 「じゃあ、もし来年も会えたら――」 微笑む女性が、幸せそうだという、それだけで。 「また、……コーヒーでもおごりますかね。俺は」 加藤の言葉に、女は「はいっ」と応じる。 とてもとても、嬉しそうだった。 最後のコーヒーの一口を飲み干した。不思議と未練はなく、加藤は踵を返す。 「じゃあ、俺は行きます。缶コーヒー、ちゃんと温いうちに飲んでくださいね」 「はい。ありがとうございます。楽しかったです」 両手で缶を包む姿を一瞥して、ひょいと気取って手を挙げる。 名前も聞いていなかったが、それすらどうでもよかった。アルコールの最後の酩酊感にまかせて、そろそろと歩き出す。寒さもあまり感じない。 家はもうすぐだ。帰ったら眠ろう。きっとすぐに眠れる。一年の最初の眠り。 最後にひとつ思い出して、振り返らずに。 明けまして、おめでとう。 貴方にとって、よい一年でありますように。 きっとそこにいる、笑顔の女性にそう告げた。 了 ――中国において最高の瑞獣(※吉兆を運ぶとされ、尊ばれる獣)は、麒麟である。 麕(くじか)に似て、牛の尾、馬の蹄と角を持ち、五色の燐光を放つと言われるこの獣は中国における「百獣の王」で、≪毛蟲(※すべての毛を持つ獣)≫の王として、≪裸蟲(※毛のない獣、すなわち人間)≫に良き仁政をひく王が現れたとき姿を見せるという。 そんな伝説にたがわず、麒麟は「百獣の王」という言葉の響きとは対照的に心優しい幻獣である。誰にでも公平であることを示すためにいつでも単独で行動し、眠るものを起こさぬためにいつでも音を立てずに歩き、角の先は誰も傷つけることがないよう肉がかぶさっていて、生きた草や虫を踏むことがないように蹄を曲げて空を飛ぶ。いななくときすら歌声のようで、五色の燐光は眩しいどころか安らぎをもたらすとまで伝えられている。 力を誇示する暴君ではなく、隔てなくすべてを慈しむ瑞獣――それは人間をすべての頂点に置こうと考える西洋には存在しない幻想であり、同時にひとつの理想である。 優しい獣の王は、今日も蹄を曲げてそっと飛んでいる。 【幻獣辞典】より |