
※これは2001年4月17日から19日まで関西を旅した時の旅行記です。ちょっと長文です。
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「秘仏と桜」(2001年4月関西の旅)
☆旅立ち
去年あたりから「日本の歴史上有名なものは自分の目で見ておこう」と思うようになった。そんな時、密教的仏像の中でも最高傑作と言われる「観心寺如意輪観世音像」が一年のうち4月17日と18日の両日だけ公開されるという情報を目にした。「無明の剣」シリーズが完結したこともあって、差し迫った仕事はない。それに4月の中旬は八重桜のシーズンでもある。「よし、これは行かねばなるまい」と心に決めた。4月17日、私は関西に向かった。
☆空にそびえる京都タワー
JR京都駅のすぐ北に赤と白の京都タワーが建っている。このタワーは赤い蝋燭を模したものなのだそうだが、最初の目的地はいきなりここだ。この京都タワー、必ずしも人気スポットというわけでもないが、こういう少し外したポイントを探るというのも旅の楽しみの一つである。
チケットを買って展望台に上る。中は「昭和四十年代の生ぬるい雰囲気が全体に充満している」という私的にはなかなか楽しいスポットだった。展望台はガラス張りで眺めはなかなかいい。遠くには清水寺や霊山観音もミニチュアのように見え、京都の市街地がどういう構造をしているのかもわよくわかる。しかし、展望台の中にはあんまり人もおらず、コンピューター手相占いのオジサンがとにかく暇そうだったり、ゲーム機のゴジラの鳴き声だけが響いていたり(確かゴジラは京都タワーも破壊したはず)と、閑古鳥が合唱している雰囲気満杯。さすがだ、京都タワー。
下に降りる途中でスカイレストランというものがあり、ここで少し早い昼食を取る。しかし、ここまで「だらけきった雰囲気のある」食堂というのも珍しいんじゃないだろうか。デパート屋上のスナックランドがとりあえずレストランの形を取っている、と表現するのが正しいのかもしれない。窓口に行って注文しないと何も出てこないし、食事だけでなく水もセルフサービス。ただ、食事は「スカイハイランチ」とかそれなりにまともなものを揃えている。(しかし、よーく見ると蕎麦とカレーという単純なものがメインのようだ。)
このレストランは展望台のチケットを買わないと入れないようで、昼時というのに中はガラガラだった。この「だらけきった雰囲気」は貴重だと思うのが、ちょいとこれではド赤字ではないのだろうか。レストランまでは一般人も入れるようにして、少しは儲けのことを考えた方がいいように思う。
出口付近にも「京都の四季を描いた動く人形」とかシューティングゲーム「新宿警察24時」(←なぜ!?)とかの脱力アイテムてんこ盛りで、実に楽しめる場所だった。ただし、「心の広い人専門」という但し書きはつくと思うが。
☆御室の桜
京都駅からバスで仁和寺に向かう。ここは「御室桜」と呼ばれる八重桜で有名なところである。ガイドブックによると「京都で最も遅い桜」なのだそうで、「まだ開花していないんじゃないだろうか?」と心配する。関山という八重桜の種類は京都でも満開だったので、少しは開花していることを期待しておく。
バスは無事に仁和寺の前に到着し、門の中に入った。そして私は「はっ?」と一瞬呆然となってしまった。そこにあった看板には「落花盛ん」と書かれていたからである。とりあえず観桜料を払って桜の咲いている場所に行くと「あああーっ、半分散っとるやんけー!」と心の中でなぜか関西弁で突っ込みを入れてしまった。つまり「京都で最も遅い」というのは、単にソメイヨシノよりも開花が遅いというだけであって、決して八重桜の中で一番開花が遅いというわけじゃなかったらしい。
それでも何本かの桜は満開に近い状態だったので、これを楽しむ。仁和寺の桜は樹高が低いことで知られ、せいぜい人の背を少し越える程度。「御室の桜、はなは低いが、わしは好く」という俗謡がその特徴を物語っている。なぜかはよくわからないが、木の根本に盛り土がしてあることからして、人為的にそういう処置をしているのだろう。
しかし、蜂が飛びまくっていて油断できない場所でもあった。
☆ふと目にしたもの
京福電車で御室から北野天満宮に向かう。北野天満宮は去年も来たが、まだまだ本殿は修理工事中。ここで私はあるポスターを目にした。京都国立博物館で開催されている「北野天神の神宝展」のポスターだった。国立博物館で開催される特別展は意外と凄いものが出品されていることが多い。私は予定(京都植物園に八重桜を見に行く予定だった)を変更して京都国立博物館へと向かった。
☆神の領域
何が出展されているのか全く知らずに京都国立博物館に来た私だったが、予想を遙かに超えてとんでもないものが出展されていた。それは『根本縁起』とも呼ばれる「北野天神縁起絵巻」である。
この「北野天神縁起絵巻」はご神体に近いものとされ、北野天満宮の外に出すことは決して許さないというものだ。つまり北野天神に付属するものであり、天神の事跡を説明する「神のマニュアル」とでも言うべきものなのだ。
それがガラス越しとはいえ、目の前にある。世の中は予想を超えたことがしばしば起こる、と思わざるを得なかった。しかも展示されていたところは、道真の御霊が法性坊尊意を訪ねてくるという有名なシーンだった。(わからない方はハルキノベルスの「火雷天神大戦」読んでください)
他には海北友松の「竜図」などが出ていたが、私は一本の日本刀に心惹かれた。その刀の名前は『鬼切丸』。酒呑童子の首を斬ったという伝説を持つ刀だ。伝説はともかくとして、反りの大きい平安時代の古刀であり、まさに相手をぶった切るための刀。確かに酒呑童子という日本史上最大のモンスターを倒すのに相応しい聖剣だといえる。
「神のマニュアル」と伝説の聖剣。私は京都国立博物館で『神の領域』に足を踏み入れていたような気がする。
☆ぷにぷに仏
翌日、私は河内長野の山奥にある観心寺に向かった。ここは弘法大師が開いたという伝説を持つ古い寺院だ。(実際は弘法大師の弟子の真紹が、京都の東寺と高野山の中間に当たる場所に修行の寺院として作ったものらしい。)
石段を登ると国宝の本堂があった。本堂の中に入るとまだ午前中だというのに参拝客は結構多い。さすがに年に二日だけしか公開していない国宝の秘仏だけのことはある。
本堂中心にある厨子。その厨子の扉が開かれ、そして中には美しき物が座っていた。観心寺本尊・如意輪観世音菩薩像。密教の仏像の最高傑作と言われ、妖しきまでの美しき力を持つ彫像。写真ではよく見たが、当然自分の目で実物を見るのは初めてだ。
如意輪観世音像は六本の手を持って厨子の中に座している。写真だと一点からの固定化された画像でしかないが、自分の目で見た如意輪観世音像は微妙に動く。正確に言うと、左右に広がった六本の腕のために、見る位置によってフォルムが変化して見えるのだ。これは自分の目で見ない限り、こんな発見はできなかっただろう。
この如意輪観世音像はよく「官能的」という表現がよく使われるが、実際に見てもその表現は正しい。特に二の腕あたりの「ぷにぷに感」は彫刻とは思えないほどだ。もっとも彫像なので(腕は木製)、実際に指で触っても「ぷにぷに」していないと思うが、「心の指」で触ったら絶対に「ぷにぷに」しているはずである。
これは弘法大師が中国に伝わったインド的彫像技術を持ち帰ったことが反映されているとされ、確かに京都東寺の梵天像など同時代に作られた仏像の肉感的表現に通じるものがある。
ところで私が読んだ観心寺如意輪観世音像に関する論文の中に「観心寺を開いた真紹の、経済的支援をしてくれた皇女への密かな想いが反映されているのではないか」というものがあった。もしかしたらこの僧侶の密かな「萌え〜」の精神がインド的技術で爆発したのが、この如意輪観世音菩薩像なのかもしれない。
☆道明寺VS道明寺
近鉄道明寺駅に降り立つ。小さな駅だが、駅前には小さな商店街があって賑わっている。ここには道明寺と道明寺天満宮があって、明治の神仏分離令で二つに分かれるまでは同一のものだった。そして、ここは道明寺桜餅の名前の由来になった場所でもある。
月に一度、18日だけ公開される道明寺の国宝・十一面観世音菩薩像を見に来たのも理由の一つであるが、私の心は別の野望に燃えていた。それは「道明寺の商店街で買った道明寺桜餅を道明寺天満宮と道明寺で食う!」という、私ならではの野望だった。そしてそれができるのは桜餅を売っている春にしかできない。何という贅沢きわまりない野望であろうか!
とりあえず「てんじんプロムナード」というスーパーで桜餅を買う。関西なので道明寺系桜餅しか存在しておらず、その上商品名が単に「桜餅」としか表記されていない。おそらく道明寺商店街にいる人たちは、この桜餅が東日本では「道明寺」と呼ばれていることを知らないに違いない。「この地帯で真実を知っているのは我ただ一人!」と心の中でほくそ笑みつつ(←どういう笑いなんだ、それは……)、三個入りの桜餅を買って道明寺天満宮に向かう。
ここは菅原氏の先祖である土師氏の故郷であり、その氏寺であった土師寺が改名したのが道明寺である。菅原道真本人とも深いつながりがあり、道真の遺品と言われる(時代的に見てその可能性は極めて高いらしい)ものが道明寺天満宮には残されている。ただ、その遺品は梅祭りの期間だけしか公開されないので今は当然見ることができない。
しかーし、私はその前日に道明寺天満宮に残された道真の遺品を見ていた。実は前日の京都国立博物館「北野天神の神宝展」に出展されていたのだ。「道明寺天満宮の秘宝が道明寺天満宮で見られず別の場所で見てきた」というのも奇妙な感じだ。
参拝した後に背後の梅園で桜餅を食べた。当然、梅のシーズンではなく、境内には誰もいない。空もどんよりと曇っている。そんな中、もくもくと二個の桜餅を食べる。桜の葉がビニールでなく、塩漬けの桜葉を使っているのはなかなかだ。
道明寺桜餅は「道明寺粉」を使っているのでこの名前があるという。道明寺粉は糒を砕いたものだが、その起源はこの道明寺天満宮にある。道明寺天満宮にお供えしたご飯を神前から下げた後に乾燥させて保存食料にしたのが始まりと言われる。
その道明寺天満宮で道明寺桜餅を食べる。他人から見れば人気のない神社の境内で和菓子を食べているだけに過ぎないが、私的には道明寺で道明寺を食べているのである。己の心の中にだけ存在する愉悦というべきか。
桜餅を食べ終わった後で社務所を覗いてみる。天満宮にはよくある木彫りの「うそ鳥」がここにもあったので購入した。このうそ鳥、体は東京・亀戸天神などの古式のうそ鳥を象っているが、目つきだけは福岡・太宰府天満宮のものに似ている。ここで私はふと何かに似ていることに気づいた。黒い羽に目つきの悪い鳥……これってサン○オの「バッ○ばつ丸」じゃないだろうか? 全く意識はしていないのだろうが、偶然とは結構恐るべきものである。
☆道明寺にて
道明寺天満宮を後にして近くにある道明寺に向かう。ここは神仏分離令までは道明寺天満宮と一体だった寺院だ。ここに国宝十一面観世音菩薩像がある。菅原道真自刻像と伝えられるが、実際は道真の念持仏か、道真が道明寺に納入したものなのであろう。
境内はそんなに広くないが、参拝者が結構来ていた。国宝の観音像は18日と25日(観音と天神の縁日)しか公開しないため、それを目当てにきているらしい。
とりあえず残りの桜餅を近所のサラリーマンらしき人(コンビニ弁当を広げていた)の近くで食べ、拝観料を払って本堂に上がる。厨子の中に小ぶりの観音像があった。どことなく平安時代の優美さは感じるが、全体的に黒っぽくてよくわからないというのが正直なところ。しかし、この観音像は道真および菅原氏の祈りを受けてきたのだ。その道真は政権争いの末に太宰府に流され、そして御霊になったとされて神に祀られた。この観音はその様子をどう思っただろうか。
道明寺の境内には英文が記された供養碑がある。説明によると第一次世界大戦の犠牲者の冥福を祈って第一次世界大戦の後に立てられたものらしい。その碑文の最後は世界平和を念願して終わっているが、ご存じの通り、人類はそれから第二次世界大戦という名前の地獄に遭遇した。祈りとは虚しきものなのだろうか。いや、それゆえに人は祈らずにはいられないのかもしれない。
☆神様天皇
道明寺からひたすら歩いて応神天皇陵を目指す。応神天皇陵は日本でも有数の大きさを誇る古墳である。そして応神天皇は九州で生まれたという伝承を持ち、後に八幡神の中の一神として歴代の天皇の中でも特別に神格化された伝説の彼方の人物だ。
日本古代史をやっていた者としては見ておくべきだろうと思ったのだが、近づいても「なんだかよくわからない」状態だった。一般の住宅があって、その裏にフェンスらしきものがわずかに見える。その向こうに見える林が地図で見る限り、応神天皇陵らしい。仕方なく住宅街を歩いていると、ようやく応神天皇陵の全貌が見える場所に出た。はっきり言ってデカい。と、いうよりただの小山にしか見えない。堀跡沿いに進むと、説明板が見つかった。読もうとしたが、近くを散歩していたオバサンが連れていた犬が盛んに襲いかかろうとしてきたので、身の危険を感じてさっさと退散した。
後で思い出したのだが、宇佐八幡宮の縁起によると最初の八幡神は近づいた人間の半数を祟り殺すという荒ぶる神だったという。もしかしたら狙われていたのか……?
☆何となくそれはあった
えらく歩いた。さすがに無謀だったかと思いいつつ、まだ歩いた。目指すは野中寺。古代から続く寺院で、一月のうち18日だけ国宝の弥勒菩薩像を公開するという話を聞いていたからである。しかし、野中寺はなかなか見えてこない。さすがに諦めて駅への道をたどろうとした時、「野中寺前」というバス停が見えた。慌てて周囲を探すと瓦屋根の建物がある。そこが野中寺だった。
境内に入ると古代には大寺院だったという面影はなく、いくつかの諸堂があるだけだ。ここで困った。拝観の受付がどこなのか全くわからない。寺院の人でもいれば聞くこともできるが境内に人影はない。説明板もない。境内をウロウロしていると、突然寺の奥にあった小さな木戸が開いて人が出てきた。手にはパンフレット。実はそこが拝観の入り口だったのである。もうほとんど初期のRPGゲームのようにマップをしらみつぶしに探さないと次のステージに進めないというノリだ。もしかすると「伝説の勇者」の素質を持った人間でないと、秘宝(秘仏の国宝の略)は見つけることができないということなのかもしれない。
拝観料を払うと案内人に部屋に通された。四畳半ほどの畳部屋。木製の箱だけが畳の上に置かれている殺風景な部屋だ。案内人は箱の扉を開く。実は単なる箱と思ったものは、仏像を納めておく厨子だった。厨子の中には金銅製の仏像が「ちょこん」という感じで座っている。金銅仏以外には全く何もない。高さは四十センチくらいで、腰掛けて頬に手を当てている。これが国宝の野中寺弥勒菩薩像だった。
白鳳時代の金銅仏で、最も古い(かもしれない)「天皇」という文字の銘文があることで知られ、美術史上だけでなく日本古代史の資料としても貴重なものだ。
それが「ちょこん」と座っている。この拍子抜け感は「伝説の男だと聞かされていたら実は変なオッサンだった」をたぶん上回る。私はこの仏像を畳の上に座り込んで見たのだが、建築物を除き、ここまで間近に国宝に接したのは初めてだ。間にガラスがあるわけでもなく、「息のかかる距離」での対面。(さすがに触ることは許されない。)
まあ、これも入り口を探し出すことのできた勇者にのみ許される特権なのだろう。
☆世間の音を見よ
この日、最後の目的地である葛井寺に向かう。ここには奈良時代に作られた国宝の千手観音像がある。この千手観音像は実際に千本の手があることで知られ、また世界的に見ても千手観音の彫像として最古の部類に入ると言われる。ここも一月のうち18日の一日だけ本尊を公開する。
寺の前につくと山門は完全に閉まっていた。しかし、脇門から参拝客がひっきりなしに出入りしている。「どういうことなんだ?」と不審に思いながら脇門から中に入ると、山門の所に臨時のステージができていた。4月18日は葛井寺のお祭りで、今回はそれに合わせて中国の舞踊をそこで奉納するらしい。
とりあえずは千手観音像に拝観しに本堂へ。拝観料を払うと紅白の餅をくれた。お祭りだからかもしれないが、ちょっと嬉しい気がする。厨子の構造の都合で正面からしか千手観音像は拝めないが、実際に千の手を持つ観世音の姿を拝むことができた。本体は合掌して座っていて、「千本の手を背中に背負っているように」見える。昔、週刊少年ジャンプに「仏ゾーン」という漫画が連載されていたが、その中に出てきた「千手アーマー」に構造が似ている。(もっとも葛井寺の千手観音は実際に手が千本あるが。)
そんなことを思いながら千手観音像を見ていた私は突然コケそうになった。突如境内に鳴り響く音楽。中国の舞踊が始まったらしい。しかし、音が完全に「割れて」いて聞き苦しいことこの上ない。とりあえず本堂を出て山門の前に行ってみたら、五人ほどの中国美女たちが昔の中国宮廷の舞踊を再現して踊っていた。舞踊自体はなかなか見事なものだったが、音楽の状態が酷すぎる。音が割れている上に時々聞こえなくなり、そして聞こえなくなったと思うといきなり大音響で鳴り出すのだ。ステージの上では熱演が続いていたが、音楽の悪さは「お気の毒」としか言いようがない。
観世音菩薩は「世間の音を見る」ことからこの名前があると言われ、特に千手観世音菩薩は千の手についた眼で世間の苦しみを探るという。このあまりに酷い音楽には本尊の千手観音も苦笑していたことであろう。
☆八重桜の道
三日目はまず大阪の「造幣局の通り抜け」へと向かった。全国のニュースでも取り上げられる大阪の春の風物詩で、八重桜の名所としては日本で最も有名かもしれない。
私は平日の午前中に行ったのだが、なんなんだ、この人の多さは……もし、休日にこの場所を人間が通過した数を比べたら、東京・上野公園の花見の時ですら上回ると思う。つまりここは「日本一、人の集まる桜の名所」なのだ。
人の波に入って進む。道路の左右に八重桜が植えられていて、それぞれにプレートが掛けられている。いくつかはすでに葉桜となっていたが、全体的には満開をやや過ぎた状態でなかなか奇麗だ。とにかく八重桜の種類が多い。
私も新宿御苑や多摩森林科学園など八重桜の名所を巡っているが、「通り抜け」の八重桜の種類は決してそれに劣っていない。むしろ道路の左右に植えてあるので、多数の八重桜を一度に見るのには一番適した場所なのかもしれない。もっとも「人がそんなにいなければ」という但し書きはつくが。
☆光明の仏
「造幣局の通り抜け」を見た後、私は奈良へと向かった。目指すは奈良の大仏と「ナラヤエ」だ。
汗ばむくらいの好天の中、東大寺大仏殿に向かった。大仏殿には何度か行ったことがあるが、まあ、今回は新世紀初の大仏だ。四月の最初には「鎌倉の大仏」を見ており、これで一月の間に東西の大仏をこの目で見ることになる。
奈良の大仏は正式名称をビルシャナ仏といい、「宇宙を照らす光明の仏」という意味である。なんせ宇宙を照らすだけにそれなりの大きさがないと格好が付かないと聖武天皇は考えたのだろう。
久しぶりに見る大仏はやっぱりデカい。現代の日本では奈良の大仏を上回る大仏はいくらでもあるが、「大仏としての巨大さ」を感じるのには奈良の大仏が限界かなと思う。あまりに巨大な大仏を私の頭は「変な形の建造物」として捉えてしまい、「仏像の一種」という認識をしなくなる。この奈良の大仏は建物の中にあるという理由もあってか、何とか「でっけえ仏像」として見ることができる。
しかし、この奈良の大仏の脇侍である二体の仏像も結構デカいものなのだが、奈良の大仏が有名すぎてほとんど省みてもらえない。どこかの本尊になれば「○○の大仏」として有名になれるかもしれないが、その代わりに大仏殿の中にかなりマヌケな空きスペースが生じるだろうなとも思う。
☆一輪の桜
東大寺大仏殿を出て北の方にある知足院へと向かう。ここには天然記念物の「ヤラヤエ」という八重桜があるという。
百人一首の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな」や『徒然草』の「八重桜は奈良の都にのみありけるを」で知られるように、奈良は八重桜で有名であった。その奈良の八重桜の名前を背負った桜が「ナラヤエ」なのだ。(ただし、種として同一なのかは確かめられないらしい。)
石段を登ると小さなお堂があり、ここが知足院らしかった。ただ、桜らしきものが見あたらない。尋ねてみようとして寺の人を捜すと、フェンスに取り付けられた一枚の板が目に入った。何か書いている。どうやらナラヤエの存在する場所とナラヤエについて寺に聞くなということが書いてあった。何というのか、ナラヤエを訪ねて来る人間を拒絶するような雰囲気が説明書きにはある。
とりあえずフェンスの扉に鍵はかかっておらず、扉を開けてナラヤエがあるらしい場所へと進んだ。そこには寺の僧侶らしき人が一人の男性と親しげに話していたが、こちらには何の反応も見せない。それどころか僧侶からは「話しかけてくるなよ、この野郎」というオーラが傲然と放たれていた。
仕方なく、ナラヤエを探す。立て看板があってナラヤエの所在を「左斜め三メートル上」と書いてあった。そこは林になっていてどの木がナラヤエなのかわからない。恐る恐る僧侶に「あのー、ナラヤエはどれなんでしょう?」と尋ねたら、「そこに書いてあるでしょうが!」と睨まれた。そ、そこまで知らない人間と会話したくないのかー!?
ナラヤエのすぐ近くまで到達しながら、どれがナラヤエなのかわからずに帰ることになるのかと覚悟した時、僧侶と話していた男性が見かねて「それですよ」と一本の木を指さしてくれた。
そこにはひょろりとした一本の樹木。よく見ると枝の先にたった一輪だけ淡いピンク色の八重の花が咲いていた。それが「いにしへの奈良の都の八重桜」・ナラヤエだったのである。(一般の八重桜よりもさらに開花が遅いらしい。) たった一輪だけなので満開の時とは印象が異なるかもしれないが、それは自然の中に静かに湧き出た花のように見えた。
こうして私の関西の旅、そして新世紀初めての桜は、一輪のナラヤエの花で締めくくられたのである。
(「秘仏と桜」おわり)